気温はまだ秋めく気配を見せないが、夜の長さは肌に堪える。脳内を駆け巡る石橋の言葉はひと時も離れてはくれず、ぬるま湯の感覚に佇んでいた。烏の行水な僕だが、浴室という空間は今日に限って優しい。自慰行為に耽るなど考えにも及ばず、湯船のさまよう音だけがBGMだ。
「太一!いつまで入ってんの!早く上がりなさい!」
「…うるっせぇなぁ」
烏の行水のときは「ちゃんと洗ったの?」だの「湯船に浸かってないでしょ?ダメよ」とか言うくせに、理不尽な話だ。とはいえ、宿題さえ手付かずの状況を踏まえりゃ年貢の納め時、渋々立ち上がり浴槽を出ると、僕は鏡を一瞥し、浴室を後にした。
「どんだけ入ってんのよ。宿題は?」
「これからやる」
茶を啜る音さえ耳障り。これを「反抗期」と呼ぶのだろうか?居間で8時54分のニュースに妙な溜息を漏らす母さんに目を向けるのも嫌で僕はそそくさと自分の空間に戻った。こういう態度を繰り返せばせっかく手に入れた空間を奪われるかもしれない。そんなことは重々承知だ。
だけど…良い子を演じる余裕は無い。そんな余裕がありゃ、現実逃避的な長風呂なんかしないっての。
腹這いで数学のプリントを眺めながら、公平に電話しようか悩んだ。風呂の間も巡った考えだが、苦手な数字の羅列に答えを教えてもらうという名目が浮かんだのだ。そのついでに石橋の言葉を…
ダメだ。
あんな差別的発言、どれだけ「石橋が言ってた」を付け足したって、僕の口から放てる言葉じゃない。
だから、数字の羅列に答えらしきものを書き殴った。数学のように絶対的な正解を僕自身に求めたのだ。在りはしないと分かりながらも、それ以外に何が出来るというのか?いや、そもそもどうして僕だけが東大生も解けないであろうこんな難問を突き付けられなきゃならないのか?不安の渦は次第に憤りを帯びた。
「お前らってさ、カマっぽいじゃん。いっつも一緒だしさ、もしかして付き合ってんのか?」
「内緒にしといてやっから素直に吐けって。[僕はホモです]って」
「何なら俺らのアソコ見せてやろうか?見たいんだろ?」
大声で嘲笑する石橋が憎かった、続けざまに嘲笑と罵声を浴びせる手下も憎かった。
けど、誰より憎いのは、何一つ言い返せなかった僕自身だ。往生際の悪い容疑者のように何度も「違う」と首を振った憐れな愚かな弱い僕自身。
翌朝、赤く腫らした目に最初に気付いたのは桑原だった。下駄箱で出くわすなり「ウサギみたいね」と、温度の無いオペレーターのような台詞を吐く。
「眠れなかっただけ」
「ふうん」
特に興味も無さそうな空返事のあと、この女は「ちょっと訊きたい事があるんだけど…」と、心臓に悪い言葉を発した。昨日、石橋に呼び止められたのと全く同じ言葉、靴を履き替える手が思わず止まる。
「瀬川くんってさぁ」
「瀬川くん?」
「うん。何か私にだけ態度が冷たい気がするのよ。私、何かしたのかな?聞いてない?」
心底どうでもいい。
「さぁ。分かんない」
「そう。靴履かないの?」
「履くに決まってんだろ」
怒り口調に首を捻り、桑原は先に教室へ向かった。少々申し訳ない気もするが、「訊きたい事がある」などと妙な前振りを付けた方が悪いのだ。大体、今更瀬川くんの態度を気にし始めるとか、あの女は他人に対しては鋭いが自分に対しちゃ鈍感なのかもしれない。
「太一、おはよう」
何の因果か、振り返った先にはヒロが居た。唐橋との件でダメージを負っている筈なのに、微塵も感じさせない麗らかな雰囲気はさすがだ。僕には真似出来ない。
「あっ、太一。おはよう」
「佐藤くん、おはよう」
しかし、ヒロの雰囲気に呑まれる余裕は瞬時に掻き消された。このタイミングによりによって公平といっくんが並んで登校とかおかしいだろ。罪を犯した覚えのない僕は、秋晴れに叫びたかった。
「僕、何かしました!?もしくは僕の前世が大悪党とかですか!?」
荒々しく吹きすさぶ風に抗う術も無く、僕はただ不自然な笑みを返すのが精一杯だった。ここに板橋が居ないだけマシだ。そんな風に自分を慰めながら…
(続く)
