AEAJ認定教室 調布アロマシオン主宰、アロマテラピー研究室でも活動し、
セラピストのためのホームページ制作も承ってます島田さつきです。
前回↓の続きです。
誰かに謝るとき「ごめんなさい」は、謝罪の言葉として使う。
そもそも「謝罪」とは 何であろうか?
「ごめんなさい」言葉の成り立ち
謝罪や許しを請うこの言葉の語源は、鎌倉時代からあるという。
「御」は、尊敬の接頭語。
「免」は、免罪や免除のように許す、免れるを意味する。
元の「御免」は、許す人を敬う意の言葉だったという。
室町時代前期には、許す人を敬う意味のほかに、許しそのものを求め、相手の寛容を望んだり、無礼を詫びる謝罪として使われるようになったという。
「なさい」は、動詞「する」の尊敬語である「なさる」の命令形になる。
「ごめん」に「なさい」をつけることで、「ごめん」「させてください」という強い謝罪の要請が加わったことになる。
謝罪の要請…つまり、「許す」を前提にした「願い」「求め」ということ。
謝罪の言葉
謝罪の言葉には「申し訳ない」というのもある。
こちらは、より丁寧な表現だが、「言い分や申し分」が「無い」
弁明の余地がないことを意味する。
「ごめんなさい」と比べると、相手に許してもらう前提である「謝罪の要請」は言葉の中には含まれていない。
「ごめんなさい」に近い表現は、「ご容赦ください」といえるかもしれない。
本来の意味では「容赦してほしい」つまり、赦し容認してほしいと言っているのだから。
謝罪のことばは誰のためか?
この言葉について、私自身、長いこと とても勘違いしていたようだ。
非礼を詫びるとは、自分のしたことで、相手に何らかの不利益を与えたこと。
不利益な状態にさせたことを申し開きできない。自分は弁明の余地がなく、赦すも許さぬも相手に委ね、何をされてもいとわないことを指している。と思っていたのだ。
つまり、許すか許さないかの主権は相手にある。
「私は罪を犯しました。認めます」と言っているのが謝罪だと思っていた。
だが、言葉の成り立ちからして、「ごめんなさい」とは、許しを請う、許されることを願う、許されるであろうことを前提とした「自分」を救ってほしい言葉だ。
「自分の罪を赦してね」という、相手のアクションを望む行為である。
つまり、謝罪の言葉とは「自分」のためのもので、
自分を赦し報復しないでね、という自己防衛の言葉だったのだ。
寛容であるはずの世界
先に述べた私の勘違いを分析すると「謝る」とは、「罪を犯した者は罰を受ける、罰を受けて当然」という観念の元、の儀式のようなものだ。
そこに、許しが存在するか否かは、自分は関与することができず、「俎板(まないた)の鯉」状態ということだ。
ところが、言葉をひも解いていくと、そうではないらしい。
前出の通り、「御免」は、許す人を敬う なのだ。
「許す人」という前提在りきの言葉なのだと気づいた。
あぁ…びっくりだ。
とするとだ、人は「許される」が前提にあって、「許さない人」というのは、まず在り得ない前提の世界観だということだ。
少なくとも、鎌倉時代の言葉の語源からすると、そういう世界観であったことが透けて見える。
大らかでなんと素晴らしい世界観なのだろうか。
罪を犯すような事をする人間が少なかったのか、
それとも、罪を赦さないような人間は、蔑まされるような世界観だったのか…
許すも許さないも、謝罪された側に主権はあるものの、謝罪という行為は、誰あろう謝罪する本人のためだった。
何でもかんでも謝る慣習の日本は、許し許される集落の人々だったのかもしれない。
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