有川浩と覚しき人の『読書は未来だ!』

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前回のblogを加筆・修正したものが、産経新聞WESTに掲載されました。

また、神戸市と西畠清順氏の事務所に、意見をお伝えしました。
(『阪急電車』版元である幻冬舎に託しました)
blogで発信した意見に、所感を添えてもらいました。

・主催者の意図はどうあれ、鎮魂の名の下に対立が起こった。
・その事実は冷静に受け止め、同じ混乱が起きないように、今後は一層の配慮をしてほしい。
・この意見は主催者の断罪を求めるものではない。

神戸市と西畠氏がどのようにこの意見を受け止めるかは分かりません。
読んでいただけたかどうかもこの時点では分かりませんし、それを追う気もありません。
私はお伝えした、後は先方の問題です。
私一人の意見で何かが変わるものではないと思いますが、伝えるという意思表示をすることには意味があると思います。
多くの意見が積み重なれば、何かが届くかもしれません。
その可能性を信じて、一個人として動くことしか私にはできません。

自分の信ずるところに従って行動した上で、私個人の感情の問題を吐露すれば、「知れば知るほど企画に憤りしか感じない」というのが正直なところです。

しかし、阪神・淡路大震災の被災者と体験者は、この企画に人質を取られているも同然だと思います。
企画が人質に取っているのは、一つに伐られた氷見のヒノキアスナロ。
そして、企画に善意を捧げた無辜の第三者です。
最初から何らかの思惑があって手を組んでいた方もいるでしょう。
しかし、純粋な善意で協力した方々も、確かに存在するのです。
結果的に善意を消費した主催者に対して、憤りを消すことはできません。
それでも、私は、赦さねばならないと思います。
捧げられた全ての善意を苦しめないためにです。
伐られたヒノキアスナロを無為にしないためにです。
人質を穏やかに解放するために、私は主催者の断罪も社会的制裁も謝罪も望みません。

(望まないのは、主催者や行政にアプローチしてみた結果として、誠実な対応は望めないだろうと個人的感触を得たからでもあります。であれば、追及が長引くことが寄せられた無辜の善意を苦しませる不利益のほうを私は個人として採択した、というお話です)

善き企画ではなかったかもしれませんが、意味はあったと思います。
「鎮魂の名の下に人々に戦争を起こさせるような催しを強行してはならない」
その教訓が広く共有されたことが、この企画の最大の価値だと私は思います。
(ただし、私が個人的に見出したこの価値について、主催者側の誰にも「そう、議論でそうした意見を引き出すためにやったのだ」と言うことは許しません。本来、自然に維持されていた良識を、敢えて事を荒立てて教訓にする必要はありません)

次に同じ過ちが起ころうとしたとき、「また人々を争わせるのか」と疑義を投げかける根拠を私は手に入れました。
次にどこかで同じ過ちが起ころうとしているのを知ったら、私は今回の企画を根拠に再考を願う意見を一個人として送ることができます。
産経新聞WESTに掲載された私の寄稿は、有志が作られた問題の時系列まとめや、震災体験のまとめを参考資料として付記させていただき、集積された情報を公の媒体に残すことができました。
時系列も震災体験も非常に理性的に編纂されており、第三者に対して説得力のある参考資料になると思います。

「誰も代表者として語ることはできない」
「誰も震災の経験を振りかざすことはできない」

これは、阪神・淡路に限らず、全ての災害地に言えることだと思います。
それは人々の暗黙のうちに醸成される「人間の分際」です。
西畠氏本人には、そんなつもりはなかったかもしれません。
しかし、結果的に「暗黙の分際」をすり抜けて「個人が震災の経験を振りかざして疑義の多い催しを強行する」ことが成立してしまったことは事実です。
その成立してしまったことが、未来への禍根です。
次はより自覚的に、もっと巧妙に「暗黙の分際」の間隙を衝く人間が現れるかもしれません。
私は、それを警戒する事例を得たことが、社会が得た財産であったと思います。
身を切るような教訓に尽くしてくださった無辜の第三者の皆様と、文字通りその身を捧げてくれたヒノキアスナロに、頭を垂れることしかできません。

「自分も被災者だから鎮魂の思いを口にする権利がある」
その発言に、私は異議を唱えます。
「鎮魂の権利」は誰も持ってはいません。
「権利」に付随する言葉は「義務」です。
権利も義務も、それ自体は大切な言葉ですが、鎮魂に寄り添わせるにはそぐわない言葉です。
鎮魂は権利ではありません。鎮魂は義務ではありません。
誰もが等しく持っているのは、「鎮魂の自由」です。
「自由」に付随する言葉は、「責任」です。
私たちは誰もが鎮魂を祈る自由を持っている、ただし自分が責任を取れる範囲内において。
「鎮魂の権利」という言葉に対して、申し上げたいことは、それだけです。

後は時間が審判するでしょう。
この問題に関わった人、発言した人、全ての人を時間が審判します。
己の来し方が己の行く末に還ります。
悲しむ人は悲しみ方を、
憤る人は憤り方を、
尽くした人は尽くし方を、
祈った人は祈り方を、
傲慢に振る舞い反省がなかった者は、その傲慢さと無反省を、
いつか必ず時間が審判します。
信頼が積まれるか、信頼が失われるか、あるいは失った信頼を取り戻せるかという形で。
私自身もこの文章を綴ったことについて、時間の審判を待ちたいと思います。

さて、その上で私は、
「なぜこの問題に心痛める人々が、この問題から距離を置いたほうがいいのか」
と題して、以下の文章を綴ります。
私個人としては、この問題に胸を痛めておられる方々が、この問題から距離を置き、休息してほしいと願います。
何故なら、心ある方々は、この問題の不誠実に疲れすぎていらっしゃるからです。
疲れすぎ、起こる物事の一つ一つに対して反応がビビッドになり、あらゆる物事に「最も不誠実な解釈に至るフィルター」をかけてしまっているように思われます。
それは、不誠実を受けすぎて疲弊するあまりの、人間としてやむを得ない心の消耗です。
今は多くの方が、批判に節度を保とうと必死の努力を続けていらっしゃいます。
しかし、憤りを永遠に理性で押し殺すことは、絶対に不可能です。
そして、不誠実な人々は、誠実な人々が疲弊し、怒りを暴発させるのをひっそり待っているように私には思われます。
この疑義の多いクリスマスツリー企画について、心ある方々の憤りは非常に正当なものです。
それは「正しい怒り」です。
しかし、「正しい怒り」も、暴発したら、その正当性を失います。
「正しい怒り」が暴発することによって、最も得をする者は誰か?
不誠実な沈黙、不誠実な挑発を続けてきた人々です。
「かわいそうに、善かれと思ってやったことをあんなに叩かれて」
問題をよく知らない第三者の同情を集めることによって、不誠実な人々はこの問題の「被害者」の座を獲得するのです。

 

本当はもう僭越にこの問題を語ることはしたくありませんでしたが、糸井重里氏の挑発的な発言が未だ収まらない様を見て、「正しい怒り」が挑発を受けて貶められる可能性を指摘しなくてはならないと思いました。

僭越であることは百も承知です。糸井氏にその意図があるかどうかは不明です(疑わしきは罰せずです)。

しかし、「結果的に」そうなってしまう恐れがあるということを、私は気づいた者として指摘します。
憤りを永遠に理性で押し殺すことは絶対に不可能です。
そして、不誠実な人々が、今さら謙虚な反省を心ある人々に返す可能性は、現状では極めて低いと私には思われます。

であれば、疲弊した状態でこの問題に声を上げ続けることは、いつか「怒りの暴発」を招く恐れが極めて高いように思われます。
節度を保てている今のうちに、心ある人々は問題から離れたほうがいい。
私はそう提案します。
それは、今までの抑制と節度の努力を台無しにしないためにこそです。
問題について、一定の集積は為されました。
判断の根拠は皆さんが集めて、

「今だから話せる阪神淡路大震災の体験」
「世界一のクリスマスツリープロジェクトの時系列の年表」
という形の碑にされました。
皆さんが築かれたその碑は、産経新聞という公の媒体で、私の寄稿の中に残されました。
誰もが簡単にその碑にアクセスすることができますし、公の媒体の中に残ったということで、碑には公の説得力も付加されます。
その碑を築いたことを問題に対する努力の証とすることで、疲弊した皆さんはこの問題から距離を置いてほしい。
不誠実を正させる努力を、集合知としての碑を公正に保つ努力に振り替えてほしい。
私は心からそう願います。
いつか、怒りの暴発が節度ある「正しい怒り」を貶めてしまう前に、この問題から避難してほしいのです。
不誠実さに疲弊しすぎた自分の心を守り、回復させるためにも。

 

ネットで正しい検証が進んでいるのに、なぜ報道に取り上げられないのかという苛立ちを持っている方々がおられるのも分かります。

しかし、報道というものは(それが公平性を保っているかどうかは近年疑義が発生しているものと思いますが、本来的な大義としての報道は)、集積された検証に「生身の責任者」が発生しないことには、それを公的な情報として強く取り上げることができないものだと思います。

ネット発信の情報が公的に取り上げられるためには、「責任者」を必要とします。

そして、この問題を集積した心ある方々の誰かに「責任者」の重圧を負わせることは、私はできないと思いますし、また「責任者」を見出すことも難しいと思います。

寄せられる全ての情報に責任を持てる人は、誰も存在しないからです。

情報の一つ一つに責任者を突き止め、多角的に裏付けを取ることは、報道として大変難しいことです。

問題を集積する窓口に生身のアテンダントを置くことも、やはりアテンダントとなる方の重責を思うと、安易に求められることではないでしょう。

ネットに正しい集合知があるのに、なぜそれが届かないのか。

それに対する苛立ちも、「正しい怒り」に付加されつつあると思います。

産経WESTに「碑」が収納されたのは、寄稿を寄せた「有川浩」の名前を保証書としてのことです。

しかし、「碑」を構成する知識の一つ一つには誰も責任を持つことができず、私も「碑がここにあるよ」ということを示すしかできません。

「正しい怒り」が暴発する危険は、疲弊が進むほど高まると思います。


「正しい怒り」が暴発する兆しは、私自身も最近経験しました。
ご自分の「正しい怒り」を強く信じるがあまり、私へのアプローチの手段を間違ってしまった方がおられました(その方はもう反省を見せてくださいました。私の指摘はかなり厳しいものであったにも拘わらず、受け入れてくださいました)
誰も震災経験を振りかざしてはならないのと同じく、正義も振りかざしてはならないものです。
鎮魂が「祈る自由」であるように、正義もまた「信ずる自由」しか持ち得ないものです。
どちらも自分の責任の及ぶ範囲においてのみ、祈り、信ずる自由があります。
どんな正義であろうと、「振りかざした」瞬間に、その正義は正当性を失い、いかがわしいものに失墜するのです。

「自分の正義を信じるあまり勇み足を踏む」

このようなことは、今後どんどん増えていくのではないか、と私は危惧します。
正しい怒りは疲弊し、どこかで抑制を失い、責任を踏み外してしまうかもしれません。
ツリーに心痛める人が最も踏んではならない勇み足は、「憤りや悲しみの正当性を自ら手放す」ことです。
だから、この問題で心を痛め疲弊した人々に、不誠実な人々から離れることで休息を取ってほしいのです。

世界を敵と味方に分けたら、いつか全てを焼き尽くすことになります。
人間の営みは、全てが是々非々です。
100%善なる人間はおらず、また100%悪なる人間もいません。
分かりやすく分別できる「完全なる悪」も「完全なる善」も存在しないのです。
「完全なるもの」が存在するとしたら、それは「完全なる過ち」です。
しかし「完全なる過ち」を犯した者も、それが「完全なる悪」ではないのです。
繰り返します、全ての物事は是々非々です。
全ての人間は、全ての組織は、全ての営みは、ある瞬間は正しく、またある瞬間は間違っている。
その正しい行いをしたときが「善」であり、間違った行いをしたときが「悪」です。
一度間違ったとして、遡ってそれまでの功績や人生まで「悪」に塗り替えられるべきではありません。
また、間違った者の未来永劫を「悪」に塗り込めるべきではありません。

私は糸井重里氏が被災者に向けた冷淡を許すことはできませんが、しかし彼の過去の功績まで全て「悪」に塗り替え、貶めようとは思いません。
『情熱大陸』は今回、取り上げる題材を間違えたと思いますが、しかし番組が過去に取り上げた情報全てを「悪」に塗り替え、貶めようとは思いません。
西畠氏については、自分の嘘を自分でも本当だったと思い込んでしまう性質の人だと思っているので、誰もこれ以上囚われ傷つかないでほしいと願うばかりです。
彼はあまりにも自分を信じすぎており、彼を反省に導こうとするのは徒労にしかならないと私は思います。
また、神戸市にアプローチした結果、行政にも誠実な対処は望めないだろうという感触を個人的に得ております。

もし、不誠実な人々が謙虚な反省を行ったなら、私はもちろん心から称えます。
不誠実な人々をいつか称えることができる日が来ることを祈りながら、疲れた方々は今はこの問題から避難しませんか? と私は提案します。
避難して、時折り碑を眺めましょう。
酷いことがあったものだなぁ、という思いを色褪せさせないように。
いつか同じ問題がどこかに再来したら、それにいち早く疑義を唱えることができるように。
私たちはその知恵を今回のことで得たと思います。

明日はクリスマス・イブです。
キリスト教で尊い赤ちゃんが生まれた日を、信者の皆さんが祝う前夜祭です。
怒りや憎しみを暴走させないため、自分の心の平和を守るために、疲弊した方々が問題から距離を置くには最もふさわしい日ではないでしょうか。
まだ過ちを犯した人を諦めたくない、過ちを正したいと努力するのは、もちろん自由です。
その根気強さと愛の深さを私は心から尊敬します。

しかし、ご自分を律することが難しいほどに怒りが高まってしまうときが訪れたら、どうぞ「暴発」の前に問題から離れて、休息を取っていただきたいと思います。

そしてまた、ご自分の信念を『煽動』に使ってはならない、ということだけは気をつけていただきたいと思います。

それは「正しい怒り」が正当性を踏み外してしまうに至る最初の一歩だからです。

「みんなもこう思うよね!?」と詰め寄ってしまってはいけません。

それが『煽動』の第一歩です。

どんなにもどかしくても、一人一人が自分の信念によって行動し、その結果を待つしかないのです。

私は前回と今回のblog、そして産経WESTに寄せた稿を発表することをもって、自分の信念の表明と致します。

それを「みんなもこう思うよね!?」と共感を求めることは誰にもしません。

 

主催者や行政を直接的に糾弾する以外に、問題を知らぬ「第三者」に向けて、被災地の思いを理解してもらえるように行動する。

被災地の思いを「第三者」に向けて、感情的にならぬよう、公正に、冷静に知らしめる。

市井の戦い方として、そういう道がある、ということを私は参考意見の一つとして提案します。

最後に、私が問題を把握するに当たって参考にさせていただいた「碑」たる資料を改めて付記します。

「今だから話せる阪神淡路大震災の体験」
「世界一のクリスマスツリープロジェクトの時系列の年表」
 

(追記2017/12/24)

匿名のベールを脱ぐ気がない方が、「正しきことが勝利する様を見たい」と無責任に求め、「正しきことの勝利のために全てを投げ出し殉じる生け贄」を求めることもまた、不誠実な人々と同じくらい罪深いことだと思います。

私の今までの稿は「正しきことの勝利のために全てを投げ出し殉じる生け贄」を生み出さないために発信したものでもあります。

私に対して「主催者側の火消しか」あるいは「それで本気出したつもりか」「引っ込め」と仰る方に対して申し上げたいことは、それだけです。

心ある人々の、ご自分の自由と責任の範囲内において為される行動に、いつか時間が報いることを心から願いつつ。

また、前回と今回、産経WESTに寄せた稿は、問題を憂える個人の方が県や都、市などの行政、議員事務所などに意見を伝える際に引用していただいて構わないものであることをここに明記致します。(必要であれば私の名前を添えることも自由とします)

 

【blogの注意書きにも書かせていただいておりますが、当blogの個人様・書店さん以外の悪意ある無断リンクや無断転載は固くお断りいたします。悪意を感じられるかどうかは、私と出版社の判断に依るものとさせていただきます。また、blog内容は、あくまで一作家の一意見であることをご了承ください】
【blogの注意書きを変えてほしい方がおられるようですが(特に「悪意ある無断リンク禁止」の部分)、悪意を拒否する意志を発することは自由だと考えておりますので、ご了承ください】

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