「……寒い」
意味のない呟きに、顔をしかめる。もともとそんなことなどわかっていた。それでも呟いたのは、そうすれば何かが変わると思っていたからなのかもしれない。現実は無常にも、何も変化しなかったが。どちらにしろ、島崎遥香は呟いたことを後悔した。
小さな呟きだったのに、闇の中で何度も何度も反響する。最終的にはそれはぼやけた声になり、それはあたかも自分の声ではなかったような錯覚を呼んだ。
自分の声でなければ誰が呟いたというのだ――思い浮かんだ答えを、遥香は慌てて振り払う。それは余計に寒さを感じさせかねないものだった。だが、一度浮かんでしまった答えを消すことはできない。
誰かいるのではないか。この闇に、何か良からぬものが。
それはまったく面白くない発想だった。この闇の中に潜んでいる。ホラー映画も顔負けだ。この闇は、きっと殺人鬼や悪霊のような、悪意の塊でしかないものが潜んでいる。それはきっと、最後には――数分後かもしれない――自分を殺すのだ。
本当に、最低だった。夢なら更に最低だった。あまりにも、現実味を帯びすぎている。
足音もまた最低でしかなかった。明かりのない闇の中に一歩踏み出すと、たちまち闇が足音を増やす。やはり、自分の足音ではないもののように。そして最後には無音。まるで、闇は遥香を嘲笑うように存在しているようだった。
気持ち悪い。闇に体中を舐めまわされている。それは最低を超えて、最悪の蹂躙だった。肌に纏わりつく寒さが、何度も何度も蹂躙を繰り返しては冷や汗を誘う。増える足音が、鼓膜を何度も何度も振るわせる。最低の想像ばかりが、頭の中に再生される……
(……闇は、嫌い)
声には出さずに、嘆息する。仕方のないこと……と言えるほど、それを達観することはできなかったが。それでも繰り返す――闇は、嫌い。
何も見えない、本当の闇。明かりがない。だから廊下でさえも真の闇に包まれている。何も見えない。音だけの世界だ。しかも、その音に方向は存在しない。当然だ、闇の時点で方向などないのだから。自分の足元から発生したはずの足音。なのに、全方位から聞こえてくる。そのくせ音源はいつも一つだ。自分の足音に、自分は怯えている。
そもそも何故闇の中を歩かねばならないのだ。壁伝いに歩いてきた足を止めて、遥香は深くため息を吐いた。どこに行けばいいのかも、何をすればいいのかもわからない。ただ何故か、闇の中にいた。それだけの理由で歩かされている。
誰に? 自分以外に誰もいない。それは理不尽なことだった。第三者が勝手に何かやったのに、そのとばっちりを受けているのは自分なのだから。
何も見えない。それをもう一度自覚して、彼女は目を閉じた。足はもう止めている。もう何も存在しない。自分の意思しか、もうこの闇の中にはない。その闇の中で考える。
(……まるで、死後の世界)
闇だけ。自分がどこにいるのかもわかっていない。そのくせ、意思だけははっきりとしている。地獄とはつまり、この闇そのものを言うのだろう――無音の静寂は、たやすく人間を壊すことができる。たとえそれが、どんなに強い人間であろうとも。自分でさえ、自分を確認できない。認めてやることができない。最後には、自分が何だったのかさえわからなくなってしまうのだろう。それは恐怖以外の何物でもなかった。
闇は嫌いだった。少しずつ、少しずつ、自分という存在が壊されていくようで。或いは、消されていくようで。誰かに自分という存在を確認して欲しい。そうすればきっと、この闇の中でも平然と立っていられるようになる。壁などに手を着かなくても、きっとまっすぐ歩いていける。
ふと気づいて、遥香は暗鬱に息を吐いた。気づきたくなかったことだった。
(……一人が、怖い)
闇が、ではなかったのかもしれない。つまるところ。闇は、孤独であることを明白にさせてしまう。だから闇が嫌いだったのかもしれない。そう思うと、もう闇は怖くない。もう、闇など恐れられない……その代わりに、寒さが増したような気がした。
誰かを探さないと。もう一人ではいられない。気づいてしまった。この寒さは自分が壊れていく寒さだ。壊れきる前に自分の姿を確認しないと。じゃないと、どうにかなってしまいそうだった。だが、歩き出せない。止まった弾みに、手を壁から離してしまっていた。それだけで、歩き出せない。闇は残酷だった。床の感覚でさえもなくしてしまうのだから。
もしかしたらこの一歩先には何もないのではないか。あったとして、その先は? その一メートル先に床がある保証はどこにある?
いや、そうでなくともその闇の中に悪意持つ何かが潜んでいないといえるのか?
笑い出してしまいそうだった。ここがどこなのかもわからないだけならまだしも、一歩先に床があるのかさえわからない。安全なのかもわからない。泣き出してしまいそうだった。そのどちらをしても、最後には壊れてしまいそうだった。
そして不意に、その音は聞こえてきた。
「……!?」
息が引きつるのが、自分でもよくわかった。
それは足音だった。誰かの足音。一定の間隔で、一定の速度を保って近づいてきている。
近くに、誰かがいる。誰かの存在。それが呼んだのは歓喜ではなく恐怖だった。誰かいる。どこかもわからないこの闇の中、誰かが歩いている。何のために。何をするために。
さっき考えていた事を思い出してしまった。殺人鬼。誰かを殺すために、この闇を徘徊している。この闇に潜んでいる。体が震える。寒気の中に痛みを感じた。
胸が苦しい。呼吸ができない。近づいてくる。
足音。前後左右。どこからも近づいてくる。遠ざかることだけはない。何故この闇の中で歩けるのか。殺人鬼だからと言われれば、それだけで納得できてしまえそうだった。
そして、不意にそれを見た。
青白い鬼火。それが突然現れた。
「……!」
殺人鬼じゃない。悪霊だった。幽霊だったのかもしれない。青白い顔。ブレザータイプの学生服に身を包んだ、女。足は闇に溶けている。笑っても、怒ってもいない。無表情。青白い無表情。悪霊ならば闇など気にもしないだろう。彼女たちにとっては闇こそが聖地だ。
悲鳴は上げることはできなかった。逃げ出すこともできなかった。息を吐くことさえできなかった。逃げ出さなければ。でもどこへ。わからない。わからないけど早くどこかへ。逃げ出さなければならないのに、体が動かない――今になって気づいた。立てない。いつの間にか、腰を抜かして座り込んでしまっている。逃げ出せない。
ただ、冷たい寒さの中で必死に目を閉じた。殺されるのだ。私はきっと、ここで嬲られて殺されるのだ。
悪霊の声だけが、暢気に反響する……
「……いや、あのさ。せめて携帯くらい開こうよ。肝試しじゃないんだからさ」
悪霊は呆れたようだった――恐る恐る、目を開く。
少女がいた。顔には呆れが浮かんでいる。それははたから見れば、驚愕を精一杯無表情で押し殺しているようでもあった。悪意なんてどこにもない。
ただ思ったことを呟いただけのようだった。それに思わず、間抜けな声を漏らす。
「……え?」
「いや、え? じゃなくて……携帯。足元くらい照らせるんだからさ、使おうよ」
手元の鬼火を指差して、その女は言ってくる。携帯――それで気づく。
鬼火は、携帯電話の光だった。気づけば足もある。こちらにテクテク歩いてくる。悪霊なんかじゃなかった。殺人鬼にも見えない。見覚えはないが、本当にただの生徒だった。
手を指し伸ばしてくる。その手をおずおずと掴む。暖かい手だった。ゆっくりと、自分に合わせて引き上げてくる。気を使われたのだと――立ち上がってからようやくそれに気づく。そのときには、もういろいろと遅かった。
(………………!)
思わず泣きそうになる。羞恥心と安堵がとめどなく溢れてくる。
ただ人に会った。それだけなのに、涙腺が壊れたように緩み始める。それがまた羞恥心を誘い、泣きそうになる。その悪循環を必死に堪えながら、遥香は震える声で、精一杯へ以前を装って呟いた。
「携帯、持って、ません……生活に必要ない、から」
涙は見えてないだろうか。泣きそうな顔になってはいないだろうか。顔は赤くなってないだろうか――それをただ、ひたすら気にする。彼女はそんなこちらの心境になどまったく気づかず、呆れたように言ってきた。
「え? いやいやいやいや、女子高生なら持ってるでしょ携帯。時計だって用なしにしてくれる便利アイテムだよ?」
「……と、けい?」
何故そこで時計が出てきたのか。思わず訊ね返す。
が、彼女は勘違いしたようだった。まさか、と言いたげな顔で、言ってくる。
「時計知らないとか言わないよね……さすがに」
慌てて首を振る。さすがにそれくらいは知っている。この歳になってまで知らない人などいないだろう。こちらの反応に満足したのか、彼女は怪訝を幾分か柔らかくさせる。
「あ」
と、ふと何かに気づいたように声を上げる。
「あー、そっかそっか。もう時計っていらないんだ、ほとんどの人が携帯持ってるから。魂持っても必要とされないんじゃ怒るよね。時間戦争が始まるのも時間の問題かもね」
「じかん、せんそう?」
突然変な方向に話が飛んで、また思わず聞き返す。少女はその呟きに、答えにならない答えを返してきた。
「のっぽの古時計とおじいさんが両軍の総大将なんだと思うよ、たぶん」
「……何の話、ですか?」
「明後日の話」
「……はあ」
とりあえず、適当な言葉を漏らす。何の話だったのか、いまいちまったくわからなかった。わからなかったが――まあ、気分は落ち着いてきた。涙ももう出ない。安堵はまだ残っているが、羞恥心はもうどこにもなかった。
気を使いすぎて妙な話をしようと思ったのなら――彼女に感謝するべきなのかもしれないが。
と、冷静になって初めて気づく。
「ここ……学校、ですか?」
見覚えのある場所だった。教室棟の一階。一年棟と呼ばれる場所の廊下。何故こんなところにいるのか、記憶を辿る。が、昨日の夜、家で予習してから眠りについた、そこまでの記憶しかなかった。
彼女は暢気に呟いてくる。
「まあ、そだね。問題は、何故か閉じ込められてることなんだけど」
「え?」
聞き間違いだろうか。閉じ込められていると彼女は言ったようだった。だがそれは、普通に考えるならありえないことだった。昇降口が閉められていたとしても、中からなら簡単に鍵が開けられる。出ることはできるはずだった。
驚愕と怪訝が顔に出ていたのかもしれない。彼女はどうでもよさそうに窓を指差した。吊られて視線をそちらに向ける……
「……え?」
また間抜けな声が漏れた。窓の外もまた、闇だったのだ。月明かりも、星空も、町の光も何もない。ただの闇だけが広がっていた。
「窓開けてみて。そうすればよくわかる」
更に追い撃ちをかけるように、彼女。素直に彼女の言葉に従って、遥香は窓の鍵を下ろした。特に何もない。窓を引く。鍵が下りた以上、これで窓が開く。それは疑うべくもないことのはずだった。
が。引いても、窓はビクともせず、まるで万力に挟まれたように動かない。
「……え?」
また同じ呟きが漏れた。こうなることを予想していたのか、彼女はため息を吐いていた。
「とまあ、こんな感じ。昇降口も職員玄関も体育館前の玄関もダメ。ここに何でいるのかもわかんないけど、外に出るのもダメなんだってさ。電波も来てない。何かよくわからないけど、異常事態だね」
「……それは、わかりましたけど」
つまり、何者かの手によって、拉致軟禁されてしまったわけだ。誰に拉致されたのか、何故監禁ではないのか。それはまったくわからなかったが。もしかしたら、本当に殺人鬼か悪霊がいるのかもしれない。
どちらにしろ、そんなことよりも問題があった。それを、遥香は問いかける。
「それで、あなたは?」
「へ? わたし?」
「ええ。あなたは……誰なんですか?」
正直なところ、異常事態だと自分で言っているのに暢気すぎる。どうにも、そのせいで何かこの異常事態自体が胡散臭く見えてくるのだ。といっても、胡散臭いからといって何かが変わるわけでもないのだが。
「んー……」
というか、彼女自体が胡散臭いのだ。何故か、彼女は考え込むように天井を見上げた。釣られて見上げる。薄暗い中に、灰色の天井が見える。闇が緩和されたとはいえ、劇的に辺りが明るくなるわけでもない。彼女の胡散臭さが、薄らぐわけでもない……
やがて、彼女はポツリと呟いた。
「『考えるバカ』」
「……は?」
意味がわからない。その反応に、彼女は苦笑したようだった。
「あだ名だよ、あだ名。ほらよくあるじゃん? 名前書かれると死んじゃうノートとか。そういうのの対策だと思ってもらえればいい。異常事態だしね、警戒くらいはさせて欲しい」
「……そんなノート、聞いたことないんですが」
いくら異常事態だからって、何かいろいろとおかしい気がする。胡散臭いものを見る目で彼女を見つめると、彼女も彼女で何故か呆れているようだった。
「これだから携帯も持ってない化石は……」
「……遠まわしに古い人間って言わないでください」
ムッとして言い返すが、そんなことはどうでもいいらしく。彼女は勝手に先を続けていた。
「まあ、無駄にどうでも良い事ばっか考えてるからそんなあだ名がついたんだけどさ。そんなに悪いことでもないと思うんだよね、考えることって」
「たとえば?」
「無機物が魂を持ったら、人を呪うのか」
「……結論は?」
「場合によりけりで落ち着いた。だって魂持ってるって事は感情持ってるって事だもん。他の人の考えなんてわたしにはわかりません」
「………………」
最後まで聞いて、遥香は思いっきり嘆息した。ここまで話せばもうわかる。彼女は胡散臭くなんかない。まったく胡散臭くなんかない。むしろ、これではっきりした。
単にバカなのだ。心の底から、それを認める。
「………………」
「何、その疲れきった顔?」
「知りません……私はこんなのに怯えてたんですか?」
「こんなのとは何さ、こんなのとは。これでも馬と鹿のハイブリッドだよ? 立派じゃん」
「……いえ、もう何も言いません」
疲れた。完全に毒気が抜かれてしまった。呆れしか浮かんでこない。この状況なら危機感を持つべきなのだろうが、完全に空気が白けきってしまっていた。
まあ確かに恐怖よりかはマシなのだろうが。恐怖と白け、どちらかに嘆息しようとして。
――悲鳴が、闇を切り裂いた。
意味のない呟きに、顔をしかめる。もともとそんなことなどわかっていた。それでも呟いたのは、そうすれば何かが変わると思っていたからなのかもしれない。現実は無常にも、何も変化しなかったが。どちらにしろ、島崎遥香は呟いたことを後悔した。
小さな呟きだったのに、闇の中で何度も何度も反響する。最終的にはそれはぼやけた声になり、それはあたかも自分の声ではなかったような錯覚を呼んだ。
自分の声でなければ誰が呟いたというのだ――思い浮かんだ答えを、遥香は慌てて振り払う。それは余計に寒さを感じさせかねないものだった。だが、一度浮かんでしまった答えを消すことはできない。
誰かいるのではないか。この闇に、何か良からぬものが。
それはまったく面白くない発想だった。この闇の中に潜んでいる。ホラー映画も顔負けだ。この闇は、きっと殺人鬼や悪霊のような、悪意の塊でしかないものが潜んでいる。それはきっと、最後には――数分後かもしれない――自分を殺すのだ。
本当に、最低だった。夢なら更に最低だった。あまりにも、現実味を帯びすぎている。
足音もまた最低でしかなかった。明かりのない闇の中に一歩踏み出すと、たちまち闇が足音を増やす。やはり、自分の足音ではないもののように。そして最後には無音。まるで、闇は遥香を嘲笑うように存在しているようだった。
気持ち悪い。闇に体中を舐めまわされている。それは最低を超えて、最悪の蹂躙だった。肌に纏わりつく寒さが、何度も何度も蹂躙を繰り返しては冷や汗を誘う。増える足音が、鼓膜を何度も何度も振るわせる。最低の想像ばかりが、頭の中に再生される……
(……闇は、嫌い)
声には出さずに、嘆息する。仕方のないこと……と言えるほど、それを達観することはできなかったが。それでも繰り返す――闇は、嫌い。
何も見えない、本当の闇。明かりがない。だから廊下でさえも真の闇に包まれている。何も見えない。音だけの世界だ。しかも、その音に方向は存在しない。当然だ、闇の時点で方向などないのだから。自分の足元から発生したはずの足音。なのに、全方位から聞こえてくる。そのくせ音源はいつも一つだ。自分の足音に、自分は怯えている。
そもそも何故闇の中を歩かねばならないのだ。壁伝いに歩いてきた足を止めて、遥香は深くため息を吐いた。どこに行けばいいのかも、何をすればいいのかもわからない。ただ何故か、闇の中にいた。それだけの理由で歩かされている。
誰に? 自分以外に誰もいない。それは理不尽なことだった。第三者が勝手に何かやったのに、そのとばっちりを受けているのは自分なのだから。
何も見えない。それをもう一度自覚して、彼女は目を閉じた。足はもう止めている。もう何も存在しない。自分の意思しか、もうこの闇の中にはない。その闇の中で考える。
(……まるで、死後の世界)
闇だけ。自分がどこにいるのかもわかっていない。そのくせ、意思だけははっきりとしている。地獄とはつまり、この闇そのものを言うのだろう――無音の静寂は、たやすく人間を壊すことができる。たとえそれが、どんなに強い人間であろうとも。自分でさえ、自分を確認できない。認めてやることができない。最後には、自分が何だったのかさえわからなくなってしまうのだろう。それは恐怖以外の何物でもなかった。
闇は嫌いだった。少しずつ、少しずつ、自分という存在が壊されていくようで。或いは、消されていくようで。誰かに自分という存在を確認して欲しい。そうすればきっと、この闇の中でも平然と立っていられるようになる。壁などに手を着かなくても、きっとまっすぐ歩いていける。
ふと気づいて、遥香は暗鬱に息を吐いた。気づきたくなかったことだった。
(……一人が、怖い)
闇が、ではなかったのかもしれない。つまるところ。闇は、孤独であることを明白にさせてしまう。だから闇が嫌いだったのかもしれない。そう思うと、もう闇は怖くない。もう、闇など恐れられない……その代わりに、寒さが増したような気がした。
誰かを探さないと。もう一人ではいられない。気づいてしまった。この寒さは自分が壊れていく寒さだ。壊れきる前に自分の姿を確認しないと。じゃないと、どうにかなってしまいそうだった。だが、歩き出せない。止まった弾みに、手を壁から離してしまっていた。それだけで、歩き出せない。闇は残酷だった。床の感覚でさえもなくしてしまうのだから。
もしかしたらこの一歩先には何もないのではないか。あったとして、その先は? その一メートル先に床がある保証はどこにある?
いや、そうでなくともその闇の中に悪意持つ何かが潜んでいないといえるのか?
笑い出してしまいそうだった。ここがどこなのかもわからないだけならまだしも、一歩先に床があるのかさえわからない。安全なのかもわからない。泣き出してしまいそうだった。そのどちらをしても、最後には壊れてしまいそうだった。
そして不意に、その音は聞こえてきた。
「……!?」
息が引きつるのが、自分でもよくわかった。
それは足音だった。誰かの足音。一定の間隔で、一定の速度を保って近づいてきている。
近くに、誰かがいる。誰かの存在。それが呼んだのは歓喜ではなく恐怖だった。誰かいる。どこかもわからないこの闇の中、誰かが歩いている。何のために。何をするために。
さっき考えていた事を思い出してしまった。殺人鬼。誰かを殺すために、この闇を徘徊している。この闇に潜んでいる。体が震える。寒気の中に痛みを感じた。
胸が苦しい。呼吸ができない。近づいてくる。
足音。前後左右。どこからも近づいてくる。遠ざかることだけはない。何故この闇の中で歩けるのか。殺人鬼だからと言われれば、それだけで納得できてしまえそうだった。
そして、不意にそれを見た。
青白い鬼火。それが突然現れた。
「……!」
殺人鬼じゃない。悪霊だった。幽霊だったのかもしれない。青白い顔。ブレザータイプの学生服に身を包んだ、女。足は闇に溶けている。笑っても、怒ってもいない。無表情。青白い無表情。悪霊ならば闇など気にもしないだろう。彼女たちにとっては闇こそが聖地だ。
悲鳴は上げることはできなかった。逃げ出すこともできなかった。息を吐くことさえできなかった。逃げ出さなければ。でもどこへ。わからない。わからないけど早くどこかへ。逃げ出さなければならないのに、体が動かない――今になって気づいた。立てない。いつの間にか、腰を抜かして座り込んでしまっている。逃げ出せない。
ただ、冷たい寒さの中で必死に目を閉じた。殺されるのだ。私はきっと、ここで嬲られて殺されるのだ。
悪霊の声だけが、暢気に反響する……
「……いや、あのさ。せめて携帯くらい開こうよ。肝試しじゃないんだからさ」
悪霊は呆れたようだった――恐る恐る、目を開く。
少女がいた。顔には呆れが浮かんでいる。それははたから見れば、驚愕を精一杯無表情で押し殺しているようでもあった。悪意なんてどこにもない。
ただ思ったことを呟いただけのようだった。それに思わず、間抜けな声を漏らす。
「……え?」
「いや、え? じゃなくて……携帯。足元くらい照らせるんだからさ、使おうよ」
手元の鬼火を指差して、その女は言ってくる。携帯――それで気づく。
鬼火は、携帯電話の光だった。気づけば足もある。こちらにテクテク歩いてくる。悪霊なんかじゃなかった。殺人鬼にも見えない。見覚えはないが、本当にただの生徒だった。
手を指し伸ばしてくる。その手をおずおずと掴む。暖かい手だった。ゆっくりと、自分に合わせて引き上げてくる。気を使われたのだと――立ち上がってからようやくそれに気づく。そのときには、もういろいろと遅かった。
(………………!)
思わず泣きそうになる。羞恥心と安堵がとめどなく溢れてくる。
ただ人に会った。それだけなのに、涙腺が壊れたように緩み始める。それがまた羞恥心を誘い、泣きそうになる。その悪循環を必死に堪えながら、遥香は震える声で、精一杯へ以前を装って呟いた。
「携帯、持って、ません……生活に必要ない、から」
涙は見えてないだろうか。泣きそうな顔になってはいないだろうか。顔は赤くなってないだろうか――それをただ、ひたすら気にする。彼女はそんなこちらの心境になどまったく気づかず、呆れたように言ってきた。
「え? いやいやいやいや、女子高生なら持ってるでしょ携帯。時計だって用なしにしてくれる便利アイテムだよ?」
「……と、けい?」
何故そこで時計が出てきたのか。思わず訊ね返す。
が、彼女は勘違いしたようだった。まさか、と言いたげな顔で、言ってくる。
「時計知らないとか言わないよね……さすがに」
慌てて首を振る。さすがにそれくらいは知っている。この歳になってまで知らない人などいないだろう。こちらの反応に満足したのか、彼女は怪訝を幾分か柔らかくさせる。
「あ」
と、ふと何かに気づいたように声を上げる。
「あー、そっかそっか。もう時計っていらないんだ、ほとんどの人が携帯持ってるから。魂持っても必要とされないんじゃ怒るよね。時間戦争が始まるのも時間の問題かもね」
「じかん、せんそう?」
突然変な方向に話が飛んで、また思わず聞き返す。少女はその呟きに、答えにならない答えを返してきた。
「のっぽの古時計とおじいさんが両軍の総大将なんだと思うよ、たぶん」
「……何の話、ですか?」
「明後日の話」
「……はあ」
とりあえず、適当な言葉を漏らす。何の話だったのか、いまいちまったくわからなかった。わからなかったが――まあ、気分は落ち着いてきた。涙ももう出ない。安堵はまだ残っているが、羞恥心はもうどこにもなかった。
気を使いすぎて妙な話をしようと思ったのなら――彼女に感謝するべきなのかもしれないが。
と、冷静になって初めて気づく。
「ここ……学校、ですか?」
見覚えのある場所だった。教室棟の一階。一年棟と呼ばれる場所の廊下。何故こんなところにいるのか、記憶を辿る。が、昨日の夜、家で予習してから眠りについた、そこまでの記憶しかなかった。
彼女は暢気に呟いてくる。
「まあ、そだね。問題は、何故か閉じ込められてることなんだけど」
「え?」
聞き間違いだろうか。閉じ込められていると彼女は言ったようだった。だがそれは、普通に考えるならありえないことだった。昇降口が閉められていたとしても、中からなら簡単に鍵が開けられる。出ることはできるはずだった。
驚愕と怪訝が顔に出ていたのかもしれない。彼女はどうでもよさそうに窓を指差した。吊られて視線をそちらに向ける……
「……え?」
また間抜けな声が漏れた。窓の外もまた、闇だったのだ。月明かりも、星空も、町の光も何もない。ただの闇だけが広がっていた。
「窓開けてみて。そうすればよくわかる」
更に追い撃ちをかけるように、彼女。素直に彼女の言葉に従って、遥香は窓の鍵を下ろした。特に何もない。窓を引く。鍵が下りた以上、これで窓が開く。それは疑うべくもないことのはずだった。
が。引いても、窓はビクともせず、まるで万力に挟まれたように動かない。
「……え?」
また同じ呟きが漏れた。こうなることを予想していたのか、彼女はため息を吐いていた。
「とまあ、こんな感じ。昇降口も職員玄関も体育館前の玄関もダメ。ここに何でいるのかもわかんないけど、外に出るのもダメなんだってさ。電波も来てない。何かよくわからないけど、異常事態だね」
「……それは、わかりましたけど」
つまり、何者かの手によって、拉致軟禁されてしまったわけだ。誰に拉致されたのか、何故監禁ではないのか。それはまったくわからなかったが。もしかしたら、本当に殺人鬼か悪霊がいるのかもしれない。
どちらにしろ、そんなことよりも問題があった。それを、遥香は問いかける。
「それで、あなたは?」
「へ? わたし?」
「ええ。あなたは……誰なんですか?」
正直なところ、異常事態だと自分で言っているのに暢気すぎる。どうにも、そのせいで何かこの異常事態自体が胡散臭く見えてくるのだ。といっても、胡散臭いからといって何かが変わるわけでもないのだが。
「んー……」
というか、彼女自体が胡散臭いのだ。何故か、彼女は考え込むように天井を見上げた。釣られて見上げる。薄暗い中に、灰色の天井が見える。闇が緩和されたとはいえ、劇的に辺りが明るくなるわけでもない。彼女の胡散臭さが、薄らぐわけでもない……
やがて、彼女はポツリと呟いた。
「『考えるバカ』」
「……は?」
意味がわからない。その反応に、彼女は苦笑したようだった。
「あだ名だよ、あだ名。ほらよくあるじゃん? 名前書かれると死んじゃうノートとか。そういうのの対策だと思ってもらえればいい。異常事態だしね、警戒くらいはさせて欲しい」
「……そんなノート、聞いたことないんですが」
いくら異常事態だからって、何かいろいろとおかしい気がする。胡散臭いものを見る目で彼女を見つめると、彼女も彼女で何故か呆れているようだった。
「これだから携帯も持ってない化石は……」
「……遠まわしに古い人間って言わないでください」
ムッとして言い返すが、そんなことはどうでもいいらしく。彼女は勝手に先を続けていた。
「まあ、無駄にどうでも良い事ばっか考えてるからそんなあだ名がついたんだけどさ。そんなに悪いことでもないと思うんだよね、考えることって」
「たとえば?」
「無機物が魂を持ったら、人を呪うのか」
「……結論は?」
「場合によりけりで落ち着いた。だって魂持ってるって事は感情持ってるって事だもん。他の人の考えなんてわたしにはわかりません」
「………………」
最後まで聞いて、遥香は思いっきり嘆息した。ここまで話せばもうわかる。彼女は胡散臭くなんかない。まったく胡散臭くなんかない。むしろ、これではっきりした。
単にバカなのだ。心の底から、それを認める。
「………………」
「何、その疲れきった顔?」
「知りません……私はこんなのに怯えてたんですか?」
「こんなのとは何さ、こんなのとは。これでも馬と鹿のハイブリッドだよ? 立派じゃん」
「……いえ、もう何も言いません」
疲れた。完全に毒気が抜かれてしまった。呆れしか浮かんでこない。この状況なら危機感を持つべきなのだろうが、完全に空気が白けきってしまっていた。
まあ確かに恐怖よりかはマシなのだろうが。恐怖と白け、どちらかに嘆息しようとして。
――悲鳴が、闇を切り裂いた。