以前、私が関わった方の歴史を作り、自分のも作りたいな…と思ったのですが、どこから書くべきかと悩んだ結果、今の私の考え方や行動に繋がっているのは生まれてから今までの人生すべてによるものだと思いましたので初めからにしてみました
今年40歳になる私の歴史です。
振り返ると、本当に人に恵まれていたと思います。
今回は生まれてから25歳くらいまでのお話です。
【Yu-mu(ゆーむ)の歴史の前に…。豊橋編】
1984年12月11日に生まれ、母が23,4歳、私が2歳、妹が0歳の時に両親が離婚。
母の実家の近くのアパートで祖父母の助けを借りながら育ちました。
我が家の家族、特に祖母と母はとても働き者でパワフルな女性たち。祖父はとても優しい人でした
保育園は朝母が送って、帰りは祖母が迎えに来てくれていました。
祖母は当時50歳位で、免許を持っておらずパート先から自転車で保育園まで私と妹を迎えに来てくれました。勤め先から保育園まで結構な坂道があるんですが、今思うと本当にすごいと思います
身体が大きくなってきた私たちのお迎えのために、自動車免許も取ってくれました。当時その年で免許を取る女性は珍しくて、教官に嫌味を言われたのよ~と言っていました
そんな祖母は「統率力のあるライオン🦁」
本当にそうだと思います。今でも毎日5000歩は歩くと決めていて、とっても元気
母は正社員で働くために夜な夜な勉強して、仕事に関わるインテリア関係や建築関係の資格を取っていました。
当時はネットがないので、本を買うために名古屋に一緒にいったり、美術館に連れて行ってくれたことを覚えています。「気分屋の猿」の母はやっぱりアート系が好きなのかな
おかげで私もウィリアムモリスや印象派の絵、美術、芸術品を見るのは大好きです。
「活動的な子守熊」の祖父はとても優しく、音楽や映画が好きな人でした
私たちにもとても優しくて愛情たっぷりで接してくれていました。仕事はあんまり好きじゃなかったようですが、とても真面目な人で、晩年は色紙に優しい絵をたくさん書いていました。
「カサブランカ」や黒沢映画が好きな人で、私も高校時代その頃の映画をよく見ていました
私が小学生になる頃市営住宅に入居できることになり引っ越しました。
小学校時代は学童保育に通い「色彩あそび~to結~」のまきさんや、「アロマのおうちbonte」の知香さんと毎日すごしました
4年生くらいの時に町内のソフトボールでピッチャーをやっていた常滑のフェイシャルサロンセリーナの智巳さんに半ば無理やり誘われてソフトボールを始めました。(朝6時から練習とかで本当に嫌だったんだけどなぁ…)その後これがきっかけで中学、高校とソフトボール…しかもキャッチャーをやり続けることになります。
そんなこんなで友達にも恵まれ、学童で宿題をしたりそろばんに通ったりしてお迎えは祖母や祖父が来てくれて…というような生活をしていました。
中学では流れでソフトボール部に入るのですが、先生がすごい人で県大会とか県外遠征とか行くようなすっごくスパルタな部活時代でした。
正直楽しいよりキツかったけれど、あの時のおかげで割とたくましく育ったと思ってます。
そんなバリバリの運動女子と思いきや、私は漫画や小説が大っっ好きで中高と年間読書数300冊みたいなオタクっこでした
中2の時から小説を書いたりして同人活動を始め、パソコンを手に入れると見事なオタクになりました。当時今のようにポータルサイトやブログがなかったので、ファンサイトを自分で作ってオタク仲間と交流するのが主流でした。キーボードが早く打てるようになったのも、HTMLを覚えて自分でHPを作るという無駄にすごい能力を手に入れたのはこの黒歴史のおかげです
この頃は小説家や声優になりたいなぁ…と思っていたのですが、確実にお金を稼げるようにならなければいけないと思っていたので、やりたいことがやれる人生なんて頭にはありませんでした。
高校を受験する頃、勉強がそこそこできて、強かった部活のおかげで推薦入試が受けられるということになり、友達に誘われて何も考えずに公立進学校に入学しました。
本当になにも考えていませんでした。普通科の進学校へ行っとけばなんとかなるかな~くらいでした
受験勉強もせず推薦入試で入ってしまったので、入学してすぐのテストは360人中350番みたいな感じで、ここで初めてヤバいかも…と思いました
1年の5月頃の面談で「文系理系はどうするの?どこの大学目指してる?」みたいな話になって、私も母も「大学には行きません、特待生じゃない限り就職します」みたいなことを言ったら「何のためにこの高校来たの?」みたいな雰囲気になりました(そりゃそうよね 笑)
そんなわけで難しすぎる勉強はできず、同人活動にいそしむ私は全く楽しくない高校時代を過ごすこととなりました。もはや記憶はほとんどないです。心から…よく卒業できたな…と思っています
とはいえ高校3年になり進路を決める必要がありました。
母は上場企業の社員でしたが、学歴は高卒です。「10年働いても給料は新卒と変わらないんだよねぇ」と言っていました。(当時の話です)
そんなこともあり、私は何となく女性でも稼げる職業、なおかつ学費があまりかからないところ…ということで地元の看護専門学校に進むことにしました。(給料がもらえる自衛隊看護も受けましたが落ちました)
この看護学校は本当に学費が安くて、全国からいろんな人が来ていました。九州や静岡、30代の人たちなど本当に色んな境遇の人たちがいました。
専門学校の単位は100%で落としたら即留年、勉強量、課題量も半端なくここでも私はヤバさを感じました
ですが、この頃は生きていくためには看護師以外の道はないと思い込んでいたので、なんとかついて行っていました。
2年生(20歳)の頃、精神看護学の授業でエリクソンやハヴィガーストの発達段階を学ぶ中で自分の発達段階を書く、みたいな課題があったのですが、なんだか自分がハマってしまい書けませんでした。
何度も再提出となり、最終的には前の年の先輩のものを丸写しさせてもらいましたが、単位を落としました。(先生もめっちゃ怖かったんですけどね)
留年は決まりましたが、とりあえずそのままその後の授業は進みました。
2年生の最後に一度だけ病棟実習に出ましたが、看護師さんの仕事のすごさと大変さをほんの少しですが教えて頂きました。
また夏休みには保育園実習にも出て自分が通った保育園にも行きましたが保育士さんも本当にすごいと思いました。世の中の看護師さん、保育士さんは本当に尊敬できる職業です🙏✨
同級生たちが3年生になり、私は9月頃まで授業がないのでラーメン屋のキッチンのバイトを始めました。
そしてその頃、同級生からコンパニオンのバイトのピンチヒッターを頼まれました。看護学校はバイト禁止…というか課題が多すぎてバイトができるような環境じゃなかったのですが、その子は九州から出てきて当時寮で暮らしていました。(今は寮は廃止となり、その子はその後退学してしまいました)
コンパニオンはなにがなんでも人数を揃えないといけないので、自分が出られないときは代わりの人を連れてこないといけない…ということで私が頼まれました。
お酒も好きだしお金ももらえるなら…ということで行ってみることに。
駅前に集合して車で送ってもらうというシステムです。当時は蒲郡の三谷温泉や西浦温泉が仕事場でした。
社長がJCに入っていて、割と厳しい会社だったのでルールはいろいろあり、ドキドキの経験でしたが、結果として「マジで楽しかった!!!」
お酒飲んで話して盛り上がって、2時間で8,000円もらえました。
この時、私はこんないい仕事あるの!?と衝撃でした。
それからもちょくちょくコンパニオンのバイトを続けることになりました
夕方だけだったラーメン屋のバイトは辞め、友達の紹介で朝から働けるホテルのレストランで働き始めました。
仕事はハードでしたが、働く仲間たちが最高に楽しくて最高でした。本当に皆、良くしてくれました
それでも私の中では絶対に看護師にならないといけない、という考えは変わらず精神看護の授業が始まる9月を迎え、バイトは辞めて学校に行きました。
一つ下の人たちと混じって授業を終えた初日。
先生に呼び出され「よろしくお願いしますとあいさつにくるのが当然だろう、あんた看護師に向いてないよ」と言われました
それからの私は何とか通うもボロボロでうつ状態になり、そのうち着替えやお風呂にも入ることもできなくなり、起き上がれなくなりました。
結局再び単位を落とし、21歳で退学することになりました。
自転車で学校に通うとき、川があって橋を渡るのですが毎日そこから飛び降りたい、でも死んだら迷惑だよなぁ…消えたいなぁ…と思っていたものです
辞めてからは呆然自失状態でしたが、ストレスの元がなくなったこともあり、とりあえず正社員で働かねば!という気持ちになれました
ハローワークへ行って、なんとなく病院系の仕事に惹かれ、眼科医療事務としてクリニックに就職することができました。
ここで働いてお給料をもらうようになって、私は初めて「全然生きて行けるやん!!」
ということに気づきました
そこからはもう、弾けました
お金を稼ぐことが楽しすぎて、医療事務をして夜はコンパニオンのバイトを再開。
バイトが終わったら友達と飲みに行く。毎晩遊んでいました。
この時には「なんで看護師になれなければ死ぬと思っていたんだろう...」と自分でもすごく不思議な感覚でした
自立しなきゃいけない
学歴がないと稼げない
看護師じゃないと稼げない
と自分自身を洗脳しすぎてしまって、本当に当たり前のことに気づけなかった。
働けば生きていけるよ。全然。
周りの大人たちもみんなそう思っていたと思うのですが、私はそれに気づくことができない呪いを自分でかけてしまっていたようです
眼科の仕事仲間は年が近い子が多くてとても仲良くなり、毎年ディズニーへ行っていました。本当に楽しかった
今でもとても仲良しです
夜は夜でホテルや旅館の宴会場や立食パーティーの仕事で、本当に色んな人を見てきました。
土地柄で、車関係の工場系の会社の宴会が多かったですが、テレビで見るような議員さん方、お坊さんや公務員的なお仕事の方、企業の社長の方々、裏社会的な方々etc...本当に色んな世界の人たちを見ることができました
肩書や職業と人間性は比例しないこともよく分かりました
もちろん素晴らしい人たちにもたくさん出会うことができました
コンパニオンは名古屋に行くまで約6年間続けましたが、本当に楽しい仕事でした。今でも天職だと思っています
23歳頃一人暮らしを始めました。
毎晩飲み歩いていたので、駅の近くに住もうと思い引っ越しました。
そこからさらにオープニングでダイニングBARのバイトも始めて"はたらく"と"あそぶ"が加速していました
本当にたくさんの人たちと出会った20代前半の終わりに、友人たちの結婚ラッシュが始まります
地元に住んでいた同級生たちは、結婚して家を建てて子供が生まれて…みたいな感じでした。
職場も年が近い人が多かったので、そんな感じでした。
ちょうどその頃「おひとりさまの老後」という本がはやり、読みました。
遊んでいる中徐々にそんな現実も見えてきて、将来というものを考え始めるようになりました
このままだと、結婚する以外の道がない。そんな風に思いました(彼氏もいなかったのに…笑)
先生が50代のクリニックで自分が60歳まで働けるとも思わず、かといって結婚もしたいとは思わない…とはいえこんな日々が永遠に続くわけもない。
そう思っていたのでだんだんと焦り始めていたのが25歳の頃でした
次回アロマとの出会いに続きます。
【Yu-mu(ゆーむ)の歴史の前に…。アロマ編へつづく】
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この時代ことを振り返って思うことは…
まず高校時代…情報大事。
適当に流されて行くもんじゃない🤣
進路は変わってもいいから、一旦は自分で考えないと3年も通えないと思いました😂
今思えば商業高校とか行っとけば良かったなぁ…と思ったりもしました…。
看護学校時代…あの時「看護師向いてない」って言ってくれた先生に今は感謝✨🙏
いや、当時はショックだったけど🤣今は私もそう思いますよ🤣本当に私には勤まらない仕事です。
我が家は夜型の家だったので、小中高専門と本当に朝が常にギリギリ😂
なので、本当に学校とか、仕事とか苦手でした。
毎朝6時に起きてる人が未だに信じられないくらい無理。
今でも朝6時まで起きていることはよくありますが、朝6時に起きるのは無理( ´ ཫ ` )
未だに社会的生活に向いてないと思ってます。
あのまま疑問を抱きつつも地元に残らずに、名古屋出てきて世界が広がって本当に良かったと思いました。
あの時の私、よくやった🙌💕
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