寺山修司夫人・九條映子さんのこと(その2) | 編集長ブログ

編集長ブログ

ブログの説明を入力します。

晩年の九條映子さん

 
 九條映子さん(その頃は今日子さんと呼んでいた)には恩があった。新潮社を辞め、アートデイズといういまの会社を作って間もなく、彼女から電話がかかってきた。「会社を辞めたんですって? 大丈夫なの、食べていけるの?」 それが第一声だった。同じことを、瀬戸内(寂聴)さんからも言われた。「あんた大丈夫なの? 何か仕事もって辞めたの? 晴子ちゃん(当時の瀬戸内さんの秘書)も心配してたわよ」。苦しい時代を知っている女性たちは同じような反応をするのだ、と思った。そういって心配してもらって、ほんとに有難かった。

 九條さんは、「いい企画があるのよ」といった。寺山修司と谷川俊太郎さんが映像の形でかわした往復書簡が遺っているから、それをビデオにして刊行しないか、という話しだった。まだ映像全盛時代が来る前に、二人の気鋭の詩人が実験的に取り交わした12篇の「ビデオレター」。
 私は即座に、「やらせてください!」といった。まだ、刊行できた自社の出版物はほとんどなく、全国の書店で売るための取次口座も持てない時代だった。「寺山修司・谷川俊太郎 ビデオレター」は半年後に刊行され、書店での販売は河出書房新社の口座を借りて行うことになった。
 結果は、大成功だった。高い値段の映像作品としては、異例な売れ方をした。まだよちよち歩きの出版社だった我が社にとって、大きな実績となった。九條さんには足を向けて寝られない、ずっとそう思ってきた。
 恩があるから誉めるのではない。ほんとに面倒見のいい人だった。この5月、その人の葬儀に行けなかったことをずっと悔やんでいる。
 九條さんと寺山修司がどういう夫婦であったのか、考えたことがある。戸籍上の夫婦であった期間は意外に短く、たしか7年くらいのはずだ。二人は同い歳。九條さんは寺山と違って都会育ち(麻布の生まれ)で、麹町の三輪田というお嬢さん学校を出てからSKDに入り、女優になった人だから、その頃のいわゆる「おきゃん」な娘だったのだろう。離婚しても、一緒に「天井桟敷」をやっていたし、同志のような結び付きといわれていたが、私の想像は少し違っていた。同じ歳でも、彼女は寺山のお姉さん、時に母のような存在だったのではないか、と思う。いくつになっても、時代の寵児になっても、少年のようだった寺山。その寺山にとって母の愛情に飢えていた少年時代のこころの空隙を埋めてくれるような存在が彼女だったのではないか・・・・・。
 寺山修司には会えなかった。学生時代、画家志望の友人の周りに、天井桟敷の俳優がいたが、自分はなんとなく遠巻きに彼らを見ていて、結局、寺山ワールドには近づけなかった。ある時、寺山と天井桟敷の役者たちは、ライバル唐十郎の紅テントの役者たちと渋谷で乱闘騒ぎを起こした.。まだ若者に暴れるエネルギーのあった時代の雰囲気を表わす事件だった。
 寺山が死に、時代が移り変わっても、寺山を神話にしている若者たちがずっといる。昨年の「寺山没後30年」は異常な盛り上がりを見せた。その功績者が闘病中の九條さんだった。寺山の何がどう若者を引き付けるのだろう? 多分、その答えが今の時代と寺山が活躍した時代の違いを如実に物語ってくれる。