トータル、九名。現在の、参加者の存命者、五名。

ヒントを上げよう。踊るネズミにヒントを上げよう。愉快な愉快なヒントを上げよう。

悪魔はネズミをおもちゃにしている。悪魔は猫と戯れたい。猫はネズミの中に。

悪魔は見ている。悪魔は隠れている。悪魔は偽っている。悪魔は欺いている。

魂が欲しいから、早く早くと待ちわびている。悪魔はずっと待っている。

悪魔はずっと、欺いている。



「……ふーん」

やっぱり暢気な声だった。歩いていた足を止め、天井を見上げ、窓を見て。無駄としか思えない動作の締めとして、少女は間延びした声と共に振り向いてきた。

「また悪魔……ねえ。ヒントをくれる辺り、親切というよりも嘲笑的というか」

その手の中には、先ほどメールを受信した携帯がある。先に遥香が読んだメールなので、彼女がそう思うのには素直に共感できた。

ゲームの開催者が、わざわざヒントを送ってきている。それはひねくれた見方をすれば、開催者側の勝利宣言でもあった。ノーヒントなら、このゲームは自分の勝ちだと。暗にそう囁いている。

それに気づいているのかいないのかはさておき、少女は暗鬱そうにため息をついて、一言呟いてきた。

「よっぽど暇なんだねえ」
「……暇で片付けるのも、どうかと思いますけど」
「そう? ヒントをあげるってことは、進展がないことに呆れてるわけでしょ? つまり、何も変わらないから退屈なわけだ。動かないもの見てたって楽しくないしね。やっぱ暇なんだと思うよ」
「っ……まあ、そうかもしれませんけど」

咄嗟に何かを否定しようとして、ふと反論する意味がないことに気づく。実際確かにその通りなのかもしれない。ゲームは自分の勝ちだとしても、それで終わってしまっては確かに退屈だ。なら、悪魔は暇だったのかもしれない。

そんなことなどどうでもいい。問題は、このヒントの意味だった。ネズミが自分たちのことを指すのはわかる。猫はさっき殺人鬼だと示唆された。そして参加者の中にいるのも当然のことだ。だが、実際殺人鬼についてはほとんど触れていない。問題にされているのは、殺人鬼ではなく悪魔についてだった。
その悪魔についても、触れているのは欺いているということだけだ。参加者は九人、生きている者は五人。なら、もう四人死んだということなのだろうが。

疑問なのは、悪魔が何を欺いているのかだった。ヒントというからには、理解してしまえばそれだけでゲームが終わってしまうほどに強烈なものなのだろうが。

「欺いている……?」

何を。誰を。どうやって。どこで。いつ。どのように。それらすべてがわからない。完璧にお手上げだった。

「……というかこれ、本当にヒントなんですか?」

悪態のように呟く。悪魔に聞こえていたらそれはそれで面白くない展開になりそうだったが、呟いてしまった以上、気にしても遅い。仕方なく何かを待つが、それで何かが変わるということもない。

いや。気づいて、それを否定する。

さっきから、不自然に彼女が黙り込んでいる。心なしか、表情が険しいように思えた。何か、考えたくないことを考えているようにも見える。

「……どうかしたんですか?」
「いや……何でこのタイミングでヒントを送ってきたのかと思ってさ」
「……暇だったから、じゃあないんですか?」
「まあ、そうなんだけどさ。殺されたくないから必死こいてわたしたちが逃げてるのに、暇っていうのもどうかと思うわけだよ」

一つため息。そのまま彼女は天井を見上げて、他人事のように言ってきた。

「ホラー映画の醍醐味だって、ゾンビじゃなくて怯えてる人間なのにさ。暇って事はアレだ、わたしたちが役者じゃ退屈ってことかもね」
「……いや、別にこれ、ホラー映画ってわけじゃないと思うんですけど」
「似たようなものでしょ。少なくとも、悪魔にとっては」

そこでまたため息。

「わたしたちは、姿の見えない殺人鬼から逃げている。死に怯えていると言ってもいいね。で、これはゲームだ。なら、最低でも悪魔が楽しめるものじゃないとならない……悪趣味だよね、どうにもさ」
「だから悪魔なんでしょう?」

素直にそう言うと、彼女は苦笑したようだった。

「まあ、そりゃそうだ。じゃなきゃ悪魔なんて名前もつかないだろうしね……」

天井から視線を下ろし、彼女はそのまま肩をすくめる。どちらにしろそれで話すことは終わりだったのか、彼女は手振りで進もうと合図を送ってくる。それに頷くと、彼女はすぐに歩き始めた。その後を追いつつ、問いかける。

「……ところで、どこに行こうとしてるんですか?」

それはさっきからの疑問でもあった。当初は職員室にマスターキーを取りに行ったのだ。隠れるための選択肢を広げておくために。だが、そのマスターキーももうない。この時間帯で鍵のかかってない場所などないだろう――本来なら、教室も閉ざされているはずだが。きっと教室は例外なのだろう。

だとすると、全ての場所が施錠されていることになる。今いる別棟のほうなど特に絶望的だった。なら、教室に向かおうとしているのだろうか。

問いかけに彼女は、振り向くことなく答えてきた。

「んー。とりあえず、一階には用はないね。保健室と美術室と事務室には興味ない。入れないのは知ってるし。用事があるのは二階かな」
「二階?」

二階にある部屋といえば、音楽室と視聴覚室と図書館と放送室くらいである。別棟に三階はない。なら、その四つのいずれかに用があるということなのだろう。その中で隠れられそうな場所と問われると、首を捻るしかなかったが。今の彼女の言い方から考えれば、きっと入れる部屋は全て把握しているのだろう。

「ところでさ」

と。突然彼女は問いかけてきた。特にどうというわけでもない、いつでもありそうな、日常的な質問。

「君って、時計嫌いだったりする?」
「……時計?」

何故時計がここで出てくるのか。そもそもそれが何の意味を持つ質問なのか。意味のある質問だとは思えなかったが、とりあえず遥香は怪訝を浮かべつつ答えた。

「……いえ、特に問題はありませんけど」
「のっぽじゃないけどうるさい古時計も?」
「たぶん……というかそれ、何の意味を持つ質問なんですか?」
「いや、君の答えからすれば、特に意味はないね。嫌いだって言われたらさすがに困り果てるって意味があったけど」
「はあ」

意味がわからず、ただそう曖昧な相槌を打つ。それに満足したのかは定かではないが、彼女は何度か頷いたようだった。

その光景を見ながら、ふと遥香は思う。

死に怯える人間を見て、悪魔が楽しむというのなら。

彼女の存在は、悪魔にとってこの上ないイレギュラーなのではないのかと。

――そしてまた、どこかで誰かの悲鳴が上がる。






二年一組。二年棟の中で一番昇降口に近い教室。何の変哲もない教室だった場所。廊下からそこを見つめる。何かが特別なわけでもない。何かが変わっているわけでもない……教室は、何も。それでもそこが悲鳴の場所なのだと、虚しい思いで十夢は認めた。

「………………」

優花は何も言ってこない。だから十夢も喋らない。不自然な沈黙は、この現状を把握するための沈黙なのだろう。だがそれは、一目見るだけでそうとわかるほどに明確な異常だった。

ただずっと、沈黙する。言葉など必要なかった。それはあまりにも明確すぎて、言葉の意味をなくしてしまうほどの光景だったから。それでも呟いたのは……闇の中、これ以上沈黙に耐えることができなくなりそうだったからだ。恐怖でも畏怖でもなく。

「……また、死体だね」

首吊り死体。入り口を塞ぐように、換気窓から垂れ下がっている。青ざめた顔に血の気はなく、表情も苦痛に歪んでいた。瞳に生の色はなく、ただ濁ったまま虚空を憎々しげに睨んでいる。この寒さの中だというのに、死体はワイシャツの上に何も着ていなかった。

自殺者を観察するのはこれで二度目だった。死体を観察するのは三度目。少しずつ増えていく、最低の経験。悲鳴を上げるほどの焦りも、余裕をなくすほどの驚きもなくなってしまった。

自殺だった。これ以上ないほどに明確で、どうしようもないほどに克明な。自殺だった――それはあるいは意地だったのかもしれない。犯人を当てることができず、それでも悪魔に負けることもできず。もしかしたらそれは恐怖だったのかもしれない。犯人を当てることができず、悪魔に魂を奪われることへの。

どちらにしろ、この死体を見てわかることなど一つだけだった。そしてそれは十夢にとってこの上なく苦々しいものだった。

この女は、答えを見つけることができなかったのだ。だから自分で自分を殺した。

悪魔のゲーム。悪魔。存在してはならないもの。非現実的な存在。人をたぶらかし、人を弄び、人を食らうもの。それをもう一度反芻して。ふと、十夢は気づきたくないことに気づいてしまった。

これは、悪魔のゲーム。もし、それが。

(もしそれが、勝ち目のないゲームなのだとしたら?)

本当は殺人鬼がわかっても外に出られないシステムだとしたら。本当は殺人鬼なんていなくて、姿の見えない悪魔が殺しを楽しんでいるだけだとしたら。本当は殺人鬼がわかっても外に出ることができないのだとしたら。本当は殺人鬼なんていなくて、ただずっと疑心暗鬼に陥れさせたいだけなのだとしたら。本当は自殺しても悪魔に魂を奪われるのだとしたら。

そもそも、何故悪魔の言葉を信じているのだ? ルールを決めた当の悪魔が、そのルールを遵守してない可能性もあるのではないか? ルールを平然と捏造している可能性だってある。

敵は悪魔なのだ。疑い始めればきりがない。きりがないのなら、考えても意味がない。意味がないのなら、ここで立ち尽くす必要もない。小さくため息をつく。

結局のところ、自殺するしかないのではないか――その思いを振り払うように、十夢は優花に呟いた。

「行こう」
「……うん」

どこを目指すのか。殺人鬼かあの少女たちか、それとも悲鳴を上げた五人目か。その中の誰を捜すのか。それも言わずに歩き出す。捜して会えるものでもないだろう。だから、十夢は何も言わなかった。優花も何も言ってこなかった。

頭の中で、ただグルグルと言葉が回転する。

――そもそも、何故悪魔の言葉を信じているのだ?

死体に背を向けて、歩き出す。

そして、それは突然だった。













「うえ?」

突然の悲鳴に思わず呻く。悲鳴ということは、まあ、何かしらのアクシデントに遭遇したということなのだろうが。女の悲鳴だった。ということは、さっきのあの少女だろうか――それとも、五人目か。どちらでもありえそうだったが。

「……悲鳴だねえ」

事実だけをとりあえず呟く。と、返ってきた声が一つ。

「……あなたのせいだと思いますけど」

非難するような、というよりもそのまんま非難する声で、少女が言ってくる。が、その声もどこかぼやけている。それも仕方のないことではあった。

「いくらなんでも、欄間のガラス叩き割るのはどうかと思います」

扉を挟んで向こう側。職員室の外から彼女の声は聞こえてきていた。言われて欄間とやら――入り口の上に取り付けられた換気窓を見る。そこには小さいガラス窓があるはずだった。あくまで過去形だ。今そこにガラスはない。晴香が叩き割ったからだ。

「だって仕方ないじゃん。ここしか入る場所ないんだし」
「だからって、もう既に一つ割ってあったじゃないですか。割る必要がどこにあったと?」
「中に誰か隠れてたら怖いじゃん。牽制だよ、牽制」
「……結果が、たぶんあの悲鳴だと思うんですけど。いきなりあんな音聞こえたら怖いですよ。誰だって驚きます」
「……わたしのせいなの?」

それだけ呻いて、視線を室内に戻す。携帯は今彼女が持っている。明かりとなるものはない……今度こそ、本当の闇が広がっている。放送室の闇との違いは、せいぜい振り子時計の音がないことくらいだろう――いや。

あの音に包まれた闇と、この闇との違い。それはもうわかっている。

(殺人鬼がいるかもしれない闇)

完全に閉ざされたままだった放送室とも、換気窓を叩き割る前の職員室とも違う。誰かが潜んでいるかもしれないのだ。無人の証明などできない。誰かが潜んでいる可能性も、誰も潜んでいない可能性も等しく無尽蔵。

闇の中では、きっと殺人鬼を相手に戦うことなどできないだろう。いくら夜目が利くとはいえ、この闇の中平然と殺人を犯す殺人鬼を相手にするのは不可能だ。手元の蛍光灯を割る余裕があるかどうか。それだけが気がかりではあったが。

これ以上外で彼女を待たせるのも酷な話だろう。ため息を一つついて、晴香は入り口の隣を見た。そこには胡散臭いほどの数、教室や準備室を開ける鍵があるはずだったが。

「……ない?」

マスターキーはもとより、鍵など一つもない。さっきここに来た時はあっただろうか。最初からなかったのか、それとも。思い出そうとするが、そもそもそんなところを見た覚えがなかった。

もし、最初からなかったとするのなら。まあ、それは諦めるしかないだろう。

では、もし晴香がこの部屋を去った後、誰かが鍵を持ち出したとしたのなら。

家庭科室を開けられたら、包丁を持ち出されてしまう。化学準備室を開けられれば、様々な薬品が殺人鬼の手に渡ることになってしまう。鍵を閉めれば安全でいられた場所も、安全ではなくなってしまう……安全な場所など、一箇所を除いてどこにもない事になる。

それは晴香にとって、あまり喜ばしくないことだった。思わず呻く。

「うわ……やられたかもなあ、これ」
「どうかしましたか?」

呻きに反応して、彼女が問いかけてくる。さっきまで散々暢気だと言われた気もするが、今となっては彼女のほうが暢気なように思えてきた。現状を放置して時間戦争について考える余裕もなくなってしまったわけだ。

「どうしたもなにも」

呆れを伴わせて呟きつつ、よじ登るための準備として蛍光灯をくわえる。これ以上の職員室の長居は不要だった。殺人鬼がいるかもしれない闇の中、暢気にくつろぐことなどできない。考えごとをするにしても、警戒と同時でははかどらないだろう。

「ふぉっほいへ」

どっこいせと掛け声を上げて、無理やりよじ登る。割った窓ガラスで手を切るかと危惧したが、痛みはない。よじよじよじ登って、ぴょこんと飛び降りる。膝で衝撃をいなして、最後に口から蛍光灯を外す。

「……蛍光灯を口にくわえるの、危なくないですか?」

携帯で少女がこちらを照らしてくる。その眩しさに目を細めつつ、適当に呟いておいた。

「仕方ないじゃん。置いてくるのもなんか違うし」
「こっちに置いていけばよかったじゃないですか」
「それだとこっちに危険があった時、知らせられないよ」

それでは意味がない。

「まあ、それは置いておいて」

ため息をついて会話の流れを変える。本題はそんな事ではないのだ。これ以上暢気に振舞ってもいられない。真面目な表情を意識的に作り上げて、晴香は暗鬱に事実を呟いた。

「鍵、全部なくなってたよ」
「……え?」

予想外だったらしい。少女は露骨にポカンとした顔で間抜けな声を漏らす。それに肩をすくめて、晴香は先を続けることにした。

「マスターキーから何から全部すっからかん。何にも残ってなかったよ。誰かが持ってったのかもね」
「……誰がですか?」
「さあね。悪魔が奪ったのか、それともさっきの二人の少女が持ってったのか……それ以外もありえそうだけど、有力なところはそれくらいかな」

もしかしたら、いまだ知り得ぬ五人目が持ってったのかもしれない。だとしたらイレギュラーなことこの上ないが。

「まあ、いいや。とりあえずガラス割っちゃったしね。誰かが来る前に移動しよう」
「割っちゃったって……何自分で割っといて人事みたいに呟いてるんですか」
「だって、他人事だし?」

少なくとも、誰かがここに来る前に移動してしまえば本当に他人事である。ばれない犯罪は犯罪でないのと同じように、知られない行動は完全に他人事なのだ。

「……はい?」

が。少女はどうやらそれが理解できなかったらしい。思いっきり胡散臭そうな半眼で見つめてくる。そろそろそういう類の呆れにも慣れてきた頃だった。だから、特に何も思わずに話題を変える。

「さて……今度はどこに行こうか。目的もなくなっちゃったし」

目的のマスターキーももうここにはない。たぶんもう手に入ることもないだろう。だとしたら、いろいろと面倒なことになりそうではあるが。特に何も思い浮かばず、晴香は頬をかいた。生温い感触が、頬を濡らす……

(濡らす?)

素直に疑問だった。濡れるようなものはここ一時間持った記憶はない。不思議な気分で、晴香は闇に自分の手をかざしてみた。薄い闇の中、ぼんやりと右手が照らされていく……

「な……ちょ、え?」

結果。何故か、少女が慌てだした。そちらと自分の腕を交互に見やる。少女の動きにあわせて揺れる携帯の光が、何度か右手を照らしていた。それでようやく自分の状態を理解する。どうやら、闇は自分という存在そのものを希薄にしてしまうらしい。

手のひらから出血。怪我したのに、どうやら自分は気づいていなかったらしい。それに苦笑するよりも早く、少女は悲鳴にも近い声で問いかけてきた。

「いつ怪我したんですか、それ!?」
「まあ、たぶんさっきだろね」

無理やりよじ登った時。あの時の危惧は正しかったわけだ。怪我を視認できないということは、怪我を理解できないのと同じことなのかもしれない。さすがにそれはあまりにも馬鹿げた話ではあったが――たぶん、切り傷だから気づかなかったのだろう。それか、怪我を理解できないほどにテンパっていたか。後者はありえそうにもなかったが。

熱によく似た痛みも出てきたが、幸い左利きなので蛍光灯を振るのに支障はない。出血具合は手が血で濡れる程度。出血の箇所は手のひら。だが、気にしなくても死にはしないだろう。放っておけば止まるとも思えなかったが、この際無視することにした。

また、ため息を一つ。適当に呟きつつ、視線を右手から少女に戻す。

「ま、これくらいはどうでもいいよ。それよりも――」

先のことを考えよう。そう言おうとして、自分の考えが甘いことを思い知らされた。

「よくありません! 少し待ってください、確かハンカチが……」

やっぱり悲鳴に似た声で、少女は思いっきり否定する。それに面食らって目をしばたかせる頃には、少女はポケットをまさぐり始めていた。が、やっぱり個人的にここで立ち止まってるのもいただけない。とりあえず呻くことにした。

「んー……どうせ夢なんだし、ほっといてもいい気がするんだけどなあ」
「夢じゃなかったらどうするんですか」
「……どうしよっか?」

というか、どうしようもない気がする。確実に傷は残るだろうが、まあ、見方を変えればその程度なのだ。傷くらい残ったってどうでもいいし、わざわざ手のひらの傷程度が問題になることもないだろう。手首じゃないのだから。

そこら辺は同じ考えだったのか、或いは考えることを拒否したのか。少女は不機嫌ながら律儀に問いかけに答えてきた。

「知りません。ほら、いいから手を」
「汚れるよ?」
「そんなことはどうでもいいです。早くしてください」

有無を言わせてくれなさそうだった。仕方がないので、素直に右腕を差し出す。迸るほど勢いの強くない鮮血は、自分のものだというのにどこか他人のもののように思えてくる。闇に落ちる赤色の液体。その熱を奪い取るように、冷たい感触が手を包んでいく。色はよくわからないが、たぶん白。どこか高級感溢れてそうなハンカチだった。ハンカチってそういうもののような気もするが。それが丁寧に巻かれていく。

その光景を人事のように眺めつつ、晴香はやっぱり他人事の心境で呟いた。

「治すのは当事者じゃないかなあ。あくまで処置するだけで」
「そういう細かいことを気にしてどうするんですか……まあ、これくらいでいいでしょう」

少々引っかかる物言いで、少女が処置を止める。手のひらと甲を覆うように巻かれたハンカチは、もう既に薄く赤色に染まり始めているようだった。濡れていく感触。それはひとえに気持ちの悪いものでしかなかったが。

礼は言っておくべきだろう。その程度に考えて、晴香は素直に呟いた。

「ん、ありがとう」
「あ、あー……い、いえ、どういたしまして」

困ったような照れたような、よくわからない生煮えの反応が返ってきたりもしたが。それについては特に考えず、もう一度だけ、晴香は自分の右手を見た。

汚れていくハンカチ。これも恨みを持つのだろうか。それとも仕事ができたと胸を張るのだろうか――結局のところ、張ったところでみすぼらしい姿を晒すだけのように思えた。なら、やっぱり恨まれるのだろう。こうして少しずつ、人類は無機物に恨みを重ねていくのか。なら、時間戦争というより無機物戦争と名づけたほうがよさそうな気もしないではなかった。

赤くなるハンカチ。それでふと気づいた。

(……足りないもの、か)

ネクタイのない死体。その違和感。それが何を意味するのか。それが何を導き出すのか。

どちらにしろ、晴香は暗鬱にため息をついた。何をしなければならないのか。少しずつ組み立てていく。あくどい方法最低の方法色んなものもひっくるめて、最後を思い描く。

その像の完成の直前、晴香は小さく呟いた。

「……返せないかもね、ハンカチ」
「何か言いましたか?」
「いいや? ま、そろそろ行こうか。殺人鬼が来ないうちに」






期待していたわけではなかった。そう呟いて、十夢は苦々しく否定した。

期待していたのだ。そして期待すること自体が間違いだったのだ。それでも期待してしまったのは――単に、この環境に適応してしまったからなのかもしれない。

期待。いいや、それは確信だった。これはゲームだと悪魔は言った。ならば、それはあってしかるべきもののはずだった。舌打ちする。それが理不尽な行為だと理解しながらも。苛立ちにもよく似た思いで、十夢はもう一度だけそれを睨んだ。

死体。青白い血の気のない顔。どこかで見たような気もするし、見たこともないような気のする男の死体。首を切られて、死んだ男が一人。舌打ちを彼らにとっての理不尽とするのなら、この仕打ちこそが自分にとっての理不尽だった。心の底から、本当にそう思う。

何もなかったのだ。殺されて、この教室に横たわっていて。それを自分たちが発見して。それでお終いだ。むざむざ殺されただけ。殺されるくらいなら、少しくらいは犯人の証拠となるものを持っていてもいいではないか。なのに何も持っていない。証拠はもとより、思考材料さえ何一つ。

ゲームだと言うのなら――もしこれが、悪魔との魂をかけたゲームだと言うのなら。

それなら、たとえどんなに理不尽であっても、わずかの証拠くらい残しておいてもいいではないか。殺人鬼を当てることなどできない。勝つには、自殺するしか方法がない。

これでは、まったくゲームにならない……

「……クソ」

――これは悪魔のゲーム。誰も生きて帰れない……

思い出したのは、あの遺書だった。悪魔のゲーム。生きて帰れない遊戯。勝ち目などなく、殺されるか自分で死ぬか。ただその二つだけを選ぶことしかできない。本当にそのとおりだと言うのなら、確かにこれは悪魔のゲームだった。勝ち目などどこにもない。あるのは絶望だけだ。本当にゲームにならない。理不尽以外の何物でもない……

「負けてたまるか」

それだけ呟いて、死体から視線を外そうとする――その寸前。ふと気づいて、十夢は視線を止めた。死体を凝視する。違和感があった。それも、見落としてしまいそうなほどに小さな。何かが足りない。

「……校章がない?」

襟元にあるはずの校章がない。それに吊られて思い出す。首を吊っていた男。あの男のカフスボタンもなかった。何のために奪ったのか。校章がないのは何を意味するのか。考えても、答えは見つかりそうになかったが。

「……これが付け入る隙なの?」

どちらにしろ、これ以上の収穫はないだろう。諦観と共にそれを認めて、十夢は教室の外へ出た。どこもかしこも静まり返っている。

闇の中、浮かぶ影が一つあった。その影がこちらに気づいて、問いかけてくる。

「何かわかった?」

優花だった。顔にはわずかながら期待の色。気は引けたが、十夢は偽らずに告げた。

「首を切られて死んでる。たぶん凶器は刃物。死体の校章がない。それ以外は何も」
「……そっか」
「……うん」

それだけ呟いて、お互いに沈黙する。何を話すべきなのか。何をするべきなのか。それがわからなくて、十夢は虚しい思いで天井を見上げた。

何かをしなければならない。それはわかっている。悪魔に勝たなければならない。殺人鬼を当てなければならない。それくらいはわかっている。だが、何をすればいいのかがわからなかった。勝ち目などないのかもしれない。もう一度だけ、その虚無感を思い出す。それはこの闇によく似た絶望だった。先が見えない。暗中模索も、意味などないのかもしれない。

もし仮に、あの暢気すぎたあの女がいたのなら。もういない人間のことを考えるのはあまりにも愚かではあったが、それでも考えずにはいられなかった。あの女がいたのなら、この状況に対して何と言っただろうか。的外れな呟きのようでいて、きっと要所を押さえた言葉を言うに違いない。はぐれてしまったことを、今更ながらに後悔した。

「……どうしよっか、これから」

それは突然の呟きだった――慌てて視線を優花に向ける。優花は無表情のまま、何かを堪えるように床を睨んでいた。不安のために呟いたのか、それともこれからをただ単に確認したかっただけなのか。その判断はつかない。

どうしようもない孤立無援。状況は絶望的。ただ近くに殺人鬼がいないだけで、何一つ変わっていない。最初に逆戻りだ。

完全な八方塞。どうしようもなさを否定するように、十夢は答える。

「分かりきったこと言わないでよ……勝つ。それで、さっさと帰る」
「……そうだね」

どうやって勝つのか。それを優花は訊ねては来なかった。ただ何かを決意したように頷くだけ。何を決意したのか――それはわからない。だが、十夢もそれを見て意志を固めた。

勝つ。棒を握り締める手が戦慄くのを感じた。

殺人鬼の推理はできない。それはもう理解したことだ。証拠がなければ、推理などできないのだから。ならばこそ、やることは一つしか残ってなかった。

「殺人鬼を捜そう……捜して、正体を暴く」

逃げなければ良かったのだ。あの時。あの時が最大のチャンスだった。また後悔する。その後悔を踏み台にして、十夢は呟く。それで終わりだ。

「……行こう」
「……うん」

頷いたその声を聞いて、十夢は歩き出す。

殺人鬼がいる闇を、正面から見据える。逃げ出す必要はない。ただ、殺される前に正体を暴くのみ。それが勝利の方法だというのなら、このゲームはただの賭けでしかなかった。殺されるか、それまでに正体を暴き、逃げ切るか。ただそれだけの賭け。

それでも、勝つ。そう決意して。

――誰かの悲鳴と、ガラスの割れる音を聞いた。






片手で蛍光灯を振り回す。長さ一メートル。握り締めたらそれだけで壊れてしまいそうな、乳白色のガラス。その重さを確かめるように何度か振り回して、のんびりとぼやいた。

「……頼りないねえ、やっぱ」
「今更だと思いますけど」
「まあ、そうなんだけどね」

ため息混じりに、少女の呆れに同意する。確かにその通りだ。ガラスの時点で武器とするのに頼りない。漫画のガラスは見えない武器として活躍してくれるのだが、さすがに誰もこの脆さを武器にしようとは思わないだろう。しかも乳白色だ。透明じゃない。

それを最後に一回振り下ろして、女はため息をついた。

「後手後手なんだから仕方ない。危険が来たら割るんだもん。頼れる武器なんて、そもそも使い手次第だしね。わたしが使ったって意味ないし」

さすがに、仕方のないことだ。もともとの目的を考えれば、これ以上は望めない。これ以下もない。これ以外に選択肢などないのだ。時計や携帯同様、一つの道具に一つの道具以上の性能を求めるべきではない……

と、身を案じるような声。

「やっぱり、モップのほうがいいんじゃないですか?」
「君、モップ地面に叩き付けて割れる人?」
「……そんなバケモノに見えますか?」
「……だよねえ。いや、モップで大きな音出せるんだったら別にそれでいいんだけどさ」

大きな音を出さなければ意味がないのだ。危険を伝える役目だけは、何があっても果たしてもらわないとならない。好き嫌いなど言ってられないのだ。

「まあいいや。これ割ったらどこでもいいから逃げてね? 携帯で辺り照らすのも禁止。一目散にどこかにダッシュ。オーケー?」
「……まあ、別にいいですけど」

そうは言うが、彼女は何故かものすごく不服そうだった。というか、不服そのものだった。眉間に皺を寄せて、不満を声にしてくる。

「どうせなら、殺人鬼と戦えばいいじゃないですか。逃げるための一手を考えるよりも手っ取り早いと思いますけど。ゲーム的にも」
「……えー? わたしが?」
「他に誰がいるんですか」

呻かれて、辺りをキョロキョロと見回してみる。先ほどの教室からはもう離れている。今は昇降口の前。乱立する下駄箱の群れが、闇しかない外への視線を阻んでいる。それ以外は大して変わりない廊下だ。特に見るべきものもない。特に何かがあるわけでもない。

それらをひとしきり眺めた後、ポツリと呟いた。

「あの気の強そうな少女とか」
「……いない人に期待してどうするんですか」
「大概の物事っていうのは、わたしに関係ないところで進行してるものなんだけどね」

世界の主人公は自分ではないのだ。そんなの誰でも知ってるありふれた話である。何かを成すのは自分でなくてもいいのだ。戦うのだって、逃げるのだって、自分以外の誰かがすればいい。自分は考えるだけでいい……

(とは言うけどね。もう、するべきことはわかってるんだ)

殺人鬼が誰なのか。それをこの闇の中を探し回って当てる。といっても、それはあまりにも難しいことのように思えた。死体は転がっている。殺人があったことを明確に示すものは、捜せばそこら辺に落ちている。

ただそれだけなのだ。それだけ。そこから先は何もない。ここにいるのは警察ではない。ただの無力な高校生なのだ。指紋鑑定をする道具もなければ、死体検証のスキルもない。それにアリバイなんてあってもなくても同じものだ。簡単に捏造ができる。殺人鬼を推理する方法などどこにもないのだ。方法はただ、目撃するのみ。それもこの闇だ。それに顔を隠していれば、目撃しても意味がない。

勝つ方法はないのではないか――何となくそう思ってから、女はそれを否定した。方法ならあるのだ。最強最高最低最悪にして、もっともお手軽な方法が一つ。といっても、それは言葉としてならお手軽というだけであって、行動に移すとなるとやっぱり最強最高最低最悪だった。

(それ以外には……自殺を選ぶのもね。まあ、一番楽な方法ではあるんだけどさ)

苦しいんだろうなあ、とは思う。学校で痛みなく自殺することなど、十中八九不可能だろう。化学準備室にでも行けば怪しい薬品がいっぱいありそうだが、それが死に繋がるかどうかは別問題だ。

ある種、八方塞。塞がったものにさじを投げて、女はどうでも良い事を呟いてみた。

「とりあえず、体育館に行ってみたくなった」
「……何でです?」
「いや、何となく……今ふと考えたんだけどさ」
「?」
「体育館って、死体収容所っぽいよね」

本当に意味もなく呟く。が、呟いてから意外に意味があるような気もしてきた。死体がいっぱいなら、手がかりがあるかもしれない。実際には死体を見ても何もわからないだろうが、何となく何とかなるような気がしてくる。

死体。ふと、さっきの死体を思い出した。ネクタイのない、首を切られて死んでいた死体。何故ネクタイがないのか――それと並行して、一つ、さっきから考えていることがある。何かが足りないのだ。決定的なものが。それが引っかかっている。困りものだったが、答えは当分の間出そうにない。

仕方ないから諦めて、彼女の言葉を待つ。しばらくは無言だった。長い長い沈黙の中、ただ不自然に時間だけが流れる。

気になって、女は呟いてみた。

「……独り言じゃないよ?」
「知りません。黙っててください。というか、不必要に不安を煽らないでください」
「……煽ったかなあ」

純粋に首をかしげる。ただ単に思ったことを行っただけだと思うのだが。彼女はなぜか思いっきりため息を吐いたようだった。といっても、背後にいるのでその姿が見えたわけではないが。

「………………」

無言。足音だけが無駄に響く。何故か我慢比べのようだった。が、黙れと言われてしまった以上、喋るのもはばかられる。無言を突き通して、女は職員室へと歩いてく。

「………………………………」
「………………何か喋ってください」

だが、あっさり勝負が終わる。どうやら、彼女は沈黙を耐えるのが苦手なようだった。呆れと苦笑をない交ぜにして、呟く。

「注文が多いねえ」
「……誰のせいだと思ってるんですか」
「誰のせいだろ?」

とりあえず妥当なところは、悪魔と殺人鬼か。それ以外はあの二人の少女だが、さっき彼女が言ったように、いない人に期待するのも違う気がする。結局思いつかなかったから、女は話題を変えることにした。

「あー、そういえば、山小屋効果って知ってる?」
「山小屋?」
「雪山でもいいよ。あと、漂流効果でもいい」
「……全部聞いたことがないんですけど。それで?」
「遭難したりして食料がない時に嫌いな食べ物を出されると、皆喜んで食べるらしい。こう、何か感涙しながら。何でかわからないんだよね、どうにもさ」
「……いや、食べますよそりゃ。感涙はともかく」
「嫌いなのに?」
「………………そこ、疑問ですか?」
「そういう言い方だと、わたしが非常識みたいじゃん」
「……いや、非常識でしょう」

呟いてから、彼女は嘆息した。どうやら呆れたらしい。呆ればっかり浮かべているような気もするが、何故彼女がそんなに呆れるのか、理由は何いつかなかった。たぶん殺人鬼か悪魔か、時計か携帯のせいだろう。

その呆れ声のまま、彼女は言う。

「第一、そういう『何とか効果』なら、真っ先につり橋効果が出てくるべきだと思うんですけど。怖いところにいると、それが恋愛感情に変わるとか何とか」
「……えー? ただの自己暗示じゃん」
「暗示ですか?」
「逃避とも言うね」
「……バッサリですね」
「だって、そんなもんだし」

そこで今度はこちらが嘆息する。不謹慎なことこの上ない。恋愛関係をこの場に持ち出せる彼女には、正直なところ敬意を払えそうな気がしてきた。

「そういえば、あなたの名前は?」

と。彼女も突然話題を変えてきた。あまりの不意打ちに、思わず後ろを振り向く。そこには想像したとおりの形で、彼女が携帯を持って立っていた。表情は、特に何かしらの感情を浮かべていなかったものの。

「いいじゃん、『考えるバカ』で」
「呼びにくいんですよ。短縮してバカって呼びますよ」
「……それは辛いねえ。まるでわたしがバカみたい」
「……いや、もう何も言いませんけど」

何故かげっそりと呻かれる。

自分の名前。そもそも何故彼女がそんなことを気にするのか、よくわからなかったが。出し渋るように、彼女は呟いた。

「……人の名前を聞くときは、まず自分からって言わない? というわけで」

言わない、と続けようとしたところで、彼女の声。

「三年三組、しまざきはるか。遥の香りと書いて、遥香と読みます。これでいいですか?」
「……失敗」
「何がです?」
「いやこっちの話」

そう呟いて額を押さえる。まさか、素直に答えるとは思ってもいなかった。最近の子はプライバシーをもっと考えるべきだと思う。少しは自分の身を案じるべきだ。特に赤の他人なんかに名前を明かすときなどは。だから悪魔に名前を呼ばれるのだ。

「それで、あなたの名前は?」

どっちにしても答えなければいけないらしい。女は暗鬱にため息をついて、天井を見上げた。名前を言うのは嫌だが、彼女に疑われるのも面白くない。

諦観と共に、女は答えた。

「三年二組、石田晴香……晴れやかに香るで晴香だよ」
「……一緒だったんですね? 名前」
「まあね。残念ながら、わたしの方が前向きな漢字を書くけどね」

これには少しは憤慨したらしい。まあ、そんなことはともかくとして。

そして話している途中で、職員室の前まで来ていた。