死体を見下ろす。何度も、何十度も、何百度も繰り返す。何も変わらない。何秒も、何十秒も、何百秒も凝視する。それでも何も変わらない。変わるはずがない。それがわかっていても、それはあまりにも異様な光景だった。

矛盾する。自分の考えていたはずの結末と、これでは何もかもが矛盾する。

「………………どういう、こと?」

優花と名乗った女の子の言葉。馬鹿馬鹿しい言葉だった。それは。考える必要がないほどに、その言葉自体が馬鹿馬鹿しい言葉だった。呟くだけならまだしも、考えることさえ馬鹿馬鹿しい。わかりきっている。この光景だけを見れば、それだけで答えが出てきてしまう……だからこそ、それは違和感でしかなかった。

死体。物言わぬ骸。もう一度だけ、無感動に見下ろす。何度見ても、変わらない。わかりきっている。死体が変わることなどありえないのだから。それでも、呟くのは馬鹿馬鹿しいことだった。

「あの人じゃ……ない?」

それが自分の呟きだったのか、それとも優花の呟きだったのか。それさえもわからない。ただ、ひどく動転しているのだけはよくわかった――優花が、ではない。自分がだ。どういう感情を浮かべればいいのかわからない。

あの人が生きていることに安堵するべきなのか。

それとも、死体がここにある意味を真に受けて戦慄するべきなのか。

わからないままに、立ち尽くす。死体を挟んで、ずっと。止まっているのは危険だと知っているのに、動くことができなかった。

女がポツリと、愕然とした声で呟いてくる……

「あの女……なの?」

その言葉はちょうど、先ほど自分か優花のどちらかが呟いた言葉と対称になっていた。

あの人じゃないのか。あの人なのか。

この死体はあの人じゃない――なら、殺したのは、あの人なのか。

否定できる材料はなかった。証拠がどこにもない。有罪も無罪も証明できない。

誰も、それ以上の言葉を続けることができなかった。死体は空ろになった瞳で床を見つめている。年上なのか、同級生なのか。それさえわからない死体。判別できるのは、存在しないネクタイの空白だけだった。

無音。呼吸する音だけが、冷たく無常な空間に響いている。

それを破ったのは、あの女の子だった。

「……窓」
「……え?」

女の呟き。突然のことに反応できなかったような声だった。それを無視して、優花は小さく声を荒らげた。

「もっと早く気づくべきだったんだよ……!」

何に。そう問いかける暇もなく、彼女は近くの壁を照らす。窓。彼女が呟いた言葉。それを捜していたのかもしれない――窓は彼女からそう遠くない場所にあった。そこへと彼女は駆けていく。窓の外は、相変わらず闇一色だった。

外はもう存在していないのではないか――そう思うほどに、闇以外の何もない。

「………………」

窓の前で、彼女は躊躇するように立ち止まった。だが、一瞬だけ。意を決して、彼女は窓の鍵を開ける。小さな金属のこすれる音。力を込めて、彼女は窓を開け放つ。

……だが、結局開くことはなかった。当然だった。それは悪魔の力によって閉められているのだから。それは彼女も知っていることのはずだった。

開かない。それに驚いて、彼女は何度も何度も窓を引っ張る。

「あの人じゃ……ない?」

さっきと同じ――だが、かすれた、信じられないとでも言いたげな声だった。瞳には驚愕がありありと浮かんでいる。彼女は何をしたかったのだろうか。あの人なら、彼女の考えがわかったのだろうか……

「……優花? いったい何を」
「犯人を当てたら、出られるんでしょ?」

問いかけの声を途中で遮って、彼女は答える。驚愕を浮かべてこそいれ、彼女は冷静なようだった。

ふと気づく。この異常事態の終わり方。犯人を当てるか、自殺すれば外に出られる……思う暇もなく、彼女の考えを遥香は呟いていた。

「犯人があの人だったなら、窓を開けて外に出られた?」
「……うん」

彼女が頷く。外れたことがショックだったのか、そこに元気はなかった。仕方ないことなのかもしれない。当たりだと思っていたものがハズレだったとしたら、きっと自分もショックを受けるだろう。

あの人は、殺人鬼じゃなかった。それに遥香はよかったと呟いて。ふと疑問を抱いた。

(……何がよかったと?)

安堵した理由。それがよくわからなかった。が、答えを探そうとは思わない。それよりも優先して、しなければならないことがあった。考えている余裕はない。

「昇降口からじゃないとダメなのかな……」

そんな声が聞こえた気もしたが、無視をした。

今、あの人はどこかで独りなのだ。蛍光灯を割ったということは、その身に危険が迫っていたということ。もしかしたら、殺人鬼に追われているのかもしれない。だとしたら、すぐにでも追いかけないとならない。幸いまだ遠くには行っていないはずだ。

「あの人を捜さないと……」
「待て。というか、待って」

だが、それを止める声が一つ。十夢と呼ばれた女だった。顔には困惑が浮かんでいる。だが、そんなのに構ってる余裕はなかった。声にわずかながら怒りを込めて、問う。

「何で止めるんですか? 早く捜さないと、もしかしたら……」
「それはわかってる……だけど、どうにも妙な気がするんだ」
「……妙?」

はやる気持ちを抑えて、訊ね返す。自分ひとりじゃ捜すこともできない以上、彼女らの助けは必須だった。無碍にすることもできずに、言葉を待つ。彼女は何か悩むように目を閉じて、それからゆっくりと呟いた。

「もしアイツが殺人鬼じゃなかったとして……なんで、悲鳴を上げた場所に死体があるの? それじゃあまるで、アイツを疑ってくださいって言ってるようなものじゃない」
「そう殺人鬼が仕組んだんでしょう。そうすれば、殺人だってしやすくなります」
「おかしいでしょ? 仮にそうだとしたら、殺人鬼が死体担いで移動してることになるんだよ? 逃げられたら死体を置いて、逃げた人を疑うよう仕向けるなんて面倒をすると思う?」

言われて、遥香は沈黙する。確かにその通りだった。

死体とはいえ人間一人担いで校内を探し回り、殺人を犯す。失敗したら死体を置いて、また死体を担いで人を殺しにいく。それは考えれば考えるほど不自然だった。それは第一に、誰かが逃げ出すことを前提としている……

「不自然すぎる。そんなことがありえると思う?」
「……だけど、現実に起こってる。認めるしかないでしょう? 窓だって、あの人が犯人じゃないと」
「待った、それ。それがさっきから気になってるんだ」

と、彼女はもったいぶるように深呼吸する。

「外に出れる条件は、殺人鬼が誰か当てること。だけどよく考えてみてよ。誰でもいいからあてずっぽうで『こいつ犯人!』って指定してけば、いつか外に出れちゃう。悪魔のゲームが、そんな簡単なものだとは私には思えない」

彼女は慎重に言葉を選んで、またゆっくりと先を続けてくる。そのゆっくり差に苛立ちが募っていくのを、人事のように遥香は感じていた。

「……証拠が必要なんじゃない? 目撃証言でも、物的証拠でも、何でも」
「……何が言いたいんですか」

苛立ちの混じる声で問う。彼女は遥香を真正面に見据えて、挑むように呟いてきた。

「私はまだ……あの女が犯人なんじゃないかと疑ってる」
「……それが一番自然だから、ですか?」
「……そう」

蛍光灯を割った意味も、悲鳴を上げた原因も、突然姿を消した理由も。

殺人鬼だからという理由以外では、その全てに説明がつかない。危険などなかったのに危険を装ったのだと。そのようにしか思えない。

あの時の条件で考えるなら。蛍光灯を割って悲鳴を上げれば、闇の中で身動きできない自分を簡単に騙すことができる。姿を消した理由も、凶事を犯すためという理由で簡単に説明できる。だから死体がある。凶器は隠し持っているのかもしれない。

それは確かに一番自然な流れだった。

(……でも)

それでも、何故か彼女の言葉には納得できなかった。理由はない。だが、それでも何かが違う気がする。何かが引っかかるのだ。前提から間違っているような、そんな違和感。それがさっきからずっと消えない。

こちらの不満が伝わったのか、彼女は肩をすくめて告げてきた。

「あくまで、私はそう考えてるだけ。もしかしたら、違うのかもしれない。もしかしたら、本当に昇降口からじゃないと出られないのかもしれない。この状況下で確かなものなんて何もないから……殺人鬼がいて、誰かが殺されてて、死体があることしか」

それから、小さくため息を吐く。空気は冷え切っていた。沈黙は重く、交わす言葉も思いつかない。あの人なら適当にどうでも良い事を呟くのだろうが、遥香にはまったく思いつかなかった。

「あ、あのさ……ちょっと、提案があるんだけど」

と。突然、優花が口を開く。今まで蚊帳の外だった分、手持ち無沙汰だったのかもしれない。どちらにしろ、彼女はどこか張り切っているような感じでその提案を呟いた。

「ちょっと状況を整理してみない? そうすれば、もしかしたら何かが見えてくるかもしれないし」
「………………」

彼女共々沈黙する。確かにその通りではあった。今まで別行動だった分、こちらが掴んでいない情報を彼女らは掴んでいるのかもしれない。彼女もそれを考えているのか、考え込むように腕を組んだ。

「……はぐれてから、かな」

彼女が呟く。

「殺人鬼が追ってきて、一階の教室に逃げ込んだ。殺人鬼が昇降口に向かったらしいことを確認して……その時に死体を一つ見つけた。で、死体から手がかりを捜そうとして五分くらい。手がかりは何もなかった。それで、殺人鬼を捜そうとして……」

途切れた彼女の言葉を継ぐように、優花が続ける。

「悲鳴と、ガラスの割れる音が聞こえてきたの。で、悲鳴の場所――二年一組に行ったら、また自殺者……それからヒントのメール。考えるためと隠れるために何もなかった二年二組に行って、数分位したら、悲鳴が二つ。それがさっき。で、走ってきて……今かな」

それで終わりらしく、無言でこちらの話を催促してくる。

行動は全て覚えていた。だから、暗証するのと同じ感覚で呟いてく。

「はぐれた時は一階にいました。でも、あなた達の姿が見えなかったから、とりあえず歩き回ることにしました。目的地は職員室で、あの人はマスターキーを欲しがってました。その前に武器として蛍光灯を取りに行って……このときに死体を見つけてます」
「……蛍光灯と、マスターキー? 何のために?」
「蛍光灯は悲鳴よりも早く危険を知らせるため、マスターキーは隠れられる場所を増やしておきたかったからだそうです。何故か、鍵は全てなくなってしまっていたみたいだけど……数分くらい職員室にいて、仕方がないから歩き出して、その時にヒントを。その意味を考えつつ歩いて……悲鳴を聞いて。ちょうどここに来た時、あの人と別れました」
「……あの人、どこを目指してたの?」

それは確か質問した記憶がある。返ってきた答えは、答えと呼べるほど明確なものではなかったはずだが。

「二階のどこかを目指していたみたいです。隠れられる場所を探してたと思うんだけど」
「……マスターキーがないのに?」
「ええ。鍵のかかってない場所に心当たりがあったみたいです」

その後時計について聞かれた気もするが、それはたぶん関係ないだろう。どちらにしろ、こちらの話はこれでお終いだ。それを悟ったのか、彼女は両手を組んで、優花は目を閉じて、それぞれの方法で考え込む。それに倣うわけでもないが、遥香も天井を見上げて考え込むことにした。といっても、それでわかることは少ないだろう。彼女達の言葉を反芻する。

(……?)

そしてふと気になることに思い至る。

「死体、何か奪われていましたか? この死体のネクタイみたいに」
「……あ、うん。一人目は校章がなくて、二人目はブレザーがなかった。それがどうしたの?」
「……こっちの死体は、ネクタイが奪われてたみたいです」
「ネクタイ? 何の意味が?」

今度は優花の疑問。それに首を振る。

「……わかりません。殺人鬼の嗜好だとするのなら、私にはわかりません」

何の違いがあるのだろうか。あるいは、意味が。考えてもわかりそうにはなかった。そもそも、殺人鬼の嗜好などわかるはずがない……

一人目はカフスボタンのない自殺者。

二人目は校章のない死体。

三人目はネクタイのない死体。

四人目はブレザーのない自殺者。

五人目は、ネクタイのない死体……一つだけ、ないものが被っている。それは微細な違和感だった。同じものを盗まれている。

(……何の意味が?)

実際意味などないのかもしれない。気分次第で身包みをはぐ、そんな殺人鬼だっているだろう。気まぐれで人の物を盗む悪魔だっているだろう。わからないものの解を出すことはできない。

だが、これでわかってしまったこともある。それを呟いたのは、自分ではなく優花だったが。

「……死人、増えちゃったね」

それが意味すること。考えたくはなかったが。それを彼女は呟いていた。

「残りは四人。殺人鬼と悪魔が、その中にいる……」

四人。姿のないあの人を含めた数。少しずつ少しずつ、殺人鬼が追い詰められていく。それとも自分たちが追い詰められていくのか。彼女らはきっと、あの人を疑っているのだろう。

(では、私は?)

誰を疑っているのか。あの人ではないだろう。何となくだが、そんな気がする。だが、状況から考えるなら彼女らでもない。ならば、誰を疑えばいいのか。わからないままに、遥香はもう一度視線を死体へ向けた。男の死体。どこにでもいそうな、無個性な顔……

男――男?

「……え?」

思わず声を漏らす。それはとても大きな違和感だった。はまり込んでいた歯車が、大きな音を立てて外れていく。外れたものが姿を変えて、どこかにはまり込んでいく。

狂い始めたロジック。それはまったく意味のわからないものだった。

死人は四人。そうヒントを送られてきた。そしてそれを信じていた。

だが、それでは数が合わない!

「どうかしたの?」

優花の声。期待よりも怪訝のほうが強い、怪しむような声だった。その声を脳裏に残し、彼女を無視して考える。

(違う)

これじゃない。この声じゃない。悲鳴を上げたのは、女。彼女ら以外の女。


――生きていたこの『五人目』は、女でなければならないのだ。


「……十人目?」
「え?」

その呟きが誰のものだったのか。それさえも失念するほどに、呆然とする。それはありえてはならない答えだった。脳裏に言葉が走る――悪魔は偽っている。

もしかしたら、それは『ヒントそのものが嘘』だという意味だったのかもしれない。増えた可能性。だが、それが一番考えられそうだった……

と。

「……え?」

不意に何かが光ったような気がして、遥香は目を細めた。彼女らの背後――階段のほうで、何かが光った気がする。相変わらずの闇だった。その中で、何かが動いたと錯覚したのだろうか。耳を澄ます。闇の中で光るものとは何か。

判断は一瞬だっただろう。それ以上の時間をかけて間に合うはずがなかった。気づけばそれは、もはや影ですらなくなっていたのだから。

何かが、音もなく闇から飛び出してきていた。淡い光の中、煌いたのは銀色の光。

気づけば、鬼がそこにいた。

叫びが空気を振動させるのと、それが始動し始めるのはほぼ同時だった。

「しゃがんで!」
「え……うわ!」

女の悲鳴。女がしゃがむのに遅れて、刃は空を切る。突然の殺人鬼の出現に優花が悲鳴を上げる。が、そんなことを気にしてる余裕なんかどこにもなかった。力任せの一撃だったのか、殺人鬼は大きくバランスを崩す。その間に、女は大きく殺人鬼から離れていた。

その手に握られていたのは、どこにでもある包丁だった。ブレザーに身を包んだ、女。ただ、そうとわかるのは服装と体格だけだった。

顔には、演劇部の持ち物だろう能面。顔を見ることはできなかった。

「十人目……!?」

自分たちを追ってきていたはずの。だけど、それはありえないことだった。確かに最初、殺人鬼は逃がさないと叫んだのだ――男の声で。逃がさないと叫んだのがこの女であるはずがない。アレは男の声だった。女であるはずがない。

殺人鬼が、女であるはずがない……

(何なんですか、これ……!?)

わけがわからない。だが、その理不尽さよりも目の前の理不尽のほうが今は問題だった。刃の冷たさが、空気を凍らせる。振り上げられた一撃。女が弾く。

それは短い時間だった。決して長くはない。その短い時間の中、遥香は確かにそれを聞いた。

カランと、女の手から棒が吹き飛んでいく音と。

「殺さなきゃ殺される、なら殺さなきゃ、殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ」

確かに、殺人鬼がそう呟いていたのを。

殺さなきゃ、殺される。理解できなかった。何が言いたいのか、どういう意味なのかも。それを掻き消すように、女が叫ぶ。

「……!」
「十夢! ダメ!」
「………………!」

何がダメなのか。武器を落としてしまった苛立ちからなのか、それとも保身を取ったのか。どちらかはわからない。どちらも一緒なのかもしれない。どちらにしろ、女は口惜しそうに叫んでいた。

「……逃げるよ!」

遥香にとっては逆走だった。また、別棟に戻ろうとしている。どこに向かえばいいのか。それさえわからずに、彼女らは駆け出していた。遥香もその後を追いかける。殺人鬼も、聞き取れない悲鳴を上げて追いかけてきていた。

どこに逃げればいい。このまま走り続けるのは無理だろう。いずれ、どちらかの体力が尽きる。それは最低の耐久レースだった。あちらの体力が尽きればこちらの勝ち。だが、こちらの体力が切れれば死。それは圧倒的なまでの理不尽だった。どこか、隠れられる場所を探さなければ。

別棟の二階。隠れられる場所。女が目指していた場所は?


――カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ。


不意に古めかしそうな時計の音を聞く。近い。それは幻聴などではなかった。どこかから、かすかにその音は漏れている。突き当たり。さっきも通った道からそれは聞こえてきていた。

思い出したのは、あまりにも暢気な声だった。


――のっぽじゃないけどうるさい古時計も?


その一瞬で、遥香はその意味を理解した。

アレは意味のある質問だったのだ。女が行こうとしていた目的地。本来ならそこへ行こうとしていたのだろう場所へのヒントだったのだ。前方を走る彼女らへと、遥香は叫ぶ。

「放送室! 鍵は開いてるはず!」

放送室。近い。すぐそこにある。防音設備がどうとかで、作りも厚いはずだった。だが、底から音が漏れている。先を行く二人が、ハッとしたように息を呑む。すぐ目の前に、放送室の扉が迫ってきていた。

もしここが開いていなかったら、自分たちは殺人鬼に追いつかれることになる。そしたら確実に誰かが死ぬだろう。足の遅い自分だろうか。それとも彼女ら二人のどちらかだろうか。彼女ではないだろう――それだけは、何となくわかっていた。

息を呑む暇なんてない。それでもその音が聞こえたのは、ただの錯覚だったのだろう。目を閉じていたのは、その一瞬を見たくなかったからだろう。

ガチャリと、鈍い音が響いた。

「早く!」

手短な叫び。それは或いは悲鳴だったのかもしれない。乱暴に分厚いドアが開けられる。瞬く間に彼女らは放送室へと入っていく。いつでもドアを閉められる体制で、彼女が何かを叫んでいた。耳では聞き取れない。それは命令だった。それに合わせて、遥香は迷わず部屋の中へと飛び込む。転ぶのとそう大差ないほどの感覚。全身を激痛が駆け抜けた。

「アアああぁアあぁアアアアアアアあぁぁァぁ!!」

悲鳴のようでもあり、断末魔のようでもあった。自分が上げた声ではない。それは殺人鬼が上げた声だった。十夢の息を振り絞る呼吸音。部屋に入った直後、バタンと大きな音がした。

そのまま十夢は即座に鍵を閉める。がちゃりと、鈍い音が響く。次いで聞こえてきたのは、何度も何度も扉を叩く鈍い音だった。声は聞こえない。ただずっと、何度も何度も殺人鬼は扉を叩く。くぐもった音だけが、ただ延々と続いていた。

誰も、何も言わなかった。その音が、いつの間にか聞こえなくなっていたとしても。誰も、口を開こうとはしなかった。

「………………」

呼吸が上がっていないのは距離が短かったせいだろう。あの人がいれば『火事場のバカ力』とでも言いそうではあったが。携帯の明かりしかない部屋で、ただのろのろと倒れこむ。

外からは何も聞こえてこなかった。防音設備の結果なのか、それとも殺人鬼が何もしてないのか。その判断はつきかねたが。何一つ聞こえてこなかった。今あるのは、古めかしい振り子時計の音だけだった。

どちらにしろ、これで確定したことが二つあった。考えたくもない、暗鬱すぎることが、二つ。それを、遥香は力なく呟いた。

「殺人鬼……顔、隠してたね」

あまりにも、馬鹿馬鹿しいことだった。能面で顔を隠して、人を殺す。あまりにもできすぎた光景だった。それ故に最低だった。

「は、はは……特定は不可能……戦えってこと?」

それを理解してか、十夢は笑う。苦笑というよりも、泣き笑いに近い笑い方だった。

それを見ながらも、遥香も苦笑する。もう、恐怖なんて浮かんでこない。むしろ笑い出してしまいそうだった。我慢の限界が来たのかもしれない。どちらにしろ、殺人鬼に対する感情は麻痺してしまっていた。

「……どちらにしろ、助かった代わりに閉じ込められました。ここに」

認めたくはないことだったが、暗鬱に呟く。外には絶対、殺人鬼が待ち構えているはずだ。ノコノコと出てきたこちらを殺すために。それはある種の我慢比べだった。殺人鬼が諦めるか、それともこちらが観念するか。

振り子時計の音だけが、不気味に辺りに響いている。百八十回。三分。それだけを何とか数える。そのはずなのに、分針は何故か五分先に進んでいた。時間感覚は希薄になっている。音を立てる時計があるのに、それは不思議なことだった。

「……あれ?」

と。突然優花が呟いた。入り口で固まったままの十夢と自分を置いて、彼女は背後で何か見ている――それが彼女なりの時間の潰し方のようだったが。優花はぼんやりと、床に投げ出された二つの箱を眺めていた。薄暗くても、それが何の箱なのかはわかる。

「……デジカメの、箱?」

写真用ではなく、ビデオ用の。確かにそれは放送室なら合ってもおかしくはないものではあったのだろう。だが、問題なのは中身が入っていないと言うことだった。

「……何の意味が?」

それがわかることなど、きっとないのだろう。何となく、意味もなくそう思った。

その直後だった。

また、悲鳴。防音扉を切り裂くような、それは鋭い女の悲鳴だった。

聞き覚えのある、悲鳴だった。






考える。とりあえず、何でもいいからいろんなことを考える。のっぽの古時計はその人生――時計生?――を壊れるまで時計として過ごしたのだから、ある意味フル時計でもいいのではないか。オール時計でもいい。大きなのっぽのフル時計。別に何も変わっていないように思える。ならいいじゃないか、フル時計。百年は長い。そのうち動き出すかもしれない。やっぱり呪うのだろうか。

とまれ、思考そのものを一時的に停止する。そのまま女は嘆息した。

「……いやはや、失敗した。本当に失敗した」

誰にも聞こえないように、自嘲する。

近くで人の気配がする――どうやら、もう動いたらしい。来るのは予想していたが、ここまで早いとは思っていなかった。それに苦笑しつつも、独り愚痴る。

「真面目に予想外だったよ……ここまで早いとはね。それともわたしが遅かったのかな」

たぶん後者だろう。本来なら、もう少し早く独りになるべきだったのだ。

「失敗した。ついて来るなんて思っても見なかったよ」

それはさっきも呟いた言葉だったが。もういない人に毒づいても意味なんてない。

「まあ、確かに悪いことをしたなあとは思うけどさ。他人を簡単に信じるなって言っといたからね。わたしを恨むのは間違いだよ」

誰かに確認するように、安穏と呟く。といっても、辺りには誰もいない。当然のことだったから、女は特に何も思わなかった。彼女には悪いことをした。それで今回の反省はお終い。

だから女は、この後の行動について考えることにした。

「……といっても、どうせ人探しだしね。行動については後で考えよう」

当面の問題は。

そう呟いて、女はため息をついた。わかってる。考えなくてもわかってることだ。

「……武器がない」

それはつまり、自分が今無防備であることを意味する。武器が欲しい。だからといって戦いたいわけでもない。戦うわけにも行かないのだ。そんなことしたら、確実にばれる。ばれるわけにはいかないことが、たくさんばれることになる。

せっかく誤魔化したのだ。最後の最後まで誤魔化しきらないと、ぜんぜんまったくよろしくない。『五人目』の存在が『殺人鬼』として機能しなくなり始めた以上、ここでばれるわけにはいかない。

とはいえ。本当に、とはいえ。遠目に、女は自分がいた場所を見つめるように目を細めた。見えない。それにため息を吐いて、女は心の底からぼやいた。

「まさか、本当に動くとは思ってなかった」

想像していなかったわけではない。それは可能性の一端だった。色んな矛盾。色んな情報。一つのヒント。参加者の数。存命者の数。それを考慮するなら、真の意味でその答えが一番可能性の高い答えだった。

うまい擬態の方法を考えたものだ、本当に。彼女が見つけるよりも早く見つけられたのは、本当に幸運だった。彼女が先にアレを見つけていたら、全てが台無しになるところだった。

「まあ、結果オーライだったけどさ。私の運がいいのか、彼女の運が悪いのか……」

たぶん後者だろう。が、まあそんなことはどうでもいい。考える。次の行動は。

わざわざ一時間近くかけて確認したのだ。それをもう一度確かめに行かねばならない。それだけで、状況は劇的に変わるはずだった。さっき言ったことを思いだす。殺人鬼なんて誰でもいい……本当に、誰でもいい。

天井を見上げて、目的地を頭に思い浮かべる。同時に、彼女らの行きそうな場所も。

「しばらくは……アレに集中してくれそうだろうしね。見つかるのも面倒だから……」

彼女達から遠いところが、とりあえずの候補か。一時的に判断を保留する。他に考えなければならないことは。

「んー……結局人探しか。となると……隠れられる場所かな」

となると、自然と行く場所が限られてくる。効率的に行かねば、時間がさらにかかってしまう。もしかしたら見つからないのかもしれないが、それはあまり面白いことではなさそうだった。彼女達にとっても、自分にとっても、彼女にとっても。

数秒、迷う。それから意を決して、女は頷いた。

「ん、決めた」

とりあえず、ここから離れよう。万が一にも、彼女らに見つかったら後が面倒だ。独りになったメリットをすぐ殺してしまうのはいただけない。さっさと逃げなければ。

「さて、闇も気にせず進もうか」

想いだったが吉日というやつだった。女はすぐに歩き出す。無音で歩くコツは掴んだつもりだ。下手の横好きは、こういうときに役に立つ。いたずらに使えそうな知識や思考形態ほど、こういうときに。

と。ふと気になって、女は背後を振り向いた。闇の中には、きっと『死体』が転がっているのだろう。『彼女』がいる方向を検討づけて女はまたため息をついた。

「まあ、君がそういう奴で助かったよ。殺しに来たんだったら、殺し返さないといけないところだった」

そう呟いてから、女は歩き出す決心をする。

「……にしても、殺人鬼が猫、ねえ? 昔の猫は、ネズミに悪戯される側のはずなんだけどね。時代は変わったのかな……」

とりあえずは、そこが気になった。が、まあ、そんなことどうでもいい。

歩き出す直前。女は死体へと振り向いて微笑んだ。

「それとも、この状況下であっても悪戯してみせてくれって事かな? ネズミらしく」







「……!?」

それは或いは咆哮だったのかもしれない。悲鳴などではないだろう。聞き覚えのある、女の咆哮。肺から搾り出したような絶叫が、ビリビリと空気を振動させる。それは震えを感じさせるほどに、危険の色を濃く孕んだ叫びだった。

思い出したのは、断末魔というその言葉。

人が死の苦痛に震えるときに上げる、心の底からの絶叫。

「十夢……今の」

服にしがみついて、優花が小さく呟いてくる。反応する必要のない声だった。言わなくても、お互いにわかっている。

(たぶん……あの女)

聞き覚えのある女の声。突然現れて安穏とした言葉を呟き続けて、また突然姿を消した女。恐らく、あの女の悲鳴だった。

声の出所ははっきりとわかった。二階の図書室前。ここからそう遠くはない。

闇の中、十夢は少しだけ逡巡した。悲鳴の意味と、悲鳴の理由。このゲームの勝利条件。すぐさま、それを繋げていく。判断はその一瞬で終わった。

「……行くよ」

それだけで優花も全てを察する。これはチャンスだった。目撃する。ただそれだけでいい。殺人鬼を殺人鬼たらしめるには、それだけでいい。

そのために走り出す。闇に足音が響く。だが、そんなことなどもうどうでもいい。

もしかしたら、殺人鬼はこちらに向かっているのかもしれない。もしかしたら、殺人鬼はあの女の悲鳴を罠にして、どこかで待ち伏せしているのかもしれない。追い詰めているのか、追い詰められているのか。わからない。わかるはずもない。

或いはその二つはこの場においては同一だったのかもしれない。

だが、勝ち方だけはわかっている。

人一人殺されて、ようやくそのチャンスを得た。あまりにもそれを得るのが遅すぎた。失われた人間は、もう戻ってこない。あの女はもう、暢気に馬鹿馬鹿しく言葉を吐くことさえない。悪魔に魂を奪われた。

もう、死んだ女。彼女の声を振り払うように、十夢は囁いた。

「優花」

走る音に掻き消されそうなほどの、そんな小さな声で。

「殺人鬼の顔を見たら、すぐに逃げて」

聞こえていなかったのかもしれない。反応は返ってこなかった。だが、それを気にすることなく廊下を疾走する。こう急いでいては、突然殺人鬼が来ても対応できない。それでもよかった。時間は稼げるから。手の中の武器を握り締める。

体は次第に熱を持つ――それに反比例するように、心は熱を失っていった。

(……私が勝たなくてもいい)

殺人鬼を足止めする。それが自分に課した、十夢の役目だった。殺人鬼を足止めする。その間に、優花が殺人鬼の顔を見る。後は優花が逃げるまで、自分が足止めすればいい……

(……ビビるな。これは死じゃない。たとえ痛みがあろうと、これは死なんかじゃない)

ゲームオーバーと死は違う。ゲームと、生きることは違う。

それを何度も何度も肝に銘じる。たとえ悪魔に食われることになろうとも。

そして。

走るのを、十夢はやめた。優花も、それに合わせて走るのをやめた。

「………………」

さっきの化石少女と呼ばれた女が、図書室の前で立ち尽くしていた。ただ呆然と何かに怯えている。焦点が定まっていないのか、彼女はこちらを見ているのに、こちらにまったく気づいていなかった。携帯の類――明かりは持っていない。闇に取り残されたのか。

時間だけが、延々と流れていく。

「……あ、え?」

聞こえてきたのは、そんな声だった。彼女の瞳が、ようやく何かを見据えるようになる。それはちょうど、こちらと彼女の中間に向けられていた。

女の視線の先。十夢たちの視線の先。割れたガラスの破片が、キラキラと光を反射する。その光景は、ある種魔的な雰囲気さえかもし出していた。まるで、宝石と一緒に捧げられたいけにえのように。

死体があった。ガラスに埋もれるように。何かに殴られたように、うつぶせに倒れて。ネクタイを奪われて。

誰も、何も言わなかった。言葉が見つからなかった。何を言うべきなのか、何を言えばいいのか。この状況で、何をどう言えばよかったのか。完全に言葉を喪失して、誰もが何も言えなかった。

それでも、ようやく。間抜けで馬鹿馬鹿しくて愚かでも、十夢はただそれだけを呟いた。

「……何で……?」

死体は、あの女ではなかった。

また知らない顔の死体だった。






「……また、ですか」

また悲鳴。金切り声とも絶叫とも違う、女の声。そろそろ聞き慣れ始めたような気もしないではないその悲鳴は、どうやら別棟から上がったわけでもなさそうだった。強く強く反響はするが、どうしようもなく遠い。恐らく教室棟のほうからだろう。どの階からの声なのかは、判断できそうになかったが。

先を歩く彼女は、呆れたように呟いてきた。

「悲鳴ねえ……よくあげようと思うよね、実際のところ」
「驚いたら上げるでしょう、当然」
「殺人鬼がいるのに?」

不思議そうに、彼女は後姿からでもそうとわかるほど首を捻る。本当に疑問だったらしいが、彼女には常識というものがないのかもしれない。いまいちわからなかったが、深く考えずに答える。

「……それを覚えていられるほど冷静なら、悲鳴なんて上げませんよ」
「そりゃそうなんだけどさ。何というかさ、不安を煽るために悲鳴上げてるような気がしてならないんだよね。どうにも」
「……不安を煽る? 悲鳴で?」

理解できずに訊ねると、彼女は『だってそうでしょ?』と憮然とした面持ちで呟いてきた。

「ホラー映画とかによくある手法……って言うのもどうかと思うけどさ。恐怖を誘うために静まり返った空間で悲鳴を上げるっていうのは、本当にありふれた方法なんだよ。悲鳴が一番簡単で、一番効果的なんだ」

実際確かにそういう手法を用いられたビックリ映像を知っている。悲鳴は効率的。だが、遥香はすぐに反論した。

「とは言いますけど、それはあくまでホラー映画とかの方法でしょう? 実際被害者は恐怖を煽りたいわけではないはずですし」
「本当に被害者ならね」
「……はい?」

わけがわからずに訊ね返す。と、彼女は表情を若干苦笑の形に緩めて、それでもどこか硬い表情で肩をすくめた。そのまま、友人に話しかけるのと同じ口調で言ってくる。

「もしかしたら、殺人鬼が上げてるかもしれないでしょ?」

悲鳴を、殺人鬼が上げている。彼女は苦笑めいた声でそう言ってきた。思わず問い返す。

「……それ、意味あるんですか?」

殺人鬼が悲鳴を上げるのだ。不安を煽るという意味では確かに有効なのかもしれないが――わざわざ自分の居場所まで知らせてしまうのだ。そんな愚を犯すくらいなら、自分だったら音さえ上げずに殺人を犯す。

「あるよ。こんなの、正直に言っちゃえば釣りと一緒なんだからさ」

だが、彼女はその問いに平然と、想像していない答えを返してきた。怪訝を浮かべる。理解できないまま、遥香は彼女の背中へと同じ言葉を繰り返した。

「釣り?」
「……悲鳴を聞いた人間が取る行動って、いくつあると思う?」
「……え?」

それは突然の問いだった。いきなりの話題変更に遥香は戸惑う。が、それも一瞬だった。考える時間も、それに近いくらい短いものだった。問いの答えを見つけることなど、不可能だと思えたからだ。

「普通に考えるなら、何でもありでしょう? いろんな人がいますから、選択肢だって無限に……」
「まあ、細かいところを気にするならそうなんだけどさ」

また苦笑したらしい。背中が不自然に揺れる――そして、彼女はゆっくりと肩越しにこちらを見てきた。その表情を、すぐにため息を吐いて消す。

のほほんとした顔が、その一瞬だけ能面じみて見えた。

「……実際は、三つだけだよ」
「三つ?」
「そう、三つ。悲鳴のポイントに移動するか、悲鳴のポイントから離れるか……それとも、完全に無視するか。基本的には一番目なんだろうけどね。善良で大多数な一般人とか、正義感の強そうなさっきの子達みたいのなら。臆病者なら二番。一番正しいのも二番。三番は……まあ、アレだよね、人として」

アレが何なのか、さっぱりわからないが。聞いても意味などないのだろう。遥香は呆れを隠さずにため息を吐いた。言いたいことをようやく理解する。それは確かに釣りだった。

「悲鳴をエサに、釣り針は凶器。釣り糸は忍耐で、釣竿は……お好みでどうぞ。まあ、そういうわけだよ。特にこの状況だとね。勝つためには、殺人鬼捜さないといけないし」
「……効率的、ですね。殺人鬼は、声張り上げて待ってればいいだけなんですから」
「この状況下なら、悲鳴もネズミ捕りも大差ないって言えるね。誘われてきた獲物を……」

手のひらを開いて、そのまま握り締めるジェスチャー。バクンと一口、とでも言いたかったのだろうが。言われて考える。

悲鳴はネズミ捕り。事実『殺人鬼』という危険を把握していなかった自分たちは、最初悲鳴に駆けつけたではないか。あの場に殺人鬼がいなかったのが、単に幸運だっただけで。

「とはいえ、本当に危険なのかもしれないね。殺人鬼に殺されそうになってたりとか。そうだとしたら、助けに行くべきなのかもしれないけど……残念ながら、場所がわからない」
「時間も経ちすぎちゃってますしね。今から行っても間に合うかどうか……」
「まあ、今回も無視って事で。オーケー?」
「はい。それでいいと思います」

同意すると満足したのか、彼女は笑って頷いた。体を反転し、闇の中をまた歩いていく。暗いせいか、廊下は果てしなく長いように思えた。淡い光だけを頼りにしてるのかどうかはわからないが、彼女はずんずん進んでいく。といっても、足音を殺して、警戒を全開にしての行進だ。そんなに早くはない。

だというのに、彼女は暢気に呟いていた。危機感の欠片もなく。

「……んー、後もうちょっとなんだけどなあ」
「何がですか?」
「無音で歩くこと。理論的には衝撃を全部関節で吸収させればいけるはずなんだけどなあ。忍者だってできるのに」
「にんじゃ……」

呆れを浮かべて呻く。が、彼女は特に何も言ってはこなかった。集中して、時々足の運び方を変えている。本気で忍者にでもなるつもりなのかもしれない。どちらにしろ、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。呆れだけを含んだため息を吐いて、自分も足音を殺して歩くことに専念する。

また、無言の沈黙。纏わりついてくる空気の冷たさが戻ってくる。その沈黙が気になって、遥香は問いかけた。

「何で、殺人鬼は人を殺すんでしょうね」

意味がない。今回の殺人に理由なんてないのだ。世間一般を騒がせるような、お金や愛や憎悪や偶然。そんな明確な――あるいは抽象的な――理由。人を殺すのに必要な理由。この殺人鬼にとってのそれは何なのか、それが気になって問いかけた。

悪魔は楽しみたいからこのゲームを作り上げた。では、そこに現れる殺人鬼は?

……もともと答えを期待した問いではない。ただ、何も言わないでいると気分が悪くなる。沈黙が嫌いなわけではない。だが、今回の沈黙だけはどうにも好きになれなかった。

声が聞こえる――どうやら、苦笑しているらしい。

「理由なんて、必要なのかな」

問いかけるわけでもなく、彼女は呟く。それはどちらかといえば、自分の中で呟いた言葉を確かめているようだった。

殺人に理由なんて必要なのか。それを確かめている。背中しか見えないが、彼女は心なしか笑っているようにも見えた。

「……殺人の理由か。まあ、最近は何でもありだしね。殺したかったから殺しましたって言われても、たぶんわたしは驚かないよ。そういうゲームだから、でもいいし」
「……質問に答えてない気がするんですが」
「殺人鬼に聞くしかないでしょ、その質問。下手の横好きでいろいろ知ってはいるけどさ。さすがに個人の嗜好まで知ってたらただの変態じゃないか……とはいえ」

そこでまたため息。振り向きもせず、面白くもなさそうに――それでも笑いながら、彼女は考え込むように天井を見上げた。

今思うと、何かを考える時に天井を見るのは、彼女の癖なのかもしれない……

その視線が下がる。思いついたことをただ呟くように、彼女はポツリと言ってきた。

「楽しいからだろうね。少なくとも、鬼と呼ばれるくらい人を殺した人間はね」
「……少なくとも?」

違和感のある言い方だった。それではまるで、殺人鬼以外の人間が人を殺しているようにも聞こえる。繰り返した遥香に、彼女は笑って頷いた。

「人間なんて結構単純なものでさ。感情だけで人を殺せるんだよ。憎悪や怒りはともかくとして……疑心とかね」
「疑心?」

また繰り返す。そうすると彼女は小さく苦笑した。

「ほら、よくあるでしょ? 勘違いから始まる泥沼殺人劇」
「よくあるんですか……?」
「あるんだよ。疑わしきは罰せずなんて法律の世界だけだしね。人間、白か黒かで分けないとやってけないわけだよ。灰色は許せない。だからどちらかだと決め付けて排除するんだ。それがたとえ白に近くても、排除」
「まあ、それはいいんですが……その言い方だと、この異常事態に巻き込まれた誰かが殺人を犯したように聞こえるんですが」
「可能性の話だよ。ありえないことじゃないんだ。たとえば……もしさっきの悲鳴が五人目のものだとして、五人目が殺人鬼じゃないのなら」
「……?」

また彼女は天井を見上げる。薄闇の廊下。普段よりも高く見える天井。誰が潜んでいるかわからない闇。

「さっきの悲鳴が、惨殺体を見てあげたものだとしよう。悲鳴の主は誰が殺したと考えるかな?」
「それは……」

思わず言いよどむ。それは意識的に排除していた答えだった。が、その反応を見て彼女は薄く笑う。彼女も同じ事を考えていたのだろう。

「最初に集まったわたしたち四人のうちの誰か。当然だね。自分以外が犯人で、残りの総数が五人しかいないんだから。そして、わたしたちも自分たち以外の誰かを、特に五人目を疑っている。結局のところ、殺人鬼以外の皆がそうなんだと思うよ? 誰かを疑っている」

自分以外の四人。そのうちの誰かが悪魔で、誰かが殺人鬼。今まではまだ会ったことのない五人目がそうなのだと信じていた。だが、もしそうではなかったのだとしたら。

さっき出会った二人の少女。そのどちらかが殺人鬼なのだとしたら。

「誰かを疑って、でも尻尾がつかめなくて、死体ばっかり増えていって。それが限界に来たら? ……自分の安全を守るために、誰かを殺すんだ」
「そんな、無茶苦茶な」

確かに昔、そんな推理小説を読んだことがある。閉ざされた孤島。外に出ることのできない環境で起こった殺人事件。殺人鬼は見つからず、最後には生き残った者同士で疑いあい、殺しあった。だが、それはあくまで物語だ。だから否定する。それに対して何を思ったのかはわからない。彼女は肩をすくめるだけだった。

数秒の沈黙。それからまた、ポツリと彼女は呟いてきた。

「実際、殺人鬼なんて誰でもいいんだと思うよ」
「……はい?」
「誰が殺人鬼かわからないっていうのは、誰が殺人鬼でもいいっていうのと同意義なんだよ。誰が殺人鬼か指定されてないから、誰でも疑えるんだ。自分以外なら誰でもね。わたし以外の誰かが殺人鬼です。でも誰が? わたし以外の誰かが。ほら、誰でもいい」
「……極端すぎません?」

さすがに無理やりすぎる。反論すると、彼女はどうでもよさそうに肩をすくめたようだった。

「そりゃ極端だよ。ある意味極限とも言う。よく言うじゃん、極限状態の人間は何をするかわからないって。疑ってる人間が犯人扱いされないのは、フィクションだけだよ?」
「だからって、それだけで誰も彼も疑いますか?」
「疑うよ。こんな状況下じゃ、誰もアリバイ証明なんてできないからね。というか、意味がないんだそんなもの。いくらだって疑えちゃう。信じる価値がない」
「わざわざ二人組なんです。お互いがお互いのことを証言すれば……」

呟くが、即座に反論が飛んでくる。

「口裏合わせしたんでしょって言われてお終い」
「う……」

それに言葉を詰まらせている間に、彼女はのんびりと先を続けた。

「実際意味なんてないんだよ、二人組なんてさ。この状況じゃあ、誰も無罪の証明はできない。人を簡単に信じられる状況ってのは平常時だけだよ。今は無理。せめて、殺人鬼以外の全員が一緒にいないとね」

確かにできないのだろう。精神的に追い詰められた人間を黙らせるには、それなりの証拠が必要になる。アリバイに意味はない。もう人は信じられない……

一呼吸置いて。沈黙を一瞬確かめて、彼女はまた天井を見上げた。今度は考えるために、ではないだろう。

「殺人鬼なんて、誰でもいいんだ」

あっけらかんとどうでもよさそうに、彼女は呟く。だがその声は、底冷えするほどに何度も何度も辺りに反響した。

殺人鬼なんて誰でもいい。その声が、耳にこびりついて離れなくなる。誰でもいい。誰も、自分の無罪を証明できない……

それこそ馬鹿馬鹿しい思いで、遥香は暗鬱に呟いた。

「……はぐれるべきじゃありませんでしたね」

疑われないためにも。

「そうだねえ」

短く同意してくる。今度は天井を見上げて、彼女は数秒沈黙して――その間に放送室のある突き当たりを右折して。

そして、小さく呟いた。

「あ、いや、撤回。はぐれなくても大差ない」
「……なんでですか?」
「いや、だってさ。死体が作られた時間がわからない。もしわたしが起きる前に殺人してたなら? そしてわたしが起きた後、その殺人鬼が何食わぬ顔で被害者を装っていたら?」
「……殺人鬼と、一緒にいたことになる?」
「そゆこと」

小さく同意して。そのまま彼女は、誰にも聞こえないのではと思うほどの声量で小さく囁いていた。

「……失敗だった。つい……る……思ってな……た」
「え?」

最後のほうが聞き取れず、思わず声を上げる。が、彼女はまた苦笑したようだった。

「失敗だったって話。こんなどうもでいい話、聞くだけ無駄だったでしょ?」
「……いや、そういうわけでもありませんけど」

ためになったかはともかくとして、気分くらいは紛れた。それだけでも会話には価値がある。

「……にしても、結局何が言いたかったんですか? 当初の質問から思いっきり脱線してるような気がするんですけど」
「いいじゃん脱線。事故じゃないんだし……ああ、まあ、オチが欲しいっていうなら教訓っぽいものをあげられるけどね」
「……?」

いぶかしむように、彼女の背中を見つめる。当然のように、彼女は振り向きもしなかった。もう笑っているわけでもない。ただ、感情を込めずに囁いてくる。

「疑心で人を殺したくなければ、全員で犯人を作り上げるんだ。一番疑わしい人間が……ってね。そうすれば、一時的でも疑心による殺人は止まる。根本的な解決にはならないけど、一時的には団結できる。不安から逃れるために。学校でのいじめと同じだよね」
「……同じですか?」
「同じだよ。結局排除してるんだからね。からかうか殺すかの違いだよ。まあ、後は簡単に人を信じちゃいけないよってことだよ。いつだって裏切れるからね。他人なんて」

それから、三度目のため息。足を止めて、小さな声で彼女は呟いた。

「……やってくれる。だけど、確定かな」
「……はい?」

確かにその言葉を聞き取った。が、彼女はそれについてはそれ以上何も言ってこなかった。

辺りを見回して、今更気づいたように彼女は言ってくる。

「この辺って、図書室だよね」

露骨な話題逸らしだった――だが、聞いてもきっと彼女は答えないだろう。だから、考える代わりに地図を思い浮かべる。タの字。図書室は『タ』の上の横線部分だったはずだ。教室棟と別棟を繋ぐ、廊下に面している。二階。この下が、昇降口だと記憶している。

答えずにいると、また彼女。

「今考えたんだけどさ」
「はい」
「携帯の明かりって狙われるよね」
「………………すんごい今更ですね」
「夜目はいいほう?」
「……微妙ですね。まあ仕方ありません。消しますよ。狙われるよりはいいですから」

彼女が頷くのを確認してから、携帯を畳む。パタンと小さな音。一瞬で、闇が辺りに戻ってくる。彼女の姿も、残像を残して闇に溶けた。これでもう、どこにいるのかわからない。後は声と足音だけで判断するしかない。

「……で? これからどこに行くんですか?」

問いかける。当然答えが返ってくると疑わずに。実際何かを考え込んでいるのなら、数秒は待たなければならないのだろうが。

声は不気味に反響するだけだった。何秒待っても、何分経っても。

彼女の声は聞こえてこない。さっきまで、隣にいたはずの影。輪郭。闇に飲まれて、どこにもない。呼吸の音も聞こえてこない。

「……あの?」

呼びかける。だが、やはり声は返ってこない。足音はもとより、近くにはもう呼吸の音もない。それに気づいたその一瞬、背筋に冷たい何かが走った。

悪寒。怖気。それによく似た、焦りと恐怖。

いない。彼女がどこにもいない。いつの間にか、音も形もなく消え去っていた。そんなはずはない……どこかにいるはずなのだ。人は無音ではいられないはず。

ふと、思い出す。

彼女は、無音で歩く練習をしていなかったか? 何のために?

足音を消す理由。殺人鬼に見つからないように。

本当にそうだったのか?

連鎖的に、何かが脳裏で囁いてくる。


――殺人鬼なんて、誰でもいいんだ。


それを、彼女はどういう意味合いで呟いた? 本当に、誰でも疑えるという意味でだったか?

勝手にそう思い込んだだけで。実際は。

――実際は、自分が殺人鬼であっても問題はないんだと言いたかったのではないか?
それは突飛な発想だった。論理が破綻している。彼女はそう言いたかったわけではないだろう。だが、今になって思えば彼女はどこか不自然だった。

自殺者を見ても驚かなかった。

一人で勝手にどこかへ行こうとした。

そして殺人鬼についてあんなに考えていた。

最初から、人としてどこかずれていた。

それだけで、疑うに足るのではないか?


――――――カツン。


「……!」

何かがどこかで動いた。響く足音に、体が即座に反応し、音を探すために闇を見回す。だが、足元からまた音が響く。自分の足音。増えて無限に響いていく。息が引きつる。呼吸が浅くなる。深呼吸ができない。冷や汗が、頬から一筋地面に落ちる。

「………………ッ」

怖い。闇が怖い。何が起こってもおかしくはない、その闇が何よりも怖い。何も信じることができない。何もかもが敵でしかない。怖い。その静寂が、何よりも怖い。

足音はない。物音もない。呼吸する音も、吹く風の音も。何一つない。携帯を開かなければ。だけど開けない。殺人鬼。狙われる。闇。闇。闇。

その中で一つ。風を切る音が、どこか遠くから聞こえたような気がした。

何かを振り下ろす音。ズダンと大きく何かが動いた音。

今更ながらに思い出す。危険に面したとき、人は息を吸えない。悲鳴を上げる余裕なんかない。彼女の言葉だった。

響いた音。バリンと、何かが割れた音。その音が前から聞こえたのか、後ろから聞こえたのか。それさえ失念して、遥香はその音を聞いていた。

――蛍光灯が、割れた音。

悲鳴なんて上げられない。そう言われたのを思い出す。

次いで聞こえた音は。

「がアアあぁあアアあぁああぁぁぁっぁァぁああぁぁぁぁアッ!」

悲鳴。上げられないと言っていたはずの音。魂も凍えるほどに――いや、魂さえも消えそうなほど強く響く悲鳴。いや、違う。悲鳴じゃない。悲鳴はこんなに苦しくない。

それは断末魔だった。

危険。割ったら逃げてね。そう言われた。誰かがそう言った。ずっと、さっきまで一緒にいてくれた人。もう何も聞こえない。どこからも何も聞こえてこない。闇と静寂だけがこれからもずっと残り続ける。

もう、いない人をもう一度呼ぶ。

「石田さん……?」

問いかけても、どこからも答えは返ってこない。虚しく響いて消えるだけ。

逃げてね。

そう言われたのに。何故か、その場を動くことができなかった。逃げ出せない。逃げ出し方がわからない。道がわからない。闇の歩き方がわからない。

動くのが怖い。動かないのも怖い。

(……いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだ………………)

ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。






悲鳴はどうしようもないほどに長かった。

ただずっと、ずっと長くこだまし続ける。いつになったら消えるのだろう――もしかしたら、もうずっと消えないのではないか。そう思うほどにこだました悲鳴は長かった。三階か、一階か。二階ではないだろう。同じ階層から響いた声ではない。もしかしたら別棟のほうから聞こえてきたのかもしれない。場所の判別はできない。その程度には遠い。

そしてまた無音が帰ってくる。沈黙、静寂、静謐。空気が漂わす死の匂い。悲鳴を追いかけようとは思わなかった。

「……行かないの?」

問いかけは優花の声だった。どこか弱々しく、怯えているような声。それに、十夢は苦々しい思いで答えた。

「追いかけようにも場所がわからない。それに……不用意に動くとこっちの位置がばれることになる。遭遇しなきゃならないのは山々だけど……こっちが先手を打たないとね」
「……そうだね」

それだけの同意を残して、沈黙する。死体のなかった、二年四組の教室。あのヒントを考えるために立ち寄った教室で、考える時間だけが無音と共にあり続けている。静寂は身を切るほどに痛い。

実際は優花の言うとおり、悲鳴を追うべきなのだろう。それは理解していた。実際自分で言ったことなど、適当に思いついたことを並べただけだ。

考えなければならないことを考え続けていた。

あのヒントの意味。残り五名。先ほどの女たちと、自分たち。そして五人目。五人目が殺人鬼――それは普通に考えるなら当然の流れだった。死体を一緒に見た四人。自分たち以外の、誰かが殺人鬼なのだと。

だが、今にして思えばそうではなかったのかもしれない。考える。ヒントの意味。

悪魔は欺いている。偽っている。ずっと。そのずっとが、いつからを指すのか。たぶん、このゲームが始まった時からだろう。最初から。最初から今まで、ずっと欺き続けている。欺けるものは何がある?

(……何でも、欺ける)

身分を証明するものなどない。自分を知っている人も優花を除いていない。知り合いは優花だけ。それは、気づいてしまえばあまりにも簡単な『最低』の作り方だった。

――悪魔が、生徒に化けている。

ずっと引っかかっていたのだ。これは悪魔のゲーム。別にそれはいい。ヒントを鵜呑みにするのはこの上なく癪だったが、それでも思考する材料はこれしかない。
『ゲーム』だと言うのなら、対戦相手も同じゲームに参加していなければならないのだ。出題者と回答者が戦うのはゲームではない。クイズだ。ゲームだと言うのなら、何らかの形で悪魔もゲームに参加していなければならない。

それが意味することを、十夢は心の中でのみ呟いた。

(……生存者の中に、悪魔がいる)

五人。その中から、自分たちを引く。あの二人の少女と、いまだ知りえぬ五人目。この中に、悪魔がいる……いや。

悪魔と、殺人鬼がいる。

悪魔は猫と――殺人鬼と戯れたがっている。ならば、悪魔と殺人鬼は別々でなければならない。一人二役では戯れとはいえない。悪魔と殺人鬼。五人目を殺人鬼だとするのなら。

あの二人の少女。どちらかが、悪魔という事になる。

それは最悪の結論だった。知らず知らずのうちに、心のうちに苛立ちが募っていく。あの二人のどちらかが、ずっとずっと、出会った当初から自分たちを嘲笑っていたのだ。それなら、はぐれてしまった理由も頷ける……

(……? いや、おかしい?)

違和感だった。それは微細な。違和はすぐに疑問へと化ける。

嘲笑いたいのなら、傍にいなければならない。どんな顔で怯えているのか、どんな無駄な対策を取るのか。それを見たいはずだ。だというのに、はぐれるというのはおかしい。

そもそも、殺人鬼と悪魔が別々だというのなら、悪魔も殺人鬼に殺される可能性が出てくる。誰をも殺す猫。例外はない……悪魔も参加しているというのなら、やはり殺されることになる。

それはありえることなのか。ゲームの企画者でさえ殺される。そんなわけのわからないルールを悪魔が作るとも思えなかった。だが、どこかで間違っているとも思えない。

「……何、これ」

呻くように呟いて、十夢は背後の窓を見た。そこからなら、別棟が見えるはずだった――闇に飲まれている外。暗黒の世界。何が存在しているのかもわからない空間。闇は別棟の姿を隠すのに、非常に都合のいい存在だった。誰が移動しているか、いつもなら見えている。もし殺人鬼が別棟にいるのなら、その姿を見ることができる……それを防ぐための闇だというのなら、悪魔は性悪もいいところだ。

絶望の果てに、君を待っている。名指しで指名された、悪魔のメッセージ。

絶望した時、自分たちはこの勝負に負ける。様々な希望を叩き潰されて、いつかは絶望する。それがいつなのか。一時間後なのか、三十分後なのか。十分後なのか一分後なのか。一日はかからないだろう。いや、朝が開けるまでには、きっと終わるぬ。根拠はないが、それでもそれは確信だった。
悲鳴が聞こえてから三分は経っていないだろう。その三分の間にわかったことなど、たかが知れているが。暗鬱に息を吐いて、十夢は窓から視線を離した。教室の入り口を睨んでいた優花が振り向いてくるのを待って、告げる。

「行こう。ヒントに意味がない以上……どっちにしろ、殺人鬼に会うしかない」
「……うん」

頷くのを見てから、歩き出す。その間も、ずっと何かを考えていた。これから先のこと。今までのこと。はぐれてしまった彼女らのこと。悪魔のこと。殺人鬼のこと。守らなければ行けない者の事。

絶望の果てに、君を待つ。その言葉が、誰かの声で耳に響いていた。