人は人、我は我、されど仲良し | 有川ひろと覚しき人の『読書は未来だ!』

有川ひろと覚しき人の『読書は未来だ!』

あくまで一作家の一意見であることをご了承ください。
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・「観る権利」と「観ない権利」、お互い等しく尊重してください。
・「人は人、我は我、されど仲良し」の精神を忘れないようお願いします。
 

楽しもうとしている方を傷つけない。
観ずに自分のイメージを守ろうとしている方を傷つけない。
どうぞお互いを尊重してくださいますように。

メディアミックスの度に申し上げていることですが、今一度。
これを言わずに済むようになるのが私の夢です。

ネットは自分の部屋の中ではありませんので、大人としての対応をよろしくお願い致します。

何かを否定するときは、否定した対象だけでなく、それを好きな人たちの感性も否定しているのだということを忘れないでください。
否定という行為には多くの人を傷つける自覚と覚悟が伴うべきだと思います。
せめて、見知らぬ人を傷つけて自分はこれを否定するのだという覚悟を。

どんな作品にも、懸命に働いてくれているスタッフさんがいます。
キャストさんがいます。
スタッフさんにもキャストさんにも家族や友達、大切な人々がいます。
実写化を口汚く罵るなと強制することはできませんが、少なくとも自分と同じ生身の人間を傷つけているという覚悟を持ってください。

批判をするなということではありません。
しかし、観る前からキャストさんのルックスやイメージだけで全否定するのは、単なる容姿差別ですし、そのキャストさんを受け入れているお客様の感性の否定でもあります。
また、その作品に関わっている人々の仕事を全否定することでもあります。

観て批判するにしても、気に食わなかったから何を言ってもいいというのは、言論の自由の前に品性の問題として疑義が発生するのではないでしょうか。

・「樹or堂上or伸はこんなじゃない! 許せないふざけんな!
・「私のイメージしていた樹or堂上or伸とは違った。残念」

・「つまんねえ!観る価値なし
・「私は面白くなかった。もう観ないかな」

大意としてはどちらも同じことを言っています。
しかし、「意見」として第三者に受け入れられるのはどちらでしょうか? というお話で。

「丸い卵も切り様で四角、物も言い様で角が立つ」
昔の人は上手いことを言うものです。

そして「実写化とにかく反対!」と仰る向きに対しては、『倒れるときは前のめり』に収録したエッセイの中からこちらをご回答として引用します。

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 映像化しないでください! というご意見に対して、一度しっかりご回答を差し上げておこうと思う。
 そのご意見を受け入れることはできない。なぜなら、映像化は作品を生み出した作者と、作品を出版した出版社に与えられる、事業展開の権利の一つだからである。
 私は職業作家であり、出版社は営利企業だ。私の作品は、私にとっても出版社にとっても資材である。資材をどのように活かして商いを動かすか、ということは、私の作家人生を左右するし、出版社の経営を左右する。
 私の稼いだお金は、私が本を順調に出せなくなったとき、収入のない期間を支える資金となる。資金があればこそ、いかなる状況においても「自分の書きたいものが書ける」「望まないものを書かない」という権利を確保することができる。私は幸運にもその権利を手に入れており、それを放棄するつもりはない。
 また、出版社の稼いだお金は、未来の本を出すため、未来の作家を育てるための資金になる。これも大切なお金である。これを稼ぐための選択を放棄することもあり得ない。
 出版不況が嘆かれて久しい。私が自分の好きなものを書くためには、出版業界に元気でいてもらわなくてはならないし、業界を元気にするために、自分の資材を出し惜しむことはしない。
「映像化」の帯があると、書店が本を売りやすくなる。売り上げも実際に大きく変わる。これはもう、絶対の真理である。だから私は、どれだけ懇願されても、オファーがある限り絶対に映像化の可能性を捨てることはない。自分の資材で最大限の商いをするのは、全ての商売人に与えられた権利である。それは、一部の読者さんに、脅迫かと思うような激しい言葉で要求されようとも、放棄することはできない。
 ただし、私は、作品を愛してくれる制作陣に預けるという絶対条件は欠かさない。だから、私の作品の映像化は、どれも必ず「私が望んだもの」だ。なので、「有川さんは映像化に利用されている!」というご意見は全く該当しない。
 もちろん、読者さんにも権利がある。映像化作品を「観ない権利」だ。原作だけでイメージをとどめておきたい方は、映像化作品を「自分の世界においては存在しないもの」としてシャットアウトする権利がある。
 一方で、読者さんには「観る権利」もある。観る権利も観ない権利も、等しく尊重されるべきである。観る権利を行使したい方のために、「映像化を楽しみにすることが肩身狭く思えてしまう」ような論調は、どうかお控えいただきたいし、観ない権利を行使したい方のために、「映像化をシャットアウトすることが肩身狭く思えてしまう」ような論調も、どうかお控えいただきたい。

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実写化したときに作者と出版社が得られるはずの利益を補填できるので映像化を停止しろ! という方のご意見ならまずは拝受して検討致しますので、どしどしどうぞ。
あるいはプロデューサーとして、ご自分の意向に添ったキャスティングで映像化をご提案いただければと思います。
特撮なしの日常系なら、出資者募って2~3億ほど制作資金をご用意いただければ何とかなるんではないかと。
と、商売人の私は身も蓋もないご回答を差し上げてしまうわけですが。

「自分のイメージと違う宣伝を見るのが嫌だ、見たくないものを見て傷ついた読者として謝罪と賠償を要求する!」的ご意見もたまに頂戴しますが、
「世の中に自分の見たくないものが存在してるのが許せない」というのはさすがに……
えーと、どっかに島でも買って専制君主制国家とか建国なさったらいかがでしょうか? としか言いようがないのであります。
原潜乗っ取って独立国家宣言してみるもよし。面白かったですね、『沈黙の艦隊』。

そして最後に、どうして映像化の度にしつこくしつこくこういうことを申し上げるか、珍しくちょっと政治的な観点から。
ネットを言葉のフロンティアにするのも罵詈雑言の痰壺にするのも利用者次第。

ですが、痰壺になってしまったら、それを理由にいつか規制が始まるだろうなぁと思うわけです。
ネットの悪意で傷つく人の人権を守るために! というキレイな理屈で。
規制されてから所構わず罵詈雑言を吐くんじゃなかったと嘆いても遅いわけで。
ネット上で言葉の節度を守らなくてはならないのは、せっかくの自由を守るためでもあると思います。
狩られる理由を為政者に与えないために。
私は『図書館戦争』を書いたとき、メディア良化法が成立した時代背景には、無軌道な暴言の暴走があったということも織り込んだつもりでした。
だからこそ、自分の読者さんに、「原作が好き」ということを盾に他人を傷つけてほしくないのです。
私は『図書館戦争』のような世界をフィクションのままにしておきたいから、あの作品を書きましたよ、と。

便利な道具は、常に使う者の自律を必要とします。
包丁は、殺意を持って振るえば、単なる凶器です。
道具と凶器は紙一重。
「嫌い」を言いやすいツールを手に入れ、それを奪われるのではなく、
「好き」を言いやすいツールを手に入れ、それをずっと使い続けることができればなぁと、私は便利なインターネットにそう期待しているのです。

「丸い卵も切り様で四角、物も言い様で角が立つ」
くり返しますが、昔の人はさらりと善き知恵を残してくれています。
遠くに届くようになっただけで、言葉は言葉です。
私たちは、このことわざ一つで、インターネットというツールも使いこなすことができるはずです。
 
追記(2018/05/18)
他の人は、あなたが罵倒しているその映像化が入り口かもしれません。
入り口が小説であっても、アニメであっても、映画であっても、ドラマであっても、その物語を好きという心は尊重されるべきです。
入り口というのは、ご縁で、人それぞれです。
他の人のご縁を、「レイプ」と貶めることを正当化するような物語を私は書いたつもりはありません。
気に入らなくても、他の人のご縁であることを考えたら、言葉を選ぶことはできるはずです。
私の映像化に対して「原作レイプ」という言葉が横行するのであれば、私は「原作はレイプなどされていない」と否定するしかありません。
映像化を入り口に訪れた読者さんのためにも、キャストさんのためにもスタッフのためにも、その入り口の尊厳を守らなくてはなりません。
「レイプではありません」と保証の判子を押せるのは原作者だけですから。
少なくとも原作者が否定しなければ、映像化きっかけの読者さんも、映像化のキャスト・スタッフも報われません。
「自分はつまらなかった、損した」「だから多少の暴言で気に入っている人に嫌な思いをさせてもいい」
私の書いた物語はそんな物語だったでしょうか?
堂上は、郁は、手塚は、柴崎は、小牧は、玄田は、稲嶺は、図書隊の人々は、そんな人間だったでしょうか?
言葉は自由、しかし自由には責任が伴います。節度で言葉の舵を取らなくては、言葉の戦争が起きてしまいます。あるいは、他者を言葉で蹂躙する暴力者になってしまいます。
どうぞ、自由と責任と節度のバランスを取りながら、「丸い卵も切り様で四角、物も言い様で角が立つ」の実践を。
 
追記02(2018/05/19)
公の場で他人に「あいつはレイプされたんだ」と放言されて、怒らない人間がいるでしょうか。
見も知らぬ他人からいきなり自分の仕事にそのような侮蔑を受けて、自分なら許すことができるか。
レイプと仰った方は、まずそれを考えて発言して頂きたかったと思います。
 
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