多くの方が家を失い、失望の中、今も復旧作業が続いています。
あの時、なぜ各地のダムの水を事前に放流していなかったのか?
それには、知られざる理由があったようです。
東海アマさんが詳しく説明して下さっています。
事前の水位調節がされなかったとされる6ダム
美和ダム・高柴ダム・水沼ダム・竜神ダム・塩原ダム・城山ダム
巨大な降雨災害が予測された場合、事前にダムの水位調節をするのは、ごく常識のはずだし、それをせずに肱川水系のような大災害が引き起こされた場合、ダム管理者は法的責任を免れないはずだ。
しかし、調べてみると、豪雨が予測されていても事前の水位調節に関する明確な規定はなく、逆に、それを阻止するような規定ばかりある。
電力土木事業協会の規定を見ると、我が目を疑うようなことが書かれていた。
○事前放流した利水容量を回復させることが大前提となる。
○ダム毎に事前放流実施要領を作成し,関係利水者の同意と地方整備局長等の承認が必要となる。
○実施する場合は,関係利水者に予め通知される。
○事前放流した利水容量が回復しなかった場合は,利水事業者が機能回復のために実施した措置に対し,ダム管理者が利水事業者と協議の上,要した費用を負担する。
○ダム毎に事前放流実施要領を作成し,関係利水者の同意と地方整備局長等の承認が必要となる。
○実施する場合は,関係利水者に予め通知される。
○事前放流した利水容量が回復しなかった場合は,利水事業者が機能回復のために実施した措置に対し,ダム管理者が利水事業者と協議の上,要した費用を負担する。
事前放流の水量が回復しなかった場合、ダム管理者が利水事業者に賠償すると書かれている。
つまり、「集中豪雨が来ることで、下流の安全を守るために事前放流したとき、もしも放流分が大雨で回復しなければ、ダム管理者に賠償させる」というのだ。
これには驚いた。
こんな規定があれば、ダム管理者は事前放流をするわけがない。
「電力土木事業協会」というのは、東電や関電など電力企業の機関だろう。
巨大な放射能事故を起こして人々を殺し、生活を破壊しても、ろくに賠償もしない電力企業が、流域の安全のために事前放流して、それが回復しなければ賠償させると脅しているわけだ。
こんな姿勢で、ダムを運営していれば、放流による大災害が起きるわけだし、原発事故も当然の帰結だろう。
利水利用者の権利と、放流による洪水被害者の権利を天秤にかければ、間違いなく後者が桁違いに重いはずなのに、完全に優先順位を見誤った愚かすぎる判断である。
ダム水利用者(この場合、多くは電力企業、一部は自治体水道事業)事業者の権利のためには、下流でどんな犠牲がでようと関係ないとでも言いたそうな内容である。
実は、国交省が作ったダムは、30年ほど前から、ほとんど発電機能を目的としていない。
最新の八ツ場ダムを見れば分かる。
なぜ、こうなるかというと、水力発電が大量の電気をまかなうと、原子力発電の価値が下がるからであり、原発が不可欠のインフラであるかのような自民党と政府のウソを通すためには、原発を稼働しなければ、日本は電力不足に陥るという新たなウソを作る必要があるからなのだ。
発電しないダムに何の必然性があるかというと、国交省は、代わりに「治水目的」を据えた。
しかし、この治水が上に述べてきたように、むしろ緊急放流による大災害を作り出しているのである。
私は、ダム緊急放流というと、丹沢、1999年8月に起きた玄倉川水難事故13名死亡事件を思い出す。
このときは、流されたキャンプ集団に大きな非があったとされているが、上流のダム管理者が、停止要請にもかかわらず越堤水流を怖れて緊急放流を続けたことで、このような悲惨な事件になった。
私から見れば、放流したダム管理者による殺人とも言えるのである。
30分放流を止めれば、おそらくみんな救助されたことだろう。
これは、本質的に見れば肱川ダム水害と同じ、利権優先の思想から来ていると私には思える。
一連のダム問題は、結局、近年、中曽根康弘が導入した、金儲け最優先の新自由主義思想から来ているのだ。
「カネと利権がすべて」という新自由主義の価値観の下では、命も人権も紙くずのように扱われてゆく。
我々は、新自由主義の価値観を自ら否定しないかぎり、日本人の歴史も生活も、すべて破壊し尽くしてゆく流れを断ち切ることはできないのだ。
<転載終わり>
リンクされていたページには、ダム建設の際に、人を人とも思っていない恐ろしい事が行われたありさまが載っていました⬇︎
さらに。。
● 東海アマさんのブログ続きより抜粋⬇︎
近年の大水害の原因には、自然災害とはいえない、人為的な要素が多く、むしろ「開発災害」とでもいうべき金儲け最優先思想による人命や個人的権利の軽視、蹂躙によるものが多く含まれている。
もっとも基本的な視点でいうと、1980年代から、日本政府は、林野庁による森林自然保護の色彩の強い政策を廃棄して、降雨災害における保水力の主役になっていた手つかずの原生林や、広葉樹林=照葉樹林帯を大規模に皆伐し、カネになるスギや檜の針葉樹林帯に変えていった。
もっとも基本的な視点でいうと、1980年代から、日本政府は、林野庁による森林自然保護の色彩の強い政策を廃棄して、降雨災害における保水力の主役になっていた手つかずの原生林や、広葉樹林=照葉樹林帯を大規模に皆伐し、カネになるスギや檜の針葉樹林帯に変えていった。
このことで、保水力を失った山岳地帯が降雨によって荒廃し、大水害が頻繁に発生するようになった。
また、本来、何よりも住民の命と財産を守るという人権優先思想が、金儲け最優先の新自由主義思想によって壊されてしまって、管理者が著しく劣化しているのである。
ダム水利利用者の利権を住民の権利よりも上位に置くという信じがたい国交省や、電力企業の姿勢によって、肱川大水害が起きたことが明らかであり、今回、台風19号が起こしたたくさんの水害のうちの相当部分にも、水利利権優先によって起こされた無責任なダム放流管理による洪水災害が起きている疑いがある。
これらを見るに、私は一言でいって、「政治家と官僚=役人の思想的劣化」と断言せざるをえない。
これらを見るに、私は一言でいって、「政治家と官僚=役人の思想的劣化」と断言せざるをえない。
劣化する前の官僚=役人といえば、日本における為政官の水準は、半世紀前、世界的に極めて高いもので、知恵もあり、使命感・責任感もあり、住民=国民を守ろうとする意思が強く感じられた。
安心して、あらゆる施政を役人に任せることができた時代があったのだ。
私は、伊勢湾台風の夜、我が家に、全身ずぶ濡れになって「堤防が切れるかもしれない、準備を」と伝えに来た行政官の姿を忘れることができない。
この本質的な理由は、何よりも役人たちが共有する人生観・社会観の根底に「人情を守る」という不動の価値観があったからである。
すべての行動基準、価値観の根底に「人情」があり、警察の取締だって、現場の警察官の主体的な判断として「人情」が大きかった。
行政もまた、何よりも「人情」を最優先しなければ社会に受け入れられない時代だったのだ。
なぜ、人情が尊ばれたかといえば、それは戦争の凄まじい地獄を経験させられたからである。
財産も家族も、地位も、あらゆるものを奪われ、失う戦争を経験させられた人々は、もはや「失うものもない」人間存在のギリギリの原点に置かれ、人生と社会に本当に大切なものこそ「人情」だと思い知らされていたからだ。
当時の、こうした価値観に照らして、大水害が予想されながら、放流後の賠償を怖れて事後放流に任せた結果、多数の人命と財産を奪い去った肱川大水害は、まさに「人情を喪失した」行為であったと断罪することができよう。
我々は、再び、一人一人の心に立脚した「人情社会」に戻らなければならないのだが、75年前と同様の、何もかも奪われる悲惨で残酷な運命に翻弄されないかぎり、「人情の支配する社会」に戻ることは難しいのかもしれない。
今、我々は台風15号、19号の凄惨な被害を見て「いったい何が間違っていたのか?」を理解する必要がある。
我々は、再び、一人一人の心に立脚した「人情社会」に戻らなければならないのだが、75年前と同様の、何もかも奪われる悲惨で残酷な運命に翻弄されないかぎり、「人情の支配する社会」に戻ることは難しいのかもしれない。
今、我々は台風15号、19号の凄惨な被害を見て「いったい何が間違っていたのか?」を理解する必要がある。
この惨禍を繰り返さないために「何が必要なのか」を知る必要がある。
今回の台風による洪水被害を見ていると、すべてのメディアに、河川上流の森林地帯の変貌、保水力の喪失に触れる視点は皆無だった。
安倍晋三が導入した「森林破壊法」が何をもたらすのか?
この災害の向こう側に見ようとする視点も皆無だった。
私は、政治家も役人も、メディアも体制批判派も、誰一人、日本の森林管理政策が間違っていたことで、この災厄が起きていることを指摘していないことに絶望している。
役人や政治家だけではない、日本国民のすべてが劣化しているのだと思い知るしかなかったのだ。
みんな新自由主義の洗脳に犯され、「人間社会が持続してゆくうえで本当に大切なことは何か?」という視点を完全に見失っている。
資本主義社会は、人間同士の競争と、個人的利権を尊重する社会を生み出した。
フリードマンが提唱した新自由主義は、人間社会の価値観の根底に「個人的金儲け」を置くものだった。
我々は、「資本の競争論理」に幼いうちから洗脳され、例えば、幼稚園のうちから、かけっこでもお絵かきでも、点数をつけて人間に序列を与え、コンプレックスに落とし込み、社会の本質が差別であるかのような硬直した思想性に押し込められてきたのだ。
こうした「競争の論理」こそが、金を儲けて他人を睥睨することや、貧乏人や弱者を蔑む愚か極まりない人間性の劣化を生み出している。
この劣化こそが、日本社会の無数の劣化の根底にある。
渋谷区が緊急避難所からホームレスを暴風雨の市街に叩きだした行為に対して、批判するどころか、ホームレスが死ぬのは当然であるかのような下劣な主張が大量に出ている。
これも、幼い頃からの差別思想の洗脳が生み出した果実であり、こんな発想をしていれば、やがて同じ論理が自分の人生をも切り裂く運命になることを彼らは理解できない。
こうした差別が、巡り巡って利己主義の金儲け絶対優先社会を生み出し、それが今起きている残酷な水害を生み出していることに、誰が気づいているだろう?
もうすぐ人間社会は、究極の経済破局を迎える。
もうすぐ人間社会は、究極の経済破局を迎える。
これも、すべて、競争主義によって、他人の幸福を金に換える利己主義が生み出した残酷な怪獣なのだ。
これによって、世界中の金という金が消えてゆく。
人間が生きるために本当に必要なものは、金儲け競争などではなく、互いに助けあって、笑顔を糧として喜び溢れた人生を生み出してゆく姿勢であることを、人類の誰もが思い知らされるのだ。
金で食料が買える時代は終わりを告げる。
金で食料が買える時代は終わりを告げる。
愛がなければ生きてゆくことができない時代がやってくる。
何もかも、壊れてゆく社会のなかで、壊れないものは人間への愛しかないことを、人類が思いしらされるのである。
<転載終わり>
利権や金儲け絶対優先社会になってしまったが為のダム管理であったならば、事前放流しなかった事はある意味人災だったと言えるのではないでしょうか。
豊かな森林を伐採し、山の保水力をなくしてしまったのも、人間のエゴの為でした。
地球さん、ごめんなさい。
安倍政権に絶対服従の今のお役人の心を変えるには、いったいどうすればいいのでしょうか?
利権よりも、お金儲けよりも、人間の命や愛が大切なんだという本来の想いを取り戻さない限り、災害は人災となって、人々をさらに苦しめることになるでしょう。
私たちは、どこからか歩む道を間違えてしまっているようです。
台風19号から、多くの事を学んでいます。