死体を見下ろす。何度も、何十度も、何百度も繰り返す。何も変わらない。何秒も、何十秒も、何百秒も凝視する。それでも何も変わらない。変わるはずがない。それがわかっていても、それはあまりにも異様な光景だった。
矛盾する。自分の考えていたはずの結末と、これでは何もかもが矛盾する。
「………………どういう、こと?」
優花と名乗った女の子の言葉。馬鹿馬鹿しい言葉だった。それは。考える必要がないほどに、その言葉自体が馬鹿馬鹿しい言葉だった。呟くだけならまだしも、考えることさえ馬鹿馬鹿しい。わかりきっている。この光景だけを見れば、それだけで答えが出てきてしまう……だからこそ、それは違和感でしかなかった。
死体。物言わぬ骸。もう一度だけ、無感動に見下ろす。何度見ても、変わらない。わかりきっている。死体が変わることなどありえないのだから。それでも、呟くのは馬鹿馬鹿しいことだった。
「あの人じゃ……ない?」
それが自分の呟きだったのか、それとも優花の呟きだったのか。それさえもわからない。ただ、ひどく動転しているのだけはよくわかった――優花が、ではない。自分がだ。どういう感情を浮かべればいいのかわからない。
あの人が生きていることに安堵するべきなのか。
それとも、死体がここにある意味を真に受けて戦慄するべきなのか。
わからないままに、立ち尽くす。死体を挟んで、ずっと。止まっているのは危険だと知っているのに、動くことができなかった。
女がポツリと、愕然とした声で呟いてくる……
「あの女……なの?」
その言葉はちょうど、先ほど自分か優花のどちらかが呟いた言葉と対称になっていた。
あの人じゃないのか。あの人なのか。
この死体はあの人じゃない――なら、殺したのは、あの人なのか。
否定できる材料はなかった。証拠がどこにもない。有罪も無罪も証明できない。
誰も、それ以上の言葉を続けることができなかった。死体は空ろになった瞳で床を見つめている。年上なのか、同級生なのか。それさえわからない死体。判別できるのは、存在しないネクタイの空白だけだった。
無音。呼吸する音だけが、冷たく無常な空間に響いている。
それを破ったのは、あの女の子だった。
「……窓」
「……え?」
女の呟き。突然のことに反応できなかったような声だった。それを無視して、優花は小さく声を荒らげた。
「もっと早く気づくべきだったんだよ……!」
何に。そう問いかける暇もなく、彼女は近くの壁を照らす。窓。彼女が呟いた言葉。それを捜していたのかもしれない――窓は彼女からそう遠くない場所にあった。そこへと彼女は駆けていく。窓の外は、相変わらず闇一色だった。
外はもう存在していないのではないか――そう思うほどに、闇以外の何もない。
「………………」
窓の前で、彼女は躊躇するように立ち止まった。だが、一瞬だけ。意を決して、彼女は窓の鍵を開ける。小さな金属のこすれる音。力を込めて、彼女は窓を開け放つ。
……だが、結局開くことはなかった。当然だった。それは悪魔の力によって閉められているのだから。それは彼女も知っていることのはずだった。
開かない。それに驚いて、彼女は何度も何度も窓を引っ張る。
「あの人じゃ……ない?」
さっきと同じ――だが、かすれた、信じられないとでも言いたげな声だった。瞳には驚愕がありありと浮かんでいる。彼女は何をしたかったのだろうか。あの人なら、彼女の考えがわかったのだろうか……
「……優花? いったい何を」
「犯人を当てたら、出られるんでしょ?」
問いかけの声を途中で遮って、彼女は答える。驚愕を浮かべてこそいれ、彼女は冷静なようだった。
ふと気づく。この異常事態の終わり方。犯人を当てるか、自殺すれば外に出られる……思う暇もなく、彼女の考えを遥香は呟いていた。
「犯人があの人だったなら、窓を開けて外に出られた?」
「……うん」
彼女が頷く。外れたことがショックだったのか、そこに元気はなかった。仕方ないことなのかもしれない。当たりだと思っていたものがハズレだったとしたら、きっと自分もショックを受けるだろう。
あの人は、殺人鬼じゃなかった。それに遥香はよかったと呟いて。ふと疑問を抱いた。
(……何がよかったと?)
安堵した理由。それがよくわからなかった。が、答えを探そうとは思わない。それよりも優先して、しなければならないことがあった。考えている余裕はない。
「昇降口からじゃないとダメなのかな……」
そんな声が聞こえた気もしたが、無視をした。
今、あの人はどこかで独りなのだ。蛍光灯を割ったということは、その身に危険が迫っていたということ。もしかしたら、殺人鬼に追われているのかもしれない。だとしたら、すぐにでも追いかけないとならない。幸いまだ遠くには行っていないはずだ。
「あの人を捜さないと……」
「待て。というか、待って」
だが、それを止める声が一つ。十夢と呼ばれた女だった。顔には困惑が浮かんでいる。だが、そんなのに構ってる余裕はなかった。声にわずかながら怒りを込めて、問う。
「何で止めるんですか? 早く捜さないと、もしかしたら……」
「それはわかってる……だけど、どうにも妙な気がするんだ」
「……妙?」
はやる気持ちを抑えて、訊ね返す。自分ひとりじゃ捜すこともできない以上、彼女らの助けは必須だった。無碍にすることもできずに、言葉を待つ。彼女は何か悩むように目を閉じて、それからゆっくりと呟いた。
「もしアイツが殺人鬼じゃなかったとして……なんで、悲鳴を上げた場所に死体があるの? それじゃあまるで、アイツを疑ってくださいって言ってるようなものじゃない」
「そう殺人鬼が仕組んだんでしょう。そうすれば、殺人だってしやすくなります」
「おかしいでしょ? 仮にそうだとしたら、殺人鬼が死体担いで移動してることになるんだよ? 逃げられたら死体を置いて、逃げた人を疑うよう仕向けるなんて面倒をすると思う?」
言われて、遥香は沈黙する。確かにその通りだった。
死体とはいえ人間一人担いで校内を探し回り、殺人を犯す。失敗したら死体を置いて、また死体を担いで人を殺しにいく。それは考えれば考えるほど不自然だった。それは第一に、誰かが逃げ出すことを前提としている……
「不自然すぎる。そんなことがありえると思う?」
「……だけど、現実に起こってる。認めるしかないでしょう? 窓だって、あの人が犯人じゃないと」
「待った、それ。それがさっきから気になってるんだ」
と、彼女はもったいぶるように深呼吸する。
「外に出れる条件は、殺人鬼が誰か当てること。だけどよく考えてみてよ。誰でもいいからあてずっぽうで『こいつ犯人!』って指定してけば、いつか外に出れちゃう。悪魔のゲームが、そんな簡単なものだとは私には思えない」
彼女は慎重に言葉を選んで、またゆっくりと先を続けてくる。そのゆっくり差に苛立ちが募っていくのを、人事のように遥香は感じていた。
「……証拠が必要なんじゃない? 目撃証言でも、物的証拠でも、何でも」
「……何が言いたいんですか」
苛立ちの混じる声で問う。彼女は遥香を真正面に見据えて、挑むように呟いてきた。
「私はまだ……あの女が犯人なんじゃないかと疑ってる」
「……それが一番自然だから、ですか?」
「……そう」
蛍光灯を割った意味も、悲鳴を上げた原因も、突然姿を消した理由も。
殺人鬼だからという理由以外では、その全てに説明がつかない。危険などなかったのに危険を装ったのだと。そのようにしか思えない。
あの時の条件で考えるなら。蛍光灯を割って悲鳴を上げれば、闇の中で身動きできない自分を簡単に騙すことができる。姿を消した理由も、凶事を犯すためという理由で簡単に説明できる。だから死体がある。凶器は隠し持っているのかもしれない。
それは確かに一番自然な流れだった。
(……でも)
それでも、何故か彼女の言葉には納得できなかった。理由はない。だが、それでも何かが違う気がする。何かが引っかかるのだ。前提から間違っているような、そんな違和感。それがさっきからずっと消えない。
こちらの不満が伝わったのか、彼女は肩をすくめて告げてきた。
「あくまで、私はそう考えてるだけ。もしかしたら、違うのかもしれない。もしかしたら、本当に昇降口からじゃないと出られないのかもしれない。この状況下で確かなものなんて何もないから……殺人鬼がいて、誰かが殺されてて、死体があることしか」
それから、小さくため息を吐く。空気は冷え切っていた。沈黙は重く、交わす言葉も思いつかない。あの人なら適当にどうでも良い事を呟くのだろうが、遥香にはまったく思いつかなかった。
「あ、あのさ……ちょっと、提案があるんだけど」
と。突然、優花が口を開く。今まで蚊帳の外だった分、手持ち無沙汰だったのかもしれない。どちらにしろ、彼女はどこか張り切っているような感じでその提案を呟いた。
「ちょっと状況を整理してみない? そうすれば、もしかしたら何かが見えてくるかもしれないし」
「………………」
彼女共々沈黙する。確かにその通りではあった。今まで別行動だった分、こちらが掴んでいない情報を彼女らは掴んでいるのかもしれない。彼女もそれを考えているのか、考え込むように腕を組んだ。
「……はぐれてから、かな」
彼女が呟く。
「殺人鬼が追ってきて、一階の教室に逃げ込んだ。殺人鬼が昇降口に向かったらしいことを確認して……その時に死体を一つ見つけた。で、死体から手がかりを捜そうとして五分くらい。手がかりは何もなかった。それで、殺人鬼を捜そうとして……」
途切れた彼女の言葉を継ぐように、優花が続ける。
「悲鳴と、ガラスの割れる音が聞こえてきたの。で、悲鳴の場所――二年一組に行ったら、また自殺者……それからヒントのメール。考えるためと隠れるために何もなかった二年二組に行って、数分位したら、悲鳴が二つ。それがさっき。で、走ってきて……今かな」
それで終わりらしく、無言でこちらの話を催促してくる。
行動は全て覚えていた。だから、暗証するのと同じ感覚で呟いてく。
「はぐれた時は一階にいました。でも、あなた達の姿が見えなかったから、とりあえず歩き回ることにしました。目的地は職員室で、あの人はマスターキーを欲しがってました。その前に武器として蛍光灯を取りに行って……このときに死体を見つけてます」
「……蛍光灯と、マスターキー? 何のために?」
「蛍光灯は悲鳴よりも早く危険を知らせるため、マスターキーは隠れられる場所を増やしておきたかったからだそうです。何故か、鍵は全てなくなってしまっていたみたいだけど……数分くらい職員室にいて、仕方がないから歩き出して、その時にヒントを。その意味を考えつつ歩いて……悲鳴を聞いて。ちょうどここに来た時、あの人と別れました」
「……あの人、どこを目指してたの?」
それは確か質問した記憶がある。返ってきた答えは、答えと呼べるほど明確なものではなかったはずだが。
「二階のどこかを目指していたみたいです。隠れられる場所を探してたと思うんだけど」
「……マスターキーがないのに?」
「ええ。鍵のかかってない場所に心当たりがあったみたいです」
その後時計について聞かれた気もするが、それはたぶん関係ないだろう。どちらにしろ、こちらの話はこれでお終いだ。それを悟ったのか、彼女は両手を組んで、優花は目を閉じて、それぞれの方法で考え込む。それに倣うわけでもないが、遥香も天井を見上げて考え込むことにした。といっても、それでわかることは少ないだろう。彼女達の言葉を反芻する。
(……?)
そしてふと気になることに思い至る。
「死体、何か奪われていましたか? この死体のネクタイみたいに」
「……あ、うん。一人目は校章がなくて、二人目はブレザーがなかった。それがどうしたの?」
「……こっちの死体は、ネクタイが奪われてたみたいです」
「ネクタイ? 何の意味が?」
今度は優花の疑問。それに首を振る。
「……わかりません。殺人鬼の嗜好だとするのなら、私にはわかりません」
何の違いがあるのだろうか。あるいは、意味が。考えてもわかりそうにはなかった。そもそも、殺人鬼の嗜好などわかるはずがない……
一人目はカフスボタンのない自殺者。
二人目は校章のない死体。
三人目はネクタイのない死体。
四人目はブレザーのない自殺者。
五人目は、ネクタイのない死体……一つだけ、ないものが被っている。それは微細な違和感だった。同じものを盗まれている。
(……何の意味が?)
実際意味などないのかもしれない。気分次第で身包みをはぐ、そんな殺人鬼だっているだろう。気まぐれで人の物を盗む悪魔だっているだろう。わからないものの解を出すことはできない。
だが、これでわかってしまったこともある。それを呟いたのは、自分ではなく優花だったが。
「……死人、増えちゃったね」
それが意味すること。考えたくはなかったが。それを彼女は呟いていた。
「残りは四人。殺人鬼と悪魔が、その中にいる……」
四人。姿のないあの人を含めた数。少しずつ少しずつ、殺人鬼が追い詰められていく。それとも自分たちが追い詰められていくのか。彼女らはきっと、あの人を疑っているのだろう。
(では、私は?)
誰を疑っているのか。あの人ではないだろう。何となくだが、そんな気がする。だが、状況から考えるなら彼女らでもない。ならば、誰を疑えばいいのか。わからないままに、遥香はもう一度視線を死体へ向けた。男の死体。どこにでもいそうな、無個性な顔……
男――男?
「……え?」
思わず声を漏らす。それはとても大きな違和感だった。はまり込んでいた歯車が、大きな音を立てて外れていく。外れたものが姿を変えて、どこかにはまり込んでいく。
狂い始めたロジック。それはまったく意味のわからないものだった。
死人は四人。そうヒントを送られてきた。そしてそれを信じていた。
だが、それでは数が合わない!
「どうかしたの?」
優花の声。期待よりも怪訝のほうが強い、怪しむような声だった。その声を脳裏に残し、彼女を無視して考える。
(違う)
これじゃない。この声じゃない。悲鳴を上げたのは、女。彼女ら以外の女。
――生きていたこの『五人目』は、女でなければならないのだ。
「……十人目?」
「え?」
その呟きが誰のものだったのか。それさえも失念するほどに、呆然とする。それはありえてはならない答えだった。脳裏に言葉が走る――悪魔は偽っている。
もしかしたら、それは『ヒントそのものが嘘』だという意味だったのかもしれない。増えた可能性。だが、それが一番考えられそうだった……
と。
「……え?」
不意に何かが光ったような気がして、遥香は目を細めた。彼女らの背後――階段のほうで、何かが光った気がする。相変わらずの闇だった。その中で、何かが動いたと錯覚したのだろうか。耳を澄ます。闇の中で光るものとは何か。
判断は一瞬だっただろう。それ以上の時間をかけて間に合うはずがなかった。気づけばそれは、もはや影ですらなくなっていたのだから。
何かが、音もなく闇から飛び出してきていた。淡い光の中、煌いたのは銀色の光。
気づけば、鬼がそこにいた。
叫びが空気を振動させるのと、それが始動し始めるのはほぼ同時だった。
「しゃがんで!」
「え……うわ!」
女の悲鳴。女がしゃがむのに遅れて、刃は空を切る。突然の殺人鬼の出現に優花が悲鳴を上げる。が、そんなことを気にしてる余裕なんかどこにもなかった。力任せの一撃だったのか、殺人鬼は大きくバランスを崩す。その間に、女は大きく殺人鬼から離れていた。
その手に握られていたのは、どこにでもある包丁だった。ブレザーに身を包んだ、女。ただ、そうとわかるのは服装と体格だけだった。
顔には、演劇部の持ち物だろう能面。顔を見ることはできなかった。
「十人目……!?」
自分たちを追ってきていたはずの。だけど、それはありえないことだった。確かに最初、殺人鬼は逃がさないと叫んだのだ――男の声で。逃がさないと叫んだのがこの女であるはずがない。アレは男の声だった。女であるはずがない。
殺人鬼が、女であるはずがない……
(何なんですか、これ……!?)
わけがわからない。だが、その理不尽さよりも目の前の理不尽のほうが今は問題だった。刃の冷たさが、空気を凍らせる。振り上げられた一撃。女が弾く。
それは短い時間だった。決して長くはない。その短い時間の中、遥香は確かにそれを聞いた。
カランと、女の手から棒が吹き飛んでいく音と。
「殺さなきゃ殺される、なら殺さなきゃ、殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ」
確かに、殺人鬼がそう呟いていたのを。
殺さなきゃ、殺される。理解できなかった。何が言いたいのか、どういう意味なのかも。それを掻き消すように、女が叫ぶ。
「……!」
「十夢! ダメ!」
「………………!」
何がダメなのか。武器を落としてしまった苛立ちからなのか、それとも保身を取ったのか。どちらかはわからない。どちらも一緒なのかもしれない。どちらにしろ、女は口惜しそうに叫んでいた。
「……逃げるよ!」
遥香にとっては逆走だった。また、別棟に戻ろうとしている。どこに向かえばいいのか。それさえわからずに、彼女らは駆け出していた。遥香もその後を追いかける。殺人鬼も、聞き取れない悲鳴を上げて追いかけてきていた。
どこに逃げればいい。このまま走り続けるのは無理だろう。いずれ、どちらかの体力が尽きる。それは最低の耐久レースだった。あちらの体力が尽きればこちらの勝ち。だが、こちらの体力が切れれば死。それは圧倒的なまでの理不尽だった。どこか、隠れられる場所を探さなければ。
別棟の二階。隠れられる場所。女が目指していた場所は?
――カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ。
不意に古めかしそうな時計の音を聞く。近い。それは幻聴などではなかった。どこかから、かすかにその音は漏れている。突き当たり。さっきも通った道からそれは聞こえてきていた。
思い出したのは、あまりにも暢気な声だった。
――のっぽじゃないけどうるさい古時計も?
その一瞬で、遥香はその意味を理解した。
アレは意味のある質問だったのだ。女が行こうとしていた目的地。本来ならそこへ行こうとしていたのだろう場所へのヒントだったのだ。前方を走る彼女らへと、遥香は叫ぶ。
「放送室! 鍵は開いてるはず!」
放送室。近い。すぐそこにある。防音設備がどうとかで、作りも厚いはずだった。だが、底から音が漏れている。先を行く二人が、ハッとしたように息を呑む。すぐ目の前に、放送室の扉が迫ってきていた。
もしここが開いていなかったら、自分たちは殺人鬼に追いつかれることになる。そしたら確実に誰かが死ぬだろう。足の遅い自分だろうか。それとも彼女ら二人のどちらかだろうか。彼女ではないだろう――それだけは、何となくわかっていた。
息を呑む暇なんてない。それでもその音が聞こえたのは、ただの錯覚だったのだろう。目を閉じていたのは、その一瞬を見たくなかったからだろう。
ガチャリと、鈍い音が響いた。
「早く!」
手短な叫び。それは或いは悲鳴だったのかもしれない。乱暴に分厚いドアが開けられる。瞬く間に彼女らは放送室へと入っていく。いつでもドアを閉められる体制で、彼女が何かを叫んでいた。耳では聞き取れない。それは命令だった。それに合わせて、遥香は迷わず部屋の中へと飛び込む。転ぶのとそう大差ないほどの感覚。全身を激痛が駆け抜けた。
「アアああぁアあぁアアアアアアアあぁぁァぁ!!」
悲鳴のようでもあり、断末魔のようでもあった。自分が上げた声ではない。それは殺人鬼が上げた声だった。十夢の息を振り絞る呼吸音。部屋に入った直後、バタンと大きな音がした。
そのまま十夢は即座に鍵を閉める。がちゃりと、鈍い音が響く。次いで聞こえてきたのは、何度も何度も扉を叩く鈍い音だった。声は聞こえない。ただずっと、何度も何度も殺人鬼は扉を叩く。くぐもった音だけが、ただ延々と続いていた。
誰も、何も言わなかった。その音が、いつの間にか聞こえなくなっていたとしても。誰も、口を開こうとはしなかった。
「………………」
呼吸が上がっていないのは距離が短かったせいだろう。あの人がいれば『火事場のバカ力』とでも言いそうではあったが。携帯の明かりしかない部屋で、ただのろのろと倒れこむ。
外からは何も聞こえてこなかった。防音設備の結果なのか、それとも殺人鬼が何もしてないのか。その判断はつきかねたが。何一つ聞こえてこなかった。今あるのは、古めかしい振り子時計の音だけだった。
どちらにしろ、これで確定したことが二つあった。考えたくもない、暗鬱すぎることが、二つ。それを、遥香は力なく呟いた。
「殺人鬼……顔、隠してたね」
あまりにも、馬鹿馬鹿しいことだった。能面で顔を隠して、人を殺す。あまりにもできすぎた光景だった。それ故に最低だった。
「は、はは……特定は不可能……戦えってこと?」
それを理解してか、十夢は笑う。苦笑というよりも、泣き笑いに近い笑い方だった。
それを見ながらも、遥香も苦笑する。もう、恐怖なんて浮かんでこない。むしろ笑い出してしまいそうだった。我慢の限界が来たのかもしれない。どちらにしろ、殺人鬼に対する感情は麻痺してしまっていた。
「……どちらにしろ、助かった代わりに閉じ込められました。ここに」
認めたくはないことだったが、暗鬱に呟く。外には絶対、殺人鬼が待ち構えているはずだ。ノコノコと出てきたこちらを殺すために。それはある種の我慢比べだった。殺人鬼が諦めるか、それともこちらが観念するか。
振り子時計の音だけが、不気味に辺りに響いている。百八十回。三分。それだけを何とか数える。そのはずなのに、分針は何故か五分先に進んでいた。時間感覚は希薄になっている。音を立てる時計があるのに、それは不思議なことだった。
「……あれ?」
と。突然優花が呟いた。入り口で固まったままの十夢と自分を置いて、彼女は背後で何か見ている――それが彼女なりの時間の潰し方のようだったが。優花はぼんやりと、床に投げ出された二つの箱を眺めていた。薄暗くても、それが何の箱なのかはわかる。
「……デジカメの、箱?」
写真用ではなく、ビデオ用の。確かにそれは放送室なら合ってもおかしくはないものではあったのだろう。だが、問題なのは中身が入っていないと言うことだった。
「……何の意味が?」
それがわかることなど、きっとないのだろう。何となく、意味もなくそう思った。
その直後だった。
また、悲鳴。防音扉を切り裂くような、それは鋭い女の悲鳴だった。
聞き覚えのある、悲鳴だった。
矛盾する。自分の考えていたはずの結末と、これでは何もかもが矛盾する。
「………………どういう、こと?」
優花と名乗った女の子の言葉。馬鹿馬鹿しい言葉だった。それは。考える必要がないほどに、その言葉自体が馬鹿馬鹿しい言葉だった。呟くだけならまだしも、考えることさえ馬鹿馬鹿しい。わかりきっている。この光景だけを見れば、それだけで答えが出てきてしまう……だからこそ、それは違和感でしかなかった。
死体。物言わぬ骸。もう一度だけ、無感動に見下ろす。何度見ても、変わらない。わかりきっている。死体が変わることなどありえないのだから。それでも、呟くのは馬鹿馬鹿しいことだった。
「あの人じゃ……ない?」
それが自分の呟きだったのか、それとも優花の呟きだったのか。それさえもわからない。ただ、ひどく動転しているのだけはよくわかった――優花が、ではない。自分がだ。どういう感情を浮かべればいいのかわからない。
あの人が生きていることに安堵するべきなのか。
それとも、死体がここにある意味を真に受けて戦慄するべきなのか。
わからないままに、立ち尽くす。死体を挟んで、ずっと。止まっているのは危険だと知っているのに、動くことができなかった。
女がポツリと、愕然とした声で呟いてくる……
「あの女……なの?」
その言葉はちょうど、先ほど自分か優花のどちらかが呟いた言葉と対称になっていた。
あの人じゃないのか。あの人なのか。
この死体はあの人じゃない――なら、殺したのは、あの人なのか。
否定できる材料はなかった。証拠がどこにもない。有罪も無罪も証明できない。
誰も、それ以上の言葉を続けることができなかった。死体は空ろになった瞳で床を見つめている。年上なのか、同級生なのか。それさえわからない死体。判別できるのは、存在しないネクタイの空白だけだった。
無音。呼吸する音だけが、冷たく無常な空間に響いている。
それを破ったのは、あの女の子だった。
「……窓」
「……え?」
女の呟き。突然のことに反応できなかったような声だった。それを無視して、優花は小さく声を荒らげた。
「もっと早く気づくべきだったんだよ……!」
何に。そう問いかける暇もなく、彼女は近くの壁を照らす。窓。彼女が呟いた言葉。それを捜していたのかもしれない――窓は彼女からそう遠くない場所にあった。そこへと彼女は駆けていく。窓の外は、相変わらず闇一色だった。
外はもう存在していないのではないか――そう思うほどに、闇以外の何もない。
「………………」
窓の前で、彼女は躊躇するように立ち止まった。だが、一瞬だけ。意を決して、彼女は窓の鍵を開ける。小さな金属のこすれる音。力を込めて、彼女は窓を開け放つ。
……だが、結局開くことはなかった。当然だった。それは悪魔の力によって閉められているのだから。それは彼女も知っていることのはずだった。
開かない。それに驚いて、彼女は何度も何度も窓を引っ張る。
「あの人じゃ……ない?」
さっきと同じ――だが、かすれた、信じられないとでも言いたげな声だった。瞳には驚愕がありありと浮かんでいる。彼女は何をしたかったのだろうか。あの人なら、彼女の考えがわかったのだろうか……
「……優花? いったい何を」
「犯人を当てたら、出られるんでしょ?」
問いかけの声を途中で遮って、彼女は答える。驚愕を浮かべてこそいれ、彼女は冷静なようだった。
ふと気づく。この異常事態の終わり方。犯人を当てるか、自殺すれば外に出られる……思う暇もなく、彼女の考えを遥香は呟いていた。
「犯人があの人だったなら、窓を開けて外に出られた?」
「……うん」
彼女が頷く。外れたことがショックだったのか、そこに元気はなかった。仕方ないことなのかもしれない。当たりだと思っていたものがハズレだったとしたら、きっと自分もショックを受けるだろう。
あの人は、殺人鬼じゃなかった。それに遥香はよかったと呟いて。ふと疑問を抱いた。
(……何がよかったと?)
安堵した理由。それがよくわからなかった。が、答えを探そうとは思わない。それよりも優先して、しなければならないことがあった。考えている余裕はない。
「昇降口からじゃないとダメなのかな……」
そんな声が聞こえた気もしたが、無視をした。
今、あの人はどこかで独りなのだ。蛍光灯を割ったということは、その身に危険が迫っていたということ。もしかしたら、殺人鬼に追われているのかもしれない。だとしたら、すぐにでも追いかけないとならない。幸いまだ遠くには行っていないはずだ。
「あの人を捜さないと……」
「待て。というか、待って」
だが、それを止める声が一つ。十夢と呼ばれた女だった。顔には困惑が浮かんでいる。だが、そんなのに構ってる余裕はなかった。声にわずかながら怒りを込めて、問う。
「何で止めるんですか? 早く捜さないと、もしかしたら……」
「それはわかってる……だけど、どうにも妙な気がするんだ」
「……妙?」
はやる気持ちを抑えて、訊ね返す。自分ひとりじゃ捜すこともできない以上、彼女らの助けは必須だった。無碍にすることもできずに、言葉を待つ。彼女は何か悩むように目を閉じて、それからゆっくりと呟いた。
「もしアイツが殺人鬼じゃなかったとして……なんで、悲鳴を上げた場所に死体があるの? それじゃあまるで、アイツを疑ってくださいって言ってるようなものじゃない」
「そう殺人鬼が仕組んだんでしょう。そうすれば、殺人だってしやすくなります」
「おかしいでしょ? 仮にそうだとしたら、殺人鬼が死体担いで移動してることになるんだよ? 逃げられたら死体を置いて、逃げた人を疑うよう仕向けるなんて面倒をすると思う?」
言われて、遥香は沈黙する。確かにその通りだった。
死体とはいえ人間一人担いで校内を探し回り、殺人を犯す。失敗したら死体を置いて、また死体を担いで人を殺しにいく。それは考えれば考えるほど不自然だった。それは第一に、誰かが逃げ出すことを前提としている……
「不自然すぎる。そんなことがありえると思う?」
「……だけど、現実に起こってる。認めるしかないでしょう? 窓だって、あの人が犯人じゃないと」
「待った、それ。それがさっきから気になってるんだ」
と、彼女はもったいぶるように深呼吸する。
「外に出れる条件は、殺人鬼が誰か当てること。だけどよく考えてみてよ。誰でもいいからあてずっぽうで『こいつ犯人!』って指定してけば、いつか外に出れちゃう。悪魔のゲームが、そんな簡単なものだとは私には思えない」
彼女は慎重に言葉を選んで、またゆっくりと先を続けてくる。そのゆっくり差に苛立ちが募っていくのを、人事のように遥香は感じていた。
「……証拠が必要なんじゃない? 目撃証言でも、物的証拠でも、何でも」
「……何が言いたいんですか」
苛立ちの混じる声で問う。彼女は遥香を真正面に見据えて、挑むように呟いてきた。
「私はまだ……あの女が犯人なんじゃないかと疑ってる」
「……それが一番自然だから、ですか?」
「……そう」
蛍光灯を割った意味も、悲鳴を上げた原因も、突然姿を消した理由も。
殺人鬼だからという理由以外では、その全てに説明がつかない。危険などなかったのに危険を装ったのだと。そのようにしか思えない。
あの時の条件で考えるなら。蛍光灯を割って悲鳴を上げれば、闇の中で身動きできない自分を簡単に騙すことができる。姿を消した理由も、凶事を犯すためという理由で簡単に説明できる。だから死体がある。凶器は隠し持っているのかもしれない。
それは確かに一番自然な流れだった。
(……でも)
それでも、何故か彼女の言葉には納得できなかった。理由はない。だが、それでも何かが違う気がする。何かが引っかかるのだ。前提から間違っているような、そんな違和感。それがさっきからずっと消えない。
こちらの不満が伝わったのか、彼女は肩をすくめて告げてきた。
「あくまで、私はそう考えてるだけ。もしかしたら、違うのかもしれない。もしかしたら、本当に昇降口からじゃないと出られないのかもしれない。この状況下で確かなものなんて何もないから……殺人鬼がいて、誰かが殺されてて、死体があることしか」
それから、小さくため息を吐く。空気は冷え切っていた。沈黙は重く、交わす言葉も思いつかない。あの人なら適当にどうでも良い事を呟くのだろうが、遥香にはまったく思いつかなかった。
「あ、あのさ……ちょっと、提案があるんだけど」
と。突然、優花が口を開く。今まで蚊帳の外だった分、手持ち無沙汰だったのかもしれない。どちらにしろ、彼女はどこか張り切っているような感じでその提案を呟いた。
「ちょっと状況を整理してみない? そうすれば、もしかしたら何かが見えてくるかもしれないし」
「………………」
彼女共々沈黙する。確かにその通りではあった。今まで別行動だった分、こちらが掴んでいない情報を彼女らは掴んでいるのかもしれない。彼女もそれを考えているのか、考え込むように腕を組んだ。
「……はぐれてから、かな」
彼女が呟く。
「殺人鬼が追ってきて、一階の教室に逃げ込んだ。殺人鬼が昇降口に向かったらしいことを確認して……その時に死体を一つ見つけた。で、死体から手がかりを捜そうとして五分くらい。手がかりは何もなかった。それで、殺人鬼を捜そうとして……」
途切れた彼女の言葉を継ぐように、優花が続ける。
「悲鳴と、ガラスの割れる音が聞こえてきたの。で、悲鳴の場所――二年一組に行ったら、また自殺者……それからヒントのメール。考えるためと隠れるために何もなかった二年二組に行って、数分位したら、悲鳴が二つ。それがさっき。で、走ってきて……今かな」
それで終わりらしく、無言でこちらの話を催促してくる。
行動は全て覚えていた。だから、暗証するのと同じ感覚で呟いてく。
「はぐれた時は一階にいました。でも、あなた達の姿が見えなかったから、とりあえず歩き回ることにしました。目的地は職員室で、あの人はマスターキーを欲しがってました。その前に武器として蛍光灯を取りに行って……このときに死体を見つけてます」
「……蛍光灯と、マスターキー? 何のために?」
「蛍光灯は悲鳴よりも早く危険を知らせるため、マスターキーは隠れられる場所を増やしておきたかったからだそうです。何故か、鍵は全てなくなってしまっていたみたいだけど……数分くらい職員室にいて、仕方がないから歩き出して、その時にヒントを。その意味を考えつつ歩いて……悲鳴を聞いて。ちょうどここに来た時、あの人と別れました」
「……あの人、どこを目指してたの?」
それは確か質問した記憶がある。返ってきた答えは、答えと呼べるほど明確なものではなかったはずだが。
「二階のどこかを目指していたみたいです。隠れられる場所を探してたと思うんだけど」
「……マスターキーがないのに?」
「ええ。鍵のかかってない場所に心当たりがあったみたいです」
その後時計について聞かれた気もするが、それはたぶん関係ないだろう。どちらにしろ、こちらの話はこれでお終いだ。それを悟ったのか、彼女は両手を組んで、優花は目を閉じて、それぞれの方法で考え込む。それに倣うわけでもないが、遥香も天井を見上げて考え込むことにした。といっても、それでわかることは少ないだろう。彼女達の言葉を反芻する。
(……?)
そしてふと気になることに思い至る。
「死体、何か奪われていましたか? この死体のネクタイみたいに」
「……あ、うん。一人目は校章がなくて、二人目はブレザーがなかった。それがどうしたの?」
「……こっちの死体は、ネクタイが奪われてたみたいです」
「ネクタイ? 何の意味が?」
今度は優花の疑問。それに首を振る。
「……わかりません。殺人鬼の嗜好だとするのなら、私にはわかりません」
何の違いがあるのだろうか。あるいは、意味が。考えてもわかりそうにはなかった。そもそも、殺人鬼の嗜好などわかるはずがない……
一人目はカフスボタンのない自殺者。
二人目は校章のない死体。
三人目はネクタイのない死体。
四人目はブレザーのない自殺者。
五人目は、ネクタイのない死体……一つだけ、ないものが被っている。それは微細な違和感だった。同じものを盗まれている。
(……何の意味が?)
実際意味などないのかもしれない。気分次第で身包みをはぐ、そんな殺人鬼だっているだろう。気まぐれで人の物を盗む悪魔だっているだろう。わからないものの解を出すことはできない。
だが、これでわかってしまったこともある。それを呟いたのは、自分ではなく優花だったが。
「……死人、増えちゃったね」
それが意味すること。考えたくはなかったが。それを彼女は呟いていた。
「残りは四人。殺人鬼と悪魔が、その中にいる……」
四人。姿のないあの人を含めた数。少しずつ少しずつ、殺人鬼が追い詰められていく。それとも自分たちが追い詰められていくのか。彼女らはきっと、あの人を疑っているのだろう。
(では、私は?)
誰を疑っているのか。あの人ではないだろう。何となくだが、そんな気がする。だが、状況から考えるなら彼女らでもない。ならば、誰を疑えばいいのか。わからないままに、遥香はもう一度視線を死体へ向けた。男の死体。どこにでもいそうな、無個性な顔……
男――男?
「……え?」
思わず声を漏らす。それはとても大きな違和感だった。はまり込んでいた歯車が、大きな音を立てて外れていく。外れたものが姿を変えて、どこかにはまり込んでいく。
狂い始めたロジック。それはまったく意味のわからないものだった。
死人は四人。そうヒントを送られてきた。そしてそれを信じていた。
だが、それでは数が合わない!
「どうかしたの?」
優花の声。期待よりも怪訝のほうが強い、怪しむような声だった。その声を脳裏に残し、彼女を無視して考える。
(違う)
これじゃない。この声じゃない。悲鳴を上げたのは、女。彼女ら以外の女。
――生きていたこの『五人目』は、女でなければならないのだ。
「……十人目?」
「え?」
その呟きが誰のものだったのか。それさえも失念するほどに、呆然とする。それはありえてはならない答えだった。脳裏に言葉が走る――悪魔は偽っている。
もしかしたら、それは『ヒントそのものが嘘』だという意味だったのかもしれない。増えた可能性。だが、それが一番考えられそうだった……
と。
「……え?」
不意に何かが光ったような気がして、遥香は目を細めた。彼女らの背後――階段のほうで、何かが光った気がする。相変わらずの闇だった。その中で、何かが動いたと錯覚したのだろうか。耳を澄ます。闇の中で光るものとは何か。
判断は一瞬だっただろう。それ以上の時間をかけて間に合うはずがなかった。気づけばそれは、もはや影ですらなくなっていたのだから。
何かが、音もなく闇から飛び出してきていた。淡い光の中、煌いたのは銀色の光。
気づけば、鬼がそこにいた。
叫びが空気を振動させるのと、それが始動し始めるのはほぼ同時だった。
「しゃがんで!」
「え……うわ!」
女の悲鳴。女がしゃがむのに遅れて、刃は空を切る。突然の殺人鬼の出現に優花が悲鳴を上げる。が、そんなことを気にしてる余裕なんかどこにもなかった。力任せの一撃だったのか、殺人鬼は大きくバランスを崩す。その間に、女は大きく殺人鬼から離れていた。
その手に握られていたのは、どこにでもある包丁だった。ブレザーに身を包んだ、女。ただ、そうとわかるのは服装と体格だけだった。
顔には、演劇部の持ち物だろう能面。顔を見ることはできなかった。
「十人目……!?」
自分たちを追ってきていたはずの。だけど、それはありえないことだった。確かに最初、殺人鬼は逃がさないと叫んだのだ――男の声で。逃がさないと叫んだのがこの女であるはずがない。アレは男の声だった。女であるはずがない。
殺人鬼が、女であるはずがない……
(何なんですか、これ……!?)
わけがわからない。だが、その理不尽さよりも目の前の理不尽のほうが今は問題だった。刃の冷たさが、空気を凍らせる。振り上げられた一撃。女が弾く。
それは短い時間だった。決して長くはない。その短い時間の中、遥香は確かにそれを聞いた。
カランと、女の手から棒が吹き飛んでいく音と。
「殺さなきゃ殺される、なら殺さなきゃ、殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ」
確かに、殺人鬼がそう呟いていたのを。
殺さなきゃ、殺される。理解できなかった。何が言いたいのか、どういう意味なのかも。それを掻き消すように、女が叫ぶ。
「……!」
「十夢! ダメ!」
「………………!」
何がダメなのか。武器を落としてしまった苛立ちからなのか、それとも保身を取ったのか。どちらかはわからない。どちらも一緒なのかもしれない。どちらにしろ、女は口惜しそうに叫んでいた。
「……逃げるよ!」
遥香にとっては逆走だった。また、別棟に戻ろうとしている。どこに向かえばいいのか。それさえわからずに、彼女らは駆け出していた。遥香もその後を追いかける。殺人鬼も、聞き取れない悲鳴を上げて追いかけてきていた。
どこに逃げればいい。このまま走り続けるのは無理だろう。いずれ、どちらかの体力が尽きる。それは最低の耐久レースだった。あちらの体力が尽きればこちらの勝ち。だが、こちらの体力が切れれば死。それは圧倒的なまでの理不尽だった。どこか、隠れられる場所を探さなければ。
別棟の二階。隠れられる場所。女が目指していた場所は?
――カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ。
不意に古めかしそうな時計の音を聞く。近い。それは幻聴などではなかった。どこかから、かすかにその音は漏れている。突き当たり。さっきも通った道からそれは聞こえてきていた。
思い出したのは、あまりにも暢気な声だった。
――のっぽじゃないけどうるさい古時計も?
その一瞬で、遥香はその意味を理解した。
アレは意味のある質問だったのだ。女が行こうとしていた目的地。本来ならそこへ行こうとしていたのだろう場所へのヒントだったのだ。前方を走る彼女らへと、遥香は叫ぶ。
「放送室! 鍵は開いてるはず!」
放送室。近い。すぐそこにある。防音設備がどうとかで、作りも厚いはずだった。だが、底から音が漏れている。先を行く二人が、ハッとしたように息を呑む。すぐ目の前に、放送室の扉が迫ってきていた。
もしここが開いていなかったら、自分たちは殺人鬼に追いつかれることになる。そしたら確実に誰かが死ぬだろう。足の遅い自分だろうか。それとも彼女ら二人のどちらかだろうか。彼女ではないだろう――それだけは、何となくわかっていた。
息を呑む暇なんてない。それでもその音が聞こえたのは、ただの錯覚だったのだろう。目を閉じていたのは、その一瞬を見たくなかったからだろう。
ガチャリと、鈍い音が響いた。
「早く!」
手短な叫び。それは或いは悲鳴だったのかもしれない。乱暴に分厚いドアが開けられる。瞬く間に彼女らは放送室へと入っていく。いつでもドアを閉められる体制で、彼女が何かを叫んでいた。耳では聞き取れない。それは命令だった。それに合わせて、遥香は迷わず部屋の中へと飛び込む。転ぶのとそう大差ないほどの感覚。全身を激痛が駆け抜けた。
「アアああぁアあぁアアアアアアアあぁぁァぁ!!」
悲鳴のようでもあり、断末魔のようでもあった。自分が上げた声ではない。それは殺人鬼が上げた声だった。十夢の息を振り絞る呼吸音。部屋に入った直後、バタンと大きな音がした。
そのまま十夢は即座に鍵を閉める。がちゃりと、鈍い音が響く。次いで聞こえてきたのは、何度も何度も扉を叩く鈍い音だった。声は聞こえない。ただずっと、何度も何度も殺人鬼は扉を叩く。くぐもった音だけが、ただ延々と続いていた。
誰も、何も言わなかった。その音が、いつの間にか聞こえなくなっていたとしても。誰も、口を開こうとはしなかった。
「………………」
呼吸が上がっていないのは距離が短かったせいだろう。あの人がいれば『火事場のバカ力』とでも言いそうではあったが。携帯の明かりしかない部屋で、ただのろのろと倒れこむ。
外からは何も聞こえてこなかった。防音設備の結果なのか、それとも殺人鬼が何もしてないのか。その判断はつきかねたが。何一つ聞こえてこなかった。今あるのは、古めかしい振り子時計の音だけだった。
どちらにしろ、これで確定したことが二つあった。考えたくもない、暗鬱すぎることが、二つ。それを、遥香は力なく呟いた。
「殺人鬼……顔、隠してたね」
あまりにも、馬鹿馬鹿しいことだった。能面で顔を隠して、人を殺す。あまりにもできすぎた光景だった。それ故に最低だった。
「は、はは……特定は不可能……戦えってこと?」
それを理解してか、十夢は笑う。苦笑というよりも、泣き笑いに近い笑い方だった。
それを見ながらも、遥香も苦笑する。もう、恐怖なんて浮かんでこない。むしろ笑い出してしまいそうだった。我慢の限界が来たのかもしれない。どちらにしろ、殺人鬼に対する感情は麻痺してしまっていた。
「……どちらにしろ、助かった代わりに閉じ込められました。ここに」
認めたくはないことだったが、暗鬱に呟く。外には絶対、殺人鬼が待ち構えているはずだ。ノコノコと出てきたこちらを殺すために。それはある種の我慢比べだった。殺人鬼が諦めるか、それともこちらが観念するか。
振り子時計の音だけが、不気味に辺りに響いている。百八十回。三分。それだけを何とか数える。そのはずなのに、分針は何故か五分先に進んでいた。時間感覚は希薄になっている。音を立てる時計があるのに、それは不思議なことだった。
「……あれ?」
と。突然優花が呟いた。入り口で固まったままの十夢と自分を置いて、彼女は背後で何か見ている――それが彼女なりの時間の潰し方のようだったが。優花はぼんやりと、床に投げ出された二つの箱を眺めていた。薄暗くても、それが何の箱なのかはわかる。
「……デジカメの、箱?」
写真用ではなく、ビデオ用の。確かにそれは放送室なら合ってもおかしくはないものではあったのだろう。だが、問題なのは中身が入っていないと言うことだった。
「……何の意味が?」
それがわかることなど、きっとないのだろう。何となく、意味もなくそう思った。
その直後だった。
また、悲鳴。防音扉を切り裂くような、それは鋭い女の悲鳴だった。
聞き覚えのある、悲鳴だった。