1970年代から現代へ。笑いと批評のパワーを体感
東京ステーションギャラリーで現在開催中の『パロディ、二重の声』展がおもしろいです!
「パロディ」、本家に依拠し、それをあからさまに示した上で、あくまでも自立した表現としてメッセージを発するこの表現手法。
それは、「模倣」「複製」「引用」「転用」「盗用」「オマージュ」「翻案」などと、どこが同じで、どこが異なっているのか?
わたしたちはあまりにも無防備に、無自覚に使い、なんとなくわかった気で受け止めているのでは?
そんな問いかけとともに、「パロディ」が空前のブームとなった1970年代の視覚文化から、その機知とパワーに迫る、挑戦的かつ刺激的な展覧会です。
世界的な反抗と闘争の年代であった60年代から、そのひとつの達成と挫折を経て、時代は醒めた感覚を持ち、軽やかに皮肉な笑いを求めた70年代へ。
そうした社会的な空気の中、アートをはじめ、さまざまなメディアにおいて、「パロディ」が使用されていきます。
特に70年代、雑誌や漫画によって「パロディ」は、その言葉とともに普及し、一般投稿者も巻き込んで、文化の発信地でもあったパルコでは、「日本パロディ展」なる展覧会も開催されるほどの大きな社会現象になりました。
本展では、その「パロディ」のブーム前、最盛期、そしてそのブームが起こした問題を、アート作品に限らず、パフォーマンスやテレビ番組、マンガや雑誌から広告まで、幅広いジャンルの表象から検証します。
だからサブタイトルにもあるように、「前後左右」。
時間軸とともに、表現の、さらにはそれらが持つさまざまな意味と形を含み、立体的に見せているのが特徴です。
多くのテーマと思索を持つ濃くも楽しい内容の一部を、章立てに沿ってご紹介~。
プロローグ(特別出品)
誰のスタイルか、誰を描いているのかだけでも時を忘れそう |
入り口に並ぶのは、レオナルドの《モナ・リザ》のポーズを取った数々の肖像画。
ボッティチェリのヴィーナス風だったり、フェルメールの真珠の耳飾りの少女風だったり、クリムトのユディト風だったり…。ほかにもレンブラント、ルノワール、ピカソ、藤島武二、黒田清輝、果ては、ヒラリー・クリントンや、アウンサンスーチー、アンネ・フランクまで…!
1978年の「日本パロディ展」でパルコ賞を受賞した経歴を持つ、山縣旭の近年作。
今回が美術館での初展示という、「歴史上100人の巨匠が描くモナ・リザ」シリーズからの迫力の空間のお出迎えは、70年代ではないながら、そのパロディ(パスティーシュ:文体模写)性といい、インパクトといい、気の効いた特別出品です。(これを機に?「レオ・ヤマガタ」と名を変えたとか:笑)
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今回の展覧会での「パロディ」の定義を「用語辞典」に見立て(これもパロディ風味?)た一覧を確認して、いよいよ本編へ。
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会場のあちこちに配された「たてかん(立て看板)」には、戦後日本の画一化する社会構造への警鐘を鳴らした鶴見俊輔をはじめとした、文化人やアーティストたちの「パロディ」についての定義やコメントが読めるようになっています。
各章に付された副題は、一流レストランのメニューについた料理名のパロディ。絶妙な「お味」の特徴を捉えています。
第一部 国産パロディの流行前夜 ~季節のポップアートのアイロニー風味~
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60年代中盤から、日本のアーティストたちの中に、「パロディ」を予兆する作品が生まれてきます。
モダンから、ポストモダンへ、前世代への批判や反抗の意味合いの強い、しかしそこに皮肉な笑いの要素を持つアート作品で、「パロディ」ブームの夜明けを感じます。
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「イミテーション・アート」という発想にもとづいて、雑誌で見たロバート・ラウシェンバーグの作品を“模作”、タイトルもそのままで自身の作品とした、驚きの作品。
ラウシェンバーグ本人の許可を得て、量産されていきますが、そこには、ポップ・アートへの賛美とともに、社会もアートもアメリカからの輸入により成立している日本の現状に対すアンヴィヴァレントな屈折が見られます。
「コカ・コーラ」のカナ表記のある瓶を使用した立体作品とともに、その皮肉を感じてください。
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亀倉雄策のあまりにも有名な62年のオリンピックポスターを、モノクロの作品にし、雑誌掲載した時の版下。
スターターたちは、ピカソ、ルオー、ビュッフェ、リキテンスタイン風に描きかえられ、トップに出るリキテンスタインのセリフが効いた、諧謔に富む、横尾らしい作品です。
前世代への反発と、時代への軽やかで痛烈な批判、そしてこちらにもポップ・アートへの自身の憧憬とがないまぜになり、みごとに昇華、ポスターに比べてはるかに小さなサイズながら、その力は元の作品を凌駕しています。
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本物の豚を使用して作成されたオブジェ(?)は、フランスのハムの缶詰のポスター広告を立体化したもの。
過激で放埓な活動で知られたネオ・ダダのメンバー吉村の作品は、ユーモアをさらに反転させて、既存のアートそのものに対するカウンター・パンチになっています。
タイトルでは、当時盛り上がっていた社会運動すらも茶化します。
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さらに見どころとして、タイガー立石の《八紘一宇の富士》。
64年に「第一回観光芸術展」で一斗缶を解体して作成したという3.76mの富士山(実際の約1/1000)の書き割りが再現されています。
タイトルの「八紘一宇」には、彼の本名絋一の由来も含まれる、ダブルミーニングなもの。
岡本太郎によって批判された日本一の山がまとう国粋主義的な意味合いとともに、保守性や現代アートさえも批判します。
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学芸員さんいちおしのひとつは、八木一夫の《ニュートンの耳》。
現代美術に比して、低く見られがちな陶芸の立場から、当時の前衛美術の最先端であった関根伸夫の《位相大地》、三木富雄の《耳》、堀内正和の《エヴァからもらった大きなリンゴ》の作品を、自身の作品に取り込み、ひとつの形にしたもの。
出会った造形に即反応し、自在に自作へ使いこなした彼こそを“稀代のパロディスト”として位置づけています。
このほか、
存在のしかたそのものが、まさにパロディともいえる、ハイレッド・センターの「ミキサー計画」の招待状や、メンバーのひとり、赤瀬川原平の貴重な作品、
既存の名画を使用して、「描くこと」そのものの意味と、「名画」を作りだす制度そのものへの問題を提起した鈴木慶則のタブロー、
虹色のグラデーションで、渓斎英泉の春画やゴーギャンの傑作を変容させて、自身の絵画解釈を視覚化した靉嘔、
グラフィック・デザイナー木村恒久の美しくもユーモラスでラディカルなフォトモンタージュなど、
敢えて定義を広くとった「パロディ」を観られます。
靉嘔から鈴木慶則の作品が並ぶ |
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第二部 肥大するパロディ ~複製メディアの噴出に読者参加を添えて~
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高度成長期、複製技術の飛躍的な進化と普及、雑誌の興隆により、消費活動と情報産業の肥大化した時代、それは、享受するだけの消費者の存在から、発信する消費者の台頭ももたらします。
その時流に乗って、爆発的な人気を博したのが、雑誌『ビックリハウス』でした。
読者投稿を主軸にした企画により、当時の若者たちの支持を得て、ここに「パロディ」がその名とともに大衆化します。
パルコと組んだ展覧会まで開催されるまでになる一大ブームはしかし、その濫発によって内輪受けを加速させ、手軽さから希薄化・形骸化して、「パロディ」が本来持っていたはずの攻撃性や訴求力が失われていく方向にも作用します。
率先して「パロディ」的なるものを生み出してきた赤瀬川をして「肥満したパロディ」と言わしめるに至った、その盛り上がりと衰退の両面を見ていきます。
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こちらは雑誌『ビックリハウス』の創刊号。
最終号までが並ぶコーナーは、当時の活性ぶりを伝えます。
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70年から『朝日ジャーナル』に連載が始まった赤瀬川の「野次馬画報」は、馬=桜肉にちなみ、4回目から「桜画報」と改題され、メディア・ジャックというパロディとして、過激な警察や社会風刺で、回収事件まで引き起こします。
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広告表現でもパロディ的な手法が使われました。
74年9月から制作された営団地下鉄のマナーポスターは、76年にマリリン・モンローの「帰らざる河」をモチーフにして以来、その手法が前面化したといいます。
ちょうど、ポスターが広告という枠組みを超えて部屋を飾るものとして受容された時期でもあり、希望者が殺到、シリーズのうち、玉三郎を起用したものは、掲載初日にして9割近くが盗まれたのだとか。
アートディレクター河北としては、あくまで手法であり、「パロディ」とは認識していなかったものの、ブームの中で、「パロディ」として受け取られたのです。
Cappellini 2009 ©KURAMATA DESIGN OFFICE, Special Cooperation with Cappellini Point Tokyo_Team Iwakiri Products |
モンドリアンの代表作を、キャビネットの扉としてデザインした倉俣の作品。
バッグや服などに借用されることも多いミニマムな表現を、原作に忠実に、立体として表した作品は、タイトルにある通り、「オマージュ」となっています。
大衆化や単なる笑いへの形骸化の一方で、対照的に感じられる「オマージュ」の形式も、ここでは「パロディ」と捉えています。
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このほか、
つげ義春の『ねじ式』をパロディにした赤瀬川の『おざ式』や長谷邦夫の『バカ式』、梶原一騎や水木しげるのキャラクターを使った長谷の『ゲゲゲの星』といいたコミック、
国鉄の広告ポスターを社会問題から人びとの目を逸らすものとして批判した平田実の《DISCOVER JAPAN》、
ゴッホの自画像を模写しつつ、一部をエピソードに合わせた要素に変えた木村直道の油彩など、
多様なジャンル、さまざまな階層で「パロディ」の世界が展開しています。
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中央に据えられた台では、実際に手に取って見られる書籍や雑誌が置いてあるのも、嬉しい。
第三部 いわゆるパロディ裁判 ~剽窃と引用をめぐる判決の盛り合わせ~
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70年代の「パロディ」氾濫の裏側では、16年もの歳月にわたって、裁判が進展していました。
白川義員の写真を利用したマッド・アマノの合成写真をめぐり、その著作権と“剽窃”について争われ、最終的には和解となるものの、結果はマッド・アマノの敗訴に終わります。
最後の章では、いわゆる「パロディ裁判」の経過と判決を追います。
展示されているのは、係争の対象となった、白川の撮影写真とマッド・アマノの合成写真のみ。
あとは、裁判の経過と判決文、それらを報道した新聞記事で構成されるこの章の展示は、美術館としては、かなり冒険的な試みかと…。
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ここで明らかにされるのは、日本の著作権法の枠外にあった「パロディ」という表現形式の存在。
法律が初めて「パロディ」と出会うことになったこの判例は、現在に至るまで、法律と文化、その両面において、議論と研究が続いていることを認識させます。
あらゆるものがデジタル化して、コピーも借用も変容も、ひいては盗用すらもより簡単にできてしまう現代に、この「パロディ」が引き起こした問題は、決して過去のものではないのです。
表現の自由と著作権の保護、このテーマを改めて考えることを促して、展覧会は、70年代から現代へと回帰してくるのです。
本来の作品の力を援用しつつ、そこに新たな表現として確立する「パロディ」。
同位性と重なることで身にまとうインパクトという「二重の声」が持つ機知と批評の力と楽しさと危険は、70年代から現代にも変わらぬ魅力と問いかけを放ちます。
さまざまな作品(表象)から「パロディ」の形とそのパワーみなぎるエキサイティングな空間を感じてください!
エピローグ
出口では、重たいテーマでどんよりしないように、の配慮からか、76年から放映された伊丹十三の美術番組の映像が観られます。
『伊丹十三のアートレポート「質屋にて」』1976年 |
『伊丹十三のアートレポート』と名づけられた番組は、パロディ風のストーリーやシチュエーションから、ウォーホル、クリスト、ギルバート&ジョージなど、現代アートへの理解を深める、今でも十分に見ごたえのある趣旨と内容になっています。
もちろんこれも展示作品ですが、「お口直しのデザート」とでも名づけたい、お茶目なエピローグです。
内容てんこ盛り。
じっくり楽しむ時間を持って、どうぞ!
(penguin)
『パロディ、二重の声 日本の一九 七〇年代前後左右』
会場 :東京ステーションギャラリー (丸の内)
〒100-0005 東京都千代田区丸の内 1-9-1
アクセス :JR東京駅 丸の内北口 改札前(東京丸の内駅舎内)
開館時間 :10:00~18:00 (金曜は20:00まで)
※入館は閉館の30分前まで
休室日 :毎週月曜日(3/20は開館)、3/21
入館料 :一般 900円(800円)/高校・大学生 700円(600円)/
中学生以下無料
*( )内は20名以上の団体料金
*障がい者手帳等持参の方は100円引き(介添者1名は無料)
お問い合わせ :Tel.03-3212-2485
美術館サイトはこちら
『パロディ、二重の声 日本の一九七〇年代前後左右』 』
招待券を10名様へ!!(お一人様一枚)
応募多数の場合は抽選の上、
当選は発送をもって代えさせていただきます。
《申込締め切り 3月24日(金)》
お申し込みは、ticket@art-a-school.info まで
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