息を吸う。限界まで吸って、そして吐く。吐く時に声帯を震わせて、その息は初めて声になる。その声が叫びとなるか、それとも悲鳴になるか。それはその声を発した当人の心境次第だろう。個人的には、どちらも大差ないように思えたが。
「これは、考える必要もないね」
悲鳴だ。それも長い。取り繕う必要も、捏造する理由も感じない。紛うことなく悲鳴だ。女の。目の前の化石少女ではない。それはつまり。
考え終わるよりも早く、化石少女がうろたえる。声は震えていた。どうやら悲鳴に恐怖を覚えたらしい。長い髪が、彼女の動作に合わせて揺れた――先ほどのように、腰を抜かしたわけではなさそうだったが。
「な、何であなたはそう暢気なんですか……!?」
「だって、当事者じゃないし」
とは言いつつも、考える。悲鳴の聞こえた方角。悲鳴の聞こえてきた場所。悲鳴の理由。悲鳴を上げた存在のその後。
考えなければならないことは多々あるが、とりあえずの問題は。
「どこに行くの?」
その悲鳴の方角に歩き始めた、彼女だった。暗いせいで、走りたいのに走れないのだろう。その気配は背中からでもわかる。その背中を追いかけるように、彼女も歩き出した。
足を止めることもこちらを振り向くこともせずに、女は言う。
「悲鳴です。誰かいます……知り合いかもしれません」
「まあ、そうだね。それで?」
「助けに行くべきです。今は異常事態です。知り合いじゃなかったとしても、協力し合えるかもしれません」
「危険に巻き込まれるかもしれないね」
失言だったかもしれない。そう思ったのは、彼女が不自然に足を止めたからだった。肩越しにこちらを見てくる。その瞳はぼうぅと照らされ、幽鬼じみていた。
声はそれよりかははっきりしていた――つまりは怒気を含んだものだったが。
「……何が言いたいんですか?」
「いや、別に? ただ、猪突猛進はいただけないなあって話さ」
「……見捨てる気?」
「冷静になれって言いたいの。とはいえ……」
ため息を一つ。空気を改めるためのその息が消えてから、女は問いかけた。
「声のした方角、どっち?」
悲鳴は反響していた。が、だからといっておおよその見当がつかないわけではない。少なくとも悲鳴を上げた一瞬だけは、その方角がはっきりしているのだから。最初の音を記憶に残すことに成功させられていれば、反響など気にしなくてもいい。
戸惑いと怪訝を潜ませて、彼女は答えた。
「三階。たぶん……教室」
「理由は?」
「声の方角です。この上の遠くからでした。だけど、少しくぐもっていたように思います。廊下からならもっとはっきりしているはずです」
「………………ふむ」
思考を閉じて、頷く。そして地図を思い浮かべた。角張った『タ』の字。今いるのは教室棟の一階だ。一年棟ともいう。そして三階は三年棟。放送室などは別棟だ。あの悲鳴は教室からだというのなら、何も問題はない。断言できた。
「なら、十中八九危険はないよ。行こうか」
そう告げて、女は彼女の横を通り過ぎる。ポカンとした顔は、何かに驚いていたようだった。或いは、突然の断言に反応できなかったか。
やや遅れて、彼女の声が足音と共に聞こえてきた。
「……何故、断言できるんです?」
「悲鳴だよ」
「……悲鳴?」
「そ。普通は危険と取るんだけどね……今回ばかりは、たぶん違う。悲鳴を上げる時の動作を考えればいいんだ」
きっと、今の自分はしたり顔なのだろう。今は鏡を見たくないなと思いつつも、続ける。
「普通に喋るのとはわけが違う。まず、息を吸わなきゃいけないんだ。大声出す時の基本だね。で、その後吐く。思いっきり。吐くんだけど……あの長さだ。三秒かな? 思いっきり吸って、三秒息を吐く。近くに危険があったのなら、三秒も悲鳴は上げられないよ」
「………………」
「それに、悲鳴は重労働だよ。危険に対して上げたのだとしたら、あれだけの時間悲鳴を上げる余裕はないはずだ。三秒は長すぎる。本当の危険を前にしたとき、大概の人間は逆に息を止めるものだしね」
「……何でそんなことを知ってるんですか?」
「いろいろとあってね。今度試してみなよ。わたしだって体験談なだけだし……とはいえ」
考える。確かに、教室に危険はないだろう。それだけは断言できる。言い換えるなら、それ以外は何も断言できない。道中に危険があったとしても文句は言えない。
ため息を漏らして、女は背後を振り向いた。
「……?」
「はい」
怪訝を浮かべている少女に、携帯を投げる。
「え……わ!?」
突然物を投げられて、少女は驚いたようだった。慌ててキャッチする。それを確認してから、女は階段付近に設置されている掃除ロッカーに手を伸ばした。開ける。箒、モップ、箒、箒、モップ、バケツ、雑巾……大して目ぼしい物は入っていない。
「……何してるんです?」
「いや、武器くらいは持ってたほうがいいかなーと思ってさ」
が、モップは先端が外せない旧式のものだ。箒は先端がさばけていて武器にならない。バケツも雑巾も武器としては言わずもがな。結局やめておくことにした。
「……まあ、いいか。行こうか」
そう告げて、また歩き出す。それと同じくらいのタイミングで、気遣うような声が聞こえてきた。
「……携帯、私が持ってていいんですか?」
「うん、いいよいいよ。わたし、夜目はいいほうだから」
答えてから、苦笑する。暗いところは得意なつもりだ。わずかな明かりさえあれば、後はイメージで何とかなる。明かりがなくても、イメージだけで歩くこともできないわけではない。闇は嫌いではない。だから大して何も気にせず、階段を上がる。足音の音色が変わる――いや、反響が変わったのか。どちらにしろ、階段を上りきるまでは無言だった。
「そういえば君、何か武道やってたりする?」
「……何故そんなことを?」
「いや、武道経験者なら、もし仮に危険があっても楽になるかなと思って」
あくまで気だけ、だが。彼女を守る義務などないが、守らなくてもいいのだとしたらそれでいいのだ。危険な目にあってる人を前にして見捨てて逃げるなんてかっこ悪い。どちらにしろ、彼女は答えてこなかった。が、やっているのなら、闇の中で腰抜かしたりはしないだろう。たぶんやってない。偏見でそう判断する。気が重くなった。
「………………」
気づけば息遣いが増えていた。近い。
自然と足音も忍ばせている。もしかしたら、彼女はもう背後にいないのではないか。そう危惧するほどに、足音は小さかった。ただ、隠し切れない呼吸の音だけが薄闇の中にある。
(……さて。この状況下で、いったいどんな危険がある?)
否定したことをもう一度掘り起こす。教室。悲鳴を上げた場所。そこで悲鳴を上げる理由は。それは知っている。だからいい。悲鳴を上げて……その後の危険性は? 何が危険になる? 道中に、危険はなかった……
(……結局は、人災かな。それ以外はありえない)
やっぱりモップくらいはあっても良かったかもしれない。時間戦争の役にはたたないだろうが、喧嘩程度なら有効ではあった。後悔というほどではないが、悔いる。ため息は漏らさなかった。
その教室にたどり着く。三年二組。扉は二つあった。小学校の時、教室の扉は一つしかなかった。中学に上がってから、入り口が二つに増えたのだと思う。黒板側と、その反対。どちらからでも出られる。
どちらからでも、逃げることも進入することもできる……
呼吸の音も二つあった。浅く、速い息。これは知っている。焦りや恐怖の前になす術もなく、思考が圧倒されている時の息だ。思い出したのは、遊園地のお化け屋敷だった。意気揚々と中に入っていった友人が、数秒後には顔を青くして震えていた。怖いと思わなかった自分は、彼女の顔を面白そうに眺めていた記憶がある。その時の呼吸と同質のもの。
扉は開いていた。そこから中へ入る。
そして、女は見た。
腰を抜かしたのか、座り込んでいる女と。
驚いているのか、ただ呆然としたもう一人の女。
「……!?」
背後から息をのむ、彼女の音。それを聞きながら、女は見ていた。
教室に。その中央にぶら下がる、人型。無感動にそれを見て。
やっぱりお化け屋敷みたいだと思いながら、女は安穏と呟いた。
「……明日は晴れても、気は晴れないだろうね」
テルテルボーズ。
死体が、ぶら下がっていた。
やっぱり、悲鳴は聞こえてこなかった。上げる気もなかったのかもしれないが。
どちらにしろ、静寂だけは耳に痛かった。時計の振り子と同じように。
「これは、考える必要もないね」
悲鳴だ。それも長い。取り繕う必要も、捏造する理由も感じない。紛うことなく悲鳴だ。女の。目の前の化石少女ではない。それはつまり。
考え終わるよりも早く、化石少女がうろたえる。声は震えていた。どうやら悲鳴に恐怖を覚えたらしい。長い髪が、彼女の動作に合わせて揺れた――先ほどのように、腰を抜かしたわけではなさそうだったが。
「な、何であなたはそう暢気なんですか……!?」
「だって、当事者じゃないし」
とは言いつつも、考える。悲鳴の聞こえた方角。悲鳴の聞こえてきた場所。悲鳴の理由。悲鳴を上げた存在のその後。
考えなければならないことは多々あるが、とりあえずの問題は。
「どこに行くの?」
その悲鳴の方角に歩き始めた、彼女だった。暗いせいで、走りたいのに走れないのだろう。その気配は背中からでもわかる。その背中を追いかけるように、彼女も歩き出した。
足を止めることもこちらを振り向くこともせずに、女は言う。
「悲鳴です。誰かいます……知り合いかもしれません」
「まあ、そうだね。それで?」
「助けに行くべきです。今は異常事態です。知り合いじゃなかったとしても、協力し合えるかもしれません」
「危険に巻き込まれるかもしれないね」
失言だったかもしれない。そう思ったのは、彼女が不自然に足を止めたからだった。肩越しにこちらを見てくる。その瞳はぼうぅと照らされ、幽鬼じみていた。
声はそれよりかははっきりしていた――つまりは怒気を含んだものだったが。
「……何が言いたいんですか?」
「いや、別に? ただ、猪突猛進はいただけないなあって話さ」
「……見捨てる気?」
「冷静になれって言いたいの。とはいえ……」
ため息を一つ。空気を改めるためのその息が消えてから、女は問いかけた。
「声のした方角、どっち?」
悲鳴は反響していた。が、だからといっておおよその見当がつかないわけではない。少なくとも悲鳴を上げた一瞬だけは、その方角がはっきりしているのだから。最初の音を記憶に残すことに成功させられていれば、反響など気にしなくてもいい。
戸惑いと怪訝を潜ませて、彼女は答えた。
「三階。たぶん……教室」
「理由は?」
「声の方角です。この上の遠くからでした。だけど、少しくぐもっていたように思います。廊下からならもっとはっきりしているはずです」
「………………ふむ」
思考を閉じて、頷く。そして地図を思い浮かべた。角張った『タ』の字。今いるのは教室棟の一階だ。一年棟ともいう。そして三階は三年棟。放送室などは別棟だ。あの悲鳴は教室からだというのなら、何も問題はない。断言できた。
「なら、十中八九危険はないよ。行こうか」
そう告げて、女は彼女の横を通り過ぎる。ポカンとした顔は、何かに驚いていたようだった。或いは、突然の断言に反応できなかったか。
やや遅れて、彼女の声が足音と共に聞こえてきた。
「……何故、断言できるんです?」
「悲鳴だよ」
「……悲鳴?」
「そ。普通は危険と取るんだけどね……今回ばかりは、たぶん違う。悲鳴を上げる時の動作を考えればいいんだ」
きっと、今の自分はしたり顔なのだろう。今は鏡を見たくないなと思いつつも、続ける。
「普通に喋るのとはわけが違う。まず、息を吸わなきゃいけないんだ。大声出す時の基本だね。で、その後吐く。思いっきり。吐くんだけど……あの長さだ。三秒かな? 思いっきり吸って、三秒息を吐く。近くに危険があったのなら、三秒も悲鳴は上げられないよ」
「………………」
「それに、悲鳴は重労働だよ。危険に対して上げたのだとしたら、あれだけの時間悲鳴を上げる余裕はないはずだ。三秒は長すぎる。本当の危険を前にしたとき、大概の人間は逆に息を止めるものだしね」
「……何でそんなことを知ってるんですか?」
「いろいろとあってね。今度試してみなよ。わたしだって体験談なだけだし……とはいえ」
考える。確かに、教室に危険はないだろう。それだけは断言できる。言い換えるなら、それ以外は何も断言できない。道中に危険があったとしても文句は言えない。
ため息を漏らして、女は背後を振り向いた。
「……?」
「はい」
怪訝を浮かべている少女に、携帯を投げる。
「え……わ!?」
突然物を投げられて、少女は驚いたようだった。慌ててキャッチする。それを確認してから、女は階段付近に設置されている掃除ロッカーに手を伸ばした。開ける。箒、モップ、箒、箒、モップ、バケツ、雑巾……大して目ぼしい物は入っていない。
「……何してるんです?」
「いや、武器くらいは持ってたほうがいいかなーと思ってさ」
が、モップは先端が外せない旧式のものだ。箒は先端がさばけていて武器にならない。バケツも雑巾も武器としては言わずもがな。結局やめておくことにした。
「……まあ、いいか。行こうか」
そう告げて、また歩き出す。それと同じくらいのタイミングで、気遣うような声が聞こえてきた。
「……携帯、私が持ってていいんですか?」
「うん、いいよいいよ。わたし、夜目はいいほうだから」
答えてから、苦笑する。暗いところは得意なつもりだ。わずかな明かりさえあれば、後はイメージで何とかなる。明かりがなくても、イメージだけで歩くこともできないわけではない。闇は嫌いではない。だから大して何も気にせず、階段を上がる。足音の音色が変わる――いや、反響が変わったのか。どちらにしろ、階段を上りきるまでは無言だった。
「そういえば君、何か武道やってたりする?」
「……何故そんなことを?」
「いや、武道経験者なら、もし仮に危険があっても楽になるかなと思って」
あくまで気だけ、だが。彼女を守る義務などないが、守らなくてもいいのだとしたらそれでいいのだ。危険な目にあってる人を前にして見捨てて逃げるなんてかっこ悪い。どちらにしろ、彼女は答えてこなかった。が、やっているのなら、闇の中で腰抜かしたりはしないだろう。たぶんやってない。偏見でそう判断する。気が重くなった。
「………………」
気づけば息遣いが増えていた。近い。
自然と足音も忍ばせている。もしかしたら、彼女はもう背後にいないのではないか。そう危惧するほどに、足音は小さかった。ただ、隠し切れない呼吸の音だけが薄闇の中にある。
(……さて。この状況下で、いったいどんな危険がある?)
否定したことをもう一度掘り起こす。教室。悲鳴を上げた場所。そこで悲鳴を上げる理由は。それは知っている。だからいい。悲鳴を上げて……その後の危険性は? 何が危険になる? 道中に、危険はなかった……
(……結局は、人災かな。それ以外はありえない)
やっぱりモップくらいはあっても良かったかもしれない。時間戦争の役にはたたないだろうが、喧嘩程度なら有効ではあった。後悔というほどではないが、悔いる。ため息は漏らさなかった。
その教室にたどり着く。三年二組。扉は二つあった。小学校の時、教室の扉は一つしかなかった。中学に上がってから、入り口が二つに増えたのだと思う。黒板側と、その反対。どちらからでも出られる。
どちらからでも、逃げることも進入することもできる……
呼吸の音も二つあった。浅く、速い息。これは知っている。焦りや恐怖の前になす術もなく、思考が圧倒されている時の息だ。思い出したのは、遊園地のお化け屋敷だった。意気揚々と中に入っていった友人が、数秒後には顔を青くして震えていた。怖いと思わなかった自分は、彼女の顔を面白そうに眺めていた記憶がある。その時の呼吸と同質のもの。
扉は開いていた。そこから中へ入る。
そして、女は見た。
腰を抜かしたのか、座り込んでいる女と。
驚いているのか、ただ呆然としたもう一人の女。
「……!?」
背後から息をのむ、彼女の音。それを聞きながら、女は見ていた。
教室に。その中央にぶら下がる、人型。無感動にそれを見て。
やっぱりお化け屋敷みたいだと思いながら、女は安穏と呟いた。
「……明日は晴れても、気は晴れないだろうね」
テルテルボーズ。
死体が、ぶら下がっていた。
やっぱり、悲鳴は聞こえてこなかった。上げる気もなかったのかもしれないが。
どちらにしろ、静寂だけは耳に痛かった。時計の振り子と同じように。