「古事記」に富士山の記載がない理由 | misaのブログ

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奈良時代に編纂された、日本の神話と黎明の歴史を記録した日本最古の歴史書と言えば「古事記」「日本書紀」である事は、誰もが知るところです。

しかし、これらに日本のシンボルたる富士山の事が、まったく言及されていないことに気づかれた方は少ないのではないかと思います。

「富士山」という表記のみならず、「不二山・不死山・不尽山・福慈山」など、富士山の古名・異称を含めても、まったく記載がないのです。

記紀とほぼ同時代に成立した「万葉集」には、富士山を詠んだ歌が数多く載っているというのにです。

また、720年ころに成立したとされる「常陸国風土記」には、富士山は「福慈岳」という名前で登場しています。

なので、記紀の編纂作業が行われた奈良の地から、富士山は見えなかったとしても、当時の日本人なら富士山の事を聞き及んでいなかったとは考えにくいのです。

それにもかかわらず、記紀には富士山がまったく登場しないのは何故なんでしょう。

つまり、記紀を編纂した大和朝廷と天皇家は、富士山を意図的に隠したとしか思えないのです。

また、「日本書紀」の神話では、天地開びゃく後に一番最初に現れた神は「国常立尊」その次に「国狭槌尊」となっていますが、冒頭箇所以外には登場せず、具体的なことは何も記されていないのです。

ここにも天地開びゃくの神について、詳細を書いてはいけないという思惑を感じてしまいます。

何故なら、それを書くと「太古の時代に富士山のふもとには、霊峰富士への信仰を核とした壮大な王朝が繁栄していた」ことに触れなければならなくなるからです。

天皇家及び大和朝廷は、その富士王朝が復興して、自分たちの権力を脅かすことを怖れ、富士山の存在を敢えて無視し、超古代の富士王朝の歴史を抹消しようとしていたのかも知れません。

ところが、1921年に初めて世に出た「宮下文書」によって、「はるか遠い昔に、富士北麓の平原に神々が降臨し、その地を高天原と名付けて住み着き、荘厳な神宮を建て富士山を拠点として日本全土を統治する都・富士王朝を築いていた」ことが明らかにされたのです。

さらに、日本最古の物語として有名な「竹取物語」にも、富士王朝をにおわせる謎めいたセリフがあるのです。

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中将は、翁の屋敷から兵士たちを引き上げさせ、かぐや姫を引き止めるために戦おうとしたが戦うことができなかった事情を、細かく詳細に帝へと報告した。

不死の薬の壺に、かぐや姫の手紙を添えて献上した。

帝は手紙を広げて読んで、とても気持ちを揺さぶられて、食事も喉を通らず、音楽や舞踊の遊びもしなかった。

帝は大臣・高官を呼び寄せて、『どこの山が一番天に近いのか。』と尋ねると、その中の一人が、『駿河国にあるという山が、この都にも近くて、天にも近くてございます。』とお答えした。

これを聞いた帝は、 もうかぐや姫に会うことができず、流れる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬などがいったい何の役に立つというのだろうか。

帝はかぐや姫が送ってくれた不死の薬の壺に手紙を添えて、使者に渡してしまった。

調石笠という人を呼び出して勅使に任命し、駿河国にあるという高い山にこの薬の壺を持っていくようにと命令した。

そして山頂ですべきことを教えたのである。手紙と不死の薬の壺とを並べて、火をつけて燃やすようにと命じた。

命令を承った調石笠が、大勢の兵士を引き連れて山に登ったので、その山を『富士の山(大勢の兵士に富んでいる山)』と名付けたのである。

山頂で焼いた煙は、今もまだ雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。

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この「竹取物語」は、平安時代に元々語られていた伝承を元に、平安朝を舞台にした物語としてまとめたものです。

しかし、原話の痕跡がわずかに残ってしまったようです。

それが、「この都にも近くて。。」という部分。

平安朝があったのは、京都のあたりです。

しかし、どう考えても富士山が京都に近いとは思えません。

それに、竹取物語に由来する竹取塚が富士市比奈にあるのです。

「丹田呼吸法」を広めた事で有名な白隠禅師も、竹取物語について調べあげ「この地こそかぐや姫の誕生の聖跡」と断定までしているのです。

これらの事から、「この都」が京都を指しているとは考えにくく、竹取物語の発祥の地の一番近くにある都、つまり、「竹取物語」での「都」と言うのは、富士山北麓に広がる「富士王朝」の事を指しているのではないかと思えるのです。

平安時代の初期の延暦19年(800)に、富士山の噴火が起こるまで、富士王朝はそこに存在していたのです。

ちなみにこの「竹取塚」は、私の地元にあるのです。

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過去記事より

また、「古事記」には、天皇家の皇祖である天照大神の孫・ニニギノミコトが日向の高千穂に降臨し、国つ神の大山祇命の娘である木花佐久夜毘売と結婚したとあります。

そして、二人は3人の子供をもうけ、このうちの三男・山幸彦が海神の娘である豊玉毘売と結婚してウガヤフキアエズノミコトが誕生し、そのウガヤフキアエズノミコトの子が初代・神武天皇となったとされています。

しかし、「宮下文書」だけでなく多くの「古史古伝」では、ウガヤフキアエズはひとりではなく、数代・長期に渡る「ウガヤ朝」であったと書かれているのです。

「古事記」「日本書紀」では、確かにウガヤフキアエズの立場が薄いのです。

神武天皇が人間としての初代の天皇であるならば、ウガヤフキアエズは最後の神となり、初めて人間の父親となった重要なポストになるはずです。

ところが、これほどまでに重要な人物の記述があまりないのが不思議なのです。

「宮下文書」では、『ウガヤフキアエズ王朝』は、ウガヤフキアエズを名乗る神皇が、約2700年にわたり51代も続き、その後、神武天皇に引き継がれていったと記されています。

さらに「ウエツフミ」「竹内文献」といった古史古伝には、ウガヤフキアエズ朝にはその先も52代~70代まであったと書かれています。

古史古伝と日本の正規の歴史書、どちらが本当の事を記しているのでしょう。

今となっては、確かめようがありませんが、古史古伝の内容は実に興味深いものがあります。

では、これから実際に「宮下文書」には何が書かれているのかをみていきましょう。

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雪を新たにかぶった今朝の富士山

続く。。