そう言えば。
本日の午後、上弦の月をむかえました。
これは、太陽と月が「葛藤の角度」(90度の角度)になった状態。
今回は、太陽は蠍座に、月は水瓶座にいます。(西洋占星術的な見方では、です。)
西洋占星術を信じている、と言うか、受け入れている私としては、
天体配置を、天気予報と同じ感覚で自然と意識しています。
というより、わざわざ意識しなくとも、自然の摂理にはどっちみち抗えないのだから、意識する必要もないのかな?
と思ったりもします。
「なるほど、こういう天体配置だったから、私こういうモードになってたんだな。」とか、
「こういう天体配置だったから、こればかりは仕方ないよねー。」などと、
素直に現実を受けとめたり、いい意味で諦めることができるのが、西洋占星術が役立つ点。
人生の答え合わせができるおもしろみ、もあるんです。
先日いった耶馬渓の神社で、宮司さんから聞いたお話の中に、
「お参りする」とは、「参りました」という言葉からきている。
というのがありました。
何に対しての、「参りました」なのか?
それは、人間が生きていく上で、自然現象にはかなわない。
私達の命は、人間の力だけで維持していくことは不可能。
全ては自然環境次第である。
そういった意味での、「参りました」とのこと。
だからこそ人は、神様に生かされていることをいつも感謝してきたし、
飢えと戦っていた昔の人達は、毎日毎日神様に命ごいしながら、生きてきた。
そういったお話を聞きました。
私は病気したのをきっかけに、いつ何時「はい、余命あと〇〇日ね。」と言われても後悔しないようにと、
1日1日、1瞬1瞬をかなり大事に生きてきたつもりではあったけれど。
そして、たとえいま死んだとしても。
この2年間でたっぷり幸せな思い出を作ってきたから、ぜんぜん悔いはない。
と、思ってはいたものの。
心のどこかではやっぱり、命ごいしてる。
「もう、いつ死んでも悔いはないよー。」とか言いながら、毎日毎日、心の奥底で命ごいしている自分がいる。
ふと、そんな本音に気づいた日。
太陽は「生と死をつかさどる蠍座」に、月は「未来志向をつかさどる水瓶座」にいて、葛藤の角度をとっている。
そんな上弦の月の日。