芸大美術館(東京藝術大学大学美術館)の「大吉原展」を見たあと、

吉原神社などゆかりの場所を散策。

その中でも、浄閑寺は端的に当時をしのぶことができる場所でした。

お寺の通称は”投げ込み寺”。

安政の大地震などで犠牲になった遊女たちが粗雑に投げ入れられたといわれます。

 

単に永井荷風の歌碑があると聞き、なんとなく行ったのですが、予想外に史跡があり↓

焦りました。

なにしろ16:45に到着し、「17時までには門を閉めますから」、という声。

説明文はあとでゆっくり読むことにして、大急ぎで史跡らしきところを駆け抜けました。

 

 

 

特に驚いたのがこれでした↓ 昨日触れた白井権八ゆかりの場所ともいえます。

首洗い井戸

 

 

 

父の仇討のため、平井権八(白井権八)を急襲した助七と助八兄弟。

しかし助七は権七の返り討ちに遭い、こと切れます。

助八が兄の首を、この井戸で洗っていたところ、やはり権八に襲われ果てました。

昨日書いたあの白井権八です。

権八は、刺客として130人もの命を奪ったとも言われています。

少し離れたところには兄弟のお墓もあります(次の次の写真)

 

 

ホテル雅叙園東京の白井権八の図を再掲↓

 

 

 

左:助七、助八兄弟のお墓。右:侠客濡髪長五郎の墓。

右は、享保年間の相撲取り。浄瑠璃「双蝶々曲輪日記」のモデル。

 

 

 

新比翼塚

さて、永井荷風ですが、このお寺に通いだしたのは、この塚に興味があったから、

などと聞きます。

新比翼塚は、品川楼で心中した遊女・盛紫と警部補・谷豊栄を追悼するもの。

歌舞伎の演目にもなっています。

 

 

 

永井荷風詩碑

黒御影石には「偏奇館吟草」中「震災」の詩が刻まれています。

 

 

左:冒頭、右:添え書き

 

荷風は『断腸亭日乗』のなかで遊女らの倒れた墓の間を選んで、ここ浄閑寺にお墓を建ててほしい、と記したそうです(「後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。」)。

実際この場所にお墓を建てることはかなわなかったものの、谷崎潤一郎らの尽力で

記念碑が建ちました。

 

 

 

永井荷風筆塚(設計は、かの谷口吉郎!!)

スウェーデン産・赤御影石製。筆塚といいつつ、荷風愛用の平安堂製白圭銘小筆だけでなく、

荷風の2本の歯も収められているそう。聖遺物のごとく!

 

 

 

新吉原総慰霊塔

寛政5年(1793)以来の供養塚を昭和4年に改修したもの。

安政2年(1855)の大地震で横死した遊女500余人が投げ入れられ、供養されました。

昭和に至るまで、浄閑寺に葬られた遊女、その子、遣手婆など関係者は、

計25000人に及ぶとのこと。

 

 

 

 

左:若紫の墓

あるとき、角海老楼での出来事です。

とある遊女に裏切られ、破れかぶれになった客がいました。

たまたまその場にいあわせた若紫は、運悪くその男に切り付けられます。

命を落とした若紫は、あと数日で年季明けの予定でした。

見受けを断り、恋人と所帯を持つはずでした。

このお墓は、不憫に思った有志が、49日の忌日に建立したものです。

(角海老楼から命名された企業グループがありますが、その店舗を新吉原跡地でも見かけました。)

 

右:小夜衣供養地蔵尊

放火の罪をきせられた遊女・小夜衣は火あぶりの刑に処せられます。

しかし一周忌、三、七周忌のたびに廓内で出火。ついに店は潰れます。

霊を慰める必要を感じた廓内の人々は、仏事を執り行うことにしました。

年忌ごとの火災は途絶えたといいます。





花又花酔壁碑

花又花酔の句「生れては苦界 死しては浄閑寺」

 

 

左:永代合祀供養塔

右:ひまわり地蔵尊

山谷の人々の死後の安らぎのために建立。

 

 

三遊亭歌笑塚(武者小路実篤揮毫)

 

 

 

かつての吉原をリアルに感じられる場所でした。

 

当初、「大吉原展」は美術展なのだから、社会学とは切り離し、美的アプローチのみだけでも

許容できるのでは、と思っていました。

しかし実際現場に来てみると、浮世絵に描かれた享楽的な世界だけをカバーするのは片手落ち、そう感じました。

幸福感を感じさせる要素が一切なく、絵画の世界とはあまりにも対照的な世界が広がっていたもので。

実際、上述の壁碑には、「生れては苦界・・」とありました。

そんな言葉が出てくる場所なのです、ここは。

 

しかも、「大吉原展」では当時の廓の見取り図再現にも努めています。

細かい資料はなく、かなり苦労して再現したと聞きました。

そこまで再構築するのであれば、地理という表面的な再現だけでよかったのか?

例えば、昨日触れた小紫が描かれた「中村竹三郎・三浦屋小紫図」の脇の解説に、

小紫と白井権八の悲恋を添える、などすることはできたかもしれません。

一歩踏み込んだ解説が、”描かれた吉原”の世界を肉づけることはあっても、

傷つけることはないのでは?

 

ついでに言えば、「江戸アメイヂング」「最新のエンタメもここから生まれた!」のキャッチは

吉原を茶化しているようで、私は好きではありません。

命をささげた人たちへの冒涜、とまでは言うのは言い過ぎかもしれないけれど。

 

常々、わかりやすいキャッチを使うことは人間を堕落させる、と思っています。

少し難解で背伸びして文字に取り組むぐらいがちょうどいい。

いまやWIKIで簡単に調べられる時代です。

甘やかしては脳みそが溶けていくようで、心配です。