「原爆投下は戦争を早く終わらせるため」と信じてやまないアメリカの町に派遣された天使 | misaのブログ

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8月9日、今日は74年前に長崎に原爆が落とされた日です。

この日は毎年、「焼き場に立つ少年」を撮影した米軍カメラマンジョー・オダネル氏の事を多く書いています。


この少年は、亡くなった弟を火葬しに来ていました。


この光景と、被爆者の苦しみを目の当たりにしたオダネル氏は、本国に帰ってからも生涯ずっと苦しみ続けるのでした。


何故なら、当時のアメリカでは、

《原爆投下は戦争を早く終わらせるためやむを得なかった。多くの若いアメリカ兵の命を救うためだった。》

と信じられていたから。

日本を原爆の人体実験に使ったアメリカ軍が、原爆の被爆者たちの壮絶な最期を伝えるはずもありません。

なので、未だに「原爆投下の正当性」を彼らは主張するのです。

米ワシントン州リッチランドでは、特に誰もがそれを信じて疑わないような町でした。


なぜならそこは、戦前、長崎に投下された原爆のプルトニウムが生産されていた場所だからです。

原子力の生産や技術の研究が町の発展に寄与し、核関連産業が町の経済を支えていました。

だから、リッチランド高校のロゴマークは、リッチランドの「R」の文字にきのこ雲を模したものになっています。




そして、そのロゴは皆んなに愛され、服や学校の壁や廊下の床など至る所に描かれています。


キャッチフレーズは『Proud of the cloud (キノコ雲は我らの誇り)』


そんな「原子力の町」の高校に、昨年8月、交換留学生としてやって来たのは、福岡県出身の18歳の少女・古賀野々華さんでした。


ロゴが出来たいきさつなど全く知らない古賀さんは、当初、深く考えもせず、皆んなと同じようにロゴ入りのスクールグッズを身につけていました。

ところが、アメリカの高校で歴史の授業を受けるうちに、周りの生徒たちは皆、「アメリカが日本に原爆を落としたから戦争が終わり、多くの命が救われた」と当たり前のように考えていることを知り、愕然とするのでした。

そんなある日、マーフィー先生が、ロゴ入りのパーカーを着ている古賀さんに「そのロゴのキノコ雲は、何でできているか知っているかい?」と尋ねてきました。


答えにつまった古賀さんにマーフィー先生は、「ロゴが長崎に落とされた原爆を表していること、その原爆のプルトニウムがこの町で作られたこと」を説明し「キノコ雲は犠牲になった市民や破壊された建物からできている」と話したそうです。

それを聞いて古賀さんは、とてもショックを受け、泣き出してしまいました。

日本人なのにここに来て、ロゴについてあまり深く考えていなかった自分に悔しくなったのと、ほとんどの生徒がキノコ雲という表面だけを知っていて、その下で実際に何が起こっていたかを知らない現実に悲しくなったのでした。

その日から古賀さんは、ロゴの入ったTシャツやパーカーの着用をやめました。

そして古賀さんは、生徒達が校内向けに制作する動画に出演し、ロゴについての自分の意見を言うことを決意したのです。

帰国が間近に迫る5月30日、古賀さんがアメリカの生徒たちに語りかけたその動画がこちらです⬇︎



●あの日が曇りだったから

アメリカ留学、リッチランド高校での学校生活は楽しかったです。一生忘れないような友人や思い出もできました。いろいろな経験から成長でき、多くのことを学ぶことができたと思います。

みなさんの歴史や文化、視点について私は学んできたので、今回は私の「視点」を知ってほしいと思います。

私は長崎に近い福岡の出身です。長崎は2発目の原爆が投下された場所です。わたしがこの高校に来られたのは皮肉な感じもします。

私の出身地は当初、原爆の標的でした。私の祖父母が焼け死んでしまっていたら、私はここにいなかったかも知れません。しかしその日、天氣が曇りだったので標的は長崎に変わりました。

リッチランド高校ではキノコ雲のロゴは誰もに愛され、そこらじゅうにあります。

しかし、私にとって、キノコ雲は犠牲になった人と今の平和を心に刻むものです。

キノコ雲の下にいたのは、兵士ではなく市民でした。


罪のない人たちの命を奪うことを誇りに感じるべきでしょうか。

私の国では毎年「平和の日」があり、若い人たちは原爆によってもたらされた荒廃や恐怖について学びます。長崎では8万人もの市民、多くの子どもや女性が不正義なことに殺害されました。

私はみなさんのロゴマークを変えたいと思っているわけではありません。みなさんに個人的な見方について知ってほしいのです。

リッチランド高校ではキノコ雲は誇りの対象です。

考えてみて下さい。爆発の後にできるキノコ雲は、爆弾が破壊したもので作られています。


私は町の残骸や、戦争に参加していない罪のない子どもや女性、男性(からできたキノコ雲)に誇りを感じることはできません。

私がここにいるのは、あの日が曇りだったからなのです。


<終わり>

この動画が公開される前の晩は、恐怖や緊張でほとんど寝られなかったという古賀さん。


しかし、公開後には「この学校に来たということは、何か意味があるのかなとか勝手に思って、やらなきゃと思ってやりました。あの動画がなければ日本側の意見は一生知ることがなかったと言われ、本当にやって良かったと思いました」と語っています。

そして、この動画は瞬く間にインターネットで拡散され、アメリカだけでなく日本でも広く話題にのぼりました。


批判を恐れず、勇氣を出して自分の意見を伝えた少女に、同級生から「あなたを誇りに思う」など、称賛の言葉がかけられました。

それでももちろん、アメリカの正当性を支持する意見は根強くあります。

けれど、オダネル氏が苦悩した時代よりも、確実に理解が進んでいる実感が、この動画の反応から見て取れます。

時代はやっと変わってきました。

福岡出身の古賀さんが交換留学生として、「原子力の町」を訪れることになったのは、決して偶然ではなかったのだと感じます。

原爆を落としたアメリカ人を、決して恨むのではなく、ロゴも変えさせようとするのでもなく、ただただ「あのキノコ雲の下には罪もないたくさんの人々がいたんだよ」と伝えて下さった古賀さん。

私は、あなたがアメリカに送られた天使に見えます。


「長崎原爆慰霊の日」そして「オダネル氏の命日」に、天の計らいに感謝を捧げます。。。