そうなると、いやでも富士山が気になって来ますが、昨日の富士山はそんな心配もよそに、朝から実に美しい姿を見せてくれました。
昨日はオフの日なので、久しぶりに家でのんびりする予定だったのですが、あまりに天気が良かったので、ついつい動き出してしまいました。
どこへ行って来たかって?
歩いて数分の場所にです。
私の住む場所は海のすぐ近くなのですが、昔ここは富士登山の出発点だったと言ったら皆さん驚くでしょうか。
だって、富士山まで結構距離ありますから。
富士山は、修験道の祖・役行者によって開山されたと言われております。
「慶長見聞録」によると、役行者をはじめ、 多くの修験僧たちが富士山を山岳修行の場として選んだとあります。
富士山最古の登山道が『村山古道』です。
村山古道は、平安時代末期に修験者の登山道として末代上人が開き、1000年以上にわたり隆盛を誇っていましたが、明治時代の廃仏穀釈により、別のルートが主流になり、村山古道は廃道となってしまいました。
江戸時代初期頃から、長谷川角行によって創唱された富士講が江戸を中心に次第に広まります。
江戸から富士山へは甲州街道を使うのが最短である為、この頃から富士登山へのメインルートは駿府側から甲州側へと変わって行ったのです。
村山古道は、田子の浦から『村山浅間神社』を目指し、6合目宝永山荘横へ出るルートになっています。
村山古道を開き「村山修験の祖」として信仰を集めるようになった末代上人は、富士山頂に大日寺を、麓の村山に地に興法寺(村山浅間神社)を建て、自ら即身仏となっています。
末代上人は、幼い頃から走湯山(伊豆山神社の前身)に入って苦行を重ね、各地の霊山を巡歴したそうです。
私は、「伊豆山神社」に自分のルーツを感じている為、末代上人にも親近感がわきました。
そう、ここまでが前置きです。
実は、この「村山古道」の出発点が我が家の近くにある「鈴川の富士塚」なのです。
【立て看板より】
「鈴川の富士塚は、富士登山の前に身のケガレを払う場であったと考えられています。
登拝者は、海岸で水垢離と呼ばれる精進潔斎を行い、その際、浜から玉石を持ってきて砂山に積み上げ、登山の安全を祈願したと伝えられています。
身を清めた登拝者は、この富士塚を起点として、吉原宿・伝法・大淵を経て、村山浅間神社に至る村山道を通り、富士山頂を目指したといいます。
富士塚の詳しい築造時期は明らかではありませんが、室町時代後期から江戸時代初期まで遡るという説もあります。
江戸時代中期以降、関東地方を中心に隆盛した富士講によって、多くの富士塚が築かれますが、この富士塚は性質や形状などが関東のものとは異なり、それ以前の富士山信仰に基づいて築かれたものであるとみられています。
現在の富士塚は、昭和51年に古老の記憶に従って復元したもので、塚の頂上には「浅間宮」の祠が祀られています。」
最近は「村山古道」を復活させようとの動きがあり、吉原駅から富士塚までの道案内も出ています。
この鳥居の道の奥に富士塚はあります。
今は玉石はセメントで固められています。
頂上にある「浅間宮」。その前に立つと富士山は見えません。ちょうど富士山と重なる配置になっています。
昔は、ここで「これからあの富士山を目指すぞ~」と無事を祈念したのでしょうね。
明治40年頃の富士塚。天の香久山とも呼ばれていた。
今の時代には、歩いていくにはちょっと遠いんでないかい?と思ってしまいますが。。
ここから先は、おまけ画像です。
富士市のマンホール
我が家の近くからの富士山
ついでにすぐ近くの田子の浦港公園にも寄って来ました。
万葉集・山部赤人の『田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける』の歌碑が建っています。
これは富士山を模しているのかな?ちょっと低いけど。
我が家は、ここから見える場所にあります。
赤&白灯台
私は、『富士山本宮浅間神社』と隣接する家に3歳まで住んでおり、その後この地に引越してきました。
でも、この地も富士山信仰と深いつながりの場所だったのです。
富士山とは否が応でもご縁を感じないではいられません。
そして「村山浅間神社」とも繋がります。
この御神木には「烏天狗」がいるそうです。
真っ赤に染まりその地を護っていると聞きました。
今はさらに燃えるような色になっているのかも知れません。
富士山を体を張って守ろうとしている方
もしかしたら、烏天狗は末代上人?なんて思ってしまいました。
長くなりましたが、最後までお読み下さりありがとうございました。
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