「……寒い」

意味のない呟きに、顔をしかめる。もともとそんなことなどわかっていた。それでも呟いたのは、そうすれば何かが変わると思っていたからなのかもしれない。現実は無常にも、何も変化しなかったが。どちらにしろ、島崎遥香は呟いたことを後悔した。

小さな呟きだったのに、闇の中で何度も何度も反響する。最終的にはそれはぼやけた声になり、それはあたかも自分の声ではなかったような錯覚を呼んだ。

自分の声でなければ誰が呟いたというのだ――思い浮かんだ答えを、遥香は慌てて振り払う。それは余計に寒さを感じさせかねないものだった。だが、一度浮かんでしまった答えを消すことはできない。

誰かいるのではないか。この闇に、何か良からぬものが。

それはまったく面白くない発想だった。この闇の中に潜んでいる。ホラー映画も顔負けだ。この闇は、きっと殺人鬼や悪霊のような、悪意の塊でしかないものが潜んでいる。それはきっと、最後には――数分後かもしれない――自分を殺すのだ。

本当に、最低だった。夢なら更に最低だった。あまりにも、現実味を帯びすぎている。

足音もまた最低でしかなかった。明かりのない闇の中に一歩踏み出すと、たちまち闇が足音を増やす。やはり、自分の足音ではないもののように。そして最後には無音。まるで、闇は遥香を嘲笑うように存在しているようだった。

気持ち悪い。闇に体中を舐めまわされている。それは最低を超えて、最悪の蹂躙だった。肌に纏わりつく寒さが、何度も何度も蹂躙を繰り返しては冷や汗を誘う。増える足音が、鼓膜を何度も何度も振るわせる。最低の想像ばかりが、頭の中に再生される……

(……闇は、嫌い)

声には出さずに、嘆息する。仕方のないこと……と言えるほど、それを達観することはできなかったが。それでも繰り返す――闇は、嫌い。

何も見えない、本当の闇。明かりがない。だから廊下でさえも真の闇に包まれている。何も見えない。音だけの世界だ。しかも、その音に方向は存在しない。当然だ、闇の時点で方向などないのだから。自分の足元から発生したはずの足音。なのに、全方位から聞こえてくる。そのくせ音源はいつも一つだ。自分の足音に、自分は怯えている。

そもそも何故闇の中を歩かねばならないのだ。壁伝いに歩いてきた足を止めて、遥香は深くため息を吐いた。どこに行けばいいのかも、何をすればいいのかもわからない。ただ何故か、闇の中にいた。それだけの理由で歩かされている。

誰に? 自分以外に誰もいない。それは理不尽なことだった。第三者が勝手に何かやったのに、そのとばっちりを受けているのは自分なのだから。

何も見えない。それをもう一度自覚して、彼女は目を閉じた。足はもう止めている。もう何も存在しない。自分の意思しか、もうこの闇の中にはない。その闇の中で考える。

(……まるで、死後の世界)

闇だけ。自分がどこにいるのかもわかっていない。そのくせ、意思だけははっきりとしている。地獄とはつまり、この闇そのものを言うのだろう――無音の静寂は、たやすく人間を壊すことができる。たとえそれが、どんなに強い人間であろうとも。自分でさえ、自分を確認できない。認めてやることができない。最後には、自分が何だったのかさえわからなくなってしまうのだろう。それは恐怖以外の何物でもなかった。

闇は嫌いだった。少しずつ、少しずつ、自分という存在が壊されていくようで。或いは、消されていくようで。誰かに自分という存在を確認して欲しい。そうすればきっと、この闇の中でも平然と立っていられるようになる。壁などに手を着かなくても、きっとまっすぐ歩いていける。

ふと気づいて、遥香は暗鬱に息を吐いた。気づきたくなかったことだった。

(……一人が、怖い)

闇が、ではなかったのかもしれない。つまるところ。闇は、孤独であることを明白にさせてしまう。だから闇が嫌いだったのかもしれない。そう思うと、もう闇は怖くない。もう、闇など恐れられない……その代わりに、寒さが増したような気がした。

誰かを探さないと。もう一人ではいられない。気づいてしまった。この寒さは自分が壊れていく寒さだ。壊れきる前に自分の姿を確認しないと。じゃないと、どうにかなってしまいそうだった。だが、歩き出せない。止まった弾みに、手を壁から離してしまっていた。それだけで、歩き出せない。闇は残酷だった。床の感覚でさえもなくしてしまうのだから。

もしかしたらこの一歩先には何もないのではないか。あったとして、その先は? その一メートル先に床がある保証はどこにある?

いや、そうでなくともその闇の中に悪意持つ何かが潜んでいないといえるのか?

笑い出してしまいそうだった。ここがどこなのかもわからないだけならまだしも、一歩先に床があるのかさえわからない。安全なのかもわからない。泣き出してしまいそうだった。そのどちらをしても、最後には壊れてしまいそうだった。

そして不意に、その音は聞こえてきた。

「……!?」

息が引きつるのが、自分でもよくわかった。

それは足音だった。誰かの足音。一定の間隔で、一定の速度を保って近づいてきている。

近くに、誰かがいる。誰かの存在。それが呼んだのは歓喜ではなく恐怖だった。誰かいる。どこかもわからないこの闇の中、誰かが歩いている。何のために。何をするために。

さっき考えていた事を思い出してしまった。殺人鬼。誰かを殺すために、この闇を徘徊している。この闇に潜んでいる。体が震える。寒気の中に痛みを感じた。

胸が苦しい。呼吸ができない。近づいてくる。

足音。前後左右。どこからも近づいてくる。遠ざかることだけはない。何故この闇の中で歩けるのか。殺人鬼だからと言われれば、それだけで納得できてしまえそうだった。

そして、不意にそれを見た。

青白い鬼火。それが突然現れた。

「……!」

殺人鬼じゃない。悪霊だった。幽霊だったのかもしれない。青白い顔。ブレザータイプの学生服に身を包んだ、女。足は闇に溶けている。笑っても、怒ってもいない。無表情。青白い無表情。悪霊ならば闇など気にもしないだろう。彼女たちにとっては闇こそが聖地だ。

悲鳴は上げることはできなかった。逃げ出すこともできなかった。息を吐くことさえできなかった。逃げ出さなければ。でもどこへ。わからない。わからないけど早くどこかへ。逃げ出さなければならないのに、体が動かない――今になって気づいた。立てない。いつの間にか、腰を抜かして座り込んでしまっている。逃げ出せない。

ただ、冷たい寒さの中で必死に目を閉じた。殺されるのだ。私はきっと、ここで嬲られて殺されるのだ。

悪霊の声だけが、暢気に反響する……

「……いや、あのさ。せめて携帯くらい開こうよ。肝試しじゃないんだからさ」

悪霊は呆れたようだった――恐る恐る、目を開く。

少女がいた。顔には呆れが浮かんでいる。それははたから見れば、驚愕を精一杯無表情で押し殺しているようでもあった。悪意なんてどこにもない。

ただ思ったことを呟いただけのようだった。それに思わず、間抜けな声を漏らす。

「……え?」
「いや、え? じゃなくて……携帯。足元くらい照らせるんだからさ、使おうよ」

手元の鬼火を指差して、その女は言ってくる。携帯――それで気づく。

鬼火は、携帯電話の光だった。気づけば足もある。こちらにテクテク歩いてくる。悪霊なんかじゃなかった。殺人鬼にも見えない。見覚えはないが、本当にただの生徒だった。

手を指し伸ばしてくる。その手をおずおずと掴む。暖かい手だった。ゆっくりと、自分に合わせて引き上げてくる。気を使われたのだと――立ち上がってからようやくそれに気づく。そのときには、もういろいろと遅かった。

(………………!)

思わず泣きそうになる。羞恥心と安堵がとめどなく溢れてくる。

ただ人に会った。それだけなのに、涙腺が壊れたように緩み始める。それがまた羞恥心を誘い、泣きそうになる。その悪循環を必死に堪えながら、遥香は震える声で、精一杯へ以前を装って呟いた。

「携帯、持って、ません……生活に必要ない、から」

涙は見えてないだろうか。泣きそうな顔になってはいないだろうか。顔は赤くなってないだろうか――それをただ、ひたすら気にする。彼女はそんなこちらの心境になどまったく気づかず、呆れたように言ってきた。

「え? いやいやいやいや、女子高生なら持ってるでしょ携帯。時計だって用なしにしてくれる便利アイテムだよ?」
「……と、けい?」

何故そこで時計が出てきたのか。思わず訊ね返す。

が、彼女は勘違いしたようだった。まさか、と言いたげな顔で、言ってくる。

「時計知らないとか言わないよね……さすがに」

慌てて首を振る。さすがにそれくらいは知っている。この歳になってまで知らない人などいないだろう。こちらの反応に満足したのか、彼女は怪訝を幾分か柔らかくさせる。

「あ」

と、ふと何かに気づいたように声を上げる。

「あー、そっかそっか。もう時計っていらないんだ、ほとんどの人が携帯持ってるから。魂持っても必要とされないんじゃ怒るよね。時間戦争が始まるのも時間の問題かもね」
「じかん、せんそう?」

突然変な方向に話が飛んで、また思わず聞き返す。少女はその呟きに、答えにならない答えを返してきた。

「のっぽの古時計とおじいさんが両軍の総大将なんだと思うよ、たぶん」
「……何の話、ですか?」
「明後日の話」
「……はあ」

とりあえず、適当な言葉を漏らす。何の話だったのか、いまいちまったくわからなかった。わからなかったが――まあ、気分は落ち着いてきた。涙ももう出ない。安堵はまだ残っているが、羞恥心はもうどこにもなかった。

気を使いすぎて妙な話をしようと思ったのなら――彼女に感謝するべきなのかもしれないが。

と、冷静になって初めて気づく。

「ここ……学校、ですか?」

見覚えのある場所だった。教室棟の一階。一年棟と呼ばれる場所の廊下。何故こんなところにいるのか、記憶を辿る。が、昨日の夜、家で予習してから眠りについた、そこまでの記憶しかなかった。

彼女は暢気に呟いてくる。

「まあ、そだね。問題は、何故か閉じ込められてることなんだけど」
「え?」

聞き間違いだろうか。閉じ込められていると彼女は言ったようだった。だがそれは、普通に考えるならありえないことだった。昇降口が閉められていたとしても、中からなら簡単に鍵が開けられる。出ることはできるはずだった。

驚愕と怪訝が顔に出ていたのかもしれない。彼女はどうでもよさそうに窓を指差した。吊られて視線をそちらに向ける……

「……え?」

また間抜けな声が漏れた。窓の外もまた、闇だったのだ。月明かりも、星空も、町の光も何もない。ただの闇だけが広がっていた。

「窓開けてみて。そうすればよくわかる」

更に追い撃ちをかけるように、彼女。素直に彼女の言葉に従って、遥香は窓の鍵を下ろした。特に何もない。窓を引く。鍵が下りた以上、これで窓が開く。それは疑うべくもないことのはずだった。

が。引いても、窓はビクともせず、まるで万力に挟まれたように動かない。

「……え?」

また同じ呟きが漏れた。こうなることを予想していたのか、彼女はため息を吐いていた。

「とまあ、こんな感じ。昇降口も職員玄関も体育館前の玄関もダメ。ここに何でいるのかもわかんないけど、外に出るのもダメなんだってさ。電波も来てない。何かよくわからないけど、異常事態だね」
「……それは、わかりましたけど」

つまり、何者かの手によって、拉致軟禁されてしまったわけだ。誰に拉致されたのか、何故監禁ではないのか。それはまったくわからなかったが。もしかしたら、本当に殺人鬼か悪霊がいるのかもしれない。

どちらにしろ、そんなことよりも問題があった。それを、遥香は問いかける。

「それで、あなたは?」
「へ? わたし?」
「ええ。あなたは……誰なんですか?」


正直なところ、異常事態だと自分で言っているのに暢気すぎる。どうにも、そのせいで何かこの異常事態自体が胡散臭く見えてくるのだ。といっても、胡散臭いからといって何かが変わるわけでもないのだが。

「んー……」

というか、彼女自体が胡散臭いのだ。何故か、彼女は考え込むように天井を見上げた。釣られて見上げる。薄暗い中に、灰色の天井が見える。闇が緩和されたとはいえ、劇的に辺りが明るくなるわけでもない。彼女の胡散臭さが、薄らぐわけでもない……

やがて、彼女はポツリと呟いた。

「『考えるバカ』」
「……は?」

意味がわからない。その反応に、彼女は苦笑したようだった。

「あだ名だよ、あだ名。ほらよくあるじゃん? 名前書かれると死んじゃうノートとか。そういうのの対策だと思ってもらえればいい。異常事態だしね、警戒くらいはさせて欲しい」
「……そんなノート、聞いたことないんですが」

いくら異常事態だからって、何かいろいろとおかしい気がする。胡散臭いものを見る目で彼女を見つめると、彼女も彼女で何故か呆れているようだった。

「これだから携帯も持ってない化石は……」
「……遠まわしに古い人間って言わないでください」

ムッとして言い返すが、そんなことはどうでもいいらしく。彼女は勝手に先を続けていた。

「まあ、無駄にどうでも良い事ばっか考えてるからそんなあだ名がついたんだけどさ。そんなに悪いことでもないと思うんだよね、考えることって」
「たとえば?」
「無機物が魂を持ったら、人を呪うのか」
「……結論は?」
「場合によりけりで落ち着いた。だって魂持ってるって事は感情持ってるって事だもん。他の人の考えなんてわたしにはわかりません」
「………………」

最後まで聞いて、遥香は思いっきり嘆息した。ここまで話せばもうわかる。彼女は胡散臭くなんかない。まったく胡散臭くなんかない。むしろ、これではっきりした。

単にバカなのだ。心の底から、それを認める。

「………………」
「何、その疲れきった顔?」
「知りません……私はこんなのに怯えてたんですか?」
「こんなのとは何さ、こんなのとは。これでも馬と鹿のハイブリッドだよ? 立派じゃん」
「……いえ、もう何も言いません」

疲れた。完全に毒気が抜かれてしまった。呆れしか浮かんでこない。この状況なら危機感を持つべきなのだろうが、完全に空気が白けきってしまっていた。

まあ確かに恐怖よりかはマシなのだろうが。恐怖と白け、どちらかに嘆息しようとして。

――悲鳴が、闇を切り裂いた。






「………………はぁ。やっぱダメか」

もともと期待なんてしていなかった。それでも自然とため息を漏らしていたことに、武藤十夢は顔をしかめた。そもそも、圏外の時点で電話をかける意味などなかったのだ。電波が来ていないことなど一目見ればわかる。通じない携帯を握り締めて、一人ごちる。ダメな時はとことんダメなのだ。いろいろと。人生そんなもんだった。

暗鬱にため息を吐いて、彼女は辺りを携帯で照らした。立ち並ぶ下駄箱。靴も上履きも入っていない。闇ばかりでほとんど先の見えない廊下。闇しかなくて、外の見えないガラス扉。そちらのほうへと、十夢は声をかけた。

「そっちはどう?」
「ダメ。やっぱり開かない」

答える声が一つ。感情を殺しているのか平坦な声だったが、ところどころに苛立ちのようなものが浮かんでいる。聞き慣れた声は、ガラス扉のほうからゆっくりこちらへと近づいてきていた。闇の中から、声の主の輪郭が現れる。小柄童顔、長い髪。眉間には小じわ。青白い光に照らされたその顔は、どことなく幽霊のように見えた。

その幼馴染、田野優花は今度こそ不満を爆発させて叫んでいた。

「寒いし暗いし眠いし静かだし……何で学校にいるのかわからないし、その上出られないし。あーもー! 何だってのよー!」
「……私が聞きたいよ」

とりあえず呻いて、彼女はもう一度だけ辺りを見回した。やっぱり何も変わらない――高校の、生徒昇降口だ。それ以外の何物でもない。見間違えるはずはない。

問題は、何故ここにいるのかということだった。携帯は午前二時を示している。こんな時間まで学校にいなければならない理由もないし、そもそも自分は家で寝ていたはずなのだ。それが起きたらいつの間にか学校で、しかも学生服を着ている。わけがわからない。

だが本当の問題はそんなことではないのかもしれない。ため息を吐いて、十夢はガラス扉に近づいた。そして携帯をかざす――だが、玄関の外は何も見えない。全てが闇に飲まれたまま。

「……何なんだかな」

もしかしたら、学校の外にはもう何も存在していないのではないか。そう思えるほど、何も見えなかった。外に出れない学校と、闇しか見えない外。どっちが本当に安全なのかと問われれば、素直に首を捻るしかなかったが。

馬鹿馬鹿しいとは理解しながらも、十夢はぼやいていた。

「電気もつかない、電波も来ない。そのうえ外に出ることができない……それだけで終わってくれればいいんだけどな」
「……? 何が?」

問いかけの声。本当に理解していないのか、優花はキョトンとしていた。それが若干羨ましく思える。考えなければよかった。

「こういうわけのわからない状況だと、決まって何か変なものが出てくるんだよ」
「変なもの?」
「悪霊とか、殺人鬼とか」

悪霊はないかもしれない。だが、いかにも殺人鬼ならありえそうだった。人知れず若い人間を誘拐し、何らかの技術で――この際魔法でもいい。説明がつくならば――軟禁し、少しずつ少しずつ嬲るように恐怖を与えて。そして最後に殺すのだ。簡単にその光景が想像できてしまう。

が、優花は優花で顔をしかめて呆れるだけだった。

「ネガティブだねー」
「どこをどう見て楽観視しろっていうの」

実際、何をとってもマイナス要素しか出てこない。それに気づいたのか、或いは考えたくなかったのか。優花は険しい表情で『それもそうだね』と同意してくる。その反応に満足してから、十夢は歩き出した。携帯で足元を照らして、ゆっくりと歩いていく。

「どこ行くの?」
「掃除ロッカー。モップでも箒でも何でもいい。とりあえず、武器が欲しい」
「……本格的にホラーだねー」

皮肉のつもりだったのだろうか。まったく笑えない。だから反応せず、歩き続ける。闇の中だったせいか、掃除ロッカーにたどり着くのでさえ時間がかかった。取っ手を引っ張って、中からウェットモップと箒を取り出す。モップの先端を外しながら、十夢は背後に問いかけた。

「どっち使う?」
「……え? あたしもなの?」
「当然でしょ?」

こうも暗いのでは、自分の身は自分で守るしかない。ナイトを気取って優花を危険に晒すよりは、そちらのほうが有効的だと思えた。

が、優花にとってはそうでもなかったらしい。

「……てかさ、そもそもそれ、必要あるの? ここ、学校だし。危険なんてあるとも思えないし」

もっともな質問ではあったのかもしれない。確かに、必要なんてないのかもしれない。こんなものを武器として、何を相手にするつもりだったのだろう。実際に殺人鬼がいるとも思えない。確かに馬鹿馬鹿しい話ではある。百八十度思考を旋回させてから、もう一度回す。結局、学校だからという理由は危険でない証明にはならないのだ。

殺人鬼。さっき考えた事をもう一度だけ繰り返す。学校。闇。その中に潜む鬼。偏執的に嬲ることだけを目的としている。恐怖の限界で、殺しに来る……そこで一つ、ため息を吐いた。

「備えあれば憂いなし……まあ、そんなもんじゃない?」
「えー。あたしは持ってかないよ?」
「……まあ、いいけど」

モップの先端を外し終える。モップが棒に成り代わったところで、十夢はまたため息を吐いた。これから何をするべきなのか。優花もそれを考えているのか、黙り込んでいる。

結局思いついたのは、十夢のほうが先だった。

「とりあえず人でも探そうか。もしかしたら、この異常事態を説明してくれるかもしれない」
「異常事態って言うわりに、暢気だよね」
「そんなもんよ」

いくらなんでも、状況に取り残され過ぎている。何故かここにいて、誰もいない。何もわからないのに慌てろといわれても、それは無理な話だった。これで明確な危険とかが示されているのであれば、焦るくらいはするのだろうが。

「まあ、行こうか?」
「……いるの? 人。なんか、すんごい静かなんだけど」
「優花がいたんだし、誰かいるでしょ」

特に考えもせず、適当に告げる。優花はなおも首を捻っていた。が、納得するしかなかったのか、『それもそうか』と呟いてくる……が。

何か思いいたるところがあったのか、優花はもう一度首を捻っていた。

「……遭難したときって、動き回っちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「………………これを遭難って言う?」
「だって、迷子だし……道にじゃなくて状況に、だけどさ」

大して面白くもなさそうに、優花は呟く。言い得て妙だと思った。状況に迷子。そのせいで目的に遭難している。確かに、間違いではない。

だが、止まっていれば何かが変わるとも思えないのもまた事実だった。

「とにもかくにも、人を捜そう。話はそれからだ……上からしらみつぶしに行こう」

そう言って歩き出す。足音は、闇の中で不気味に反響した。

優花の声も、不気味に反響していた。

「……これで誰もいなかったらどうなるのかな、あたしたち」






カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ……

もはや時代錯誤以外の何物でもない振り子時計が奏でる音色に、彼女は小さく首をかしげた。明かり一つない暗闇に、秒を刻む音が飲まれて消えていく。

誰も見ることのできない時計は、時計として意味があるのだろうか。ないのかもしれない。あるのかもしれない。どちらにしろ、その音は嫌というほど耳に残った。

「……まあ、静か過ぎるんだから、仕方ないんだろうけどさ」

辺り一面闇。一センチ先さえ見えない闇の中で、彼女はポツリと呟いた。闇は静寂を内包する。故に、静まり返った闇の中ではその音こそが世界の全てだった。音しか存在しない。もしかしたら、自分も存在していないのかもしれない。

それはありえないことだったが。

「寝てたはずなんだけどなあ……家で」

目覚めた瞬間、その世界に放り出されたのだ。まだ一分も経っていない。その間で理解したのは、闇の中に振り子時計の音が響いていることだけだった。聞き慣れた音でもある。

彼女は曖昧な記憶を探りつつ、その間にポケットをまさぐった。自分の部屋で寝ていたはずなのに、知らない場所にいる。記憶が繋がらない。
ため息と同時、彼女はポケットから携帯を取り出した――たぶん。というのも、見えなければそれが携帯なのか確かめようがなかったからだ。間違えて最近買ったアイポッドを取り出しても、たぶんしばらくは気づかない。まあ、闇とはつまり、その程度には面倒なものだった。

「……だからって、暗すぎなんだよ」

闇について考えるのを放棄して、彼女は小さくため息を吐く。そして携帯を開いた。淡い光が辺りを照らす。見えたのは、なにやら部屋の四分の一を占領している放送機材と、十六分の一を分捕っている、見慣れた振り子時計だった。

やっぱり、というべきなのかもしれない。そこは見慣れた部屋だった。思わず呟く。

「……放送室だ」

高校の。学校なら確実にある、一般的な放送室である。放送委員なのだから、そこは見慣れてて当然のことだった。まあ、そんなことなどどうでもいい。

問題は何故か電波が圏外なことだった。いくら防音設備に力を入れすぎた感のある放送室だからって、電波の侵略まで防げるわけではない。それは異常なことだった――壁に穴でも開いているのか、時々外に時計の音が漏れているらしいが。

とまれ、実は携帯が壊れてるだけなのかもしれない。表示がおかしくなった可能性がある。期待せずに、彼女は適当な手つきで自宅の電話番号を押した。耳にあて、しばらく待つ。

繋がらない。

「………………だよねー」

圏外はやっぱり圏外だった。どうやら、防音設備が電波に勝ってしまったらしい。もしくは、気絶――ここで寝ることはないだろう――している間に、大規模な地震でも起こったか。ありえなくはない話……でもなかった。それならまずこの放送室が潰れてる。潰れてなくても、並べられて放置されている撮影機材が倒れているはずだ。地震ではない。

なら何があるだろうか。何でもありえそうだったから、彼女はそこで考えるのをやめた。

天井を見上げる。どんなに高く見積もっても高さは二メートル半……のはずだったが、天井は闇に飲まれて文字通り天井知らずに化けていた。携帯を上に向けると、かろうじて灰色の天井が見えるようになる。やっぱり見慣れた放送室だった。そしてこれまたやっぱり、記憶に異常が発生している。

ふと気になって、彼女は時計に目をやった。振り子時計である。何のために、どうやって、誰が持ち込んだのか不明の、まさに謎の時計である。大きなのっぽの古時計の、多分後輩。カチコチやかましく鳴り続ける仕事熱心さは、正直羨ましいものではあった。が、だからといって憧れたりはしない。

人間には休息が必要なのだ。時計とは違う。壊れるまで働き続けて死因が過労死以外にありえない生き様なんてのは、まったくもってお断りだった。

死。

さっきは考えないようにしていたが、なかなか切実な問題であるような気がする。さっきまでは、確かに自分は死んでいた。闇の中で何も確認できなかったのだ。それはつまり、死んでいたといっても過言ではない。人間なんて簡単に死ねるのだ。人生を再開しなければならないかどうか。それは心臓と脳次第だったりするが。

どちらにしろ、あまりにも遅すぎることを自覚しながらも、彼女はそれを確認した。辺りに、人の気配はない。

「……脱線したねえ」

そんなことなどどうでもいい。時計である。時計。おそらくきっと、或いはたぶん。今となってはもはや曖昧だったが、自分はおそらく時間が知りたかったのだ。そのため以外に時計を見る理由はない。改めて彼女は時計を淡い光で照らした。十二時五十九分。夜なら丑三つ時、一分前。どうせ午後だ。異常はない。携帯を見る。AMの表示。異常はない……と言えたら、おそらくきっと、たぶん幸せになれた。

夜一時、一分前。見事に深夜である。この時間帯まで学校にいたことは今まで一度たりとてない。肝試しだって七時か八時である。馬鹿馬鹿しいくらい、非現実的な時間だった。

天井を見上げて、黙考する。結論。誘拐されたっぽい。とりあえず、諦観のため息を吐いて。彼女は心の底から呻くことにした。

「……どうにもなあ」

誰に誘拐されたのか。何故放送室に監禁――或いは軟禁――されているのか。いろいろと考えなければいけないことばかり盛りだくさんだったりもしたが。

とりあえず、彼女は時計を睨みつけることにした。のっぽの古時計は百年稼動した。百年。猫に二つ目の尻尾が生えるくらいの時間である。繰り返すが、百年。なら、無機物に魂が宿っても問題はない気がする。いや、たぶん十年かそこらで魂くらいは宿るのだ。そして二十年後には足が生え、三十年後には口が……まあ、どうでもいい。

とりあえずの問題は、時計は人を呪えるかということだった。呪えるのなら、万事解決だ。自分は時計に誘拐された。それでいいじゃないか。真実はいつも一つなのではない。真実は一人一つなのだ。

――ごぉん、ごぉん、ごぉん、ごぉん……

なんて馬鹿馬鹿しいことを考えている間に、丑の刻が始まりを告げる。

その音は、或いは人類と時計の魂の尊厳をかけた戦いの始まりを告げたのかもしれない。時計は本当に動くのか。気になるところではあったが。

「とりあえずは……いろんなことでも考えよう。状況を把握するためにも」

考えるバカは考える故にバカなのである。自分のことだ。そう意味もなくごちて。

彼女は、放送室から出て行った。

やっぱり廊下も闇だった。







拝啓。先立つ不幸をお許し下さい、なんて言ったら怒られるかな。自殺した人みたいだし。そりゃ私だって混乱してるんだからね? 詳しい事なんて全然解らないでいるし、不安で押し潰されそうだし、どうしてこうなっちゃったかなんて分からない。

でも喚いたって仕方がない。それにもう残された時間はほんのちょっとしかないみたいだし、後悔だけはしたくない。本当は直接貴方に伝えたかったんだけど、恥ずかしいし焦っちゃって上手く伝えられないと思うから、手紙にしました。口で言うより伝わると思うしね。恥ずかしいけど悔いが残っちゃうのは嫌だから、全部書いておきたいと思います。少し私の話に付き合って下さい。

貴方を初めて見たのは大学の学食でした。貴方は大学で将来を嘱望された有名人だったからすぐに分かったんだよね。私のような凡人は必死に泣きながら練習して入試に挑んだって言うのに、貴方は推薦で、それも大学からスカウトされたなんて噂が飛び交っていたから、ついつい睨んじゃって、貴方に変な顔で見られた。それが最初だった。昔のことだから覚えてないかも知れないけど、私は昨日の出来事のように覚えてます。大袈裟かも知れないけれど、あの時から全てが始まったのかも知れない。いくら教授の差し金だって、何だかんだ言って貴方は私のレッスン付き合ってくれたしね。

そう。これは覚えてるんじゃないかな。貴方が初めてデートに誘ってくれた時のこと。私は前日のレッスンで教授に酷いこと言われたからイライラしてた。ほんの些細なことがどうしても気に食わなくて、心の中がもやもやしてて、つい貴方に当たっちゃった。多分貴方の才能に嫉妬してたんだと思う。あの時は本当にどうかしてました。ごめんなさい。いつか謝ろうと思ってたんだけど、私も何だか恥ずかしくて、謝れなかった。ごめんね。反省してます。そう言えば、あれからもう十年以上経つんだね。あの時私が教えて上げた星の名前覚えてる?

結婚して子供が出来て、貴方も世界的にも認められて。きっと私は世界一の幸せ者だって、胸を張って言える。でね、きっと私がこうなっちゃった原因はここにあるんじゃないかなって最近思ってるの。これは私の勝手な推論で変な話だけどね、きっとね、人間って一生に神様から与えられてる幸せの量って決まってるんだと思う。私はきっと貴方に一生分の幸せをこの十年間で貰ったんだと思う。だからこんなに早く寿命が来ちゃった。そう思えば、こうなっちゃったのも何か納得できるんだよね。だから私はちゃんと運命を受け入れられてるのかも知れないし、もしかしたらそうやって死にたくないって藻掻いてる自分を誤魔化して、無理矢理納得させているだけなのかも知れない。でもね、私は今までの人生を後悔してないよ。例え貴方に出会ったからこそ、こうなっちゃったとしてもね。是対に、後悔はしてない。

久しぶりに長い文章、それも手書きで書いたから少し疲れたかな。文字を書くってこんなに重労働だったんだね。最近はずっとベッドの上の毎日だったから体力も衰えちゃって、手紙書いてるだけで疲れちゃうんだから、ショパンのノクターン弾くのも無理かもね。せっかく貴方が好きだって言ってくれたのに、ちょっと淋しいかな。

そろそろ本題ね。

えっとね、家のこと、子供のことをお願いします。子供が泣いても私はもうあやしたり抱き締めてあげることが出来ないもの。だから困ったときは私の父と母を頼ってください。この前母がここにお見舞いに来てくれたとき頼んだら大丈夫って言ってくれたから、きっと力になってくれるはずです。

私たち、子供が生まれてきたとき嬉しくて泣いたよね。その時傍で見守ってくれてた父と母は笑っててくれた。私はね、あの子には、あの子が永遠の眠りにつくとき、あの子が一番大切にしていた人に笑っていて、周囲の人たちに泣いてて貰えるような、そんな人生を送って欲しい、そんな人に育って欲しい。私はどうなるかわからないけど、私の両親はそうやって育ててくれたんだと思う。これは子育てしてて気付いたことなんだけど、両親のおかげで私は幸せになれた。貴方と巡り会えたんだ。ほんの少しだけだったけど、幸せな人生だった。私のエゴかも知れないけれど、あの子にも同じ想いをさせてあげたいの。私の分まで、あの子を幸せにしてあげてください。お願いします。

あとさ、読んだらこの手紙破いちゃってね。どうせ意地っ張りな貴方だもん。他人の前では絶対に涙を見せないで、きっと全部終わった後、誰もいないところでひっそり泣いてるはず。この手紙を読み返すたびに貴方がめそめそしてるなんて、私には耐えられないよ。私はいつまでも貴方を泣かせたくない。貴方の影ではありたくないの。それだけは絶対に嫌。もう私は過去の人だから、忘れてとまでは未練がましくて言えないけれど、もう私のために泣かないでほしい。私のために涙を流すくらいだったら、それは子供のために流して欲しい。私の分もあの子のためにいっぱいいっぱい泣いてあげて。

ね、今度会えるときはいつだろう。あ、間違っても早く来ちゃ駄目だからね。貴方には子供がいるから。あの子を置いて来よう何て考えちゃ駄目だからね。あの子が私みたいに素敵な旦那さんを見つけて、幸せになったのを私の分までしっかり見届けて、天寿を全うしてから来て頂戴。約束よ、これだけは絶対に守って。もし約束守ってくれたら天国の入り口まで迎えに来て、抱き付いていっぱいキスしてあげる。もし中途半端なタイミングで来たら追い返しちゃうんだから。

もし、もし私から会いに行けるようだったら絶対に会いに行きます。きっと貴方のピアノが恋しくなると思うから。神様の目を盗んでも会いに行くから、その時は私をどうか導いて。どんな迎え火よりも私は貴方のピアノに導かれるの。私は貴方のピアノが大好きだから。

それじゃあ、またね。また貴方に巡り会えることを楽しみにしています。世の中には輪廻転生って言葉があるくらいだから、きっとまた貴方にもあの子にも会えて、また一緒に暮らせるよね。貴方は馬鹿馬鹿しいって笑い飛ばすかも知れないけれど、私はそうなるって信じてるから。私は貴方に口説かれたから、今度は私から口説いてみようかな。だから、せめて最期の瞬間は、笑って、ありがとうってお別れできたらいいな。また会える日を、楽しみにしながら。

拙い話に最後まで付き合ってくれてありがとう。くれぐれも無理をせず、お身体に気を付けて下さい。貴方の活躍を祈っています。

ずっと愛しています。誰よりも。

 
     ◇◆

 

帰り道の夕焼け空。

それはまるで朱を溢したような空で、前方、かなり遠くに見える大橋が逆光となって黒く染まって見える。風がゆったりと地面を撫で、背丈の低い花々を小さく揺らしていて、どこからかトラックのエンジン音が聞こえてくる。

俺は堤防沿いをゆっくりと歩いていた。隣には、四歳になる娘。しっかりと手を繋いでいる。背後には長く伸びていた影。俺が手を握り返すと、娘も負けじと手を握り返してくれた。

娘と手を繋いで、ぼんやりと堤防の上の道を歩いていく。

ふと手に変な力を感じて、視線を下ろすと娘は立ち止まっていた。娘の視線の先、そこには白くスラリと背の高い花が群生していた。名前は分からない。

「ねぇ」

娘は無邪気に微笑みを湛えて見上げてきた。

「おはな、ままのおぶつだんにおそなえしたらままよろこぶ?」
「……喜ぶよ。絶対な」
「じゃあもってく!」

娘が嬉々として名も知らぬその白い花に手を伸ばしたその瞬間、無意識に俺は娘を止めていた。自分でもどうして花を摘み取ろうとした娘を止めたのか分からなかった。娘は、どうしてと言わんばかりに俺を見上げてくる。俺は娘の目線に合わせるようにしゃがみ込み、娘の頭を撫でた。

「そのお花だって、生きてるんだ。取っちゃ可愛そうだろ?」

予め決まっていたかのように、俺の口からはそんな言葉がスラスラと出てきた。

「かわいそう?」

生きている者を邪魔してはいけない、そう俺は娘に告げていた。

すると娘は視線を俺から花に移し、残念そうに眺めていた。俺はどうにかしてやれないかと周囲を軽く見渡し、そして見つけた。懐から財布を取り出しつつ、娘の両肩に手を当ててこちらに向かせた。

「あそこにお花屋さんがあるから」

指を指した先には一件の小さな花屋があった。店の中には穏和そうなお婆ちゃんが一人座っていて、新聞を読んでいる。俺は娘の小さな手に折った千円札を握らせ、

「好きな花、買ってこい。ママの好きなお花、分かるだろ?」

言われて娘は満面の笑みを浮かべて走り出す。

瞬間、走り行くその後ろ姿が妻に重なった。

胸が急に熱くなる。娘に妻の姿がちらついて離れない。俺は残像を振り払うように先程娘が摘み取ろうとしていた一輪の花を見詰めた。これ以上、娘を見てられなかった。

娘は妻にそっくりなのだ。優しそうな瞳、流れるような黒髪、そして何よりその顔に映る笑顔に何気ない仕草。全てが妻に重なって、どうしようもない悲しみに襲われる。妻がもうこの世にはいないことを思い知らされ、悲しみに全身が押し潰されそうになる。胸が、痛い。視界が歪む。

どうして。どうしてなのだろう。どうして妻は死ななければならなかったのだろうか。

あんなに娘の成長を心から願い、見守っていきたいと願っていた妻が。生きたがっていた妻がどうして。俺には理解できない。母親としてまだ幼い娘を一人残して死ぬなんて、さぞや無念だっただろう。が生まれたとき、病室でまだふにゃふにゃだった娘を抱きながら、この子の結婚式には絶対に自分が着たウェディングドレスを着させてやるんだ、そう馬鹿みたいにはしゃいでいた姿が目に浮かんで離れない。あの時、絶対に叶うと思っていた妻の夢は、叶わなかった。馬鹿みたいに小さくて、馬鹿みたいに素朴な妻の夢は、願いがこんなところで潰えて良いはずがないのに。

白い花に手を伸ばす。

永遠、そう思っていた。

白い花は、俺に握られながらも風に小さく揺れている。

大学で妻に出会ってからと言うもの、妻中心に世界が回っていた。仕事だってそうだ。妻が俺のピアノが好きだと言ってくれたから俺はここまでやってこられた。世界的にも認められ、リサイタルを開けるようになった。今の地位を掴むことが出来た。

妻にプロポーズして、返事を聞いたその瞬間、永遠だと確信した。永遠の幸せを噛み締めた。

やがて娘が生まれて、それから四年が経とうとしていた時だった。

余命の告知。

告知から二ヶ月。

俺が心から願い、望んだ『永遠』は六年と四ヶ月と一四日で幕を閉じた。

早いものだった。今から思い返しても、まるで奇跡のような六年と四ヶ月と一四日だった。過去を振り返るから短く感じられるのかも知れない。それとも行き着くところに行き着いてしまったからなのだろうか。

告知を受けてから、俺は自殺の報道がテレビをにぎわす度に、何度その行為自体を怨んだだろう。何度自らの意思で生死を選択できるその自由奔放さを嫉んだだろう。

そして何度願っただろうか。

その命、いらないのならば妻にあげてやってくれ、と。

花を放した。解放された花は元気よく風に揺れている。

顔を上げると、妙に鮮やかな夕焼けが視界いっぱいに広がっていた。妻と過ごした六年と四ヶ月と一四日。夕焼けをバックに、走馬灯のように、鮮明に、そして消えていく。

妻は、どこに行ったのだろう。目頭がまた熱くなってくる。

何となく、眼前いっぱいに広がる夕焼けに俺は手を伸ばしていた。精一杯手を伸ばしても夕焼けには届かない。もしかしたらあの夕焼けは妻なのかも知れない。そう考えてしまう自分がいる。けれどそんな自分を否定できなくて、心に浮かぶのは虚しさのみで、頬に涙が伝うのを感じている。何もない空間に手を伸ばす。妻と笑って過ごすためにあった未来は、どこにもないのだ。もう、どこにもないのだ。そんな未来を追い掛けるように、夕焼けに手を伸ばす。でも届かない。呼んでも呼んでも逢えなくて遠くなっていくのを思い知る。絶対に放さない、そう誓ったのに。

ぱぱ、と言う声に俺は振り返った。そこには心配そうに見上げている娘、手には花束が両手で大切に握られている。

「……明日は早いし、帰ろうか」

俺は娘の手を握った。

その手が、酷く暖かかくて。

娘に涙を見せまいと、俺は必死に堪えた。

 
     ◇◆

 

ベランダに、木製の椅子が向かい合って二つ置いてある。一つは俺の椅子で、もう一つは妻の椅子だった。この子がいるから禁煙ね。それからと言うもの、この空間が出来上がった。

妻はとても可愛らしい人だった。いつもいつも柔らかい笑顔を浮かべていて、何度妻に助けられたことだろう。抱き締めれば暖かくて、ほんの少し恥ずかしがり屋で、くすぐったそうに身を捩る妻が愛しくて愛しくて。自分の居場所がここだと確認できた。

愛用の椅子に座り込み、新しい煙草を咥え、火を付けた。

俺は、また妻に会えるのだろうか。

肌身離さず持ち歩いている『手紙』を握り締めながら、静かに煙草を吹かして想う。

見上げれば、満天の星空。

そう言えば、七夕も近い。すっかり忘れていた。

手に持っていたガラスの灰皿に煙草を押し付け、星空を理由もなしに眺る。

妻と過ごしていた日々は、あの満天の星空のように輝いていた。毎日が幸福の塊で楽しかった。昔読んだ本の主人公が言っていた。死んだ人は夜空の星となって生きている人を見守っているのだ、と。もしそれが本当ならば、妻は俺のことを見てくれているのだろうか。妻はあの空にいるのだろうか。空には妻が大好きだったピアノはあるのだろうか。寂しがっていないだろうか。

「……どうすりゃ、いいのかな」

自嘲しながらもう一本煙草を咥えて火を付けようとすると、さあね、という声が返ってきた。

思わず、周囲を軽く見渡して、やがて煙草に火を付け、落ち着くように自分に言い聞かせる。

妻は死んだのだ。こんなところにいるはずもない。

けれど。

もしかしたらどこかにいるのかも知れない。気が付けば俺は家中を探し回っていた。寝室、娘が寝ている子供部屋、客間、洗面台にバスルーム、そしてリビング、キッチン。妻は、どこにもいかなった。

「……なあ」

庭に出て、もう一度星空を見上げる。

「どうすりゃ、逢えるんだよ……」

妻が植え、育てたたくさんの花が咲き誇っている。

 
     ◇◆

 
靴を、履いていた。

違和感に俺の思考は停止、再び動き始めた思考がまず弾き出したのは、ここは何処だ、という簡単な命題だった。身体も空間も、何もかもがふわふわとしていて、現実味の欠片もない。まるで自分がお伽話の世界に放り込まれてしまったような、何とも言えない感覚に俺の身体を支配されながら、考えてみた。そもそも確かに俺は庭に出たが、靴は履いていない。なのに何故俺は靴を履いているのだろうか。

ふと到った。

夢か。

今、きっと自分は夢の中を漂っているのだ。そう思うと全てが上手く説明できるし、何よりも俺自身が納得できた。

ならば。

夢ならば。

期待を抱きつつ、その期待を疑いつつ。俺はゆっくりと振り返る。夢なら、もし本当にここが夢の世界ならば何か良いことが起こってくれればいいのに、そう願いながら振り返る―――ー

 

 
「……おう」

 

 
懐かしいとはまだ言えない。

愛しいとなら言える。

待ちこがれたその姿が、目の前に存在していた。

「……」

華奢な身体。婉美な口元。絹糸のような長い髪。純白のワンピースが静かに揺れている。

「あ、あ……」

言葉にならなかった。口が麻痺したように、脳が麻痺したように、どうしたらいいのか分からない。言いたいことはたくさんある。聞きたいこともたくさんある。けれど想いと想いの奔流がぶつかり合い、何もかもを綺麗に打ち消してしまう。震えた声で精一杯、口を開いた。

「あ、のな……」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「あの子、ちゃんと育てるから」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「頑張る、から」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「お前の分まで、可愛がるから」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「なあ、俺」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「幸せ、だった……」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「もっと、もっと幸せになる、するつもり、だったのに」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「何で、だよ」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「何で、死ぬんだよ」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「無責任だって。人の心、散々占領しておいて、さようならなんてさ、認めねぇよ」

妻は俺の目の前で可憐に笑っていた。

「なあ、」

妻の笑顔が歪んだ。涙が止めどなく溢れ出してくる。嗚咽が漏れ、肩の揺れが止まらない。

「なあ、お前、最期に――」

ようやく言葉らしい言葉が漏れた瞬間、妻の人差し指が唇を塞いだ。

そして何かを悲観するように空を見上げた刹那、天から光が降り注いだ。

「ちょ、ちょっと待てよ!」

悟った。一瞬のうちに時間切れだと言うことを。

「行くな!」

妻の手を握り締め、叫んでいた。

「せめて、何か言えって!」

薄れていく妻の身体。妻の手の感触も消えてしまった。

「おい!」

叫び散らす。妻の名を、何度も何度も。

手を伸ばす。妻の手を掴もうと、何度も何度も。

薄れていく妻の身体。神々しい光に飲まれていく。

思わず、俺は駆け出す。

もう逃がすまいと、手を伸ばしたその瞬間、妻は僅かに唇を動かしてーーーー

 
     ◇◆

 

気が付けば、庭の真ん中に座っていた。

ふと、見上げれば満天の星空。美しい天の川、妻が得意そうに教えてくれた、忘れもしない夏の大三角形、ベガ、アルタイル、デネブをバックに流星が駆け抜ける。

しばらく見上げていると、じわりと視界が滲んだ。

腕で強引に拭い去ると、持っていたガラスの灰皿を庭に置く。

灰皿の上に『手紙』を載せて、ライターで火を付けた。

 
     ◇◆

  
満天の星空の下、俺はふと思った。

空はさぞかし淋しいだろうと。空には妻が愛して止まなかったピアノはないらしい。

「悪い」

呆然と呟く。

「信じてなかった。お詫びに、誓う。何度でも弾く」

灰皿の上に積もった燃えかすを庭に溢さないように慎重に持ち上げて、

「だから、また、来い。弾けば、来てくれるんだったよな」

誰に向けてというわけでもなく、溢す。

「とびっきりのオリジナルを聞かせてやるよ」

星空を仰ぎ、いつしか妻が名前を教えてくれた星々を見上げた。

「タイトルは『星に願いを』――なんてどうだ?」








おわり
何も考えたくなくて、
ただふらり家を出た。

車に乗って、でも、目的地なんて特になくて。
ただ街の喧騒とか、人の流れとか、そういうものを呆然と見つめる。

意識したわけじゃない。
何を考えていたわけじゃないのに、
知らず溢れる涙。

そこでやっと気づく。

「ああ、私無理してたんだ……」

日々色んなことがありすぎて、
そういえば落ち込む暇さえなかった。
仕事をしてれば気が紛れるけれど、
それでもどこか上の空で、
気持ちはそこに居ない。

誰かと話していても、
一緒に笑っていても、
それでも心はいつも違うところにある。

「そっか、落ち込んでも良いんだ」

化粧が落ちるとか、
目が腫れるとか、
頭では冷静に思う自分が居るのに、
それでも涙は止まらなくて、
少し微笑った。

涙が心の浄化作用だって、
そう言っていたのは自分。
目的地が無いんじゃなくて、
このドライブの目的

は一つだった。

独りになること。
独りで泣くこと。

誰に気を使われるわけでもなく、
誰に心配されることもなく、
自分が心を浄化するためのドライブ。

そう思ったら、心はスッと軽くなった。

大丈夫。
きっと、また頑張れる。
まだ前に進める。

「泣ける」なら、大丈夫だと思った。








おわり