「あーないないないー、ないー」

頭を抱えて、足をばたつかせる。

探し疲れたうえに結局探し物はみつからず終いで、椅子から立ち上がる気力さえなくなった。いつもは物を散らかすはずの楽屋はイグアナ捜索のためにいつよりも片付いていて、その真ん中で絵梨花は萎え切った顔を机にうつぶせる。

仕事の合間に局の廊下という廊下を歩き回り、スタジオから楽屋からごみ箱までのぞいて、イグアナを失くすまでの自分の行動を一から思い起こしてもみた。

(なんで、なくしちゃったんだろ)

鞄に手を伸ばし、確かめようとして思いとどまる。

確かめたところで、残っている鎖だけを見てさらに気落ちするに決まっていた。

もっと早いうちに諦めてしまえばよかったと、今になって後悔し始めている。失くしたことにこだわっているのは多分自分だけで、もう一人の当事者である里奈は知っても何も思わないだろうし、第一彼女は憶えているかどうかさえ疑わしい。

(……いや)

絵梨花は確信をもってうなずいた。

(ぜったい忘れてる)

絶大なその自信と同じくらいの脱力感にかられて、机の天板へ力なく頭を落とした。額をつけたまま億劫そうに左右の壁を見やり、ため息をつく。この楽屋には窓すらない。

以前は窮屈な楽屋に始終じっとしていることに耐えかねて、出歩いては「用もないのにうろうろするな」とよく叱られていた。一緒に叱られる相手としては、やはり同年代のメンバーが八割を占める。

記憶を順繰りにたどっていくと、案外里奈との接点がすくないことに気がついた。

それなのに、離れているというような感覚もあまりない。

絵梨花にとって、里奈は常に「そこにいる」存在だった。

絵梨花が乃木坂46というグループに加入した頃から、振り向けば誰かとはしゃいでいる姿があるし、仕事で顔を合わせれば他のメンバー同様に接してくれる。

唯一彼女との距離を意識したのは自分の高校受験のときだけで、しかしそれを振り返る余裕もなく時間が過ぎている。

(いつぐらいかなあ)

里奈とくっついて離れなかった時期を思い返すと、その記憶はずいぶん遠い。当時はまだ仲の良いメンバーも少なく、ふざけあえる相手はごく限られていた。

元来妹気質である絵梨花は、弟を持つ里奈に姉と同じ匂いを嗅ぎとり、そしてまた妹のような純真さを感じたのかもしれない。

そして里奈もまた、そんな絵梨花に誘われるがまま、自然二人は行動を共にするようになった。

甘え過ぎていた、と思う。

彼女になら何をしても赦される。そう信じていたし、事実里奈は絵梨花に対して声を荒げたことはなかった。だからどうしても怒らせてみたくて、ひどく無神経な態度を取ったことも一度ならずある。

当時、どれだけ彼女が自分のなかで葛藤し、もがいていたかは、後になって知った。

追い詰めた一因は生田絵梨花という存在で、その上だれよりも側にいたはずが結局なんの力にもなることができなかった。

『いくちゃんのせいじゃないよ』

ことあるごと里奈はそう言って弁護してくれたが、それを彼女の口ぐせにしてしまった責任は自分にある。その心のしこりはまだ消えていない。

だから、逃げた。なんの束縛もなく、わずらわしい過去もない関係をつくって、とにかく里奈から離れたかった。

そうして自分から心の距離を置いたら置いたで、言い得ようもない後ろめたさが募っていく。

今でもよく思い出す、すこし冷たい指、花の香り、低い声。それは思い出さなければすぐに消えてしまうほど、遠い過去になっていた。

鞄のイグアナは目隠しの記憶とともに、互いにまっさらな間柄でいたころの遺産だったのかもしれない。

絵梨花は眉間に皺をよせて鞄を机から引っ張り落とした。

「もーやぁーだー」

嘆息しながら畳敷きの床へ仰向けに寝転がった。すると、「やぁーだー」の最後のだの形に口を開けて固まったその真上に、いつ入ってきたのか見知った顔が三つ並んでいる。

うち、他よりも色の白い一つが甲高い声で告げた。

「いくちゃん、出番出番、すぐだよ」
「あ、」

放り出した鞄をそっと引き寄せて、絵梨花は起き上がった。

「え、ノックぐらいしてよ」
「したよ! でもぜんぜん反応ないから心配んなって入ってみたら、メイクもまだだし衣装もまだだし、なにやってんの。みんな待ってるよ」
「だって! しかたないじゃん」
「なにがしかたないの」

三人三様に興味津々の眸を向けられて、一瞬絵梨花は躊躇したが、話の流れとやる方ない気持ちが溢れるにまかせて思わず叫んだ。

「だってイグアナなくしちゃったんだもん!」






「ハヤクフレフレ トーキョーノユキ」

呪文のようにつぶやいて何気なく柏手を打ったところ、一連の様子を見守っていた奈々未の笑いのツボを圧してしまったらしい。秋田では拝むと雪が降ってくるのとからかわれて、気付く。

言われてみれば、雪の止むのを願ったことはあるが、雪の降るのを神様にお願いしたことはない。

けれど雪が降り始めると、なんとなくうれしくなる。

空気が冷えて、今年もそろそろ、と思いはじめるころ、雪虫が飛ぶ。

昔は雪虫のゆらゆら飛ぶ姿をみつけると、自然曇りがちの空を仰いで、もうすぐ雪が降るんだと胸を踊らせていた。そのささやかな楽しみがなくなって、もうずいぶん経つ。

「東京には、ユキムシいないねえ」

里奈が窓ガラスに額をくっつけてつぶやくと、奈々未も笑い止んで窓にのぞんだ。二人の息で窓は白く曇り、一瞬でかすんでしまった外の景色は、蜃気楼のように遠くなった。

「雪虫いないと、なんか、雪が降ってくる感じがしないもんね」

奈々未の言葉に、里奈は首をかしげる。

「そーだねぇ」
「やっぱり、へんな感じするよ」
「あ、でも、ウチは、うん、もう慣れた……のかな」

指を折って過ごした冬の数を数えると、一度折った小指がまた立った。

慣れた、と思う。

なぜなら去年も一昨年も初雪は見たはずなのに、それは秋田にいたころに比べて感動が薄く、このごろは初雪がいつだったのかもよく憶えていない。記憶に残らないほどささいな感情しかおこらなかったのだろうか。

それでも、はじめて東京で見た雪のことは、はっきりと思い出すことができる。「東京にも雪降るんだねー」とはしゃぎ回って、翌日ひとり寝坊した。マネージャーに呆れられ、結局、すべて雪のせいだと決めつけた。

そんな自分の隣で、絵梨花が呆れていたことも忘れていない。

ミーティングの後、

『雪虫って、なに?』

奈々未との会話の端々に現れた単語が、みなみの興味を引いたらしい。

里奈は虫とは言わず、予感だと答えた。

『もーすぐ、雪が降ってくるよっていう予感』
『ヨカン』

みなみはその単語をおうむ返しにつぶやくと、

『えー、寒くなると飛ぶ虫のことぉ?』

あっさりと自分で答を出した。

不思議なことに、里奈にとって雪虫は虫というたぐいのものではない。さながら冬という季節があるような感覚で、雪虫という存在がある。

それは一個の生物というよりは、色や匂いといったある種のイメージに近いものだった。

『虫、なのかなあ』

なにか違うと思ったが、そのときはなにが違うかも分からなかったし、みなみにそれを説明しきれるほどの語彙も持たなかった。

なんとなく違和感を覚えたまま、雪虫のことは話題にも出さなくなって久しい。

「ねえななみん、雪虫ってどんな虫だったかおぼえてる?」

心をまだ過去に半分置いたまま、里奈は訊ねた。「思い出せないんだ?」

すると奈々未はしばらく上を向いたり下を向いたりして考えていたが、やがて「ヒラヒラしてるヘンな虫」とだけ答えた。そんな取り留めのない形容にもかかわらず、彼女は「だったような気がする」とまで付け添えて、さらに答えを曖昧にする。

そうして「虫って思って見てなかったからなあ」と独り言のようにつぶやいた。

虫だと思うより、もうすぐ雪が降る、という期待が先に意識を占めてしまう。だから奈々未にとって雪虫は信号みたいなものだったらしい。

「信号が赤になったらトマレで、青になったらススメだよね。赤い信号見て、あれは信号機だ、って思わないような感じ」
「……あーなんとなくわかるかも」
「雪虫飛んだら、お、雪が来るぞーって、そーいう感じ」

それは「予感」と同じようなものだろうか。

寒がりの奈々未のことだから人よりも余計に警戒心がはたらいてしまうのかもしれない。

ぼんやり考えながら、部屋の暖気にすっかり白くなった窓から、里奈はもう一度外を見る。視線がかすんだビルの輪郭をなぞったとき、細くのぞいた雲間から夕陽が射した。

まぶしさに目を細めると、突然の光は、窓のやや高いあたりにうっすらと絵を浮かび上がらせる。

今日のように曇ったガラスに以前誰かかが指で描いたのだろう、それはいびつなドラえもんで、ひげが変に曲がっていたり首輪が妙に太かったり、とても絵心があるようには思われない。 お世辞にもかわいいとは言えないが、ほのかになつかしさを感じる絵だった。

「へんなの」

口をついて出た言葉を、奈々未は取り違えた。

「だよね。やっぱ雪虫いないとなー」

彼女が言うには、これだけ寒いのに初雪がまだなのは、ちょっとおかしいらしい。それはきっと雪虫が飛んでいないからだと、頭の片隅で信じているようだった。







里奈と奈々未は、髪型こそ似通ってはいるが、後ろ姿を見ても身長差ですぐに見分けがつく。その二人が同じ格好で窓際に並んで、曇り空の下、灰色に沈む街を見ている。眼下に連なる街路樹の揺れ具合から見て、外は相当の寒さであるにちがいない。

それなのに。

二人は同じ感想を持った。

「雪、降りませんなー」
「うん、降らないね」

会話にもならない言葉をぽつりと互いにつぶやくと、外の風にごうと窓が鳴った。

「北海道も秋田も真っ白なころなのにぃ」

同じ北国出身の里奈が、小さく声を荒げた。

「ほんとにね、旭川なんて小学生が埋まっちゃう」
「秋田は、どうかなあ」

北海道より南に位置する秋田とはいえ、里奈の出身地由利本荘市でも案外積雪は多い。それに加え、日本海に面している土地柄、吹雪くことも多かった。人を埋めることはできないかもしれないが、凍らせるやことはまず可能だろう。

(そう言えば)

ユキユキとぶつぶつつぶやく隣の声を聞きながら、里奈は昔「雪は排気ガスの匂いがする」と言われた日のことを思い出していた。



「雪ってさ、車のガスの匂いがするよね」

ニット帽を深くかぶり、さらに顔半分をマフラーに埋めた絵梨花は、かろうじて前髪と目だけをのぞかせている。それを里奈に笑われると、話題を変えたいのか、言いながら路傍の雪を軽く蹴った。

道の真ん中あたりは人の往来でアスファルトの地色が見えているものの、昨晩から降り続いた雪は街中を薄く包み、見渡す一帯が白い。

道の端にはところどころ泥じみをにじませた雪が積まれていて、葉のない木立の枝にも、やはり雪がかぶっている。しかしそれだけ降ってもまだ止みそうにない。

絵梨花は傘をずらして上を見た。

「もうちょっと降ったら、ユキダルマ作れるかな」

空気は今にも凍りそうなほど冷たく、何かを言うたび言葉は白く煙って漂う。

その息が風に流れて消えるのを見送りながら、絵梨花は同行者の返事を待っているようだったが、ずいぶん長い間里奈は黙ったままだった。

まさか本当に雪だるまを作ることができるかどうかを計算しているのかもしれない、そんな表情で絵梨花はこちらをうかがっている。

「どうしたの?」
「ああ、えっとね、排気ガスの匂い、なんだね」

里奈は言い得て妙だとばかりうなずいて、自分もそう思うと続けた。東京の雪は、あまりいい匂いはしない。

「いい匂いなんて、するわけないじゃん」
「んなことないよ。ウチの住んでたとこの雪はいい匂いするもん。秋田の雪はきれいだもん」

こと自然に関して、秋田はその名前自体が不思議な引力を持っている。東京であたりまえのことも、向こうではまったく違う現象になるのかもしれず、案の定、絵梨花は「そうなんだ」とひどく感心している。

里奈が憶えている秋田の雪は、

「うーん、なーんて言うんだろ。花?……なんか、なんかいい匂いがするんだよ。むかしお母さんにこうやって匂いかがせてもらったもん」

手を丸めすくうような形をつくり、差し出す仕草をした。さすがに絵梨花はそこに落ちる雪の匂いをかごうとはしなかったが、そのかわり、

「ふうん」

相づちを打って、里奈の首もとへ鼻先を近付ける。

「ちょっと、なーにすんのさー?」

その肩をつかんで身体を押し戻したときには、すでに里奈は顔中火を噴いたように赤くなっていた。もとより他意はなかったのだろう、絵梨花はきょとんと目を見開いて、それから戸惑ったように告げた。

「花の匂いで、んで、いい匂いなら、じゃあ、生駒ちゃんの匂いみたいなのかなあって」

だから、

「ユキ、見たくなったら、生駒ちゃんの匂いかぎに来ればいいんだ」

絵梨花はずいぶん神妙な顔で、ずいぶん奇妙な結論をくだした。

「なんだそれ」
「だってふつう雪が降るとき、排気ガスの匂いするもん」
「で、なんでウチの匂い嗅ぐの?」
「いい匂いの方がいいに決まってんじゃん」
「……よくわかんないよ」
「うん、あたしも今なに言ってるかわかんなくなった」

なぜか照れてしまったようで、絵梨花は乾いた笑いを放ってからそのままうつむいた。意味のない会話に呆れながらも、彼女の様子におかしさを覚えて、里奈は口調を和らげる。

「なにそれ」

笑いながらいったん絵梨花の身体に軽く体当たりをして、すこしよろめいた彼女の腕を取った。

「ウチは、雪の匂いなんだ?」
「うん、いい匂い」
「そっか」

それなら、と、里奈は目線をあげた。雪は次第に小やみになって、そろそろ傘も要らないように思われた。明日晴れたら、今降っている雪も残らず溶けてしまうだろうか。それぞれに一抹の寂しさを感じて、ふと二人の足が止まる。

それなら。耳を澄まさないと雪の降る音にさえ消えてしまいそうな声で、里奈は言った。

「したら、雪が降ったら、ウチんトコおいで」

うん、とも、わかった、とも絵梨花は答えなかったが、ゆるゆるとほぐれた頬にうれしさをのぞかせて、ひとつうなずいた。うなずいて、身体を寄せ合ったためにぶつかってしまった自分の傘を閉じる。そうして、風を避けるように腕を組みなおした。

ひとつさした傘からはみだした肩に雪が落ちる。薄くはあるものの、雪を踏み分けて歩く靴の先はすっかり濡れて、指先は冷えている。

組んでいる腕のあたりだけが互いの体温で温かくなっていて、里奈は、雪というものは冷たいだけではないのだと思った。







十二月の半ばになって、西日本に大雪が降ったと朝のニュースで言っていた。

テレビ画面の中の景色は大阪でも福岡でも大荒れで、それなのにふと首をめぐらして庭をのぞむと、さんさんと黄金色の陽が満ちている。東京では雪どころか雲も北風すらもない、ずいぶん穏やかな朝だった。

「いいな、ユキ」

ないものねだりのように、絵梨花はそのときテレビの中の雪がうらやましかった。


収録を終え撤収作業に沸き返るスタジオで、ちらと目の端を白いものが掠めて消えた。

消えたはずの白を探してゆっくりと上を見上げると、今度は視界一面に白い紙片が舞う。続いて「スンマセーン」という野太い声が落ちてきて、どうも小道具係が過って演出の紙吹雪をこぼしてしまったらしい。

(スタジオん中で、雪もないか)

肩についた一枚を指でつまんで小さく振ってみると、それは揺れに合わせて小さい身をひらひらと泳がせた。効果のためか、それは四角でも丸でもなく、すこし変わった形をしている。

雪の結晶とは似ても似つかない紙切れが、それでも雪に見えるのはなぜだろう。

「キミの仲間は、今年はなかなか来ないねえ」

絵梨花は、まるで友人に向き合っているかのようにそれに語りかけた。

搬入口に隣接する大道具倉庫からは、積み出しの最中か、身を切るような冬の風が足許から入り込んでくる。だからスタジオを一歩出ると、楽屋までの通路はひどく冷たい。

短くカットされた薄手の衣装は、暖房の効いたスタジオでライトを浴びていてこそ我慢できる訳で、蛍光灯の白く光るだけの廊下では、我慢以前の問題である。

マネージャーから手渡されたストールを羽織ると、絵梨花は全速力で駆け出して、走りながら軽く首をかしげた。

これだけ寒いのに東京に初雪が降らないのは、ちょっとおかしい。


失くしたことに気付いたのは、楽屋にもどって帰り支度をして、ふと鞄の中に手を入れたときだった。

「あれ?」

落とさないように鞄の内側に付けていたキーホルダーがない。いつもは物の出し入れの際に手の甲で転がるイグアナはおらず、主を失った鎖が固い鞄の皮にこすれてからりと鳴った。

里奈からもらったこのキーホルダーは一度ならず壊れている。鎖が取れたことも何度かあって、もう一年ほど以前になるだろうか、イグアナの尻尾を何かのはずみで折ったときは、さすがに持ち歩き続けるのは止めようとも思った。しかし、木工用ボンドでなんとかくっつけて、今に至る。

(しっぽ、サカサマなんだよね)

消えたイグアナの形を思い起こして、尻尾を表裏逆向きにくっつけてしまったことに苦笑いする。気付いたときはもう手遅れで、直すのも面倒だったため「ま、いっか」と不格好なままふたたび鞄に付けた。

それが、ない。

いったん鞄の中を手探りでがさごそ漁り、埒があかないので結局中味を机の上へばらまいた。それでも樹脂でできた半透明の姿をみつけることはできない。

机の下を見、靴を逆さに振ってみる。

つづけて鏡台の周りを這い、ふと鏡に映った自分の顔を見て、思わず吹き出しそうになった。そこには捨てられた子犬のように打ち萎れた情けない顔があり、

「ヘンな顔」

絵梨花は人さし指をもう一人の自分の鼻先へと突き付けた。

(アレも、もうずいぶん長いこと使ったし)

あきらめよう。

頭ではそう答えを出しているのに、身体は結論とは逆に動いている。ああ、と思った。

はっきり言葉にしてしまったら消えてしまいそうなほどほのかな理由が、心臓のあたりにある。

肺にあるのか血にでも混ざっているのか、息を吸うたびそれはどんどん膨れ上がって、苦しくなった絵梨花は床に置いていた手をぐっと丸めた。

ないと、困る。

少し邪魔かなと思ったこともあったが、慣れてしまうと手に当たるその感触は、息を吸うことと同じく日常の一部になった。だから、自分の身体の一部を削がれたようなすかすかした気分で、どうにも落ち着かない。

皮に擦れてもとの色を失ってしまったことも、尻尾が逆向きに付いていることも、自分にとっては大切なことだった。

「いなくなったら、だめじゃんよう」

絞り出した声は、自分で聞いても頼りなかった。







三つ数えてから、見ていいよ。


今でもよく思い出す。

目隠しをした手の小ささとどこかはずんだ声色、なにより必ず匂う花の香りは、どれだけ隠そうとしてもそれが彼女であることを教えてくれる。気付かない振りをしてもよかったが、その日はどうも面倒だった。

生田絵梨花が楽屋の隅で台本を読んでいると、ふとよく知る匂いがして、それから目を手で覆われた。

「もー、なにすんの」

指先の冷たさを心地いいと感じながら、甘えるように背中を相手にぶつけると、彼女は耳もとで「目ぇつぶって、三つ数えてから、見ていいよ」とささやいた。

耳もとにかかる吐息のくすぐったさに肩をすくめて、ただ黙っていると、焦れったくなったのか生駒里奈は自分でカウントを数えてしまう。

「いーっち、にい、さーん」

挙げ句、絵梨花が目を開ける前から「みてみて」とはしゃぐあたり、どちらが年下か分からない。仕方なく目を開けて里奈の促す方へ視線を下ろすと、オリーブグリーンの半透明の物体が小さな手足を広げ不様に机でのびている。

そのとさかにあたる部分には短いチェーンが付いていて、先が輪っかになっていた。確認するまでもなく、それはキーホルダーで、しかし携帯に付けるような類いでもない。

しかもキャラクターはと言えば、

「カメレオンだ」

持ち上げて言うと、

「イグアナだよ」

と訂正された。

試行錯誤を考えて、かなり必死に探したらしい。 彼女なりのユーモアなのだと。

「でも、これをどーしろと」
「あー、そこまで考えてなかった」

ずいぶん無責任に好きにしていいよと突き放して言うものだから、捨てる素振りを見せると、彼女は慌ててもごもご弁解の言葉を考え始めた。その切れ切れに洩れてくる単語を拾いあつめて、絵梨花は苦笑する。

「自分だって、まっつんにガイコツあげたじゃん」
「そー言えばねえ」

松村沙友理に冗談半分で贈ったガイコツのキーホルダーは、暗やみで光ることもあって、絵梨花としてはずいぶん満足のいくプレゼントだった。しかし贈られた当人は素直には喜べなかったらしく、後で「わたし嫌われとるんかなあ」と眉を寄せて周囲に尋ね回っていた。

それに比べればまだイグアナはましだと言いたいのだろう。真剣な面持ちで覗き込んでくる里奈の頬は、かすかに紅みがさしている。つい、衝動にかられて、その頬を指でつつくと、耳まで赤くなった。

「なぁにすんのー」
「あのさ、もっかい、これやって」

絵梨花は目隠しの形を両手で作る。つづけて、急かすように自分の頭を相手の方へと差し出した。

「いくちゃん、なんかヘンな子みたいよ」

つぶやきながら里奈は小さな手のひらを、先刻と同じ場所へそっとあてがった。

「でさ、もっかい、数えて」

さらに催促すると、ひとつ呆れたような息をついたあとに、ふたたび里奈の声が届く。その匂いと声の心地よさに絵梨花は知らず口許をゆるませた。

「いーち、にい……」