闇の廊下を駆け抜ける。薄闇の廊下。響くのはけたたましい自分の足音。反響して反響して反響して、幾重にも増えて錯覚を呼ぶ。走っているのは自分だけではないのではないか。そんな錯覚。

(……!)

それを振り切るようにして、優花は更に強く床を踏み抜いた。反発は体を前へと押し出す。減速することさえ許さず、加速することだけを自分に命じた。止まることなどもはや論外だった。振り向きたい――あの馬鹿な幼馴染のところに戻りたいという衝動さえ殺して、走り抜ける。

「勝てって……!」

勝てと言われた。

殺人鬼は自分が受け持つから。時間は稼ぐからと。しがみついた時に感じた馬鹿の体。震えていたのだ。自分だって怖いくせに。自分だけが恐怖を受け持とうと、いつもみたいに振舞って。

そんな馬鹿が言ったのだ。

「勝てって!」

叫びは小さく、意志は強く。もう一度、強く床を踏み抜く。反発に身を任せて前へ。少しでも早く前へ。階段を駆け降りる。転べばひとたまりもないだろう。その速度で駆け降りる。一秒遅れるたびに、あの馬鹿は死に近づいていく。その事実が自分を駆り立てる。

踊り場で小さくターンする。速度を殺さずに、また加速する。止まれない。止まる気もない。ただ前へ。ずっと前へ。

(約束だから)

あの馬鹿との約束。このわけのわからないゲームを終えて、現実世界に戻って。また、いつもみたいに笑って。いつもみたいに馬鹿と一緒に。

一緒にいたい。また、戻りたくなる。その衝動をまた殺して、闇を見据えた。止まらない。踊り場から駆け降りる。


――だからこそ、そこが終わりなのだと気づけなかった。


脛の辺りに熱を感じた。何かを蹴飛ばしたのだと理解した、その時にはもう遅かった。止まれない。止まらない。ゴールにあるゴールテープ。その一瞬でそう理解した。止まらない。加速した体はもう止まらない。バランスを崩して、何もかもが吹き飛んでいく。意識さえ、もうないのかもしれなかった。明かりが吹き飛んでいく。

止まらないとどうなるのか。体が宙に浮く。

もうそれだけで十分だった。そして全てが終わりを告げるのも。

転げ落ちていく。受身すら取れず、階段を。激痛は永遠に続くのではないか。何度も何度も階段の角にどこかがぶつかる。激痛は熱だった。熱は血の味がした。血は闇の色をしていた。視界が黒く染まっていく。

その時初めて優花は絶望というものを知った。知ったときには希望はなかった。

(……やだ)

消えていく。何もかもが消えていく。闇。明かりはもうない。どこかに吹き飛んだ。闇。意識も闇に落ちていく。転げ落ちた体が止まる。最後に強く頭を打ち付けた。闇。思考さえも黒一色。闇。

闇。その中で理解したのは、何かに躓いて階段を転げ落ちたことだけ。涙は流せなかった。悲鳴も上げられなかった。ただ外気の冷たさだけが熱を撫でていた。もう動けない。

悪魔だった。悪魔のせいだった。何もかもが悪魔のせいだった。もう勝つことができない。どこかを目指さなければならないのに。早く行かないといけないのに。勝てと言われた。

約束があった。あったのに。

(いやだ)

割れた。何かが。心だったのかもしれない。砕けた。悲鳴も上げられない。涙も流れなかった。ただ自分と悪魔が憎かった。終われない。ここでは終われない。わかっている。わかっているのだ。

(いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……)

なのに、体が動かない。意識でさえも停滞していく。気絶する。それは絶望だった。意識が消えていく。激痛にもう、耐えることができない。悲鳴を上げたかった。叫びだして彼女を呼びたかった。謝りたかった。

聞こえた声は、絶望の音をしていた。

「やりすぎたかな……まあ、いっか。そんなの関係ないし。まずは一人目。残るは三人」

それが最後だった。そして最後に理解した。

こいつがさっき躓いたものの正体だったのだと。

それが最後だった。






沈黙は長かったように思える。だが、それでも数分も経過していないのだろう。

何も言えず、闇に呑まれて消えた少女の背中を見送り続けた。足音さえも消えて。それでも何も言えなかった。何を言えばいいのか。何と言えばいいのか。ただそれだけのために時間を費やす。色んな言葉があるはずなのに、真っ白になった頭は何も思い浮かばせてはくれなかった。

沈黙を破ったのは、優花の声だった。

「……よかったのかな。止めなくて」

心配そうな声。それはただ彼女の身を案じただけの声だった。彼女は殺人鬼を追った。もうわかりきっている明らかな敵を、味方だと信じて。

それは愚かの一言でしか表せないほどの愚行だった。状況が既にあの女を示している。疑うべくもないのだ。違和感も何も関係ない。あの女なのだ。全てあの女で終わりなのだ。

それでも、彼女は妄信的なまでにあの女を信じていた……

「何を言えば、止められたって言うのーー」

吐き捨てるように、ただそれだけを呟く。自分でもわかっているのだ。止めるべきだったのだと。むざむざ『猫』に『餌』をやる必要などないのだと。それくらいわかっているのだ。誰にだって、どんなバカにだってそれくらいわかる。

それでも、彼女を止める言葉がなかったのだ。引き止めようとして、だけど結局言葉もなくて。ただ見送るだけしかできなかった。この感情は、恐らく後悔なのだろう。彼女を、ある意味で見殺しにすることへの。

「……理解、できないよ」

わかるわけがない。殺人鬼を追う気持ちなど。

わかることなど、もう彼女を追うこともできないという事だけだった。闇は濃い。階段を降って一年棟に向かったのか、それとも上って三年棟に向かったのか。或いは二年棟に行ったのか。それさえもうわからない。

「ねえ、十夢」

耳に届いたのは、何かを確かめるような声だった。

「……何?」
「もし、もしもだよ? もし……あたしが殺人鬼としか思えない状況に立たされてたとしたら……それで、どこかに隠れてたとしたら。十夢は、あたしを捜す?」

問いの意味が――真意が理解できずに、背後にいるだろう優花を見る。少しだけ離れた場所に彼女はいた。薄い携帯の光では、優花の表情は照らせない。闇の中に浮かぶ輪郭。声からも顔からも、真意を導き出すことはできそうになかった。

答えによっては、何かが狂ってしまうかもしれない。抱いたのは、そんなひどく漠然とした不安だった。何故そう問うのか。わからない。わからないものが多すぎる。それでも、答えるしかない。

「追うかもね。たぶん」
「どうして? 何をするために?」
「……知らないよ。そもそもそんな状況が来るとも思ってないし」

もしもの話なのだ。ただの仮定であって、そもそもそんなこと考えたこともない。考えたくもないことだった。優花が誰かを殺す。そんな状況、起こってなんか欲しくない。

ため息をついた。無意味な質問。無意味な回答。

「……どっちにしろ、追うよ。その先に殺されたんだとしたら……まあ、素直に諦める。とりあえず、無責任に信じてお終い。たぶんね」

それを終わらせるために。不安を振り払うように、十夢は苦笑して見せた。優花は何も言ってこない。何も変わらない。何も動かない――いや。

「……理解できてるじゃん」

優花もため息をついたらしい。或いは苦笑だったのか。

「あの子も、きっと同じ心境だったんだと思う。殺してないと信じてるんだよ、きっと」

それは、もしかしたら彼女を引き止められなかった言い訳だったのかもしれない。十夢にはよくわからなかった。ただ、沈黙したまま優花の言葉を待つ。

言葉は、まったく関係のない簡潔な誘いだった。

「……そろそろ行こっか」
「そうだね」

短く呟く。これ以上ここにいる必要性もない。

終わりにしなければならない。もう答えなどわかりきっているのだ。殺したのはあの女だ。後は昇降口から出ていくだけ。それで終わりだ。

最後に死体を一瞥する。死んだ男と女。悪魔に魂を奪われる。もしかしたら、そこに転がっていたのは自分だったのかもしれない。何かのミスで殺されて。そう思うと、彼らには哀れみを禁じえない。悪魔に奪われた魂の行方はどうなるのだろう。わかるはずはなかった。

どちらにしても、もう終わる。これは少し特殊な一夜の夢だった。それでいいのだ。いつかは笑い話になる。自分だけが見た夢だったとしても、思い出の一ページくらいにはなる。忘れることのできない、悪夢という思い出として。終わってしまえばその程度のものなのだ。だから、終わらせるために歩き出さなければならない。

歩き出そうとした時だった。


――カツン、と。


その音が、静かに強く響いたのは。

「……!」

叫びだしたくなる、その衝動を殺す。響く足音の意味。

それは明確に大きくなっていった。近づいてきている。走っているのか歩いているのか。その区別さえつかないほどに強い反響音。それはさっき別れた少女の足音ではなかった。少女の足音よりも重く、だが十夢のものよりも軽い。その音は、聞き覚えのある音だった。

そして、予想していた音だった。

もう答えはわかっている。このゲームは終わりなのだ――自分たちが、この学校から外に出た時点で。もう勝ちは見えている。あの少女にではなく、自分たちに。だったら、確実に潰しに来る。それは疑う余地もなく、確信ですらなく、ただ当然の流れだった。

殺しに来た。あの女が。負けないために。

足音は響き続ける。少しずつ、少しずつ。確実に、近づいてきていた。どちらからか。恐らく、放送室のほうから。背後からではない。音の反響は、目の前の闇から響いていた。

「……十夢」

背後に隠れるようにして、優花の声。にじみ出ていたのは、不安と恐怖を等分にした感情だった。殺される。殺すためにやってくる。負けないためにやってくる。自分たちを勝たせないために。

それだけは避けなければならなかった。負けることだけは許されない。負けた瞬間が終わりなのだから。言い換えるなら、勝ってしまえばそれで終わらせることができるのだ。勝たせるための一手。必要なのは時間。

「優花」

だから、しがみついてきた幼馴染を呼ぶ。勝利の一手。全て予想していたからこそ、笑いたくなるほど冷静な声が漏れた。その声で、告げる。

「ここから先は、一人で行って」
「……え?」

それは酷な命令だったのかもしれない。背後で、優花の体が震えたような気がした。気ではなかったのかもしれない。だが、今はそれを無視して冷たい声で囁いた。

「私は時間を稼ぐ。その間に昇降口から外に出て。そうすれば私たちの勝ち。だから、優花が勝って」
「え、あ……ちょ、ちょっと待ってよ? 何言ってるの?」

近づいてくる足音。武器はもうない――薄闇の中、モップの柄はもうどこかへ消えていた。徒手空拳での対峙。考えなければいけないのは、どうやって殺人鬼の時間を失わせるか。

だからこそ、その時間を得るために言葉を突きつける。

「負けるわけにはいかないの、優花。だから、確実な方法でいく。役割分担ってやつ……私が時間を稼ぐ。優花は、勝ちに行く。それだけ」
「十夢……何勝手なこと言ってるの! いいから一緒に――」
「行くわけにも、いかないでしょ? 逃げても殺されたんじゃ意味がないんだから。相手は悪魔なんだよ? なにができるかわかったもんじゃない」
「でも……!」

それでも食い下がってくる優花に、苦笑する。

「でもも何もないよ。これが一番確率高いんだからさ」

本心を述べるのなら、このまま一緒に逃げ出してしまいたかった。殺人鬼も悪魔もゲームも、何もかもを放り出して。今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。

死。死が怖い。自分の死も、優花の死も。

(……目の前だけを、見ろ)

感情は完全に無視をした。今だけは、それが不要だとはっきり言えたから。自分に命令する。自分は勝つための捨て駒。踏み台。そうあることだけを望む。少しずつ、覚悟で自分を固めていく。

その最中。ポツリと呟いた。

「帰ったらさ。今度新しくできるカフェに行こう」
「……カフェ?」
「そ。そこでコーヒー飲んだりケーキ食べたりしてさ。くだらないこと話して、馬鹿馬鹿しいことで頭抱えて、アホみたいなことで盛り上がって……いつもみたいに笑ってさ」

そうやって、いつもどおりに戻るのだ。このくそったれな非日常ではなく、どこにでも落ちている日常へと。殺人鬼とは無縁で。悪魔なんて存在しないのが常識で。そんないつもどおりへと。

戻るのだ。戻るためにも、勝つしかないのだ。

「だからさ。さっさと終わらせてきてよ。優花が行けば、帰れるんだから」

だからこそ、十夢は笑った。不安を紛らわせるために。未来に思いを馳せるように。沈黙は長く、静寂の中にあるのは殺人鬼の足音だけ。背中の優花は動かない。

不意に、その熱が消えた。

足音の中にあったのは、消えてしまいそうなほど弱々しい声だった。

「約束、だよ」
「うん……約束する」

それが別れの言葉だった。お互いにもう、振り向くこともない。走り出した優花の音が遠ざかっていく。それに比例するように、殺人鬼が近づいてくる。携帯の明かりは、闇の全てを照らしてくれない。近づかねば、姿も見えない……ただひたすらに待つ。

(……来てみなよ)

心に火をくべる。恐怖を闘争心に変えていく。目の前の闇を、ただずっと凝視した。何もこない。何も現れない。殺人鬼の姿は、依然として闇の中……五秒、十秒、二十秒。嬲るようにゆっくりと響く音。

カツン。

その音が、最後に聞こえた足音だった。静寂。静謐。息を殺して、殺人鬼を待つ。眼前の闇の中に、殺人鬼はいるはずだった。濃い闇の中、照らされたものは何もない。無音は、あまりにも長く続いた。

そして。

「いやあ、悪いねお嬢ちゃん、騙すようなことしてさ」

聞こえてきたのは、声だった。どこか間の抜けた、暢気な声。闇の中響いたその声。殺人鬼の声だった――あの女。姿はない。それでも近くにいるはずだった。闇の中、一歩踏み出す。一歩分、闇が消える。また歩く。何もない。三歩目、四歩目。

五歩目にして。

初めて、十夢は絶望を知った。

「君は最後だよ。一番君が扱いにくいからね。ま、そういうわけでまた今度会おう、メイタンテイ。全てが終わった後にでも」

デジタルビデオカメラ。人目につかないよう、廊下の端に。

闇にあったのは、ただそれだけだった。







誰も、何も喋ろうとはしなかった。

静まり返った空気。それに混じって、むせ返るほどの鉄の匂い。それは今まであってしかるべきだった、生の残り香。今まで何故か存在していなかった、それは赤い匂いだった。

血濡れた、死者が二人。能面を被っている女と、ネクタイのない男の死体。さっきは死体が一つだけ転がっていたはずの場所。男の死体の上に覆いかぶさるように、女が死んでいる。ただ呆然と、その二つを見つめていた。

さっきまで殺人鬼だった女が、今は死体として死んでいる。それが何を意味するのか、考えれば考えるほどに混乱する。殺人鬼が死んでいる。殺人鬼を殺した殺人鬼が、まだどこかに隠れている。

でも、誰が。誰が彼女を殺したのだ。

「……これで、決まったね」

無表情で、無感動に。彼女の声が、辺りに響く。何が決まったというのだろう。優花もそれがわかっているのか、何も言わない。だが、それを聞きたいとは思わなかった。聞いてしまえば、何故か後戻りができないような気がしたから。

「また……殺された。包丁が奪われてる……なら、死因は切られたことによる出血死」

十夢の声。死んだ女を見下ろす。能面にこびりついているのは、女の血。殺さなきゃと叫んでいた女が、今目の前で死んでいる。

思い出したのは、あの人が呟いていた言葉だった――疑心で、人は人を殺せる。

彼女も……能面の女も、きっとそうだったのだ。殺されなければ殺される。その言葉の意味も、今なら寸分違わず理解できる。


――殺人鬼がいるのなら、殺人鬼でさえも殺してしまえばいいのだと。


殺される前に、全て殺してしまえばいいのだと。

あまりにも、それは馬鹿馬鹿しい発想だった。自分が助かるために全てを犠牲にする、それは人として最低の行為だった。そして当然の行為だった。

無表情で――怒りや憎しみや敵意、そう言った感情を押し殺すための顔で、十夢は囁く。

「悪魔のゲーム……か。確かに、悪魔のゲームなんだろうね、これは。ずっと、ずっと何かがおかしかった。だけど、これで終わり。終わりなんだよ」

聞きたくないと、何度も繰り返す。それでも、それが結論なのだと。優花もきっと、認めている。違和感はあっても、それが一番自然だから。

「……アイツが、殺人鬼だ」

何故そう言いきれるのか。実際証拠なんてどこにもない。誰にも有罪の証明はできない。なのに、彼女はそう言いきる。優花は何も言わない。薄闇の中では、彼女がどんな表情を浮かべているのかもわからない。

だが、それでも遥香は否定した。肯定するわけにはいかなかった。

「だけど、それじゃ辻褄が合わない……死体が五つあって、生存者が五人いた理由も。最初に逃げ出したときに、逃がさないと叫んだのが誰だったのかも」

あの時、確かに誰かが歩いてきていた。そして確かに逃がさないと叫んだのだ。そんなことができるのは、当然背後にいただろう殺人鬼しかいない。だが、あの人はすぐ近くにいたのだ。叫んでもいない。ただ走っていただけだった……違和感だけが重なっていく。

響いたのは、威圧するように低い声だった。

「だったら、これはどう見るわけ」

闇の中、殺意を感じるほどに目をぎらつかせて。瞳の中にある苛立ちは憎悪にも近い色をしていて――それは明確な敵意でもあった。一瞬前までの隠蔽のための無表情も、もう跡形もない。

その瞳を死体に向けたまま、彼女は呟く。

「生存者は五名だった。だったんだ……その一人が、殺された。誰に? 私たちは全員放送室にいたんだ。なら、殺せる奴なんて一人しかいない」

最後には、押し殺された叫びへと変わっている。それは彼女にとっての悲鳴だったのかもしれない。押し潰されそうな心の抑圧の代理だったのかもしれない。だが、もう疑うべくもない。

「悪魔が嘘つきだから、違和感が出た。全ての違和感は嘘だったから。それで終わり」

彼女はもう、あの人が殺人鬼なのだと信じ込んでいる。

そして自分は信じていない。

状況的に考えるなら、おかしいのは自分なのだろう。あの人の言葉が、そのまま答えになる。


――殺人鬼以外の全員がいれば、アリバイは成立する。


奇しくも、今のように。それは既に絶対のものだった。覆すことに意味などなく、覆す方法もありはしない。疑う余地などないのだ。あの人が、彼女を殺したことなど。

(……それでも)

違和感は消えない。色んな違和感。殺人鬼への違和感や悪魔への違和感、あの人への違和感や――自分への違和感。何一つ信じることができない。何一つ確かなことはない。嘘だったのだと片付けることができない。

自分でさえも、自分の感情に折り合いをつけることができない……

それでも、自分は未だにあの人を信じている。馬鹿馬鹿しいと、愚かだと理解しながら。それでも、疑うことができなかった。

闇の中、手を差し伸べてくれた。それだけ。それだけの理由で、自分はあの人を信じている。遥香にとってはそれだけで十分だった。

誰かが何かを言う前に、遥香は呟いた。

「ここで、別れよう?」
「……え?」

返ってきたのは、十夢ではなく優花の声だったが。二人とも同時に同じ困惑を浮かべるのを見ながら、遥香は微笑んだ。想像通りの反応だったからだ。

「あなたたちは出口へ……昇降口へ向かってください……私は、あの人を捜します」
「……自分が何を言ってるのかわかってるの? アイツは――」

ようやく理解が追いついたのか。予想通りの彼女の叫びだった。

「ハンカチ、まだ返してもらってないから」

それも、途中で遮る。何を言っているのかと。正気を疑うような困惑と絶句。実際自分が正気なのかどうかも怪しい。だが、別にどうでも良い事だった。だから、彼女らからも視線を離す。

見据える先にあるのは闇。あの人が隠れているかもしれない黒。どうせあの人のことだ。この闇の中でも平然と歩いているのだろう。見えているのか見えていないのか。どちらにしろ、立ち往生などしないはずだ。完全な闇の中でも、あの人はどこかを見ていたから。

闇。数十分前は、泣きそうなほどに怖かったもの。自分を飲み込んでしまうもの。その印象は今でも変わらない。自分を殺してしまうもの。きっとそれも、間違いではない。

それでも。あの人を捜すのにためらいはない。

「……さようなら」

遥香は歩き出す。彼女らは立ち尽くしたままだった。

反響する足音。無限に響く音。怯えている暇なんてなかった。ずっと、ずっと耳を澄ます。

闇の中に、あの人を捜すために。







人間も時計も携帯も変わらないのではないか。闇の中でふと思う。チクタクチクタク音を発しているわけでもなければ、電波を受信するわけでも、二本足でテクテク歩くわけでもない。共通点を探すのは酷な話なのだろうが。それでも彼女は考えていた。

人も時計も携帯も、実際大して変わらないのではないか。

まず動作する。次に目的がある。三番目辺りに同じことしかしない。四番目に自分からはあんまりその場から離れようとしない。五つ目辺りに……何があるだろうか。何番目まであるのかは考えてみないとわからないが、とりあえず彼女にとっての最後は決まっていた。歌うように呟く。

「どっちも、最後には壊れる」

寿命かどうかはさておき。まあ、そんなものだった。

魂の有無に関わらず、動かなくなった物は廃棄処分だ。方法としてだが、たぶん焼却処分。人間だって最終的には火葬だ。その後はつぼに押し込められて終身。やっぱり変わりない。跡形が残るかどうかの違いしかないではないか。そこで彼女はため息をついた。

違いがないのなら、やっぱり物だって何かを呪ったりするのだろう。夢に出てきたりとか、耳からあのチクタク音を離れなくさせたりとか、電波を受信しなくなったりとか。

とりあえず、彼女はそこで天井を見上げるのをやめた。空気は冷え切っている――まるで、凍り付いているように。実際凍りついても問題のない気温ではありそうだったが。

これまたとりあえず、手持ち無沙汰のまま彼女はポツリと呟いた。

「……まあ、仕方のないことだよね」

廊下に声が響く。だが当然、誰も聞いてはいなかった。当然のことではある――放送室は自分が最初にいた場所だ。隠れる場所にはもってこいである。とはいえ、土壇場でそれに気づく辺り運がいいというか何というか。いや、悪いのだろう。そこに隠れたら最後、意を決するまでは出られない。やっぱり時計と同じなのだ。四番目。特定の場所から、あんまり動こうとはしない……殺人鬼というつっかえ棒のせいだが。

だが、それもお終いだ。どんなに長く見繕っても、後五分したら出てくるだろう。いくらなんでも悲鳴が大きすぎた。音漏れのする放送室にも聞こえていたはずだ。

誰も聞いてくれる人はいない。それを理解しながらも、彼女は独り言のように――つまりは独り言などではなく――囁いた。足元を見下ろして。

「独りでいたんだしさ……何が起こっても、何も言えないよ?」

人が転がっていた。これ以上ないほどに明確な、殺人現場っぽい光景。気持ちよさそうに白目を剥いて、体を床に投げ出している。別に驚く必要もない。それは見慣れたものだったのだから。カフスボタンのない死体だってネクタイのない死体だって校章のない死体だってブレザーを盗まれたのかワイシャツ姿の死体だって見てきた。驚く必要などない。

やっぱり時計と同じだった。誰もが同じことしかしていない――死んでいる。

問題は、それが二つあったことだった。能面を被っている女と、ネクタイのない男。

より正確に言うのであれば、死に掛けてる女が一人に、死んでいる男が一人。

「全員殺せば、殺されることはない……まあ、確かに間違っちゃいない。とっても単純だ。自分以外の誰かが犯人なんだから、ね。全員殺せばいい。本当はそれを止めるために捜してたんだけど……ま、発想自体は悪くないんだ。別に、わたしは責めないよ」

聞いているだろうか。それともやっぱり意識が吹っ飛んでいるのだろうか。彼女を見下ろして、晴香は小さく首を捻った。怒涛の急展開なのか、それともこれが始まりなのか……今にして思えば、時間にして一時間も経っていない。

ホラー映画なら、ここからが起承転結でいう転になるはずだったのだが。

「……本当は始まりなんだよね、これ」

で、すぐ終わる。あまりにも馬鹿馬鹿しい。名探偵もヒーローも超人も皆無。悪魔と殺人鬼と一般人だけがここにいる。ただ、悪意だけの物語。

それ故に、悪魔のゲーム。

「……さて、どうしようか?」

死体と死に掛けから目を離して、独り自分に問いかける。

答えなどわかりきったことだった。考えなくてもいい。考えなくても終わりの形は見えている。ゲームの流れは見えている。あとはどう終わらせるかだった。

これまた物と同じなのだ。目的があるから、動く。壊れるのは最後でいい。百年も待たなければいけないのか、それともぽっくり逝くのか。それは置いといて。

「そろそろ、終わりにしたいからね」

全てを終わりにしなければならない。もう夜は明けるのだ。ならば、この闇も開けてしかるべきなのだ。だから、終わらせる。方法は二つある。どっちもでいい。どちらにしても、今度こそ完璧に全てをこなさなければならない。どちらもミスは許されない。

殺すか生かすか。生殺与奪は自分が握っている。これは悪魔のゲーム。これは殺人鬼が誰かを当てるゲーム……悪魔は、ずっと欺いている。

これはその言葉の通りのゲームだった。

「とにもかくにも終わりはあの子ら次第かな。いつ放送室から出てくるか。話はそれからだ」

近くに放り出されていた包丁を拾って、そう呟く。必要なのは、舞台を混乱させずに、最後に全てをひっくり返すことだ。予想外のアクシデント。だが、それのおかげで早く終わりにすることができる。当分の間、彼女も目覚めることはないだろう。

問題はない――意識的にそう思うことにして、彼女は自分の右の手のひらを見た。違和感と不快感とこそばゆさを感じさせる、拘束感。白色のハンカチ。それと包丁を交互に見て。

「……やっぱり、返せないよねえ。使い終わったらとんでもないことになってるだろうし」

面白くもない想像――だが、彼女は小さく唇を歪めた。誰も聞いてはいないだろう。この闇の中、意識があるのは自分だけなのだから。それでも、呟く……

「独り言じゃないよ? 君はヒントを与えすぎたんだ」

悪魔を笑う。誰も答えない。それは当然のことだった。

声は闇に消えるだけ。それでも彼女は、微笑も声も隠さなかった。

キラリと一度、包丁が鈍い光を放つ。氷よりも冷たいそれを、一度だけ強く振りぬいて。彼女はこの上なく愉快そうに微笑んだ。そろそろ彼女らが出てくる。隠れなければ。

「……それじゃ、頑張ってみますか? いろんな意味で」

闇に溶ける、その直前。彼女は『死体』を見下ろして、この上なく愉快だと微笑んで。

囁くように、嘲った。

――チェックメイト。