上弦の月に思うこと | すえつぐりえ物語

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人と会う時間は、神様からの贈り物。
このブログを読んでくださったご縁に、感謝✨

そう言えば。

本日の午後、上弦の月をむかえました。


これは、太陽と月が「葛藤の角度」(90度の角度)になった状態。

今回は、太陽は蠍座に、月は水瓶座にいます。(西洋占星術的な見方では、です。)



西洋占星術を信じている、と言うか、受け入れている私としては、

天体配置を、天気予報と同じ感覚で自然と意識しています。


というより、わざわざ意識しなくとも、自然の摂理にはどっちみち抗えないのだから、意識する必要もないのかな?

と思ったりもします。


「なるほど、こういう天体配置だったから、私こういうモードになってたんだな。」とか、

「こういう天体配置だったから、こればかりは仕方ないよねー。」などと、

素直に現実を受けとめたり、いい意味で諦めることができるのが、西洋占星術が役立つ点。


人生の答え合わせができるおもしろみ、もあるんです。






先日いった耶馬渓の神社で、宮司さんから聞いたお話の中に、

「お参りする」とは、「参りました」という言葉からきている。


というのがありました。


何に対しての、「参りました」なのか?


それは、人間が生きていく上で、自然現象にはかなわない。

私達の命は、人間の力だけで維持していくことは不可能。

全ては自然環境次第である。


そういった意味での、「参りました」とのこと。


だからこそ人は、神様に生かされていることをいつも感謝してきたし、

飢えと戦っていた昔の人達は、毎日毎日神様に命ごいしながら、生きてきた。


そういったお話を聞きました。



私は病気したのをきっかけに、いつ何時「はい、余命あと〇〇日ね。」と言われても後悔しないようにと、

1日1日、1瞬1瞬をかなり大事に生きてきたつもりではあったけれど。


そして、たとえいま死んだとしても。

この2年間でたっぷり幸せな思い出を作ってきたから、ぜんぜん悔いはない。

と、思ってはいたものの。


心のどこかではやっぱり、命ごいしてる。


「もう、いつ死んでも悔いはないよー。」とか言いながら、毎日毎日、心の奥底で命ごいしている自分がいる。


ふと、そんな本音に気づいた日。


太陽は「生と死をつかさどる蠍座」に、月は「未来志向をつかさどる水瓶座」にいて、葛藤の角度をとっている。


そんな上弦の月の日。