年末に行われた統合大会の前前夜に、娘の前髪の散髪へ初めて挑んだところ、大失敗してしまいました。

勢いあまって切りすぎてしまって、まあるい額が前のめりで主張しているような仕上がりに😵‍💫


翌日、あわててニット帽を買いに走ったものの、娘のおでこを見るたびに、ちょっと落ち込んでいました。

(でも娘を見て不安気な顔をすると、娘にも同じ気持ちを過らせると分かっているので、悟られないようにはして)


うちの娘、それはそれはもう、本当に愛くるしい姿をしているのに(←親ばか)、わたしの不手際によって、その可愛らしさを半減させてしまったわけです。

大会当日、娘を見かけた何人もから「これはこれで可愛いよ」と言ってもらえて、ようやく ほっと出来たところがありました。

(「美白さが増した?」とも聞かれたけど、おでこが出たことで光の反射面が増えたからじゃないかしら····)


じつは散髪直後、母へ娘の写真を送ったところ「どうやったら そんなんなるの?可哀想に」との返事がきて、身内だから率直に言えることもあるとはいえ、その言葉の温度に堪えるものがあったので「娘は可哀想なんかじゃない」と、反論したんです。

そして、写真を見せなきゃ良かったんだよな、母ってそういう配慮を顧みないところがあるし····と、反省もしました。


去年、初めて娘を連れて滋賀の実家へ帰省したあと、帰路で夫から

「ありさのお母さんさ、やたら景ちゃん(娘)に対して可哀想って言葉を投げかけるよね。うちの親だったら言わない気がして」と、母の口癖が耳に残ったことを、打ち明けられました。じつを言うと、わたしも同じことを感じ取っていたんです。


ちょっとでも娘が躓いたりすると、娘の顔を覗き込みながら「可哀想に」と言うのです。

そして彼の言っていた通り、先月、義両親と数日間一緒に過ごすなかで、そういった発言を義両親の口から聞くことは ありませんでした。


うちの母はどうも、憐れむことこそが愛情表現だと見なしている節があるようです。(ちなみにわたしと妹は、それとは全く違う接し方で育てられました)

そういう憐れみの言葉を繰り返し浴びていると、いずれ「わたし、かわいそうなの?」と、認識してしまうんじゃないの?という懸念が湧きました。その認識こそが【自己憐憫ロード】への入口になってしまうんじゃないの。


そうならない為にも今、娘が娘を存分に生きられるように、不要な言葉や観念を跳ね除けるパワーを、彼女のなかに蓄えようとはしています。

ただそれとは別に、そういう憐れみの言葉から、なるべく遠ざけてあげることも大切なんだよな、と思いました。


わたしも不適切な発言をしてしまった場面は、これまで たくさんあります。太宰治にシンパシーを感じていたぐらいですから。(恥の多い生涯を····のくだり、あたり)

その言葉掛けは相手の未来までも含めて、ずっと遠くまで、深いところへまで力を注げているようなものなのか、一時的な慰みでしかないのか、いつだって振り返れる自分であれたらと思います。


うと ありさ 🧤🧶🧤🧶


いそいで買いに走った、クマの耳つき帽子🐻
耳つきには、手を出さないつもりだったのになぁ。娘の衣類については、シンプルで大人っぽいものを選びがちです。

 

統合大会のレポートを、幸子さんが書かれています。
手前辺り、赤ちゃんを抱えて水色の服を着ているのが わたしです。