血塗ラレタ日記 -9ページ目

血塗ラレタ日記

阪神タイガース、ブラアラキ、メタル

WBCが始まったけど、全く興味なし!

 

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先月末のブラアラキ2日目、2月22日(日)の続き

 
飯盛山から市内周遊バスで若松城(鶴ヶ城)の北側へ
 
すぐには入城せず、周辺を少し徘徊
 
城の北出丸前、道路を挟んだ向かい
 
会津若松駅から城へ伸びる1本道沿いに建つのは

西郷頼母邸跡

 
幕末の会津松平家家老として有名よね
 
戦が始まり、頼母と息子の吉十郎が城へ
 
その後、戦況が危うくなり足手まといや敵の恥辱を受けない為に
 
この邸宅で妻子・縁者含め21人が揃って自刃
 
最年少は2歳・・・

その説明書きと、妻子の辞世の句

 
城下では西郷一族だけでなく、家臣一族100名以上が自刃したそうな・・・
 
 
西郷邸の向かいには

今は簡易裁判所になっている場所

 

ここにはかつて同じく家老の内藤邸があり

降伏式が行われた場所
 
所謂「会津戊辰戦争終結の地」
 

降伏式には赤い毛氈(フェルト)が敷かれ
 
式が終わった後、家臣達は泣きながらその毛氈を小さく切り取り
 
この屈辱を忘れぬ様にと持ち帰った事で「泣血氈の誓い」と呼ばれる様になったそうな
 
京都で朝廷(孝明帝)と徳川幕府の為に戦って来たのにも関わらず、後に徳川宗家にも見放され
 
賊軍として戦い、多大な犠牲を払い降伏した無念・屈辱は計り知れない・・・
 
 
そしてお城へ

北出丸堀の前に建つ石標

 
因みにお城の正式名称は「若松城」で
 
通称「会津若松城」「鶴ヶ城」
 
戦国期には「黒川城」とも
 
築城は1384年で、室町幕府は三代将軍足利義満の時代
 
会津盆地の東南、扇状地が作った台地の上に築かれておる
 
築城主は蘆名氏で、その時はまだ館だったそうな
 
戦国期に徐々に城郭が整えられ
 
その蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が米沢から本拠地をここ会津に移転
 
その後、豊臣秀吉の奥州仕置で蒲生氏が入り地名を「若松」へ改称
 
次に上杉景勝が入るも、関ヶ原合戦の原因になる徳川家康の会津討伐を引き起こし
 
負けた上杉は米沢へ
 
代わって蒲生氏が再び入り、後に加藤氏と城主はころころ移り
 
1643年、2代将軍秀忠の隠し子である保科正之が23万石という高禄で入り会津松平家が誕生
(松平姓を名乗るのは三代正容から)
 
以後、明治まで会津松平家がこの地を治める事に

こちらは北出丸の石垣と堀

 
コの字に城の中を通り

枡形の追手門跡
 
ここを進んで行くと本丸へ

天守が見えて来た

 

太鼓門跡

 

V字に造られた「武者走り」呼ばれる階段

 

おそらく石垣は当時のもの

 

こちらは蒲生時代の石垣

 
そして

天守!

 

江戸時代の天守は戦で新政府軍の砲弾を浴びボロボロに(後述)
 
開城後に取り壊され、現在の天守は1965年にコンクリート造による外観復興再建
 
天守の現存・再建の種類は下記過去記事に詳しく説明しているよ
 
再建時には黒瓦だったけども、2011年に江戸期当時の赤瓦に葺き替え
 
前にその赤瓦に変わった天守が見たくて来たんだけども、前記事で書いた通り大雪で
 
瓦が真っ白だったわよ!(超絶白目)
 
まぁ、雪化粧のお城も風情があったけどもw
 

手前に伸びるのは櫓へ続く長屋(走長屋)
 

んー、このアングルも最高(〃∇〃)

 

白壁に赤瓦、素晴らしい!

 

天守は現存がいちばんだけど、再建天守の中で一番好き(ノ^^)ノ

 

正面の真下から

 
ここが当時の入口だったのかな?
 
今は通行不可になっているけど
 
 
そして、入城料を払い天守の中へ
 
中は資料館になっており江戸期の赤瓦
 

会津松平家家訓(十五箇条)

 

会津松平家の祖である保科正之公が定めた、会津の憲法とも言うべき遺訓

 

その1条には

一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず

 

現代訳すると

「会津松平家は徳川宗家への忠義を第一とするべし。他家の例を自分達に当てはめてはならない。もし子孫が徳川宗家に反する様な事があればそれは我が子孫ではないから、家臣たちはその様な主君には絶対に従ってはならない」

 

痛烈なまでの徳川宗家・幕府への忠誠を説いている家訓

 

この様な家訓は他の大名家には見られず

 

会津松平家が特異な徳川大名家であった事が分かるわね

 

でもこの家訓があった為に当時の当主である松平容保は京都守護職を辞退する事ができず

 

尊王攘夷派の憎しみを一身に受け戊辰戦争での悲劇を生む事に・・・

 

松平容保公の写真

 
めっちゃイケメンよ!(〃∇〃)
 
着用している陣羽織は孝明帝から賜った生地(御衣)でしつらえたもの
 
他には

白虎隊自刃の絵

 

先述の泣血氈

 

戊辰戦争終結直後の天守

 
中学生の時に初めて来た時、この写真を見た時の衝撃は今でも覚えておる
 
 
他に会津藩ゆかりの人物の紹介もあり

秋月悌次郎

 
他藩との外交を担う公用方として活躍
 
明治に入り熊本第五高等学校(熊本大学の前身校)など各地の学校の教師になり
 
熊本五高では、今のNHK朝ドラ小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と同僚に
 
八雲は秋月の事を「神様の様な人」と評し尊敬してそうな
 
ドラマ見てないけど、秋月さん出て来るのかな?
 
 
各階の様々な資料を見ながら天守内部を昇り
最上階へ

 

こちらは東南方面

 

ここから一望できる会津盆地と周りの山々が最高で

北東側に聳える磐梯山!

 

会津盆地から見える磐梯山は綺麗な三角形をしている為に「会津富士」とも

 

周りが山に囲まれ、盆地というのが本当に良く分かるわね

 
こちらは南側、先述の櫓に伸びる走長屋
 
 
次に天守を出て城の東側へ

橋の向こう側は二の丸、三の丸

 
橋を渡り振り返ると

立派な石垣と天守

 
二の丸に渡り北側を見ると

先程通ってきた北出丸の追手門方面

 
堀も広くて立派な縄張りであることが分かるわね
 
二の丸は広い公園になっており、その中には

山本八重の歌碑

 
明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城に 残す月影
 
鶴ヶ城籠城戦で銃を取り戦った八重さん
 
降伏後、城壁にこの歌を刻んだそうな・・・(涙)
 
 
二の丸を抜け、城周りの道路を渡り三の丸へ
 
三の丸の堀は殆ど埋め立てられていて、現在は街と一体化しており
 
その道路沿いには

司馬遼太郎文学碑

 

司馬先生の会津藩についての評価と

 

松平容保を書いた小説「王城の護衛者」の一節

 

もちろん、この小説は持ってるし何度も読んだ(・∀・>)

 

 
その隣には

山本八重の像
 
銃を持った出で立ち
 
そのまた隣には

先述の秋月悌次郎の詩碑

 
降伏後に詠んだ詩で冒頭には
 
行くに輿なく帰るに家なし 国破れて孤城雀鴉乱る
 

 

様々の人の会津への思いを感じる事ができる三の丸だったね・・・

 

 

続く