カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ……

「……んが」

とりあえず、うるさい。古時計に起こされるようにして、晴香は目を開いた。明るい放送室。機材と撮影機材と電話と古時計の置いてある小さな部屋。電話の置かれた机に突っ伏している自分。どうやら、眠りこけていたらしい。今は何時だろうかと携帯を開く。

十二時五十九分。嫌な数字の羅列だった。

「先輩、なにやってんすかー?」

聞き覚えのある声が鼓膜を振るわせる。声のほうを向くと、同じ放送委員の一年がつまらなそうに機材の前でパイプイスに座っていた。少しずつ思考が夢から離れていく――電話番が晴香の役目で、アナウンスは後輩の役目だ。だから、彼女は眠れない。

つまらなそうではなく、羨ましそうだったかもしれない。

「んー……ちょっとね。夢を見てたみたい」

家のベッドで見た夢だと思っていたが、どうやら学校で見た夢だったらしい。記憶の齟齬が発生してるが、まあ、気にする必要もないだろう。ただの夢だったのだ。なかなかに生々しい夢だったが、今となっては思い出だ。

「夢見てた? ってことは寝てたんすか先輩?」
「いえすざっつらいと」

英語で答えてみる。と、後輩は迷わずブーイングを飛ばしてきた。

「死ね。人が働いてる最中に寝やがって。死ね」

ため息をつく。なんとも口の悪い後輩だ。あの後輩とは段違いすぎて泣けてくる。

「たまには変わってくださいよ、こっちと」
「えー? いいじゃん別に。電話番って先生の小言受ける仕事でもあるんだよ?」

実際グチグチ言われるのだ、電話番。お前授業に集中してねーだろとか、人の話を聞けとか何とか。だからあんまり電話番は好きではなかった。

「そりゃ先輩だけですって。俺は品行方正に生きてますから、小言なんか受けません」

後輩は胸を張ってそう宣言する。まあ、実際品行方正なんて他人の判断することだ。自分で言うのもおこがましい。これもある種の小言なので、平然と聞き流す。

午後の授業の始まりは一時半からだ。三十分の暇がある。なら、寝るのが最適だろう。そういうことで、晴香はもう一度寝ることにした。

と、それを妨害するように後輩の声。

「あー、そういや品行方正で思い出しました。先輩先輩。ちょっと愚痴聞いてくださいよ」
「……なしてー?」
「愚痴に意味なんてあるわけないじゃいっすか。単にちょっとこう……こう、イラっと来たとでもいうか。まあ、いいじゃないっすか。別に減るもんあるわけじゃないんですし」
「私の睡眠時間が減るよ」

言った瞬間、後輩は耳を塞ぐ。どうやら、何があっても聞けということのようだった。仕方ないからため息をつく。それを肯定と見て、後輩はべらべらと喋り始めた。

「うちのクラスに田野優花って奴がいるんですけどね? そいつが今日、他のクラスの女子と仲良く早退しやがったんですよ。何でも、今日オープンするカフェに行くんだとか何とか! 学校サボってっすよ?」
「……いいんじゃないの?」

若い頃なんてそんなものだろう。若気の至りという奴だ。そういうのが悪夢も含めて思い出となるのである……ふと思う。物は魂が宿った瞬間から歳を数え始めるべきなのだろうか。それともやはり作られたときからか。

と、判断が出るよりも早く、後輩の罵声。

「何言ってんすか? 学校サボってるんですよ? うらやま……じゃない、けしからんわけですよ! ああああああああっぁぁぁ」

後半はもはやなにやら手をじたばた振っているが、何かのジェスチャーだろうか。まあ、無視してもいいだろう。

それにしても、田野優花。聞いたことのある名前だった。あまり聞いたことがないのか、この上なくうろ覚えだが。何となく、知り合いのような気はする。まあ、だからなんだと言うだけの話だ。どうせ夢の話なのだし。

と――携帯がメールを受信する。後輩の戯言はなおも続いていたようだったが、どうでもいいので無視をして、晴香はメールを確認した。

「……へえ?」
「……ん? 先輩、どうかしたんすか?」
「いや、別に。夢って現実に干渉して来るんだなって感嘆しただけだよ」
「へ?」
「ま、どうでもいいことだよ」

適当に呟いて、手をぶらぶら振って何でもないと合図する。後輩は怪訝を浮かべたままだったが、そのまま機材へと視線を戻していった。それを確認してから、もう一度メールを見る。

送信者の名前は『悪魔』だった。くだらない悪戯メール。題名には、『勝者に敬意を表して』と書かれていた。

――望みを一つ。勝者のために叶えよう。

それが本文。チェーンメールなみに陳腐な本文だった。まあ、リスクを背負ったからには何かしらのリターンがなければやってられないが。返信すれば願いを叶えてくれるのだろうか。そこら辺の詳しいことは書かれていなかった。

ふと困る。願い事なんて何もないのだ。この日常を楽しんでいる自分からすれば。まあ、だから悪魔には悪いがしばらく放置することにした。願いに有効期限はない。ふらっと思いついたときに使えばいいだろう。

結局、夢だったのか現実だったのか。それとも手の込んだ誰かの悪戯だったのか。答えを出す必要はあるのかないのか。まあ、どうでもいいことだ。時間戦争や電波戦争、果ては人と物との究極の戦い、無機物戦争なみにどうでもいい……と。

「あ、そうじゃん」

それがあった。それならちょうどいいかもしれない。

「どうかしたんすか?」
「いやね、時間戦争とか電波戦争とか無機物戦争って、聞いただけでもとんでもなさそうじゃない?」
「……まーた始まった。ま、大変なんじゃないんすか? 無機物全部敵って、人間は何使って戦えって話ですよ」
「だよねー。んじゃ、起こらないように願っときますか」

さっさと携帯いじって、悪魔にメール送信。これで地球は平和になったのだ……

と。ボケッとしている間に後輩の声。机の上の校内電話を指差して、一言。

「先輩。電話鳴ってますけど」

規則正しいコール音。振り子時計の音を静寂を強調する音というのなら、これはまさに静寂をぶち壊す音だった。呻く。

「……オーケー。交代しない?」
「死んでもお断りします」

あっかんべーされた。仕方がないから泣く泣く受話器を取る。聞こえてきたのは、男っぽい口調の女性の声だった。

「おーい、石田いるかー?」
「いません」
「オーケー、いるな。ならいい」

国語科の先生の声だった。この先生の話は時々嫌というほど長くなる。かといえば、稀にものすごい単刀直入だったりする。だからあんまり好きじゃなかった。

今回は単刀直入のほうだったらしい。先生は、開口一番とんでもないことを言い放つ。

「なあお前、最近誰か泣かせたりした?」

わけがわからずにポカンとする。聞こえていたのか、後輩もポカンとしていた。呻く。

「……あのですね、先生。まったく心当たりがないんですけど」
「だよなー。石田だもんなー。なあ、本当にこいつか? 石田晴香だぞ?」

嫌な同意のされ方だった。後半は誰かとの会話だったようだが――とりあえず、それに聞き耳を立ててみる。といっても、途中から受話器を遠ざけたのか、声はほとんど聞こえてこなかった。仕方がないから数秒待つ。

「やっぱりお前だって。いつの間にアタシの生徒に手だしたのよアンタ」

容疑が確定したらしい。が、やっぱり心当たりはまったくなかった。

「いやいやいやいや、ちよっと待ってください」
「何よ、ちよっとって」

特に意味のない言葉である。というか造語だ。だから適当にでっち上げる。

「いや、思いっきり待てって意味にしといてください。まず心当たりがですね」

が、こちらの言い分などまるで聞く気もなく。先生はきっぱりと何かを宣言するように一言呟いてきた。

「ハンカチ」
「はい?」
「だから、ハンカチ。その子曰く、アンタに貸したんだってさ」
「………………」
「何か、それなのにひどい扱いされたって怒ってるんだけど。ハンカチのことなのか自分のことなのかは知らないけど」

一瞬ドキリとする。白いハンカチ。赤いハンカチ。そういえばそんなものがあったような気がしないでもない。慌てて自分の身の回りを確認する。

あった。机の上。白色のハンカチ。見覚えのあるものだった。中には一枚、小さなメモ。

メモ曰く、『くやしいから、最後っ屁。悪魔より』。
「……いや。いやいやいやいやいや」

意味がわからない。どういう意味だ。何でハンカチを彼女から奪ってここに置いていくことが最後っ屁になるのだ。わけがわからない。

が、とりあえず確かめねばならないだろう。本当に彼女が彼女なのか。

「先生。とりあえずこう言ってみてください」
「あん?」
「化石」

呟いてから、しまったと思う。嫌な予感は、繰り返した先生の声で膨れ上がった。

「化石? ……あ、おい!」

と、受話器から悲鳴じみた声。嫌な予感が十倍に増した。
「……先生? 何かありましたか?」
「いや、何かも何も。その生徒の名前、島崎遥香っつーんだけどな? 島崎遥香」

爆弾発言だった。完璧に確定。

そして、死刑宣告だった。

「そっち行ったぞ?」
「……マジですか?」
「マジで。すんげー怒ってた。死んでも事情説明させるとか何とか。ま、後で話し聞かせてもらうから、よろしく」

あっけらかんとそれだけ呟いて。ガチャリと音が鳴る。電話切ったんだろうなと理解できたのは、たぶん十秒位してからだった。即座に思考する。怒ってる。死んでも事情説明。それが面倒だからクロロホルム使ったのに。死んでも。ふと引っかかりを覚えた。

(殺す気ってこと?)

「先輩ー? 結局何だったんすか?」

結論。後輩の問いを受け流して、晴香は暗鬱にため息をついた。急いで自分の荷物を纏めて、放送室の扉を開ける。

「ごめん。私も早退する。後は任せた」

とりあえず礼儀程度にそう答えると、返ってきたのは後輩の恨み節だった。

「……先輩もデートっすか? 恨みますよ? 憎みますよ? 呪いますよぉぉぉ……」
「むしろもう恨まれてる気がしないでもないけど……ま、そういうわけで」

闇のない廊下を、ハンカチ片手に走り出す。手のひらの傷も、手首の痕もない。一夜の夢。終わった悪夢の、その続き。悪魔のことはもうどうでもいいが。

いや、よくないけども。

「夢のままで終わらしてくれたら、楽だったのにねえ……」

安穏と呟いて。

晴香は悲鳴を上げたい気分で、ネズミよろしく逃げ出した。







おわり
「……は?」
「いや、は? じゃなくてさ。気絶してただけなんだって、アレ」

この期に及んで言い逃れをしようとしているのか。それとも本気でそう言っているのか。ふざけているのかもしれない。座ったままの女はどこか苦しそうな顔で、それでも苦笑していた。

「ふざけるのもいい加減にしてよ。いい、五人目は血を噴出して死んでたんだよ。出血多量で。生きてるはずがないんだよ」

アレは確かに死んでいた。血の海に沈んで、まったくピクリとも動かなかったのだ。アレが死んでいなくて、何だというのだ。

「んじゃ、逆に聞くけどさ……」

が、女は苦笑を消さない。問いかけは、闇の中を反響せず、静かに耳に届いて消えた。

「君、人間がどれだけ出血すれば死ぬか、わかる?」
「……そんな、わかるわけ」

知るはずがない。ただ、大量の血液を失えばとしかわからない。具体的な量を聞かれても、そんなのわかる人は――少なくとも高校生には――いないはずだ。

答えに満足したのか、女は頷く。

「だよね。でも、君は死んだと思い込んだ。殺人事件といえば死体で、死体といえば血だ……ま、悪魔・死体バージョンは、逆に出血がどこにもなかったんだけどさ」

言われて思い出す。校章を奪われて死んでいた、あの死体。証拠を探すばかりに気を取られて、気づかなかった。確かに、出血がなかったのだ。首を切られて死んだのなら、それはあってしかるべきもののはずだった。呆然とする。今まで何故それに気づかなかったのか。

こちらの反応をどう取ったのかはわからない。だが、女はさっきからずっと苦笑したままだった。

「ま、今度はそれと逆をやってみたわけ。わたしが殺人鬼を演じるのに必要だったからね」
「……何を、したって?」

問いかける。それは聞かねばならないことのはずだった。女が殺人鬼でないというのなら。そう錯覚させるほどの大事をしているはずなのだ。女は何も答えない。ただ、ゆっくりと自分の右手首に手を伸ばす。闇の中、それを凝視した。赤いハンカチ。何かに濡れているように見える、赤いハンカチ……

傷。

「……!」

その一瞬で理解した。右の手首。抉られたように一閃。大きな大きな傷の跡。どろりと、固まりかけた血が漏れていた。赤いハンカチ。白と赤で、斑模様を形成している。

そのハンカチを手首に巻き戻しながら、女は辛そうに息を吐いた。

「ま、これでわかってもらえたと思うけどさ。五人目が沈んでいた血の海は、あくまでわたしの血だよ。わたしが殺人鬼っぽく見せるために、必要だったんだ……信じられない?」

答えられない。そんなことをする必要があったのか。何故そんなことをしたのか。それをするためにどれくらいの覚悟が必要なのか。わからない。ただ、うろたえた瞳で女を見た。女はこちらの反応をどう取ったのだろうか。女は自分の足元を左手で指差して、つまらなそうに呟いてくる。

「信じられないのなら、ここに置いてあるビデオカメラを見ればいい。私の行動が全て撮影されているから……実を言えばこれ、暗闇でも撮影可能な代物でさ。リモコン操作も可能で、実はすんごい便利だったりする。闇の中、携帯がなくても歩けるくらいには、ね」

そんなことなどどうでもいい。ビデオカメラで撮影。それが意味することに、十夢は気づいてしまった。気づいてしまったからこそ、理解できなかった。

この女は。

――この女は、初めから自分が疑われてもいいように保険をかけていたのだ。

それはつまり、最初から自分が殺人鬼を演じるつもりだったということ。殺人鬼を演じて、最後の最後にネタ晴らしをするつもりだったということ。理解できない。理解できなかった。

「なんで……?」

問いかける。声は予想以上に強く辺りに響いた。それに女は目を丸くする。苦笑はそのままに、女は肩をすくめたようだった。

「何故って、そうしなきゃ疑われた時に罪を晴らせないでしょう。一人で行動したほうが気楽だったしね。ま、我ながら妙案だったと――」
「違う! そんなことが聞きたいんじゃない!」

見当違いもいいところだ。自分が何をしでかしたのかわかっていないのか。女は今度はポカンとする。それに苛立ちを感じて、十夢は声を荒らげた。

「そんなことしなくても、全てがわかったならその瞬間に私たちに言いに来ればよかったじゃない! わざわざ殺人鬼装って他人を嘲って、不安を煽って! 何のために、そんなことをしたのよ!」

意味がない。本当に意味がない。答えがわかったのならば教えればいいのだ。殺人鬼のフリをして何かをする意味なんてどこにもない。そのために自分の手首を切って。何がしたかったのか、本気で理解できなかった。

「ああ、それね……いや、本当はそうするのが遅かったくらいなんだよ」

が、彼女は笑うだけだった。疲れきった顔で――それでも、どこか安らかそうに。

「五人目は君たちを殺そうとしていた。その理由は知ってる?」

それは突然の問いかけだった。だが、知っている。殺さなければ殺されると呟いていた。

「殺されたくないから、全員を殺そうとした……」
「それってつまりさ、殺人鬼が誰かわかっていないから、全員殺して安全になろうとしたってことでしょ? わたしは、それを避けたかったんだよ」

呟いてから、女はため息をつく。数秒の間。それだけの時間でも、理解するには十分だった。

「殺人鬼のフリをして、居ない殺人鬼の代わりの標的になろうとしていたってこと……?」
「正解だよ。それが一番簡単だったからね……とはいえ、実はもう一つ別の方法があったりもした……というか、こっちのほうが正規だったのかな」
「別の方法?」

繰り返すと、女は満足そうに頷く。

「私が殺人鬼になる方法。皆殺して『私が殺人鬼だ』って言いながら外に出たら、それで皆解放でしょ? ていう、とんでもなく簡単で最低な方法」

そのまま笑顔で、サラリととんでもないことを言ってきた。思わず絶句する。

殺人鬼を当てるのではなく、殺人鬼になる。それは確かにこの上なく簡単で、これ以上ないほどに最低な方法だった。確かにその方法なら外に出られただろう。悪魔のヒントを思い出す。猫はネズミの中に。

猫はネズミの中にいる。もしあのヒントがそう続いていたのだとしたら……確かに、女の言う方法が正規だったのだろう。

「……なんでそっちを選ばなかったの?」

自分が傷つくくらいならと、そっちを選ぶ人間も多いはずだ。それなら、勝利を確実につかめる。後者の理由でこの方法を取ったとしても、不自然には思えなかった。

女はそれに露骨に顔をしかめて、つまらなそうに言ってくる。

「めんどくさいじゃん。悪魔に乗せられるのも癪だったし」
「悪魔に?」
「ヒント。悪魔は猫と戯れたい」

また言われて思い出した。あの意味のわからない文。殺人鬼がいないのに、戯れたいという言葉の意味。今なら、何となく理解できるような気がした。女が笑う。

「殺人鬼と会話したかったんだろうね、たぶん。今どんな気持ち? とか何とか言ってさ。からかいたかったのかもね。その時に真実知ったら、わたしでも発狂しそうだけどね。ま、わたしも悪魔には会ってみたかったかなー」
「……そう」

どっちにしろ、話はそれで終わりらしい。左手で、隣の闇――外を指差し、言ってくる。

「それじゃ、そろそろ帰ろうか。わたしたちの勝ちで」
「……そうね」

それで何もかも終わりだった。女ははいずって闇の外へと出て行く。立ち上がる余力もなかったのか、それとも単に起き上がるのがめんどくさかったのか。案外後者だったのかもしれない。どちらにしろ、はいずる音もすぐ聞こえなくなった。

「………………」

闇の中、一人取り残されて。十夢は背後を振り向いた。

今まで自分を嘲っていた闇。恐怖を煽り続けた黒色。悪魔が作り出したもの。

これはゲーム。悪魔との騙しあい。結局、殺人鬼なんていなかった。気づけなかった真実も、わかってしまえばあまりにも呆気ない。それが真実だったのかどうか、確かめる術はなかったとしても。

まあ、もう終わりなのだ。十夢は闇に背を向ける。そして闇の外へと歩き出す。背後に人の気配があった。もう、振り向く意味もない。

だから、十夢は振り返らずに吐き捨てた。

「じゃあね、クソッタレ」

それで終わりだった。闇の外。解放の感覚。夢が開けていく感覚。

面白かったよと、誰かの声を聞いた気がした。









「……まあ、迷ってくれるように動いたのはわたしなんだけどさ。そういう意味では謝るべきなのかもね」

笑う。その行為すら億劫だった。それでも事態は自分の思い描いたとおりに進行した。ならば笑うべきなのだ。人目をはばかることなく。勘違いを恐れることなく。

彼女は無言だった。表情には憎悪。今度こそ、彼女は無表情ではいられなかったらしい。それを責める気にはなれなかった。責める意味もない。

数秒の沈黙。破ったのは彼女だった。

「もう、アンタしかいないんだ。嘘はやめてよ、殺人鬼」
「別に、嘘を言おうなんて思っちゃいないよ。この際きっぱり宣言しとくけど……私は、殺人鬼でも悪魔でもない」

そう思わせるように尽力したのは事実だが。それもそうしなければならない理由があったのだ。彼女が納得してくれるかどうか。それが問題ではあったが。

とにもかくにも話さなければ始まらない。苦笑をため息に変えて、晴香は暗鬱に呟いた。いつ彼女がぶちぎれるかわかったものじゃない。弾薬庫で花火大会でもしているような気分だった。

「それじゃ、答え合わせといこうか……ま、死体については後にしよう。アレは本当にどうしようもないから。一人目の自殺者と、足音についても後回し。はぐれた理由は……まあ、そうだね。あの頃はまだ殺人鬼の存在が不確かだったからかな。間違っても、恐怖を与えるためじゃない。第一、君がどこに隠れるかわかってなければ、死体なんか置けないじゃん。未来予知なんかできないよわたしは」
「……職員室のガラスは」
「それね。職員室の中にいるかもしれない誰かへの牽制のためだよ。こっそり忍び込んだらグサ、何て洒落にもならない。間違っても、やっぱり恐怖を誘うためじゃないよ? というか、あの悲鳴はむしろ予想外だったんだ」

実際、五人目には本当に悪いことをしたと思う。本当に予想外だった。

「マスターキーは」
「ああ、アレは五人目が持ってた。包丁持ち出しに行ってたらしいね、どうも。本当にイレギュラーだった……というか、彼女の行動全部が完璧にイレギュラーだったんだね。化石少女からはぐれた理由の一つも、実は彼女だったりする」
「……殺すためにってこと?」
「だから、違うってば。彼女に一人ではぐれられてると、いろいろ迷惑だったんだよ。状況把握できないし、何しでかすかわからなかったし。本当は協力してもらおうと思ったんだけどね……ああ、他の理由は、君たちにあの子のお守り押し付けようと思ったんだよ。やっぱり一人だと心配だからね。だから、蛍光灯割って叫んでみた。来てくれた時は思わず頭下げようか迷ったよ。本当にね」

結局五人目の彼女は見つからず、空回りもいいとこだった。しかも挙句の果てに、危惧していた通りに殺人未遂。冗談でも笑えない。まあ、そんなことはどうもでいい。

「さて、順序は変えたけど、ヒントについて。これも実は、全部嘘なんかじゃないんだ。このゲームに参加している総数は九人。あの時の存命者は五名。で、猫……殺人鬼は被害者の中に。そして悪魔は偽っている。君も惜しいところまではいってるんだけどね。悪魔がこのゲームに参加している人間の中にいるっていうのは、悪くない」
「……だけど、人数が合わない。少なくとも、十人はいた。ヒントは……」

図書館前に転がっていた、ネクタイのない死体。あれのことを言っているのだろう。

「間違ってないよ。全てが言葉の通りさ」

だが、晴香はそれを平然と否定する。彼女の怒気も殺気も消えてはいないが、そこにわずかの動揺が浮かぶ。

「ここで、ようやく強奪品が役に立つわけ。カフスボタン、ネクタイ、校章、ブレザー。奪われたものは四つ。死人もヒントの通りなら四人」

実際うまくやったものだと思う。苦笑している間に、彼女は動揺を生めるように目を細めて、言ってきた。

「……何故、略奪品を全部知ってるの?」
「ああ、それね。簡単だよ。君の答えは半分当たっている」
「……?」
「君たちが目覚めるよりも早く、わたしが起きたってことだよ。放送室の時計、うるさかったでしょ? わたしは最初、あそこにいたんだ。だから、君たちよりも早く死体を見つけてたわけで。二度見たもので驚くのも無理だったって話だよ」

そこでため息を一つ。もう眠ってしまいたい。本当に血が足りていない。そろそろ限界が近い。ここで語るのをやめたらどうなるだろうか――どうにもならないだろう。それに苦笑して、晴香はかろうじて動く左手を広げた。

「さあ、考えよう。ヒントは全て正しいとして。トータル九名。存命していた『参加者』は五名。『死体』は四つ。悪魔は何かを偽っていて、強奪品も四つ。そして現れた、存在してはならない『六人目』……」

実は本当に単純なのだ。悪魔が騙し屋で、でもヒントは正しくて。現れちゃいけなかった六人目。言葉の妙。陰気で悪魔らしいミスリード。

答えは、あまりにも間抜けに過ぎた。

「『六人目』は、生きていたんだよ。悪魔だったんだ……いや、死体は全員生きた悪魔だったと考えるほうが自然かな。俗に言うサクラって奴だよ。で、自分で勝手に動いて死体ごっこ続行。そりゃ増えたように感じるよね。死体が動くなんて、普通考えないもん」

自分は殺されたのだと偽って。でも、それを公表して。悪魔は正直者だった。晴香よりも正直者だった。

「無理がある。そんなの、顔を見れば……」
「君ね。意外に往生際が悪い。だったらその死んだ奴らの顔、思い出せる? 私は思い出せないよ。最初の自殺者でさえ、ね。あの時わたしは言ったはずだよ? 顔を見ても、すぐに忘れちゃいそうだと」

事実その通りなのだ。まったく覚えていない。彼女もその通りだったのか、数秒呆然としていたようだった。が、それも悪魔ならではだろう。勝手にゲームに招待する連中だ。人の記憶に残らなくすることができても、問題はないだろう。

「というわけで、死体は全員悪魔だった。ヒントの意味、悪魔は偽っている。これは、自分を死体だと偽っていたということ……んで、最初に勘違いした足音と叫びについて。足音は五人目だけど、叫んだのは……というか、叫べたのは悪魔だけだよ」

それが何を意味するのか。もう考えなくてもわかる。誰も死んでいない。誰も殺されてなどいない。苦笑する。

これはゲームだった。文字通り、寸分違うことなく。

「殺人鬼なんか、どこにもいなかったんだ。悪魔は、わたしたちを絶望させることができればそれでよかったんだよ」

絶望は死に至る。答えのない闇。殺されれば永遠の苦痛。姿を見せず、ただ増えていく死体。理解できないヒント。発狂する参加者。そうして少しずつ、参加者を絶望に追い込んでいく。これはそういうゲームだったのだ。

悪魔は、騙す側のプレイヤー。自分たちは、その嘘を暴く挑戦者。

猫はネズミの中に。あのヒントはそこで止められていた。その後に続く言葉は、『いる』でも『いない』でもいいのだ。言葉を濁すのは、詐欺でも定番なのだから。

答えに彼女は何を思うのか。沈黙は長かった。いや、短かったのかもしれない。

「……ここで納得できれば、ハッピーエンドだったんだろうな」

声は、予想通りに冷たかった。或いは悲しげだったのかもしれない。彼女の表情を見る気はしなかった。感情は断絶されている。言葉は届かない。

「もし仮にそうだとしても……アンタは五人目を殺したんだ。それだけは、嘘になんてならない。アンタは……アンタは、殺人鬼だ」

それが答え。彼女にとっての、否定などできない答え。それは仕方のないことだった。真実は一人一つ。それか自分で考えたことだ。口にしなくとも、それだけは変えようのない事実……

だったら、それこそバッドエンドで終わるのだが。

「五人目は死んじゃいないよ」


――だってアレ、気絶してただけだもん。




疲労は既に限界だった。

痛みは既に臨界点を超えていた。体力は既に底を尽きた。残っているのは気力だけだった。激痛。鈍痛。灼熱。痛みは熱だった。その熱に溶かされている。まだ意識は保てている。船の中、波に揺られているような気分。体は動かない。声さえ上げることができない。

重い。体が重い。まるで関節に鉛が詰まってしまったかのように、重い。それが限界というものだった。生が終わる瀬戸際。きっとこんなものなのだろう。人は死が怖いのではない。人は痛みと終わりが怖いのだ。

自分がロストする瞬間。それがたまらなく怖いのだ。

ため息でも何でもつきたい気分だった。あまりにも馬鹿げている。何もかもが馬鹿げている。何故血に濡れているのか。誰の血なのか。自分のではない。なのに、何故こんなにも全身が血まみれなのか。もしかしたら、どこか怪我でもしたのかもしれない。転んだ場所にはガラスが散らばっていた。この熱はそれのせいかもしれない。動けないのだから、怪我を捜すことはできなかったが。

意識を失ってからどれくらいだっただろうか。彼女はふと考えた。携帯は当の昔にバッテリーがへばっている。確かめる術はない。そもそも、いつ気絶したのかも覚えていなかった。ただ、何かに躓いて思いっきりずっこけた記憶はある。闇の中で全力疾走したのは間違いだったのだ。たとえ殺人鬼候補の人間に逃げられてしまって、慌てていたとしても。それは仕方のないことだった。そこで気づく。いつ気絶したのか、覚えていたではないか。

気絶して落ち着いたのか、もう心は乱れない。その落ち着いた心境が体に命じたことは、ただ単に瞼を開くことだった。状況を把握しなければならない。重い。眠いわけでもないのに、瞼を開くのは相当の労働だった。それでも、開く。

誰かの後頭部が見えた。

(……は?)

見覚えのない後頭部。たぶん、さっきの殺人鬼候補ではない。声は上げられなかった。上げる必要があったのかもわからなかった。意識は急速に理解する。

誰とも知らぬ女に、何故か背負われている。

どこを目指しているのか。女の肩越しに見えたのは、昇降口だった。

「あー、血が足りない。こんな体で肉体労働……本当にスパルタだよ、この作戦。無茶ぶりもいいところだよ、本当に」

女の愚痴が聞こえてくる。それに何の意味があるのか。肉体労働。たぶん、自分を運んでいることだろう。どこに? 向かう先は昇降口の外――闇を写したガラス扉。外?

開かないガラス扉。外に出られないはずの昇降口。疑問は、一瞬で驚愕と歓喜と恐怖に変わった。

闇が解放されていた。開かないはずのガラス扉。今はぽっかりと口を開いている。外。

このゲームから解放されるのか。希望は恐怖でもあった。それを確かめるのは怖い。だが、女は止まらない。ずんずんそちらに近づいていく。止まらない。止まれない。こちらの意思など無視して、女は開放された闇の前に立った。

不意に、開放感。背中から地面に下ろされる。体が動かないことを気絶したままだと思い込んだのか、女はこちらを一瞥すらしなかった。ただ、つまらなそうに呟いていた。

「……ま、これであと一人なんだ。もう慌てる必要もない」

そのまま、ようやくこちらを一瞥する。まるで物でも見るかのような目で、女はこちらを見下ろしていた。何の感慨も抱いていない目。女はこれまたぞんざいにこちらの体を掴んで。

「よっこいせ」

どうでもよさそうに。闇へと突き飛ばした。その間際、ふと彼女の右手首に目がいく。赤いハンカチを、リストバンドのように巻いている。それに何の意味があったのか、よくわからなかったが。とりあえず、闇に意識が溶けていく。それは夢が覚める感覚だった。

本当に。気絶していた間に何の進展があったのかも含めて、本当に何が何なのかわからないままだったが。

こうして、悲鳴を上げ続けて包丁を振り回した恥ずかしい自分は、闇の中へと消えていった。


「や、メイタンテイ。君を待ってた」

気楽に呟く。立つのももう億劫だったから、開放されたガラス扉の隣で座り込みながら。闇を晴らすのは小さな光源。それに照らされて、彼女は無表情にこちらを見つめていた。額には汗。どうやら、走り回っていたらしい。ご苦労様と声をかけたかったが、それをしたら最後、意識か彼女のどちらかが飛んできそうだったのでやめた。

彼女はこちらの挨拶など完璧に無視していた。ピクリとも笑わない。冷たい声音で問いかけてくる。

「さっきの女。アレは誰だ」

背負っていたところを見ていたらしい。別に何もやましいことはしてないので、気楽に答える。

「五人目だよ五人目。もういる意味ないから退場してもらった。さすがに苦労したけどね。タイミング間違えると、君に見つかっちゃうから」

本当に彼女は無意味そのものだった。登場から終了まで、本当に何がしたかったのかわからない。本当に紛らわしくて厄介な人だった。まあ、その分最後には利用させてもらったが。彼女の事を考えると、右の手首がジンジン痛む。今そこには、後輩から借りたハンカチが巻かれているのだが。

ハンカチも含めてそんなことなどどうでもよかったのか、女は更に問いかけてくる。

「最初にアンタといた、あの女は」
「あー、あの子ね。退場してもらったよ。傷つけるとちょっと大変そうだから、化学準備室から拝借したクロロホルム使ってね」

さすがに、無茶をしたとは思ったものの。遥香が抵抗してこなかったのは本当に救いだった。もし抵抗されていれば、あんなにうまく眠らせることはできなかっただろう。悪いことをしたとは思うが、アレが考え得る最善だった。仕方がない。

だが、それも女にとってはどうでもいいことだろう。晴香は苦笑する。本当に言いたいことなど、もうわかっているのだ。聞いたら彼女は絶望するだろうか。それとももう、絶望しているのだろうか。表情から読み取ることはできそうになかったが。恐らく両方ともありえないだろう。犯人を当てさえすれば、たとえ死んでいても勝ち。解放されるのだから。

問いは、やはり予想通りのものだった。声もやはり、冷たいものでしかなかった。

「……優花はどこ」
「あの子にも退場してもらったよ。いの一番にね」

今にして思えば、よくうまくいったものだと感嘆を禁じえない。トリックからして思いっきり杜撰だったのだ。

最新のデジタルビデオカメラは遠隔操作が可能。それであらかじめ撮っておいた足音を再生し、何らかの理由で――殺人鬼を止めるでも、二手に分かれるでもいい――やってきた片方を、階段で待ち伏せする。後は何らかの手段で突き落とすだけだ。慌てて、敵が一人しかいない以上油断するタイミングを見計らったのだ。とはいえ、本当にうまくいったものだ。苦笑するしかない。拙すぎだ。

その苦笑を、晴香は彼女に向けた。やはり、彼女は無表情だった。絶望したのかもしれない。死に至る病。絶望をそう説いたのは誰だったか。霞み始めた思考では、もう思い出すこともできなかったが。

「そんなことよりもさ。君にはやるべきことがあるんじゃないかな、メイタンテイ? タイムリミットは確かにないけど、こんなところにいるのも退屈だでしょう?」
「……そうだね」

同意の声に、覇気が篭る。それはある種、隠していた怒りと憎しみと闘争心の発露でもあった。燃え滾るのか冷え切っているのか、心境はわからないが。たぶん心は冷静で、感情は熱血色なのだろうと思えた。どちらにしろ、ここで怒りのまま襲われたらひとたまりもない。何しろ、血が足りてない。

まあ、そんなことなどどうでもよくて。彼女はとうとうと語り始めた。

「死体は誰が殺したものだったのか。何でアンタが死体を見ても慌てなかったか。何であの時はぐれたのか。ヒントの意味。何であの時彼女と別れたのか。既に死んでいた四人の死体。アンタが殺した五人目。そして消えていった二人と一つ……考えれば、わかるはずだったんだ」

ある種、一夜限りの走馬灯でもあった。何があって、何が起こって。何を騙して、何を偽ったのか。ヒントの意味。あからさまだ。何もかもがあからさま過ぎて、気づかないはずがない。苦笑を消すことはできなかった。苦笑を消す意味もなかった。

「まず、死体については何も言えない。一つわかっているのは、その犯行時間が私たちが目覚めるよりも早い時期だったということ。殺人鬼はその後、私たちと何食わぬ顔で合流した。そして、何食わぬ顔でメールを送った。悪魔なら電波なんて無視できるだろうし」

彼女は笑わない。無表情。能面のように。それはいっそ、この闇に一番よく似合う表情でもあった。感情はそのまま色を持つ。黒色は、何もない色。

だからこそ、無表情はこの闇によく映えた。

「足音で錯覚した。最初に私たちが逃げ出したとき。教室で聞いた殺人鬼の足音。アレだって、さっきのトリックが使えるんだ。ビデオカメラの遠隔操作。殺人鬼がいることを集団の中にいるうちに示しておけば、自分が疑われることもない。あの叫び声だって、録音しとけばどうにでもなる。叫び声なら声色だって変えれるからね」
「答え合わせは最後にしよう。次」
「そして一階ではぐれた。あの時の理由は簡単……恐怖を煽るため。教室に隠れた私たちを、アンタは足音で煽ったんだ。殺人鬼の足音として。アンタと一緒にいた彼女が教えてくれたよ。アンタたちは職員室――昇降口のほうへ向かったと。私たちは、殺人鬼がそっちに向かったんだと思ってた。だから、ずっと沈黙して耐えた。そして、死体を見つけた。殺人鬼の恐怖と死体の恐怖を、アンタは同時に私たちに味わわせたんだ」

苦笑。少しくらい怒りに身を震わせるかと身構えたが、彼女は予想に反して無表情のままだった。

「職員室のガラスを割ったこと。これも同じ。突然の音は恐怖を呼ぶ。現に、五人目が悲鳴を上げた。マスターキーがなかったというのも嘘だ。アンタは、化学準備室に入ったと証言している」
「そうだね。それで?」
「ヒントだ。アレの意味をずっと考えてた。悪魔は嘘つきで、偽っていると。何を偽ったのか? それは自分の身分だ。悪魔は自分の身分を偽って、生徒に化けていた。そしてヒントのトータル。アレも嘘だ。わざと嘘をついて、アンタは情報を撹乱させた」

無言のまま、先を促す。

「蛍光灯を割って、彼女からはぐれた理由。はぐれたければ彼女を殺せばよかったのに、アンタはそれをしなかった……殺すよりも、利用することに重みを置いたからだ」
「それは?」
「彼女は言うなれば、アンタの信者だった。つまり、彼女がいれば、アンタが疑われてもそれを否定してくれる。アンタにとっての味方だったんだ。だから殺すわけにはいかなかった。だから、その間にはぐれて行動している人間を殺すことにした……そして、五人目」

もう先を促す必要はないだろう。苦笑も無理やり消すことにする。無表情で睨みあう。それは永遠ともいえそうなくらいには、長い時間だったような気がした。実際は一分にも、三十秒にも満たなかっただろうが。

「アレがアンタの最高の失敗だった。私たちが合流したことを、あアンタは知らなかった。だから、最低のタイミングで五人目を殺してしまった。あの時、私たちは全員放送室にいたんだ……アンタしか、彼女は殺せない」

殺せない。確かにその通りだった。あの時彼女を殺せたのは自分だけだった。彼女らが放送室にいたことは知っていたが。別段それを指摘する必要はないだろう。あったとしても、最後でいい。

「あとは、ビデオカメラのトリックとクロロホルムで十分だ。一人ずつ、一人ずつアンタは殺していった。一人になった人間を……!」

声に、初めて感情が宿る。叫びほど強くはなく、囁きというほどに弱くなく。それは、地獄の業火を人の身に押し込めたような激情だった。

憎悪。殺意。敵愾心。それら全てを、その声に込めて。

彼女は、それでも無表情のまま呟いた。

「アンタが、殺人鬼だ」

それが、彼女にとっての答え。

ずっと待っていた。その答えを。待ち焦がれたと言ってもいい。笑い出したくなるほどに、その答えが欲しかった。そのために動いたのだ。そう言われるために画策したのだ。文字通り、血を流すほどの努力をして。その答えだけを、ただずっと待っていた。

だから、笑う。凄惨に。

嘲笑もなく、哄笑もなく。

三日月に瞳を細めて。

「さすがだね、メイタンテイ。わたしの期待通りだよ。先に礼を言っておくよ……ありがとうとね」

血の味のする唇を、ゆっくりと動かした。

「事態はもっと単純なんだよ、迷探偵。君は迷いすぎだ」







「……ここにもいない」

呟いて、三年二組の教室を閉じる。首を吊って死んだ、男がいた教室。誰も人気のない場所にあの人が隠れているのだとしたら、そこが最も可能性の高い場所だった。死体に集まる者などいないのだから。

嘆息して、遥香は歩き出した。手の中にある、あの人の携帯を頼りに、警戒しながら。先ほどまでは嫌というほど辺りが騒がしかった。さっき別れた彼女らだろう。出口を目指して駆けていったのかもしれないし、殺人鬼と遭遇したのかもしれない。

ふと思ったのは、本当に彼女らは外に出れるのかという事だった。初めから考えてしかるべきだったことだ。もしあの人が犯人だとするのなら、彼女らは出られる。自分はきっと出られないのだろうが。どちらにしろ、彼女らは勝てる。

だが、あの人が犯人でない場合は。自分が信じているあの人の通りだったのなら。彼女らは出られない。昇降口で立ち往生することになる。それを殺人鬼は見逃すだろうか?

悪魔は見逃すだろうか……?

わかるはずもない。結局のところ、何が正しいのかもわからないのだ。嘘つきの悪魔。姿の見えない殺人鬼。嘘のせいで、ヒントがあっても何も特定できない。誰が殺人鬼なのか。

「……考えても、わかりません」

結局のところ、考えるのは自分ではなくあの人の役目なのだ。だから捜す。殺人鬼よりも早く捜して、あの人と一緒にこのゲームを終える。終える……

終えたら、もう会えないのだろうか。それはふと感じた疑問だった。これはゲーム。一夜限りの最低な夢。だとしたら、この後あの人とはもう会えないのだろうか。

(それは……嫌)

理由はわからない。ただ、それだけは嫌だった。こんな最低な状況じゃなくて、もっと普通の時に話をしたい。馬鹿みたいなことを話し合って、くだらないことで笑って。そういう、普通の関係を作りたかった。

だけど、それも夢の話。これが終わったら、全てなくなってしまう。それは仕方のないことで――諦めるしかないことだった。ため息は出なかった。ただ、目だけが熱かった。

「……っ」

気づけば泣き出してしまいそうだった。あの人に初めて会ったときのように。ただ、今度は安堵ではなかった。胸の内にあるのは、何かが欠けていく痛み。何かを失ってしまう痛み。

それを振り切るように、遥香は歩き出した。捜さねばならない。最後には忘れてしまうのだとしても、するべきことは変わらないのだ。捜さねばならない。

そして、それは突然だった。

「……え?」

一瞬で闇が辺りに満ちる。何が起こったのか――理解するのは簡単で、そのくせ困難なことだった。携帯の電源。電池切れ。もう、辺りを照らしてくれることはない。闇。闇しか見えない。それは何もないのと同じことだったのかもしれない。

わかっていることは一つだけだった。

この闇では、歩き出せない。どこを捜しても、もう何も見ることができない。完璧な闇の中では、どうすることもできない。何もできない。ただ、闇に蹂躙されるだけ。冷たい外気と、無音の静寂。悲鳴を上げてしまいたかった。そうすれば何かが変わると信じて。

「………………っ」

だが、声が出せない。闇。その中に潜むものの存在が、遥香の声を失わせていた。この闇の中で、自分の存在を誰かに知らせることはできない。闇の中にいるのは誰か。あの人か、彼女らか。それとも。

最低だった。何もかもが最低だった。もう彼女を捜すこともできない。殺人鬼を見つけることも、逃げることもできない。近くに壁はない。歩くことさえできない。闇は、ただそれだけの存在であるのに恐怖でしかなかった。

独りであることを知ってしまうから。自分しかいなくて、他は誰もいなくて、何もなくて。そのくせ何かいそうで。だから、闇が怖い。独りであることが怖い。

それはあの人と会う前に確認してしまったことだった。少しずつ少しずつ、一人の孤独が自分を削っていく。闇への怯えはもうない。ただ、誰かが近くにいて欲しかった。

あの人が近くにいて欲しかった。

もう泣き出すことさえできない。救いの手はもうどこにもない。闇だけがある。そうして不意に、遥香は全てを悟った。

――この闇は、自分を壊すためにあったのだと。

そう悟った、直後だった。

何かが、動いているのを感じたのは。

「……!」

気づいたときにはもう遅かった。抱きしめられた――いや、羽交い絞めにされていた。ただ、優しいくらいに軽い力で。だからそう錯覚したのかもしれない。悲鳴を上げようとは思わなかった。もう、全てを受け入れてもいいと思った。口元に何かを当てられる。甘い匂い。それに奪われるように、意識が消えていく。

消える意識の中、あの人の声を聞いた気がした。

「手荒で悪いね……まあ、眠ってて。抵抗させる余裕も、説明する時間もないんだ。あと二人残ってるからね」