焼き場に立つ少年 再掲載 | misaのブログ

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67回目の長崎の原爆の日に、再びこの写真を捧げます。

焼き場に立つ少年
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この写真を撮ったのは、アメリカ人のカメラマン、ジョー・オダネル氏でした。
 
以前動画があったのですが、やはり削除されてしまいました。

なので、いくつかの過去記事からこの写真とオダネル氏の事をまとめます。

長崎原爆忌にオダネル氏を偲ぶ 2011

オダネル氏は、日本軍に真珠湾攻撃を受けた事により復讐心に燃え、日本人を殺すために19歳で軍隊に志願した。

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原爆投下後、公式カメラマンとして長崎に入ったオダネルの任務は、原爆の破壊力を記録する事だった。

人体実験として2種類の原爆を投下したアメリカは、その破壊力を知りたかったのだ。

オダネルは爆心地に立ち入る危険性も、本当の目的も何も知らされず、軍からは許可なく人物の撮影をしてはならないとだけ言われていた。

しかし、彼は悲惨な光景に衝撃を受けていた。日本人を憎んでいたオダネルの心を揺さぶるに充分すぎる光景がそこにはあった。

『アメリカはきのこ雲を見て、戦争は終わったと思っていた。しかし、それは間違いだった。

生き残った日本人にとって、苦しみの始まりだったのだから…』


『昨日の事のように思い出される。私は灰と瓦礫につまづきながら爆心地を見渡した。

衝撃的だった。そこには人が暮らした文明の跡形も無かった。

自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった。』


『多くの子供が親を亡くしていた。生き延びた子供は、幼い弟や妹を親代わりとなって支えていた』

そんな子供たちと接するうちに、オダネルの何かが変わって行った。

軍の命令に背き、オダネルはそこに生きる人々をひそかに撮影し始めた。

そして、オダネルは被爆者が治療を受ける救護病院へと向かった。

『私が見たその人は、これまで出会ったケガ人と全く違っていた。

彼には髪の毛も、眉も鼻も耳も無かった。顔と言える原型はなく、肉の塊だった。

彼は私にこう言った。「あなたは敵でしょ。私を殺して下さい」

私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。部屋を去る時、再び彼を見た。

まだ「殺してくれ」と言っていた。

自分に出来ることなど何もなかった。

その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた。』


その夜、オダネルは眠る事が出来なかった。

翌日、病院を訪ねるとベッドにはもう彼の姿は無かった。

『この世のものとは思えないものを見た。死んだ人、子供たち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症。

傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。

憎しみから憐れみに変わった。

何故人間が同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。』


同じ任務についていた他のカメラマンは、決まりを守って撮影対象との接触を避け、記録班として感情を捨て、記録に徹していた。

だが、オダネルにはどうしてもそれが出来なかった。

そして、火葬場であの少年に出会う事になる。そこで見た光景がオダネルにとって、生涯忘れられないものとなった。

『佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。

すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。

男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。

荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。

おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。

弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。

しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。

重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。

しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。

背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。

白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。

この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。

男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。

それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。

真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。

少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。』


オダネルの写真集『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』には、写真について次のように補足されている。

『少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。

係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。

炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。

私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。

軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。

私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。

私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。

急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。

係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。

その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。

今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?』


『この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。

アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。

そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。

私はなす術もなく、立ちつくしていた。』


それから帰国後、オダネルは長崎での記憶に精神を乱されていく。

『被爆者達の体をうごめくうじ、助けを求める声、鼻をつく異臭…。私は長崎で見た光景を思い出すまいとした。

しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた。

あの時のアメリカの決断は正しかったと言えるのだろうか。

眠ろうとしても眠れない。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。見ると長崎の悪夢が蘇ってしまう』


苦しみから逃れる為、オダネル氏は「絶対に開けるな」と家族に言い渡し、屋根裏に写真が入ったトランクを封印してしまった。

その後オダネルは、アメリカ情報局に勤務し、大統領の専属カメラマンに抜擢されホワイトハウスで働き始めた。

最初に担当したのは、皮肉な事に、日本に原爆投下の決定を下したトルーマン大統領だった。

《原爆投下は戦争を早く終わらせるためだ。多くの若いアメリカ兵の命を救うためだった。》

トルーマンのこの言葉は、今も多くのアメリカ人が信じている。

オダネルは1950年に一度だけ大統領に「日本に原爆を落とした事を後悔していないか」と尋ねた。

すると大統領は動揺し、顔を真っ赤にして「当然それはある。しかし、原爆投下は私のアイデアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ」と答えた。

アメリカが推し進める核戦略と、自分が見た現実との狭間でオダネルは苦しんだ。

『体のあちこちに異変が起きた。25回も手術をすることになった。

爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。放射能がもたらす健康被害について何も知らされていなかった。』


その事を軍に訴えても、軍は何もしてくれなかったのである。

そして1989年、オダネルの運命が変わった。

偶然立ち寄った修道院で、全身に被爆者の写真が貼られた像を目撃したのだ。

『私は彫像を見て衝撃を受けた。罪のない被爆者たちの写真が彫像の全身に貼られていたのだ。

それを見た時の気持ちは言い表せない。長崎の記憶が甦り、とても苦しくなった。

しかし、私は何かしなければと痛烈に感じた。

まさに啓示だった。自分も撮影した真実を伝えなければならない、と。』


ついに43年ぶりにトランクは開けられた。

1990年、オダネルは写真を引き伸ばし、写真展を開こうとしたが、受け入れてくれる施設はどこもなかった。

家には嫌がらせの手紙や非難の投書が来るようになり、妻とも離婚する事になる。

母国の正当性の前にオダネルは苦悩した。

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『私は母国の過ちをなかった事にできなかった。退役軍人は私の事を理解してくれないだろう。

私は死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。

確かに日本軍は中国や韓国に対してひどい事をした。

しかし、あの小さな子供たちが何かしただろうか。

戦争に勝つ為に本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。

1945年、あの原爆はやはり間違っていた。それは百年経っても間違いであり続ける。

絶対に間違っている、絶対に!

歴史は繰り返すと言うが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ。』


自分の幸せよりも、原爆投下への疑問の方を選んだオダネル。

『アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やって来る。

嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まって来る。「お前は裏切り者だ、アメリカが嫌なら日本へ行け」と。

ある時、娘が教えてくれた。

「お父さんの活動に味方する投稿がひとつだけあるよ」と。

その投稿は、私への批判の声に反論してくれていたのだ。

”オダネルを批判する人たちに言いたい。

原爆とは何だったのか。図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ!”

名前を見ると、それは私の息子だった。

息子が私が日本にいた時と同じ23歳のころだった。

その後、息子はこう言ってくれた。

50年経って僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行ってお父さんのやろうとした事を引き継ぐよ。

平和の為に命をかけて写真を伝えていくよ。』


オダネル氏は諦めずに強い信念を持って核廃絶の活動を続けていった。

『たとえ小さな石でも、波紋は広がっていく。それは少しづつ広がり、いつかは陸に届くはずだ。

アメリカという陸にも届く日が来る。

誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。

そして、誰もが平和を実感出来る日がくると信じる。』


だが、日本とアメリカを行き来する生活の中で、オダネルの病状は悪化していった。背骨の痛みは深刻となり、皮膚ガンは全身に転移していた。

そして、とうとうオダネルは2007年8月9日、85歳で帰らぬ人となる。

奇しくも長崎の原爆の日が彼の命日となった。

しかし、彼の想いは息子タイグさんによってしっかりと引き継がれている。

『父は、死ぬ前に言っていた。あの日の長崎には笑顔がなかった、と。

いつか長崎で笑顔の子供たちを撮りたい、と。』


父親の願いは、タイグさんの代になってようやく長崎の町で叶えられたのだった。

<まとめ終わり>

あれから67年が経ちました。

アメリカ人の中にもオダネルのような人がいるのです。

カメラマンとして、被爆地で生々しい生き様に踏み込んだからこそ、真実が見えたのです。

核と人類は共存できないのです。

その事も分からず、未だに原爆や原発を使い続ける大人たちの犠牲になるのは、いつだって何も知らない子どもたちです。

私たちは、この少年の写真とオダネル氏の事を、ずっとずっと忘れてはならないと思いました。