先週はやっと時間を作って、「故宮博物院展」を見に東博へ行く。台北の故宮博物院の収蔵品は北京の故宮よりすごいといわれるから、期待して行ったが、門外不出の名品「翆玉白菜」はもう見られなかったし、全体にすこし期待はずれだった。確かに幻とも思っていた汝官窯(じょかんよう)の青磁、数点に出会えたのは感激だったし、刺繍画の名品にも驚きがあった。しかし、もっと圧倒されるような感じを受けると思っていた。
たとえば、我々の文化にはもともとない、青銅器コレクションの中の大作がたくさん出品されていたら・・・・などと思ってしまう。出光美術館の青銅器コレクションを見た時の、圧倒されるような凄さがない。 多分、台湾に行かないとダメなのだろう。69万点の収蔵品から200点ほどしかやって来なかったのだから、無理もないのかもしれない。
29日に新聞を見ていて、大久保房男さんが亡くなったことを知る。文壇では知らぬものなき講談社の名編集長。作家たちから「鬼の大久保」と恐れられた編集者である。無名時代の遠藤周作、吉行淳之介、安岡章太郎氏など、第三の新人群の作家たちを育て、特に作家の原稿に厳しいことで知られるが、作家たちとの遣り取りから生まれた数々の興味深いエピソードは、語り始めたら、それだけで本が何冊も書けるくらいだ。とにかく、私も経験したが、文章にはそれはそれは厳しかった。
私は学生時代から「弟子」のように可愛がっていただいた。大久保さんは三田文学を遠藤さんに替わって指導して下さった時期がある。ずっと、編集者としての師匠と思っていた。10年ほど前、我が社で「日本語への文士の心構え」という本を出してもらったこともある。
密葬は家族で済ませたと新聞にあったからどうしようかと思っていたら、三田文学の先輩で、昨年まで編集長をしていた作家の加藤宗哉さんから電話がかかってきた。「大久保さんのお宅に行こう。奥様にはもうその旨お伝えしておいたよ」という。1日の金曜に、やはり先輩の三室源治さんを誘い、三人で練馬のお宅へ伺った。
大久保さんのお宅へ三人で伺ったのは何度目かになる。伺うたびに、大久保さんが付き合った戦後の文士たちの思い出話になり、ついつい長居してしまうことになった。それほど、大久保さんの話は面白く、聞いていて飽きることがなかった。ともかく、記憶力については、こんなに記憶のいい人も珍しいというくらい、鮮明に昔のことを覚えている。亡くなったのは92歳。先月病院に入院するまで、頭はさえ、新しい連載原稿のことを考えていたというから、敬服するばかりだ。大久保家を辞してから三人で久しぶりに一献、となった。40年以上の長いお付き合い。話しは終わるところを知らなかった。
私には編集者として三人の師匠がいた。新潮社時代の上司、菅原國隆、亀井龍夫の両氏である。菅原さんも小林秀雄、三島由紀夫、川端康成、といった大御所の担当編集者として出版界に知られた人だった。大江健三郎さんの才能を見付けた人でもある。亀井氏は週刊新潮時代のデスクで、作家草柳大蔵氏の弟子でもあった人。そして大久保さん。三人が三人とも文章には厳しく、私はほんとに鍛えられたと思っている。今の自分を育ててくれた三人の師が、これですべて故人となった。いまは、寂しさと、そして感謝の思いでいっぱいである。
