三日前、渡辺家ダイニング

『悪意は植物のような物だ、なんて言ったのは誰でしたっけねぇ……考古学のセンセだったと思うんですが、人権派の御仁に総叩きをくらっちまって、そんな意見と一緒に表舞台から姿を消しちまったんですわ』

フライパンを熱する傍ら、コメンテーターの戯言に耳を傾ける。四半期に一回は耳にするこの談話のようなものは、発言者から内容から、何から何まで始まった当初から変わらない。まるで老人の繰り言かクダをまく酔っぱらいだ。無論、わたしにとって最重要人物である「考古学のセンセイ」の名前が出てこないのもいつもの話。五年前から数えると多分通算十八回。その内容を丸暗記してしまっているものの、飽きもせず聴くわたしもわたしだ。

『悪意の種ってのは誰にでもあって、それが状況という水とストレスっつぅ養分で育つから人は罪を犯すんだ、ってんですから胡散臭い話なのは確かですわ。……当時は。しかしまぁ、今となっては上手い喩えだったなぁ、なんていうんで、あの日のことを「萌芽」なんて呼んじゃうんでしょう。あれも、もう四年、あら、五年になりますか? イヤイヤ申し訳ない。すっかり歳取っちまって時間の感覚がねェ』

――嘘吐け、と心の中で毒づく。つい三ヶ月前も四年か五年か間違えていたくせに。

フライパンの上では、牛乳、卵、蜂蜜、その他もろもろに浸されたパンが、いい感じに焼けている。所謂フレンチトーストである。本来ならご飯モノを主体として壮大な朝食になる予定だったが、モチベーションが限りなくゼロに急降下してしまったので、仕方なしなしやっているわけである。それもこれも、

「ねーぇ、まぁーだぁー? 夜勤明けで死ぬほどお腹の減ったキレーなオネーサンを尻目に携帯片手に朝ご飯を作るなんて苛め? ねぇ苛め? 私なんて食べる前に死んでしまえ的なコト考えちゃってるワケ?」

好き勝手述べる女性が、我が物顔でわたしの家に上がり込んでいるからだ。確かに、ウェーブのかかった髪や切れ長の瞳、鼻筋の通ったさまに艶やかな唇……と、眉目秀麗なことは認めざるを得ない。唯々諾々と従ってしまう、しまわせる魅力があると言えなくはない。飽くまで、黙っていればの話だけど。

「うるさいなぁ公僕。アンタのご飯が小言なしに出てくる確率が一番高いのは間違いなくウチだけだよ。家に帰れば婚期がどうだ適齢期が何だって言われる曲がり角人生のアンタを憐れんで泣きついてくるのを仕方なしなし定期的に食べさせてるわたしの身にってよ。大体、今年何回目?」
「推定八十五回目かなー?」などと返ってくる声に、流石のわたしも言葉が出ない。黙ってフレンチトースト出して食べて帰ってもらおう。それからゆっくりとわたしの朝食をね。

『しかし、警察も警察で思い切った対策を考えたモンですわなァ。亡霊(ファントムトレーラー)でしたか? あの犯罪者相手に寄せ餌を使うってんですから。人の道を少し外れてるからって、ちとやりすぎじゃないですかねぇ……』

……と。いつもと違う内容に言及したそれに耳を傾けた瞬間、それは起きた。

携帯電話はトーストの浸し液に、トーストは公僕の腹の中に、一瞬にして収まっていたのだ。

「って、何すんの! 大体、今の話する為にウチに来たんだから、別に携帯浸水させたりする必要ないじゃない! ったく、何してくれちゃってんの本当にもう……!」
「あたしの口から伝えた、って確証がないと、署長が煩いのよねぇ。まあ、そこは我慢してくれない?」

なんて言うか、傲慢だ。先月辺りに携帯を変えていなかったら、本当に壊れていた。現代科学って素敵だ。

こんな風に、わたしが公僕――小嶋陽菜巡査部長殿に付き纏われ、うまい具合に利用され、挙句カスみたいな扱いをされているのは、かれこれ五年前、コメンテーターが述べた「萌芽」の日に遡る。






渡辺麻友は、人並みを超えて不幸であるらしい。

理由として多々あるが、一番大きいのはやはり母の奇妙な性癖、というか特性の所為であろう。諸処の事情もあって独り立ちして久しい今日に至っても、未だに毎日のように電話をかけてくるのだ。否、それはごくごく普通の親心の範疇なのかもしれない。その程度なら、なんだかんだあっても受け入れざるを得ないと思う。不肖の娘という単語が非常に似合う自分なのだから。

だけど、問題なのはその内容だ。

『アンタ、今日も死相出てたんだけど。下手なことするんじゃないよ』

と。何処の脅し系占い師だ、と言わんばかりの発言をそれはもう毎日のように、仔細なシチュエーション込みで伝えてくるのだからタチが悪い。然しながら、全くに無視できない理由なんてのがあって、それが「母の夢は大体当たる」という何ともはた迷惑なジンクスの為なのだ。


昔からそうだ。夢見が常に悪い母は、三日に一度は他人の不幸を――些細なものから大きなものまで、予見していた。どうやら祖母から聞くところによれば、昔からだったらしい。だが、それがご近所さんにあんまり知られてないのは、偏に「そんなウザったい出来事を知られていたら変な眼で見られるだろう」という家族全員の見解による。無論、母の意志も手伝っているらしいが。

まあ、そんなわけで。半ば以上現実味のある母の夢を毎度毎度聞かされる我々家族も心中穏やかではなかったのだが、“ある日”を境にその意味合いを変えてしまった。即ち、「不幸」から「死」へ。

っていうか、その対象がわたし限定になってしまったのは憤懣やるかたないことだけど、その理由をさりげなく知っているわたしとしては、仕方ないかなぁ、なんて思ってしまう今日この頃である。だがしかし、毎日様変わりする「わたしの死に様」通りに出来事が起き、その被害に遭い続けているのはどういう了見なのだろうか。毎日死ねるほどわたしは暇ではないのだけど――今日も、『当たり』らしい。


圧倒的な振動と重低音のエンジン音は、大型のディーゼル車のそれである。伴ってガッシャンガッシャン聞こえる音は、不幸にも路上駐車していた車両がスクラップと化した音やら、その乗員の断末魔やら様々入り混じったものだろう。

母の夢の内容が脳裏に閃き、脳が危機感を訴え始めた時、その「本日の死因」が目の前に現れた。

血に染まったフロントグリルに、ブレーキをかける気すらないスピード感。深夜の路上だというのに、黒のシャツを着たわたしを確実に狙って切ってきたステアリング。……、あれぇ?

「お母さん、……あれ、話と違うけど?」

そう呟いても当然だろう。「大型のトラック(あれは大型トレーラーだ)が、何かの拍子に止まらなくなって(いや、あれは故意でブレーキを壊してある)、不幸にもわたしが弾き飛ばされて腕とか千切れて失血死」、なんて感じで予言が悪いほうへ悪いほうへ変わっているのだ。いやまあある程度は予見していたけれど、三日前から覚悟だけはしていたけれど、これじゃもうまるで、

「わたしに虫けらみたいに潰れ死ね、って、そういう」

ゴシャ、ドス、ズズン。そんな音を立てて、母の夢は今日もストライク。だけど、ちょっと待ってほしい。今、フロントグリルのライトが笑みに歪んで、あれはもう人の顔みたいな。


まあ、何だかんだあって、渡辺麻友は今日も死ぬ。







今年に入って仕事の方が忙しくなり、休載期間が急激に長くなったりと色々ご迷惑をお掛けしました。

季節はすっかり冬めいてきて、秋は何処に行った? と探したくなるくらい朝は寒くて中々布団から出られませんw

そんなこんなで、AKB小説なのに乃木坂小説を書いたのは、冬と言えば雪、雪と言えば北国、北国だよなぁ、と行った連想から
ここ一年くらいで乃木坂に興味を持ったことにより秋田出身や北海道出身がいる乃木坂の小説を書いてみようと思いました。

AKB小説と謳ってるんだからここはアメンバー限定だろうと言うことで、こっそりと限定公開にしております。

で、次回作は元に戻してAKBメンバーの小説にしておりますが、またもやちょいと残酷描写ありのロウファンタジーのような作品になっています。
BRを読んだ方なら決して残でもないでしょうがw


さて、前置きはこれくらいにして、本題なのですが、今年の12月でこのブログも6年目に突入することになるのです。
いやはや長かったような短かったような…
某掲示板で恋愛小説やBRを書いてたのが2007年から2008年頃だったから、もう随分前なんだなと。

気付けばAKBも大所帯になりましたね。正直把握出来てないメンバーもかなり居ます。自身が福岡出身にも関わらずHKTのメンバーなんて片手で数える程度しか分かりません(^^;;

話が脱線しましたね。
そういうわけで、今作が終わり、次回の小説が終わった辺りで、このブログを閉鎖しようと思っています。

閉鎖と言っても完全に閉じるわけではなく、ブログ自体はそのままにしておきますので過去の小説を読み返したりしたい方はいつでも訪問してください。

色々語りたいことはありますが、長くなりそうなので、暫くはいつも通り小説を楽しんで頂ければと思います。


では、お知らせ、というか、報告でしたm(_ _)m
「ねー」
「うん?」
「かぞえたよ」
「……うん」

ふっと息をついた里奈は、「ごめんね」とかすかにつぶやいて、抱える格好だった絵梨花の頭からようやく腕をはなした。

光に目が慣れるまでの数瞬のあいだ、絵梨花は里奈の謝った意味を考えていたが、答えは出ない。いぶかしく思っているうちに、部屋の様子がじわりと目に馴染んできた。

そこは目隠しをされる前となんら変わりがない。

白い冷たそうな壁、その冷たさを和らげるかのごとく広く抜き取られた窓、銀色の桟から左下に視線を下ろしたところには鏡台が置かれている。

唯一視界に入らない背後には、やりどころのなくなった手を膝においた里奈が、ぼんやりと座っているのだろう。吐息だけが聞こえてくる。

「あれ?」

ぐるりと部屋を一巡させてから、絵梨花が目を胸許の机の上へ引き戻すと、期待に反してそこには何もない。戸惑いながら問いかけてみる。

「ええと、なんも、ないよ?」

これが里奈の「ごめん」の理由だったのだろうか。

「ほんとは」

しばらくして、言いにくそうに、わずかな自嘲を込めた声が届く。

「ほんとは、だーれだって、やろうと思っただけぇ……なんだけど、はは、なんかさ、急にさ、いちにーさんってやりたくなっちゃって」

照れた笑いにようやく絵梨花は後ろを向いた。無理に身体をひねったため、すこし苦しい格好だったが、振り向いた先にいる里奈の姿に思わず笑みがこぼれる。

「ちょっと期待しちゃったじゃんか」
「うん、ほんとは、ウチもその期待にこたえたかった」

実のところ、彼女は絵梨花の探しているものを届けたかったのだと言う。最近乃木坂メンバーに妙な行動の多かったのも、すべてそのためらしい。

「なくしちゃったんでしょ? えーっと、ホラ」
「ああ、もしかして、イグ……」
「イ」
「うん、だからイグア」
「インドワニのキーホルダー!」

(イしか合ってないよ……)
 
インドワニという種類のワニがいるのかどうかも定かではない。たぶんいないだろうと思った。

伝言ゲームを当てにして、見当はずれなものを必死に探していた里奈は、いかにも残念そうな表情でため息をついた。

「ほんとはさ、ウチがみつけてあげたかったんだけどさ」
「うん、ありがとね」
「でさ、さっきみたいにして、ばーんってやって、いくちゃんをびっくりさせたかったんだ」
「そっか」
「まえあげた、イグアナみたいにさ」
「え?」

それまで少しうつむき加減だった絵梨花は、なにかを窺うかのように視線だけを里奈へ向けた。彼女はつい昨日の話でもするように軽く目線をあげて、意味もなくぴたぴたと自分の頬をはたいている。

そうして、からかうように「いくちゃんは、おぼえてないかもしんないけどねー」と言った。

「あれ、ほんっと、探すのたいへんだったんだよねえ。『あの、イグアナのやつ探してるんですけどぉ』って聞いてまわってさー、なんかさー、ふつうイグアナのキーホルダーなんてないでしょ? ストラップなんてあるわけないしキーホルダーとか見てさ、インドワニには、かなわないけど」

なにが悔しいのか、語尾が拗ねている。

「でさ、あれ、しばらく大事に持っててくれたじゃん。だから、ちょっとうれしかったな」
「そっか」

絵梨花は里奈とこのままどう向き合っていればいいのか分からず、それほど興味をひかれなかった振りをして、後ろへ向けていた身体をもとへもどした。もどしてから、堪えきれないくすぐったさが顔中に広がる。

「あのさあ、いまさらなんだけど」声が震えているのが自分でもわかった。

「みんなにも、言っといてほしいんだけど」
「なに?」
「キーホルダーさ、あれ、なくしたーって思ってただけで、じつはあったんだよね」

声の揺れを押さえるために、床に置いていた手をぐっと握りしめる。

「ええ? ほんと?」
「うん、気付かなかっただけでさ。ちゃんと、あったから、ごめんねーって、言っといてくれないかな。あの、ほんと、ごめんね」

イグアナの件がなければ、スタジオをうろつく必要も、機材に頭をぶつけることもなかっただろう。

せっかく探したのに、という不平の言葉が聞こえるかと思いきや、里奈は目一杯声をはずませて「よかったじゃん」と答えてくれた。

(そういえば)

里奈は、何をしにここへ来たのだろう。

ひとしきり昂った気持ちを落ち着けると、素朴な疑問が転がりでてくる。

彼女は、ただ驚かすためだけに人の楽屋へ忍び込んだのだろうか? たまに常識に欠けるものの、相応の分別は持ち合わせている。

ただ、絵梨花には里奈が訊ねてくる理由に心当たりはない。

名前を呼ぼうと口を開きかけたとき、里奈はふいに膝立ちで窓の側へと寄り、見守る絵梨花の視線の先で窓ガラスに手をあてて向こうを覗き込んだ。

「うわー、寒そう」

なんの脈絡もない言動を不思議に思ったのと、声の明るさにつられて、絵梨花は里奈の肩に寄りかかるようにして外を見る。

風が吹いている様子はない。雲に被われた暗い景色と、手をあてたガラスの冷たさで外気の温度を推し量ったのだろう。

寒そうだという窓の向こうに比べて、彼女の背中はもうしばらくすれば汗すら滲んでくるだろうというほど、熱を持っている。空調が効きすぎているのかもしれなかった。

その火照りを心地よく感じて、絵梨花はさらに里奈の側へ身体を近付ける。

背中にぺたりとくっついて(人間カイロだ)とへらへらしていたところを窘められた。どうも真面目な話をしたいらしい。

「あのさ、ウチ、いくちゃんに言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
「あの、前に、東京の雪はいい匂いしなくて、秋田の雪はいい匂いがするって、威張ったことあったけどさ」
「あったっけ」
「あったの。でも、あれウチの勘違いでさ、ほんとはおんなじ匂いがするんだよ、たぶん」

もう暫く秋田に帰ってはいないけれど。

だから、ごめん、と真剣な面持ちでつぶやいて、里奈は反省しきりといった表情でうつむいた。しかしすぐにけろりとした顔になり、甘えるように絵梨花の方へもたれてくる。

「ま、よくあることだあねー」

自己完結してしまったようで、絵梨花は置いてきぼりにされた形になった。

「あのさ、ひとりであやまって落ち込んでもとにもどってって、あたしのことあんま考えてないでしょ」
「んなコトないよ。だから謝りにきたんじゃん」
「威張って言うな」
「いくちゃんこそ威張るな」

流れにまかせて言葉をつなぐと、だんだん訳がわからなくなってくる。次第にお互いがどうして言い合いをしているのかすら曖昧になって、それぞれに口をつぐんだ。

非のない相手を責める語彙を、二人はほとんど持ち合わせておらず、くわえて喧嘩をするつもりも毛頭ない。

結局、次の仕事があるからと里奈が告げた時点で、すべてがうやむやになった。予定はコメント録りだけで正味一時間もあれば済むだろうと言う。

じゃあ、一緒に帰ろう。絵梨花は言った。

「待ってるから」

すると、絵梨花のちょうど目許のあたりにある里奈の頭が、軽く揺れて、頷いたのだということがわかる。

「傘、持ってないでしょ」

だから、送るのだと伝えると、不思議そうな声で問い返された。

「なんで、傘がいるの?」
「もうすぐ、雪、降るから」

だから傘がいる。

「雪降ってくるなんて、なんでわかんのさ」

雪虫もいないのに。

拗ねるように言って、里奈は窓を見た。天気予報でも寒くなるとは言っていたが、雪が降るとは聞いていない。

ガラスごしの曇り空はしんと冷たく、見上げると吸い込まれそうな気分になった。

「ねえ、なんでわかんの」

焦れたようにもう一度問うと、絵梨花は小さく笑って理由を告げた。

「だってさ、雪の、匂いがするから」







おわり
 
「ほんわかぱっぱーほんわかぱっぱードーラっえもん」

たらららら、とラストの伴奏まで口ずさんで、そのリズムに合わせ絵梨花は楽屋にすべりこみ、曲の終了と同時に扉を閉める。

ひとつ撮影を終えて帰った楽屋は角部屋で、一人部屋にしては間取りが大きく、その分がらんとしている。絵梨花にとってそれは慣れないもので、やはり多少の心細さを感じていた。

扉一枚へだてた廊下では物や人がごったがえしていて、まるで目に見えない年の瀬が質量をともなって迫ってきているかのようだった。

背中でその喧噪を受けながら、ため息をつこうとして、やめた。

よく知る人の話によれば、『ため息をつくと、幸せが逃げちゃう』らしく、彼女の前ですこしでもため息を洩らそうものなら、当人以上に幸せを逃がしてしまった顔で心配される。

あまりに何度も注意されるので、

「いいよ、もう幸せにヘッドロックとかかけて、逃がさないようにするから」

とへ理屈をこねると、幸せに頭なんかあるわけないと揚げ足をとられてしまった。

(もう十八のくせに)

幼稚な論理を振り回すかたわら、たまに驚くほど年上の余裕を見せる。大人なのか子どもなのか分からない。その境目をうろうろしながら、どっちつかずでいるのはずるい。

「あたしの方が、さきに大人になっちゃうぞ」

つぶやいて、先刻のみ込んだため息のかわりに大きく息を吸った。

と、

(あれ?)

不意にへんな気分に襲われる。

しかし、なにがどうおかしいのかすぐには見当がつかない。

(なんだろ?)

しきりに首をかしげ、衣装を替えることもせずに突っ立ったままじっと考え込んだ。しかしそれもわずかの間で、すぐに答えにたどり着いたらしく、絵梨花の口許にふっと笑みが浮かぶ。

だれかが楽屋にいた気配がする。かすかな芳香が残っている。

そのどちらも絵梨花には憶えがあり、へんな気分になったのは、それを感じて無意識に胸がざわめいたのだろう。

気配の因は扉の内側にかくれていて、今は自分の背中から二メ-トルもないほど近くで必死に息を殺しているはずだった。

絵梨花は半分からかうような気分で、

「あー肩コッタ」

などと大仰に肩をほぐしてみせる。

不自然なほど、背後を見ないよううろつかせていた視線は、やがて冬空を映し込んで藍色がかっている窓に吸い付けられる。外が暗いためかガラスは鏡のように部屋の明かりを反射して、必然部屋にいる絵梨花ともうひとりの姿を映し出した。

最近伸びてきた髪をふたたび切って、髪のすくなさを目立たせないよう、左に分け目を変えている。

帰りがけなのか楽屋入りしたばかりなのか、彼女は私服のままで、どことなくしゃちほこばった表情のなかに無邪気な笑顔を隠しているように思われた。

驚かそうとでもしているのだろうか。

あまりにもあどけない思考に、知らず識らず頬のあたりがほころんでくる。

畳敷きの床にあぐらをかいて座り込むと、絵梨花はわざと欠伸をした。

頃合いを見計らって、案の定里奈はそっと近付いてくる。背中に神経を集中していると、あのよく知る匂いがして、それから絵梨花の期待ごと包むように両の目を手で覆われた。

「三つ数えてから、見ていいよ」

目隠しをした手の小ささとどこかはずんだ声色、けれどそれは以前聞いたときよりも落ち着きのある声で、手の大きさは変わっていないが、それだけ年月の隔たりを感じさせる。

変わらないと言えば声の温度で、それは季節をひとつ飛ばした春を思わせた。

「なにすんだよう」
「女の子が人まえであぐらなんてかいちゃいけません」
「あー、なんかお母さんみたいなこと言うー」

過去の再現をこころみようとした絵梨花を無視して、説教をはじめた相手に脱力する。気分が萎えたついでに目隠しをされている自分の顔を指さし、なんのつもりかを問いただした。

「うん、だから、いちにーさんでばってやるから、数えてよ」
「そーすれば、なんかいいことある?」
「内緒」

里奈は一言答えたきり、あとはうんともすんとも言ってくれない。

人一倍非力なため、もがけばすぐにはずすこともできるだろうが、彼女のてこでも離すまいという意志を汲み取って、絵梨花は丸めていた背をすっと糺した。

「じゃあ、言うよ」

ひょっとしたら、イグアナでも出てくるかもしれない。

すると閉じた瞼の裏に見慣れたあのイグアナがのそりと現れて、想像の中ですら尻尾がさかさまになっていることに苦笑した。

「いーち、にい、さーん」

歌うように三つ数えて、絵梨花は里奈が手をはなしてくれるのを待ってみたが、なかなか視界は明るくならない。焦るのもみっともない気がして、黙ったまま、見えない窓に意識を向けた。

昨日まで景色をざわめかせていた風も、今はないでいるらしく、道に沿って並ぶ木々もしんと静まり返っている。

その静けさが部屋の中にまで吸い寄せられてしまったのかと思うほど、二人のあいだの沈黙は続いた。

今後ろにいる里奈も幻覚なのかもしれない。

そんなとりとめのない推理も、次第に高くなる鼓動に邪魔されて、少しもまとまってはくれずにいる。

もう一度かぞえてみようか、絵梨花が思ったとき、耳もとでちいさな咳払いが聞こえた。