「空虚ノスタルジア」

「空虚ノスタルジア」

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有沢祐輔



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 美咲が目を覚ますと、そこは病室だった。

 枕元には、見知らぬ青年が立っていた。
 美咲が目を開けたことに気づくと、彼は驚いたように目を見開き、慌ててベッドのそばへ駆け寄った。
 
「目が覚めたんですね! よかった……本当によかった」
「あなたは……誰? ここはどこ? わたし、どうして……」
 
 問いかけながら、美咲は自分の名前さえ思い出せないことに気づいた。
 自分が誰なのか。なぜここにいるのか。これまでどんな人生を送ってきたのか。
 何ひとつ、わからなかった。
 
「と、とりあえず先生を呼んできますね」
 
 青年はそう言い残すと、足早に病室を出ていった。
 
 ほどなくして主治医が訪れ、美咲は自分の身に起きたことを聞かされた。
 夜道を歩いていたところ、自動車にはねられ、この病院に搬送されたのだという。幸い命に別状はなく、経過が順調なら一か月ほどで退院できるらしい。
 
 そして、車を運転していたのが、先ほどの青年だった。
 
「僕の不注意で、こんな怪我を負わせてしまって……。本当に申し訳ありません。僕は、あなたにどう償えばいいのか……」
 
 青年は深くうなだれた。
 その姿を見て、美咲は静かに首を振った。
 
「責めるつもりはありません。ただ……記憶を取り戻したいんです」
「それなら、僕に手伝わせてください」
 
 青年は顔を上げた。
 
「退院して、元の生活に戻れるようになるまで、僕があなたを支えます」
 
 主治医によれば、検査では脳に明らかな異常は見つかっていない。記憶障害は一時的なもので、時間の経過とともに回復する可能性があるという。
 
 美咲は迷うことなく、青年の申し出を受け入れた。
 
「お願いします」
 
 目を覚ますまで、ずっとそばにいてくれた人。
 その誠実さに、心を許したのかもしれなかった。
 
 青年は稔と名乗った。
     
 それからというもの、稔は毎日のように病室を訪れた。
 手には決まって、クッキーやプリン、ケーキといった甘い手土産があった。
 他愛のない話をするうちに、少しずつ彼のことがわかってきた。
 
「大学生のときに上京して、卒業と同時に今の会社に就職しました。人付き合いが苦手なんで、友達もあんまりいなくて。休日はもっぱら、カメラ片手に景色のいいところを巡ってます」
「彼女はいるの?」
 
 美咲が何気なく尋ねると、稔は気恥ずかしそうに頬をかいた。
 
「恥ずかしながら、付き合ったことすらないんですよ。好きな人ができても、どう声をかけたらいいのかわからなくて……」
「そうなんだ」
「美咲さんは?」
「……わからないの。自分がどんな人だったのかも、誰を好きだったのかも」
 
 そう答えると、稔は少し寂しそうな顔をした。
 
「きっと、思い出せますよ」
 
 その言葉に、美咲は小さく頷いた。
 
 稔と過ごす時間は心地よかった。
 
 記憶は一向に戻らない。
 それでも、彼がそばにいてくれると、不思議と不安は和らいだ。
 
 自分が何者なのかもわからない。これまでどんな人生を送ってきたのかもわからない。
 けれど、今は彼がいる。
 
 この時間が、ずっと続けばいい。
 
 いつしか美咲は、そんなことを願うようになっていた。
     
 退院の日。
 
 美咲は、自分が暮らしていたというマンションへ戻ってきた。
 部屋には最低限の家具や家電が揃っていたが、どこか殺風景だった。生活用品も衣服も必要最低限しかなく、誰かが暮らしていたという実感さえ薄かった。
 ソファに腰を下ろし、美咲は部屋を見回した。
 
「何も思い出せない……」
「焦らなくていいですよ。そのうち、きっと……」
 
 稔は言葉を濁し、うつむいた。
 その仕草を見た瞬間、美咲の胸に、ひとつの疑念が浮かんだ。
 
 彼は何かを知っているのではないか。
 自分が忘れてしまった、あの夜のことを。
 
「稔さん。お願いがあるの」
「何ですか?」
「事故に遭った場所へ、連れていってほしい」
     
 
 そこは、見通しのいい交差点だった。
 
 周囲を遮るものもなく、道路の先までよく見渡せる。夜とはいえ、これほど見通しのいい場所で、運転を誤るものだろうか。
 
 もちろん、事故はどこででも起こり得る。
 それでも、美咲の胸には拭いきれない違和感があった。
 
 信号が点滅し始める。
 
 その光を見つめているうちに、美咲の脳裏に、断片的な記憶がよみがえった。
 
 冷たい夜風。
 
 行き交う車のライト。
 
 誰もいない部屋。
 
 そして、ひとりきりの自分。
 
「わたし……ひとりぼっちだったんだ」
 
 ぽつりと呟いた言葉に、稔が顔を上げた。
 
「美咲さん?」
「早くに両親を亡くして、兄弟もいなかった。恋人もいたけど……浮気されて、捨てられて……」
 
 途切れ途切れに、記憶がつながっていく。
 
 誰かに必要とされたかった。
 
 誰かに愛されたかった。
 
 自分を置いていかない人が、ひとりでもいてほしかった。
 
「もう、何もかもどうでもよくなって……あの夜、わたしはふらふらと歩いていた」
 
 美咲は車道へ一歩踏み出しかけた。
 
 その腕を、稔が咄嗟につかんだ。
 
「美咲さん!」
 
 引き戻された美咲は、稔の顔を見つめた。
 
「わたし、自分から道路に飛び出したのね。それで、あなたの車にはねられた。そうなんでしょう?」
 
 稔はしばらく黙っていた。
 やがて、観念したように小さく息を吐いた。
 
「……ええ。そうです」
 
 あの夜、稔は突然、目の前に飛び出してきた美咲をはねた。
 事故のあと、病院を通じて、彼女に身寄りがないことを知った。
 
「だから、せめてそばにいようと思ったんです。僕にできることは、それくらいしかなかったから」
 
 稔は視線を落とした。
 
「あなたが記憶を失ったと知ったとき……正直、ホッとしました」
「どうして?」
「辛かった過去を忘れて、もう一度、人生をやり直せるかもしれない。そう思ったんです」
「どうして!?」
 
 美咲は稔の肩をつかんだ。
 
「どうして、あなたがそこまでしてくれるの? あなたは何も悪くない。むしろ、被害者でしょう?」
「さあ……どうしてでしょうね」
 
 稔は困ったように微笑んだ。
 その目には、涙が滲んでいた。
 
「でも、ひとつだけ確かなことがあります」
 
 稔は美咲の手をそっと握り返した。
 
「あなたには、生きていてほしい。そのためなら、僕は何だってできます」
「稔……さん……」
 
 美咲は彼の胸に飛び込んだ。
 稔の腕が、優しく彼女を包み込む。
 
「お願い……どうか、離さないでね」
 
 美咲は彼の胸に顔を埋めた。
 その背中を、稔はいつまでも撫で続けていた‐
     
 
 抱き合うふたりを、少し離れた物陰から見つめる人影があった。
 
「やれやれ……」
 
 主治医だった。
 彼は呆れたように肩をすくめ、小さくため息をついた。
 
「いくら愛されたいからって、あそこまでするかね?」
 
 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
 
「これで三度目だよ……」
 
(終)
 
 
 

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 少女は六歳の誕生日に、父親からオルゴールを貰った。

 けれど、どれだけネジを巻いても、オルゴールは鳴らなかった。
 その晩、少女は泣きながら眠りについた。
 
 翌朝。
 
 オルゴールは、優しい音色を奏でていた。
 それは、今まで聴いたことのないほど美しい音色だった。
 
 父親は言った。
 
「このオルゴールは、君の哀しみに呼応するんだよ。だから、哀しいことがあったらオルゴールを開けなさい。きっ   と、いい音色を聞かせてくれるから」
 
 少女は、その言葉を信じた。
 
 けれど、少女は哀しみを待つことができなかった。
 
 ある日、大事な手鏡を落とした。
 わざとだった。
 鏡が床に当たって砕ける音を聞いたとき、少女は少しだけ胸が痛くなった。
 
 その夜、オルゴールを開けた。
 優しい音色が流れた。
 
 またある日、鉄棒から降りるとき、ほんの少しだけ手を離すのを早くした。
 痛かった。
 泣いた。
 
 その夜も、オルゴールは鳴った。
 
 またある日。
 友達と喧嘩をした。
 
 わざと傷つけるようなことを言った。
 友達は泣いた。
 先生に叱られた。
 家に帰ってからも、父親と母親に叱られた。
 
 その夜も、オルゴールは鳴った。
 
 優しく。
 
 穏やかに。
 
 まるで少女を慰めるように。
 
 まるで、少女を褒めるように。
 
 少女は、少しずつ哀しみを待てなくなっていった。
 
 哀しみが欲しかった。
 哀しみのあとに訪れる、あの音色が欲しかった。
 
 ずっと、この音に包まれていたい。
 
 少女は、もっともっと哀しみを求めるようになった。
 
 そして、ある日の夜。
 父親から、母親が交通事故に遭ったことを聞かされた。
 
 少女は父親と一緒に、急いで病院へ向かった。
 けれど、母親の命は助からなかった。
 その晩、少女はひと晩中泣いた。
 
 母親のためではなく。
 オルゴールのために。
 
 翌朝。
 
 少女はオルゴールを開いた。
 鳴らなかった。
 
 ネジを巻いた。
 鳴らなかった。
 
 何度開いても。
 何度ネジを巻いても。
 
 オルゴールは、もう鳴らなかった。
 
 もう、鳴ることはない。
 
 少女は、悟った。
 
 (終)
 
 
 
 
 

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最近Xで、テーマに沿った詩や小説をアップする企画に参加させていただいてます。

 

AIちゃんを使って画像を作り、そこに載せてアップしてます。

 

Xは文字制限あるので、このやり方だとそれを気にしなくていいのが便利(*^^*)

あと、純粋にめちゃめちゃいい画像作ってくれる。細かい注文にも応えてくれるAIちゃん優秀。

 

こちらのほうでもアップしますので、よろしくお願いします!

 

 
テーマ「生涯忘れ得ぬ人」↓
 

 

 

 

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ドア付近の嘔吐物の匂いに顔をしかめながら、盛大にため息を吐いた。

終電だというのに、金曜の夜だからか、意外と乗客は多い。
 
後輩がミスさえしなけりゃもっと早く帰れたのに。上司が教育をサボってるせいで、しわ寄せが来るなんてたまったもんじゃない、全く。
 
こういう考え方にすっかり染まってしまうほど、俺は酷く疲れていた。明日が土曜日なことだけが、せめてもの救いだ。
嘔吐物と、気持ち悪がりながらもちょいちょい目を向ける大学生グループの存在に、体をピリつかせながら、窓の外の電飾を眺めていた。
 
 
「よっ!」
 
急ぎ足で改札を抜けると、上下ジャージのラフな格好で待ち構えるタクマの姿があった。こういうので外を歩ける神経か理解出来ない。だけどうらやましいとも思う。
 
「お疲れ!」
「何?待ち伏せ?」
 
嫌悪感を隠しもしない俺に、タクマは歯をむき出しにして笑う。
 
「ひっでぇなぁ。夜道は危険だから迎えに来た」
「あっそ」
「お前ん家行っていいだろ?」
「断っても来るくせに」
 
今日は疲れてるんだ。とか言ったところで、引き下がる男じゃない。
湿った風がさっきの嘔吐物をチラつかせたので、俺はさっさと歩き出した。
 
「いいね、フリーターは自由で」
「馬鹿言うな。安い時給でコツコツ働くのも辛いんだぞ。なあ、酒買わしてくんね?後で買いに行くのも面倒だしさ」
「疲れてるんだ。まっすぐ帰りたい」
 
大学生だった頃の俺が聞いたなら、さぞかし驚くだろう。社会人になるまで、こんなくたびれた台詞を吐くことはないと、吐くとしても、40代とか50代とか、そうとう先だろうと思ってた。
 
「面倒だけど後で買いに行くか。家から何本かくすねてくればよかった」
「いつ帰ったの?」
「昼間。ツレに返さなきゃいけないゲームあったから」
 
タクマは両親との折り合いが悪く、ほとんど家に帰らない。かといって、一人暮らしをするような金も無い。だから、俺の家、友達の家、ネットカフェ、それらを転々としている。自由だけど、地に足のつかない不安定な生活。そんな綱渡りは俺には無理だ。
 
「仕事大変そうだな。帰ってこないのかと思った」
 
そういえば、待ち伏せされていたのだった。今さら非難する気は起きない。
 
「うん。まあ……やり甲斐はあるけど」
 
つまらない見栄が、つまらない嘘をつかせる。
薄いカーテンを隔てたみたいな妙な間が空いた。
 
「そんなに根詰めなきゃいけねえのか?」
「バイトしてた頃とは違うよ」
「おうおう、一丁前なもんだ」
 
タクマとは、大学生のときにバイト先の居酒屋で出会った。初対面から下の名前で呼んだり、肩を組んだり、妙に馴れ馴れしくて、苦手なタイプだと思った。
けれど、風邪ひいてバイトを休んだときに、家に来てお粥を作ってくれて、そこから仲良くなって、気付いたら付き合ってた。
体の関係が先で、そこからなんかズルズルといっちゃうアレだ。5年経つから、不純な動機の割に、長く続いている方だと思う。
 
 
玄関を開けると、タクマが靴を脱ぎ散らし、スリッパも履かずに奥のリビングへずかずかと入っていく。
 
「脱いだやつ洗濯機入れといていい?」
「あとで自分で回せよ」
「はいはい。覚えてたらな。着替え借りるぜ」
「ああもう!また勝手に!」
「いっつも思うけど地味なパンツばっかだな」
「パンツなんて構う余裕ないんだよ!」
 
無遠慮でクローゼットをかき乱すタクマに、苛々しつつも、週末のモードに、心身が戻っていく。そんな流れを感じた。
スーツを脱ぎ去って、重い鎧を取り払えば、二つの意味で丸裸だ。
 
 
「よっぽど疲れてんだな?」
 
湯船に浸かる間、俺は目を閉じていた。浴槽から湯が溢れる音とか、シャワーの勢いの良い音、それを浴びるタクマの出す「あぁ~」っというしゃがれた音。
そういったものが、耳からイヤホンを外したときみたいな遠さで響いて、すぐにでも眠れそうな心地よい気分になった。
 
「俺も入れてくれぃ」
「ちょっ!無理だって」
「いいじゃんいいじゃん。知らない間柄じゃないし」
「そういう意味じゃないって。狭いの!」
 
足もロクに伸ばせない浴槽なのに、タクマが俺の背後に無理やり割り込んできたので、バックハグの状態になった。
酒臭い息が、ナメクジみたいにねっとりと耳元を這い、野球で鍛え上げられた野性的な腕や足が、俺の肌を滑る。蛇のようににゅるにゅる絡みつく。
 
「ほほう、元気ですなー」
 
堪らえようとしたけど、蛙の俺が敵うはずもなく、タクマは戦利品を掲げるように、勃起に触れる。
 
「触るな。ゆっくり浸からせろ」
「こんなにしといてよく言うよ」
「全然やってないからだって」
拒めば拒むほど摩擦が強くなる。
「信じらんねぇよ。疲れててもするだろ、俺らの年じゃ」
「疲労の度合いが違うんだよ。一緒にすんな」
 
小さい吐息が漏れると、魔法が解けたみたいに指の感覚が無くなった。タクマの方を向くと、生気の無い目が映った。
 
「ああ……いや、別に見下してるとかじゃなくてさ……」
「隙あり!」
「はっ!?」
 
タクマは目尻の垂れ下がったイヤらしい顔を浮かべると、ザブンと勢いよく湯船に沈んで、餌に飛びつく魚のように俺の勃起を咥えた。
「ちょっ……おいっ!もう……風呂ぐらい普通に入らせ……ああ!もう!」
 
いつもこうだ。
 
厳しめに言い聞かせたつもりでも、呆気なくタクマのペースに呑まれて、ズルズルと流されて、夜が長くなって、朝がなくなって……ロクに休めやしないんだ。
 
「ベッド行こうや」
「……うん」
 
辟易した。
それから少しの安息を感じた。
 
 
「ちょっと話があんだけどさ」
「ん?なに?」
 
セックスのあと、特有の気怠さに襲われ、朧気に天井を眺めていると、タクマの妙に静かなトーンが耳を震わせた。うつ伏せで上半身だけ起こすタクマの体はやはり逞しくて、思わず二度目を強請りたくなる。
 
「先シャワー浴びていい?」
「すぐ終わるから」
 
正直シャワーなんて浴びなくてもよかったのだが、セックスの最中から、俺には違和感があった。
愛撫は丁寧だし、自分からゴムを付けるし、痛くない?とか優しい台詞をくれるし、射精後にタオルを肩まで掛けてくれるし……と、言い出せばキリがないくらい普段と違ったのだ。
 
「俺さ、就職決まったよ」
「へ?」
 
蚊の羽音みたいな間抜けな声が出た。
もっととんでもないことを言われると思っていたので面食らったのだ。
 
「……へぇ、よかったね」
「それだけ?」
「就活してたの知らなかったから驚いた。この近く?」
「いや遠い。建設会社なんだけどさ、寮ついててひとり暮らしするのにちょうどいいかなって」
「ふうん。いつから?」
「あさって。寮は明日から入るけど」
「あさって!?」
 
思わず俺は、火をつけたばっかの煙草を取り上げた。
 
「だったらもっと早く言えばいいのに。場所どこ?明日の何時に寮に……」
「ずっとさぁ考えてたんだよ」
 
タクマは俺から煙草を取り上げると、自分の口に含み、強い口調で遮った。白い煙の向こうに真面目ぶった顔が覗く。
ふざけ倒していた風呂のときとは別人のようだ。
 
「俺たちって腐れ縁みたいなもんじゃん?たまたま近く住んでて、時間の都合もフリーターの俺の方は合わせられるから、お前が就職して忙しくなっても、そのままズルズルって感じでさ……」
 
俺は眉間にシワを寄せながら、タクマのキャメルを取って、普段吸わない煙草に火をつけた。
勢いよく吸い込んでしまい、ゴホッゴホッとむせ返る。
その一部始終に目をやることもなく、タクマは続けた。
 
「遠くにいっちゃうとさ、そのうち会わなくなると思う。自然消滅みたいな。でも、長く付き合ってそういう中途半端なのも嫌だしさ、ちゃんと別れたほうがいいんじゃないかって。だから……」
「わかった。もうわかった」
 
半分ほど残ってる煙草を灰皿に押し付けながら、俺は制止した。
 
だって、あまりに惨めじゃないか。
 
中途半端な優しさなんか振りかざして、これじゃ、俺の方が好意を持ってたみたいじゃないか。
今まで散々振り回したくせに、どうして最後だけまともさを見せるのか。
一方的に音信不通になる方がタクマらしい。
 
それでも、タクマの自分に心底酔いしれた筋書きを責め立てたり、みっともなく追い縋ったりするような若さは、俺にはない。
仕事で散々怒りや悲しみを浪費しているのだ。こんなときにまで使いたくはない。
 
「たしかに……」
筋書きをなぞるように二秒ほど間を置く。
「新生活始めるならちゃんと終わらせといたほうがいい」
 
三度瞬きするタクマの目。それから見開いて、俺の正面を向いた。
余程意外な台詞だったのだろう。
内心、してやったりと笑む。
 
「だろ?お前ならわかってくれると思ってた」
 
その声は自信を含んでいた。だけど、どこか上ずった感じは、動揺を如実に表していて、俺の加虐性を擽る。
 
「で、今日はどうすんの?」
「えっ!?今日!?」
 
鶏のように高く引きつった声。笑い転げそうになるのを堪えながら、タクマをじっと見据えた。
まさか別れ話のあとで泊まれるものだと本気で思っていたのか?
こういう甘さが良くも悪くもタクマっぽい。
 
「うーん。そうだなぁ……」
 
別に泊まっていくのは構わなかった。だけど、俺から提案するのはシャクだ。
もう二度と会わないのだ。
そう思うと、慈悲をかける気にもならない。
 
「実家に行く。一応話してあるけど荷物のこととか色々頼まなきゃいけないし」
「そっか」
 
さすがにシャワーも使わせないのは酷だと思ったので、タクマを浴室にいかせると、俺は冷蔵庫から缶チューハイを取り出した。疲労は睡眠を求めているのだが、今日は徹夜になると察した。
 
「その程度だったのかな」
 
こんなに酸味がキツかったっけ?
味の進化に戸惑いながら、俺は無機質なシャワーの音に傾けた。
 
仕事が決まった。遠くに引っ越す。今までのように会えなくなる。
これらが頭の中を何回も何回も巡って、次第に俺は、ただの文字列としか認識出来なくなる。
 
子供の言い訳のような、たったそれだけの理由で別れようってなるほど、希薄な関係だったのだろうか?
 
感傷に値しない。
タクマはそういう男だ。
 
いつも、今夜みたいに待ち伏せして、どんなに断っても家に来て、性欲と睡眠欲と食欲を満たしたら用済みとばかりに出ていって、優しかったのなんて最初の半年くらいだ。嘘もたくさんつかれたし、散々嫌な思いもさせられた……
 
思い返せば返すほど、最低な男だ。むしろ、よく辛抱したなって我ながら誇らしい。
 
だけど、必要だった。
 
社会に出てからの俺は苦戦続きだ。
何年経っても仕事に慣れず、得意先にも上司にも怒鳴られ、後輩からも、無能だの何だの陰で笑われている。
暗いから友達もロクにいないし、出会うチャンスもない。楽しみを見いだせるような趣味もない。家族とさえあまり関わらないそんな俺が、唯一素顔を見せられるのが、タクマだった。
 
改めて考えてみると、俺の人生って哀し過ぎ。
 
「ありがとさん。お前も浴びたほうがいいぞ」
 
いつの間にかシャワーの音が止んでいた。浴室のドアから、河童みたいな頭のタクマがひょっこり顔を出す。
 
「お湯溜めとくか?」
「いいよ。あとで入る」
「そっか……」
 
雑に体を拭きながら、全裸のタクマが戻ってくる。最後くらいちゃんと拭けよなと思ったけど、口にはしなかった。
俺はタクマの性器をマジマジと眺めていたのだ。もう見納めなんだなとか、もっとセックスしてりゃよかったとか、わりかし最低なことを思った。
 
「なんだよ、見惚れてんのか?」
「いちお忠告しとくけど、次付き合う奴は大事にしろよ。相手に合わせるってことちゃんとしたほうがいい」
「飲んでんのか。酒弱いくせに」
 
確かに、酔いが回り始めてる。
タクマは笑いながら背中を向け、ボクサーパンツにシャツの段階まで着替える。
 
そして、少しの沈黙のあと、低いトーンで言った。
 
「お前はお前の苦しさを分かってくれる大人な男を選べ。包容力ある人をさ」
「別に年上好きってわけでもない」
「甘えたがりなくせに」
「うるせぇ。とにかく……」
 
きっと、俺にとっても腐れ縁だったと思う。必要だったのは確かだけど、タクマじゃなくてもよかったのだ。俺の生息する空間や、求めるニーズが、タクマのそれとたまたま一致しただけ。自分の空虚と性欲を埋めるために、互いを欲し合った。
それだけ。動物的に。
 
「大事にしろよな」
「わかってるって」
 
煙草に手を伸ばすのをやめ、タクマはバッグを抱えた。長居させるのも無粋な気がして、俺は何も言わない。
 
「俺のもんは処分しといてくれ」
「わかった。元気でね。仕事頑張るんだよ」
「ああ。じゃあな」
 
不意に目を閉じた。
 
別れ際のキスは、初めてのときのような甘ったるいものじゃなくて、煙草と酒と口臭の混じった嫌なものだった。
 
ガチャ……ンと静かにドアが閉まる。
いつもは乱暴に閉めるくせに、最後の最後で全くもう……
 
「タクマのもんなんてほとんどないじゃん。元々俺のもんなんだから、シャツもパンツも靴下も……」
 
冷たいドアに向かって言い放つと、不意に涙腺が緩くなった。
 
5年。
 
腐れ縁としては短いかもしれない。
それでも、けっこうな長さだ。
 
俺は感傷を全て解放するように、その場に立ち尽くした。
 
少し経てば、またガチャガチャとドアが開く。
そんな淡い期待を、抱いたせいかもしれない。
 
(終)
 
 
追記、先月からカクヨムでの投稿も始めました。
ここで投稿したものの再掲になりますが、よろしければご覧ください。

 

 

 
 

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ながい眠りから覚めたように

眩しい光に目を奪われた
死んだも同然なからっぽの心
そう思っていたのに
 
覚束ない足取りだけど
君の背 目掛けて歩いてく
ロスした時間も遠回りした時間も
君に繋がる伏線だったね
 
空の果てしない青
消えちゃえばいいと思ってた
泥濘の中 抗うことを諦めた
 
君は知ってる?煉瓦色の日々
教えてよ 君のこと
光と闇についてのいくつかとか
君が通り抜けてきた日々を
 
 
 

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