午後三時を過ぎて、視界が陰った。
室内の照明は変わらず点いているものの、光の届く範囲が狭まったように感じて、里奈は外を見た。すると朝方は西の端にうずくまっていた雲が、今は空一面に広がって太陽を隠している。
陽の当たらない街はまるで墨絵のようで、いつもの華やかな色合いは折からの空模様にすっかり吸い取られてしまったかに見える。
冬の色だ、と里奈は思った。
それは東京の冬であって、秋田の冬ではない。秋田では気温がぐっと下がると同時に雪虫が飛び、それから間もなく山沿いに雪が吹き落ちてくる。冬になったかならないかで優柔不断にうろうろする季節が、北国にはない。冬はいきなりやってきて、身構える暇もなく街は白くなる。
黒とも白ともつかない灰色の時間は、上京してはじめて味わった。
季節も都会では迷うのかと、田舎育ちの自分の身に照らし合わせてみたこともある。
奈々未は「きっと高尾山あたりで迷ってるんだよ」と本気なのか冗談なのか分からない理由をあげていた。たとえばそれが真実だとして、山で迷って遠回りした雪雲からは、きっと疲れた雪が落ちてくるにちがいない。喧嘩腰にぶつかってくる故郷のものとはちがって、ここでの雪がひどくはかなげで柔らかい降り方をするのは、ひとつには奈々未の言う「理由」があるからかもしれない。
だから雪の匂いも排気ガスに負けてしまう。
手近の窓を見やって、里奈はふっと口許を弛めた。
見えるか見えないかのところでかろうじて姿を留めているあのドラえもんが、いつもと同じくこちらを見下ろしていて、今日は光の加減かなにか物言いたげな顔をしている。
『いい匂いなんて、するわけないじゃん』
目を逸らし、どこか控えめに文句を言う彼女にも似ている。
(そうだ)
ふいに、ずっと心の隅に引っ掛かっていたことが思い出されて、里奈は知らず声に出した。
「いくちゃんに、謝らなきゃ、だったんだ」
その自分の声に驚いて我にかえると、飛鳥が間近で目をきょとんとさせている。
先刻までステージでの振りを並んで合わせていた彼女は、急に動きを止めて思案にふけった自分に、どう対処していいのかわからずにいるらしかった。それでも、
「え、えと、」
おずおずと切り出した語調は、割り合いしっかりしている。しかし声とは対照的に不安げな面持ちで、眉間には三筋ほど皺ができていた。
「あたしと練習するの、嫌だった?」
「ちがうちがう、ごめん、ちょっとボーってしてた」
謝ると、何かを思い立ったらしく飛鳥は自分の鞄へと走り寄ってから、一度里奈を見た。そうして鞄の中から白いものを取り出して、うきうきとした足取りで戻ってくる。里奈がその黒目がちな目を見張って、不思議そうに飛鳥の動きをながめていると、
「じゃ、オワビとして、ヨーグルト、あーんして」
「は?」
差し出されたプラスチックのスプーンと、牛の絵が描かれているヨーグルトに、思わず身を後ろへ引いた。
「なに? なんで、あーんするって、ウチが?」
里奈が自分を指さすと、相手は期待に胸をおどらせているような眼差しで、うんと頷く。
「あーんて?」
同じく、今度はうんうんと二度首を縦に振る。
「ハイ、どうぞ」
にこやかに渡されたヨーグルトを手に、里奈は苦笑するほかない。
飛鳥の存在を忘れてひとり過去をながめていた申し訳なさもある上、考えてみれば最近は自分の方がメンバーにたいして甘えていることもあり、たまには甘やかす側にまわってもみるのもいい。
「もー甘えんぼさんだねえ」
ひな鳥のごとく身構えた飛鳥に、半分餌付けをする気分で言われたとおりヨーグルトを運んでやる。すると一口飲み込んでから、
「あーんってやってもらうと、いつもよりおいしいんだよ」
ぬけぬけとした顔で飛鳥は言った。言ってから一旦首をかしげ、何かの答えを求めるかのように、じっと里奈をみつめる。スプーンとヨーグルトを持ったまま、里奈は彼女の好奇の視線にさらされて、ずいぶん居心地がわるい。
「なんで、そんなにウチのこと見るのさ」
「え、と、なんかぁ、すごいなあって」
「なに?」
「ほんとにヨーグルトの味が、いつもとちがって」
「んなワケないでしょ」
「でも、なんか、桃っぽい」
「もも? あ、そっか」
飛鳥のこぼしたふた文字の単語に里奈は思い当たる節があった。
「いまさっき、桃食べたんだ。だから、匂いがうつって」
すこし季節をはずしたその果物は、差し入れに届いた盛り合わせのうちのひとつだった。聞いた話によると出荷数が少ないために、それは驚くほど高価なものだったらしい。
しかし、どれだけ高価だろうが食べ物にはちがいなく、なんの躊躇もないままメンバーの腹におさまったため今は跡形もない。
そのとき皮を剥いた里奈の手から、ヨーグルトへかすかな匂いがうつってしまったのだろう。たしかに、手を鼻へ持っていくと、涼やかな甘い香りが残っている。
(おんなじだ)
手のひらを見る。そして、何か大事なものをくるむように指を丸めた。
雪は、いい匂いがする。
疑いもなくそう信じていた。言葉で言い表すことはできないが、どんな匂いかも忘れてはいない。
けれど雪は氷の結晶で、よく考えてみれば無味無臭であることにうっすら気付いてもいた。
東京に住居を見つけ引っ越すことになったとき、目にあざやかな葉々が街路樹の枝のかしこに茂りだしたころ。
家の性格か、どことなくのんびりした引っ越しで、手伝うと言ってもほとんど役に立つこともなく、里奈は休み休み細かな作業ばかりこなしていた。
東京へ出てくるにあたって用意したダンボールの中味にはいくつか要らないものも混ざっていて、そのうち古い化粧品も一緒になって物色していると、しばらくして、漂う香りのなかになつかしい匂いのあることに気がついた。
なんの匂いだろうとぐるりあたりを見回すと、それはダンボールの中にある摩りガラスの瓶からで、すでに試したのか瓶は蓋を開けられたまま置き捨ててある。
手に取ると、なつかしさは一つの確信に変わった。
「なんだ」
わずかな落胆とそれ以上のおかしさが喉の奥から込み上げる。
「お母さんの、匂いだったんだ」
それはたしかに里奈の知る「雪の匂い」に外ならず、何年も昔に嗅いだその匂いは母親の移り香にすぎなかった。
確かめることもないまま、その勘違いを惜し気もなく周囲に披露していた自分には、呆れるしかない。
くわえて勘違いを刷り込まれてしまった相手は、すっかり忘れてしまっているか、もし憶えているとするなら、たぶん今でも秋田の雪はいい匂いがするのだと信じ込んでいる。
だから、
(謝りにいかなきゃ)
もう一度練習しようと誘う飛鳥の声を聞きながら、里奈は握りしめていた指をそっとほどいた。窓を見上げれば、らくがきを透かして、一面に波打つ雲がずいぶん低いところまで降りてきている。
室内の照明は変わらず点いているものの、光の届く範囲が狭まったように感じて、里奈は外を見た。すると朝方は西の端にうずくまっていた雲が、今は空一面に広がって太陽を隠している。
陽の当たらない街はまるで墨絵のようで、いつもの華やかな色合いは折からの空模様にすっかり吸い取られてしまったかに見える。
冬の色だ、と里奈は思った。
それは東京の冬であって、秋田の冬ではない。秋田では気温がぐっと下がると同時に雪虫が飛び、それから間もなく山沿いに雪が吹き落ちてくる。冬になったかならないかで優柔不断にうろうろする季節が、北国にはない。冬はいきなりやってきて、身構える暇もなく街は白くなる。
黒とも白ともつかない灰色の時間は、上京してはじめて味わった。
季節も都会では迷うのかと、田舎育ちの自分の身に照らし合わせてみたこともある。
奈々未は「きっと高尾山あたりで迷ってるんだよ」と本気なのか冗談なのか分からない理由をあげていた。たとえばそれが真実だとして、山で迷って遠回りした雪雲からは、きっと疲れた雪が落ちてくるにちがいない。喧嘩腰にぶつかってくる故郷のものとはちがって、ここでの雪がひどくはかなげで柔らかい降り方をするのは、ひとつには奈々未の言う「理由」があるからかもしれない。
だから雪の匂いも排気ガスに負けてしまう。
手近の窓を見やって、里奈はふっと口許を弛めた。
見えるか見えないかのところでかろうじて姿を留めているあのドラえもんが、いつもと同じくこちらを見下ろしていて、今日は光の加減かなにか物言いたげな顔をしている。
『いい匂いなんて、するわけないじゃん』
目を逸らし、どこか控えめに文句を言う彼女にも似ている。
(そうだ)
ふいに、ずっと心の隅に引っ掛かっていたことが思い出されて、里奈は知らず声に出した。
「いくちゃんに、謝らなきゃ、だったんだ」
その自分の声に驚いて我にかえると、飛鳥が間近で目をきょとんとさせている。
先刻までステージでの振りを並んで合わせていた彼女は、急に動きを止めて思案にふけった自分に、どう対処していいのかわからずにいるらしかった。それでも、
「え、えと、」
おずおずと切り出した語調は、割り合いしっかりしている。しかし声とは対照的に不安げな面持ちで、眉間には三筋ほど皺ができていた。
「あたしと練習するの、嫌だった?」
「ちがうちがう、ごめん、ちょっとボーってしてた」
謝ると、何かを思い立ったらしく飛鳥は自分の鞄へと走り寄ってから、一度里奈を見た。そうして鞄の中から白いものを取り出して、うきうきとした足取りで戻ってくる。里奈がその黒目がちな目を見張って、不思議そうに飛鳥の動きをながめていると、
「じゃ、オワビとして、ヨーグルト、あーんして」
「は?」
差し出されたプラスチックのスプーンと、牛の絵が描かれているヨーグルトに、思わず身を後ろへ引いた。
「なに? なんで、あーんするって、ウチが?」
里奈が自分を指さすと、相手は期待に胸をおどらせているような眼差しで、うんと頷く。
「あーんて?」
同じく、今度はうんうんと二度首を縦に振る。
「ハイ、どうぞ」
にこやかに渡されたヨーグルトを手に、里奈は苦笑するほかない。
飛鳥の存在を忘れてひとり過去をながめていた申し訳なさもある上、考えてみれば最近は自分の方がメンバーにたいして甘えていることもあり、たまには甘やかす側にまわってもみるのもいい。
「もー甘えんぼさんだねえ」
ひな鳥のごとく身構えた飛鳥に、半分餌付けをする気分で言われたとおりヨーグルトを運んでやる。すると一口飲み込んでから、
「あーんってやってもらうと、いつもよりおいしいんだよ」
ぬけぬけとした顔で飛鳥は言った。言ってから一旦首をかしげ、何かの答えを求めるかのように、じっと里奈をみつめる。スプーンとヨーグルトを持ったまま、里奈は彼女の好奇の視線にさらされて、ずいぶん居心地がわるい。
「なんで、そんなにウチのこと見るのさ」
「え、と、なんかぁ、すごいなあって」
「なに?」
「ほんとにヨーグルトの味が、いつもとちがって」
「んなワケないでしょ」
「でも、なんか、桃っぽい」
「もも? あ、そっか」
飛鳥のこぼしたふた文字の単語に里奈は思い当たる節があった。
「いまさっき、桃食べたんだ。だから、匂いがうつって」
すこし季節をはずしたその果物は、差し入れに届いた盛り合わせのうちのひとつだった。聞いた話によると出荷数が少ないために、それは驚くほど高価なものだったらしい。
しかし、どれだけ高価だろうが食べ物にはちがいなく、なんの躊躇もないままメンバーの腹におさまったため今は跡形もない。
そのとき皮を剥いた里奈の手から、ヨーグルトへかすかな匂いがうつってしまったのだろう。たしかに、手を鼻へ持っていくと、涼やかな甘い香りが残っている。
(おんなじだ)
手のひらを見る。そして、何か大事なものをくるむように指を丸めた。
雪は、いい匂いがする。
疑いもなくそう信じていた。言葉で言い表すことはできないが、どんな匂いかも忘れてはいない。
けれど雪は氷の結晶で、よく考えてみれば無味無臭であることにうっすら気付いてもいた。
東京に住居を見つけ引っ越すことになったとき、目にあざやかな葉々が街路樹の枝のかしこに茂りだしたころ。
家の性格か、どことなくのんびりした引っ越しで、手伝うと言ってもほとんど役に立つこともなく、里奈は休み休み細かな作業ばかりこなしていた。
東京へ出てくるにあたって用意したダンボールの中味にはいくつか要らないものも混ざっていて、そのうち古い化粧品も一緒になって物色していると、しばらくして、漂う香りのなかになつかしい匂いのあることに気がついた。
なんの匂いだろうとぐるりあたりを見回すと、それはダンボールの中にある摩りガラスの瓶からで、すでに試したのか瓶は蓋を開けられたまま置き捨ててある。
手に取ると、なつかしさは一つの確信に変わった。
「なんだ」
わずかな落胆とそれ以上のおかしさが喉の奥から込み上げる。
「お母さんの、匂いだったんだ」
それはたしかに里奈の知る「雪の匂い」に外ならず、何年も昔に嗅いだその匂いは母親の移り香にすぎなかった。
確かめることもないまま、その勘違いを惜し気もなく周囲に披露していた自分には、呆れるしかない。
くわえて勘違いを刷り込まれてしまった相手は、すっかり忘れてしまっているか、もし憶えているとするなら、たぶん今でも秋田の雪はいい匂いがするのだと信じ込んでいる。
だから、
(謝りにいかなきゃ)
もう一度練習しようと誘う飛鳥の声を聞きながら、里奈は握りしめていた指をそっとほどいた。窓を見上げれば、らくがきを透かして、一面に波打つ雲がずいぶん低いところまで降りてきている。