寺山修司夫人・九條映子さんのこと(その1) | 編集長ブログ

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1963年二人は結婚した。

 
 この2カ月ほど、小さなとげが刺さったみたいに、チクチクと胸が痛んでいた。
 今年の連休中の5月5日、四谷で打ち合わせがあり、たまたま会社に寄った。誰もいない部屋で机の片付けをし、FAXをチェックして、ハッとした。FAXの中に、九條映子さんの訃報と、告別式の日取りを知らせる一枚があったのだ。テラヤマ・ワールドの笹目さんからだった。何ということだろう、告別式の日時を見ると、千日谷会堂での式がちょうど終わった時刻だった。毎日見ているのに、新聞の死亡欄もその掲載日に限って見落としていたらしい。
 寺山修司夫人、正確にいえば元夫人の九條さ映子さん。彼女が病気みたいだという話は、なんとなく風の便りに聞いていた。連絡のしようがなかったわけではない。だからなおさら、心苦しい思いが残る。九條さんには恩があった。
  「宮島さん、元気?」 いつも少しガラガラした声で電話をかけてくる。タバコを吸いすぎなんじゃないかな・・・・・。「九條さんはいかがですか?」「あんまり調子が良くないのよ」・・・・・・何年か前にそんな遣り取りをしたことを思い出した。やはりあの頃から病気をしていたのか。
 その昔、寺山修司の声をテープにして初めて刊行した。もう25年ほど前になる。『寺山修司 声のメモワ―ル~演劇はスキャンダル~』という新潮カセットのシリーズだった。私が手掛けた新潮カセットは、小林秀雄から、三島由紀夫から、とにかく破格の売れ方だった。死んでから若者の間に一種の神話現象が起きていた寺山の生前の声を集めて、どうしてもテープの形で出したかった。しかし、寺山はあれだけマスコミに登場したのに、声の記録、つまり音源が意外に少なかった。60分ほどの音源を集めるのに、とても苦労した。しかし、九條さんが一生懸命になって助けてくれた。ソニーの有名なプロデューサー酒井政利さんを九條さんに紹介され、ほんの数分ぶんだが、寺山が詩を朗読した声の音源を借りに行ったこともある。「連絡しておくからお母さんにも会って」と九條さんにいわれ、寺山の母、ハツさんにも会った。九條さんと寺山は戸籍上は離婚していたから(でも、離婚後も二人はいつも一緒にいた)、寺山の死後、著作権者はハツさんに移っていた。
 その頃、つまり昭和63年のこと。ハツさんは世田谷の太子堂(記憶が確かなら)に一人で住んでいた。彼女は母として寺山の創作の中で、散々な目にあわされていたことは有名だった。寺山の分身のような少年は、いつも強烈な個性の母を呪い、母からの逃亡を企て、母を淫売と呼び、しまいには「死んで下さいお母さん」という歌まで舞台で歌った。寺山の短歌の中でも、創作以外の書きものの中でも、ハツさんは何度も死んだことにされている。だから、生きているハツさんに会えるのが、なんだか不思議だった。
 御自宅を訪ねると、ハツさんはベットから起き上がり、杖をついて玄関に出てこられた。もう、とても静かな人になっていた。奇矯なふるまいで知られた人物には思えない。話しはもう了解されていて、私は契約書に判を頂いて、家を辞去した。具合が悪そうで、あまり話しをするのがためらわれる感じがした。しかし、介護や手伝いの人のいる気配もなかった。やはり気丈な人なのだろう。九條さんが時々、様子を見に来ているらしかった。元嫁と姑は、寺山の死後、良い関係になっていたようだ。
 私の青春時代、寺山修司は若者の英雄の一人だった。その寺山の伝説的な母・ハツさんに会えただけでも、勲章をもらったような気がしないでもなかった。(つづく)