美咲が目を覚ますと、そこは病室だった。
枕元には、見知らぬ青年が立っていた。
美咲が目を開けたことに気づくと、彼は驚いたように目を見開き、慌ててベッドのそばへ駆け寄った。
「目が覚めたんですね! よかった……本当によかった」
「あなたは……誰? ここはどこ? わたし、どうして……」
問いかけながら、美咲は自分の名前さえ思い出せないことに気づいた。
自分が誰なのか。なぜここにいるのか。これまでどんな人生を送ってきたのか。
何ひとつ、わからなかった。
「と、とりあえず先生を呼んできますね」
青年はそう言い残すと、足早に病室を出ていった。
ほどなくして主治医が訪れ、美咲は自分の身に起きたことを聞かされた。
夜道を歩いていたところ、自動車にはねられ、この病院に搬送されたのだという。幸い命に別状はなく、経過が順調なら一か月ほどで退院できるらしい。
そして、車を運転していたのが、先ほどの青年だった。
「僕の不注意で、こんな怪我を負わせてしまって……。本当に申し訳ありません。僕は、あなたにどう償えばいいのか……」
青年は深くうなだれた。
その姿を見て、美咲は静かに首を振った。
「責めるつもりはありません。ただ……記憶を取り戻したいんです」
「それなら、僕に手伝わせてください」
青年は顔を上げた。
「退院して、元の生活に戻れるようになるまで、僕があなたを支えます」
主治医によれば、検査では脳に明らかな異常は見つかっていない。記憶障害は一時的なもので、時間の経過とともに回復する可能性があるという。
美咲は迷うことなく、青年の申し出を受け入れた。
「お願いします」
目を覚ますまで、ずっとそばにいてくれた人。
その誠実さに、心を許したのかもしれなかった。
青年は稔と名乗った。
それからというもの、稔は毎日のように病室を訪れた。
手には決まって、クッキーやプリン、ケーキといった甘い手土産があった。
他愛のない話をするうちに、少しずつ彼のことがわかってきた。
「大学生のときに上京して、卒業と同時に今の会社に就職しました。人付き合いが苦手なんで、友達もあんまりいなくて。休日はもっぱら、カメラ片手に景色のいいところを巡ってます」
「彼女はいるの?」
美咲が何気なく尋ねると、稔は気恥ずかしそうに頬をかいた。
「恥ずかしながら、付き合ったことすらないんですよ。好きな人ができても、どう声をかけたらいいのかわからなくて……」
「そうなんだ」
「美咲さんは?」
「……わからないの。自分がどんな人だったのかも、誰を好きだったのかも」
そう答えると、稔は少し寂しそうな顔をした。
「きっと、思い出せますよ」
その言葉に、美咲は小さく頷いた。
稔と過ごす時間は心地よかった。
記憶は一向に戻らない。
それでも、彼がそばにいてくれると、不思議と不安は和らいだ。
自分が何者なのかもわからない。これまでどんな人生を送ってきたのかもわからない。
けれど、今は彼がいる。
この時間が、ずっと続けばいい。
いつしか美咲は、そんなことを願うようになっていた。
退院の日。
美咲は、自分が暮らしていたというマンションへ戻ってきた。
部屋には最低限の家具や家電が揃っていたが、どこか殺風景だった。生活用品も衣服も必要最低限しかなく、誰かが暮らしていたという実感さえ薄かった。
ソファに腰を下ろし、美咲は部屋を見回した。
「何も思い出せない……」
「焦らなくていいですよ。そのうち、きっと……」
稔は言葉を濁し、うつむいた。
その仕草を見た瞬間、美咲の胸に、ひとつの疑念が浮かんだ。
彼は何かを知っているのではないか。
自分が忘れてしまった、あの夜のことを。
「稔さん。お願いがあるの」
「何ですか?」
「事故に遭った場所へ、連れていってほしい」
そこは、見通しのいい交差点だった。
周囲を遮るものもなく、道路の先までよく見渡せる。夜とはいえ、これほど見通しのいい場所で、運転を誤るものだろうか。
もちろん、事故はどこででも起こり得る。
それでも、美咲の胸には拭いきれない違和感があった。
信号が点滅し始める。
その光を見つめているうちに、美咲の脳裏に、断片的な記憶がよみがえった。
冷たい夜風。
行き交う車のライト。
誰もいない部屋。
そして、ひとりきりの自分。
「わたし……ひとりぼっちだったんだ」
ぽつりと呟いた言葉に、稔が顔を上げた。
「美咲さん?」
「早くに両親を亡くして、兄弟もいなかった。恋人もいたけど……浮気されて、捨てられて……」
途切れ途切れに、記憶がつながっていく。
誰かに必要とされたかった。
誰かに愛されたかった。
自分を置いていかない人が、ひとりでもいてほしかった。
「もう、何もかもどうでもよくなって……あの夜、わたしはふらふらと歩いていた」
美咲は車道へ一歩踏み出しかけた。
その腕を、稔が咄嗟につかんだ。
「美咲さん!」
引き戻された美咲は、稔の顔を見つめた。
「わたし、自分から道路に飛び出したのね。それで、あなたの車にはねられた。そうなんでしょう?」
稔はしばらく黙っていた。
やがて、観念したように小さく息を吐いた。
「……ええ。そうです」
あの夜、稔は突然、目の前に飛び出してきた美咲をはねた。
事故のあと、病院を通じて、彼女に身寄りがないことを知った。
「だから、せめてそばにいようと思ったんです。僕にできることは、それくらいしかなかったから」
稔は視線を落とした。
「あなたが記憶を失ったと知ったとき……正直、ホッとしました」
「どうして?」
「辛かった過去を忘れて、もう一度、人生をやり直せるかもしれない。そう思ったんです」
「どうして!?」
美咲は稔の肩をつかんだ。
「どうして、あなたがそこまでしてくれるの? あなたは何も悪くない。むしろ、被害者でしょう?」
「さあ……どうしてでしょうね」
稔は困ったように微笑んだ。
その目には、涙が滲んでいた。
「でも、ひとつだけ確かなことがあります」
稔は美咲の手をそっと握り返した。
「あなたには、生きていてほしい。そのためなら、僕は何だってできます」
「稔……さん……」
美咲は彼の胸に飛び込んだ。
稔の腕が、優しく彼女を包み込む。
「お願い……どうか、離さないでね」
美咲は彼の胸に顔を埋めた。
その背中を、稔はいつまでも撫で続けていた‐
抱き合うふたりを、少し離れた物陰から見つめる人影があった。
「やれやれ……」
主治医だった。
彼は呆れたように肩をすくめ、小さくため息をついた。
「いくら愛されたいからって、あそこまでするかね?」
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「これで三度目だよ……」
(終)




