芸大美術館「大吉原展」の続きです。

田中優子先生の講演会で、こんなお話がありました。

 

吉原で咲き誇っていた桜は毎年植え替えられていた。

つまり、植えた後、散ると抜いて、、を毎年繰り返した。

これはとりもなおさず、遊郭という場所がある種、舞台としてとらえられていたから。

だから季節ごとのしつらえを要したのです。

 

 

町の演劇性という話を聞いて、

ヴェネチアは町全体が劇場のようなもの、という須賀敦子さんの言葉を思い出しました。

中世時代には人口の何割かがコルティジャーネ(高級娼婦)だったヴェネチア。

須賀さんは博物館で、ぽっくりのようにヒールの高い娼婦の靴を見かけたとも書いています。

 

私は、展示を見たあとの吉原周辺散歩で、遊女たちの悲劇を物語る碑などを幾つも目にしました。

須賀さんも悲劇を想起させるものを目にします。

ヴェネチア・ザッテレの河岸にある「治る見込みのない水路」です。

そして、梅毒におかされ、水路そばにあったであろう治る見込みのない施設に

押し込まれた娼婦たちに思いを馳せます。

でも、ふと目の前を見ると、水路を隔ててかのパッラーディオ作の救済教会レデントーレ

の優美な姿が広がっていました。

ああ、娼婦たちも日々この教会の姿を見て、慰められていたに違いない、

と考えるのでした。

 

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展覧会会期中には、吉原の狐舞や、

藝大の学生さんたちによる吉原雀という長唄の演奏会が何度か開催されました。

 

 

 

土曜日に見た狐舞。

 

 

舞の前に説明がありました。

吉原では大晦日に厄除けでこの舞が披露されたと。

獅子舞は、誰でも見ることができるので、吉原ならではのものを考案。

心付けをくれるのが主に遊女たちだったので、彼女たちを喜ばせるもの、

ということで狐になったそう。

 


 

展示会場にも衣裳人形 吉原狐舞(左)がありました。

 

 

 

この舞は誰が演じたのかしら?と思ったのですが

このあと足を伸ばした吉原弁財天に答えがありました。

壁の新聞記事によると、認定された神楽師の方だそう。

 

 

 

この弁財天、見どころ満載でした。

(アメブロのブロ友さんや、ほかのブログを参考にさせていただいたおかげ!)

 

 

 

関東大震災の殉難者を慰霊する観音様。

 

 

 

新吉原花園池(弁天池)跡(下の写真上段)掲題の説明板から抜粋

江戸時代初期までこの付近は湿地帯で多くの池が点在。
明暦3年=1657年の大火後、幕府の命により一部を埋め立て、日本橋にあった吉原遊郭がこの地に移された。
その際池の一部は残り、弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰を集めた。
対象12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死。
溺死者の供養のため観音像が大正15年に造立された。
昭和34年に埋め立て工事が行われたが池の一部がわずかに残された。
 

 

 

本宮の色鮮やかな様子にびっくり。

でも、以前は危険な状態で寄り付けなかったそう。

 

 

 

藝大の学生さんらのおかげで美しくよみがえりました。

 

 

吉原名残碑

(日本橋からこの地に移された)新吉原は昭和33年の売春防止法の成立に寄って廃止された。
その名残を記す当碑は、昭和35年地域有志によって建てられたもの。
碑文は共立女子大教授で俳人・古川柳研究家の山路閑古氏による。
 

 

 

暫く拝見しないと思ったら、、、

遊女供養をされている由。

 

 

 

展覧会ではこの直木賞受賞作品↓の雰囲気を思い出したりしていました。