スーパースターはなぜスーパーなのか?
AEAJ認定教室 調布アロマシオン主宰、アロマテラピー研究室でも活動し、
web制作もしてる島田さつきです。
実力もあり結果を残している人たちは何が違うのか?
とにかく「そのことが好きだ」という熱量が圧倒的に違う。
私はそのように思っています。
例えば、今は、野球では大谷選手のような人ですね。人としても大人気です。
こういう人達のこと「いいな~生まれた時から天才」と羨むバカが家におりまして
何もやらんで結果が出せる人間など、どこにもおらんのだがな。
先日、イチローの記事を読みました。
私は日ごろから、教育のことに注目しています。
教育といっても家庭教育とか学校教育だけではありません。
ヒトを人たらしめるもの…それが教育だと思っています。
随分前に、近年の若いバレー選手(日本代表)のドキュメンタリーを見ました。
私の年代(昭和)は体育会系というと、とても厳しい上下関係とか、練習自体も厳しいとか、そういうのが当たり前の時代でした。
しかし、このドキュメンタリーで、上下関係という言葉など存在しないかのような高校生のバレーチームを目の当たりにして「今は全く違うのだな…」と驚いたのです。
厳しい上下関係が良いということではありません。
ただ、なあなあな感じで、チームとして乗り越えるべき壁にぶつかった時、みんな泣いているんですね。先輩やチームを束ねるキャプテンもできない下級生に「大丈夫大丈夫…」と一緒に泣いて慰めるばかり。とても優しい先輩です。
しかし、できないと沈んでしまうそのメンタルの弱さに違和感を持ったのでした。
前出のイチローの記事ではこう言っています。
「SNSでも「イヤなことから逃げたらいい」「つらいことは拒否すればいい」「めんどくさい他人は切ればいい」といったやさしい言説を発信する人ほど多くの支持や共感を集めているのを目にする。」
そうですよね。
このことは頑張りすぎるからこその弊害に対して「そういう時は逃げても良い」とかいった答えです。
しかし、現代っ子は、本当に頑張りすぎなんでしょうか?
私から見ると、頑張り方を間違えているだけで、ちっとも頑張っているようには思えません。頑張るというのは、閾値を超える努力のことだと思うからです。
一流と呼ばれる人々は、それこそ朝から晩まで、そのことばかりをやっているんですよね。そして、自分が成ろうとしている者に対して、はっきりとしたビジョンがある。
ブレないんですよ。だから、そのために必要なことなら何だってやるんです。
そのためには、自分の葛藤を律することができる強さが必要です。
イチローはそのことを言及しているのです。
「大人の厳しくしない指導は、未熟な若い人にとって、自分たちで律しなければならないことを意味している。」と。
そして、そのような子どもたちを作っているのは、大人だとも言っています。
「教育者・指導者側も、まず「自分で自分を厳しく律することができる人」「厳しいフィードバックに耐えられるタフネスがありそうな人」を慎重に選んで注力するようになっている。そうでない人には、心が折れて辞められたりすることがないよう、腫れもの扱いしながら敬遠する。」
今の会社もこういう感じですよね。
何でも厳しくすればよいってことじゃないです。
しかし、厳しい状況をあえて作り、それを乗り越えるための知恵を自ら会得しなければ、自分を守る防衛力、危機管理能力も備わらないです。
「こういう時はこうやって自分を守ればいいんだよ。」
そんなこと、教えてもらって会得するものじゃないですよね。
だから、そういうものは経験から学んでいくものなんです。
いちいち、誰かから、どこかから教えてもらう…などということをしていたら、自分で答えを導き出す能力など育ちません。
子どもの頃、昭和のしごきというのは、理不尽で全く理解できませんでした。
例えば、運動部の部活でテニス部に入ったとします。
すると、半年以上ラケットも握らせてもらえず、球拾いばかりさせられる。
なんて話がゴロゴロ転がっていたんですね。
このことを当時は、バカバカしい大人のくだらない指導と感じていました。
ところが、しばらくして頭が大人の発想をするようになった頃、なぜそんな指導だったのかがわかったのです。
何のことはない、ふるいにかけていただけなんですね。
球拾いが嫌でテニス部を辞めるくらいなら、テニス部にいなくて良い。
それを忍耐強く乗り越えてくる、何がなんでもテニスやりたい生徒だけを指導する。
というやり方なわけです。
こういうの、今は通じないと言われればそれまでですが、意味がわかれば、他の方法でできるのではないでしょうか。
さて、イチローの話しに戻りますが、このようにしてしまったのは、大人たちの指導する側の問題もあるとも述べています。
つまり、今の世間体を気にしたり、自分が悪者になりたくないがために、ぬるい指導者、教育者に留まろうとするわけです。
誰だってダメなことを注意したり、時には叱ったりってしたくないんですよ。
で、そういう風潮で大人たちが厳しさを手放した結果、子どもたちはどうなったかというと…
「結果的に、自分に厳しくできない人や、厳しいフィードバックに耐えられない人は、表面的には学校でも部活でも会社でもどこでもそれなりに「やさしく」遇されやすくなって快適な日々を送ることができるが、しかしタフな人びとに経験値や成長度で大きな差をつけられてしまうし、だれにもそれを埋め合わせてもらえない。格差が開いてしまったあとから「自分がこうなったのは、だれも厳しく教えてくれなかったせいだ」などと申し立てることなどもちろんできない。自分でちゃんとしなかったせいでしょ? とあっさり切り捨てられることもままある。」
つまり、厳しさのない教育は、成長する機会を逸します。
そして何が起きるかというと、基礎力の大きな欠如を生むのです。
ということをイチローの記事では言っているのです。
全員が1位…というバカバカしい徒競走から始まり、やさしさの取違い教育が随分とありましたよね。
しかし、社会に出てみれば理不尽なことばかりです。
学校という集団の中でも、その理不尽は起きます。
そういった出来事から、どうやって身を守るのか、どうやって右から左に流すのか、どうやって自分を守り律して、壁を乗り越えるのか。
それは生きる上で実はとても大切な知恵なわけです。
だから、その経験を積ませる教育というのが本当は必要なのではないでしょうか。
と私は常々考えるわけです。
子どもに限らず、今の社会人も同様です。
派遣業が蔓延して、会社が人を育てなくなったために、社会の誰からも教えてもらえず育ててもらえず、若い人はスペックの低い人材ばかり。
社会全体で人を育てなくなった構造が、引きこもりを増やしているのではないかと。
【アロマテラピー研究室】ただいま受付中のセミナー
『黄帝内経』読解セミナーVol.2「天年」編第一部 リクエスト開催受付中
『誰も言わなかった アロマテラピーの本質』読解 webセミナー (Vol.1~5) リクエスト開催受付中
アロマテラピー研究室は、翻訳によって日本にアロマテラピー広めた故・髙山林太郎氏が創設。
髙山氏から後継人指名をされた林さんとともに、髙山氏の思いを引き継ぎ、髙山氏のアロマ遺産管理とアロマテラピー啓蒙活動をしております。