佐渡島での想い出 ⑤ | misaのブログ

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佐渡島での想い出 ⑤


しばらく間があいてしまいましたが、空海さまの独鈷杵が飛んで来たという『蓮華峰寺』からの続きです。


私たちは、次に『黒木御所跡』へと移動しました。



順徳上皇は、遷幸から崩御までの21年間をこの地で過ごしたとされています。



黒木御所跡の「黒木」という呼称は、丸木や皮附の木材で組まれた当時の建物の外観から名付けられたと考えられており、かつては御所の四隅に上皇が御持仏の観音・弥陀・薬師・天神を祀り、日夜礼拝されていたと伝えられています。



順徳天皇は、後鳥羽上皇の第3皇子であり、第84代天皇となった人物ですが「承久の乱」に敗れて佐渡に流されたことから「佐渡院」とも称されます。


また、順徳上皇は和歌に秀で、歌集や歌学書などを自ら編纂した方でもあります。


みなさんは、『小倉百人一首』の100番目の歌はどなたが詠まれたものかご存知ですか?


「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」


(軒にしのぶが生えるほど皇居はうらぶれてしまったが、昔はどんなに素晴らしかったのかと思うとやりきれない)


そう、この歌こそ順徳上皇の詠まれた歌なのです。



この歌は鎌倉幕府との対立が深まった頃に詠まれたものであり、順徳天皇が20歳の頃だったと言われています。


世の移り変わりの栄衰への氣持ちが見事に詠まれ、憂悶する天皇の心境が広く後世に伝えられました。


『都忘れ』という花をご存知ですか?




実は、『都忘れ』と言う名前は、順徳上皇に由来すると考えられているのです。


佐渡へと配流された順徳上皇は、黒木御所周辺に植えていたこの花を見て、こちらの歌を詠みました。


「いかにして 契りおきけむ 白菊を 都忘れと 名づくるも憂し」


(どういった縁であろうか…父の愛した白菊を「みやこわすれ」と呼んではみてもつらい心は晴れないままだ)


都への思いを忘れよう、と詠んだ順徳上皇の歌から、この花は別名「都忘れ」と呼ばれるようになったそうです。


鎌倉幕府との対立の末に、京の都から遠く離れた佐渡島で21年間を過ごし、京に帰れぬまま46歳の若さで生涯を終えます。


その悲哀は彼が詠んだ和歌に込められ、後世に伝えられているのでした。


順徳上皇の心を慰めるのは、和歌を作ることくらいしかなかったのかも知れません。


順徳上皇さまのご冥福を心よりお祈りいたします。。



そして、翌朝(7月9日)は、宿の近くにある『弁慶のはさみ岩』を見に行きました。



その昔、鬼に力比べを挑まれた「佐渡弁慶」という力持ちの山伏が放り投げた岩が、遠く離れた下相川の大きな岩と岩の間にはさまったという伝説があります。


このときに投げた岩がこの「弁慶のはさみ岩」なのだそうです。


何百年もの時を経てなお岩壁にぴったりとはまり込んだまま「落ちない」奇跡の岩に願をかけようと、受験生をはじめとして、「落ちない」運にあやかりたい人々の人氣スポットになっているそうです。


また、毎年3月20日頃には、弁慶のはさみ岩の向こう側へ沈んでいく美しい夕陽を見ることができるそうです。


画像はネットよりお借りしました↓



『弁慶のはさみ岩』のすぐ近くには、『北沢浮遊選鉱場』がありました。



ここはかつて、採掘された鉱石から不用鉱物を取り除く「選鉱」という鉱石処理をするために使われていた施設の跡地で、日本で初めて金銀の抽出の実用化に成功した鉱場でもあります。


ツタに覆われた遺跡が「まるでラピュタのようだ」と話題になっています。



佐渡島での二日目は、もう少し続きます。