臨死体験者から学ぶこと 3 | misaのブログ

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臨死体験者から学ぶこと 1
臨死体験者から学ぶこと 2

高木善之さんの臨死体験も、いよいよ最終章です。読めば読むほど、深い学びがあります。

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会社に復帰したときはみんな親切だった。

「大変でしたね。後遺症はありませんか?無理しないでね。」

以前私は、プロジェクトリーダーで、自分で研究テ-マをもち何名かの部下をもっていた。

復帰した時、以前の私のプロジェクトは進んでいたので一年のブランクを埋めるため部下に聞いて勉強した。

みんなよくやっていた。そう、一年前まで自分もそうだった。

そして自分の部下で最も優秀だった若手研究員は、実質的にはプロジェクトリーダーとして立派にやっていた。

しかし、自分には仕事がないのだ。

はじめは上司が気づかってくれているのだと思っていた。

何度か「そろそろ復帰したいのですが。」と言うと「まあ、もう少しゆっくりしてなさい。」と言われる。

会議や打ち合わせに出ようとすると 「出席しないでいい。」と言われる。

「何をすればいいですか?」と聞くと、「まあ次の仕事でも考えてくれ。」と言われる。

そこで、図書室で論文を読んだり、特許を調べたり、専門書を読んだりして次の研究テ-マの調査を始めた。

次期研究テ-マについて計画書も出した。しかし、手応えがない。

計画書は、何日も机の上に置かれたままであったり、いつかゴミ箱に捨てられているのを見て、やっと自分の置かれた立場が分かったのだ。

私は「窓際」になってしまったのだ。

「窓ぎわ」は、「いじめ」よりひどい。「無視」なのだ。無視というのは仕事がないのだ。

自分はいないのと同じなのだ。透明なのだ。

これは凄いことなのだが、体験しないと分からないだろう。毎日が地獄なのだ。

何もすることがないのだ。自分はいないのと同じなのだ。

日ごろ忙しい人は「何もすることがないなんてなんて羨ましい。」と言うかもしれないが、無期限に何もすることがないというのは、想像以上の地獄なのだ。

初めはみんな「大変でしたね、いかがですか?」「後遺症はありませんか?」と声をかけてくれる。

その度に「いえ、おかげさまで何ともありません。」と答えると、不思議なことにあまり喜んでくれない。

むしろ「そんなことはないでしょう。多少はあるでしょう。雨の日などは痛みませんか? 」という反応が返ってくる。

毎日、どうやって時間をつぶすかが問題なのだ。時間をつぶすものがないというのは何とも言えないほど苦しい。

朝、まず職場の回覧板などの書類に目を通す。新聞にも目を通す。できるだけゆっくり。

そして時計を見る。「せめて30分」。。しかし15分しかたっていない。

次にコ-ヒ-を飲みながら仲間と雑談する。出来るだけゆっくり。

その間も自分のいる場所がないこと、自分の存在が仲間にとって迷惑というか気を遣うことなのだということがひしひし感じられる。

そのうち仲間は「お、もうこんな時間か。会議が始まる。」「そろそろ仕事を始めなきゃ」と立ち去り、一人取り残される。たまらない気分。

次に図書室に行く。何度も目を通した専門書、新刊図書にまた目を通す。出来るだけゆっくり。

そして時計を見る。「せめて1時間」。。しかし30分しかたっていない。

次に休憩コ-ナ-でコ-ヒ-を飲む。

知人がいると近況や世間話、仕事の話をする。そのうち「あ、会議に遅れる」「おっと忘れてた」とあわてて立ち去り、一人取り残される。

たまらない気分。「せめて30分」。。しかし15分。

一日に100回以上も時計を見る生活。地獄のような毎日。夕方になると疲れ果てて家に帰る。

職場復帰して2~3ヶ月たっても毎日夕方に帰宅する。

私に妻が「いつも早いですね」と言う。「職場が順調だから」と言葉を濁す。

またある時妻に「元気がないみたい。復帰って難しいんですって?大丈夫?」と聞かれた。

「大丈夫に決まってるじゃないか」と機嫌を悪くする。

心配させたくないという気持ちと、認めてしまうと二度とこの地獄から逃れられないと思うからだ。

もっと帰宅を遅くしなければ、と図書室で寝てから帰ったり、ほかほか弁当を買って公園で時間をつぶしたりして遅く帰る努力をした。

会社や公園で居眠りをすると夜眠れない。眠れないと余計にいろんなことを考えてしまう。

毎日が苦しくて「いっそ死んでしまおう」と何度考えたことだろう。

「このままでは自分が駄目になる」ベッドの上で気づいたことは何だったのだろう。

みんなに役立つ、みんなに喜んでもらうとはどういうことなのだろう。

たしかに自分が変われば家庭が変わった。指揮者が変われば合唱団が変わった。オ-ケストラが変わった。

しかし「窓ぎわ」の自分は一体どうすればいいのだろう。

いくら自分が変わろうとしても、いないも同然の自分に何ができるだろう。

これに耐えなくてはならないのだろうか。このまま「窓ぎわ」としてみんなに役立てばいいのだろうか。

それとも会社を辞めて新しい人生を歩む方がいいのだろうか。

しかし、家族はどうなるだろう。生活はどうすればいいのだろう。

一年の入院で、貯金はほとんど無くなってしまった。何よりも「窓ぎわ」のままでは生ゴミのままでは地球環境であれ何であれ、社会に影響を与えることが出来ない。それが一番困る。

ああ、一体どうなるのだろう。最大のピンチ。ここをクリア出来ないかぎり、自分に未来はない。苦しい毎日だった。

来る日も来る日も死ぬか生きるか、ぎりぎりのことを考えていた。

ある時、ふと気付いた。

『仕事は与えられるものではない。したいことをすればいいんだ。自分を苦しめているのも自分。自分を窓ぎわ、生ゴミにしているのも自分。

自分が苦しむのをやめ、自分を認め、自分がしたいことをすればいいんだ。』

よし、したいことをしよう。

研究所では自主プロジェクトというものがある。

10%程度の時間で、自主的に研究ができる。もちろんある程度の手続きが必要なのだが。

私は、研究所のカテゴリ-と、自分のやりたいこととの可能性の中から、ピアノに関わる自主プロジェクトを始めることを決意した。

コンピューター技術を応用した電子ピアノの開発。当時の電子ピアノは音質はまるでオモチャ。

鍵盤タッチは電子オルガンと同じで 多少ともピアノが弾ける人にはとても弾く気にならないものだった。

そこで何とか本物の音、本物の鍵盤タッチを出そうと試みた。

原理を簡単に述べると、本物のピアノ、特にシュタインウェイやベ-ゼンドルファ-などの世界の名器の生の音を半導体メモリ-に記憶させ、鍵盤のタッチによって再生するのだ。

ピアノの音は鍵盤タッチやペダルによって様々に変わるので、実際に様々の音を録音し、タッチやペダルに合わせて再生できるようにし、鍵盤は実際のピアノ鍵盤を使い、本物のタッチ感が得られるようにした。

一年がかりで完成させた試作品はかつてない電子ピアノだった。

一年後、それは当社の画期的な新製品になった。

この製品は高価だったが世界の名器のピアノだけでなく、チェンバロ・ハ-プ・ギタ-などの音が出ること、自動演奏可能、録音再生可能、ヘッドホン可能、軽量など多くのメリットがあり、のちに100億円事業となった。

一度窓ぎわになった人間が、一つの成功でメデタシというほど会社は甘くない。

一本ヒットを打ったところでそれで運命が変わるわけではない。

もちろんこれで細々と研究を続けることは出来る。

しかし、それは自分として満足な生き方ではない。将来も見えない。このままではだめだと思い悩んでいた。

そんな時、幸運が舞い込んできた。

特別プロジェクトのサブリ-ダに任命されたのだ。

特別プロジェクトというのは、会社の戦略上、非常に重要なプロジェクトのことで、会社から優秀なメンバ-を集めて優先的に推進されるものである。

全社から集まった12名の優秀な技術者集団で、技術的にも日程的にも非常に困難なものだった。

開発目標は業務用パソコンで100万個のエレメントの一つにミスがあればそれで失敗なのだ。

一人一人が高い技術レベルの仕事をするだけでは不足で、チ-ムとしての協力ができなければシステム開発は失敗する。

つまり演奏者一人一人がいい演奏をするだけでは音楽にならないのと同じ。

その頃、私は指揮者としてオ-ケストラと合唱団の一人一人が、最高の演奏をするとともに、全体として最高の音楽を実現することに取り組んでいた。

この『オ-ケストラ指揮法』が仕事でも大いに役立った。

技術的にも日程的にも困難な目標であったが、非常にいいチ-ムワ-クで開発が進み、目標より早く完成しこの特別プロジェクトは成功した。

この成果で社長賞を受賞、さらに共同開発の相手会社からも社長賞を受賞した。

このことによって私は、窓際から復帰することが出来たのだった。

今思い返しても、この時期は最も危険な時期だったと思う。

あらためて周りを見ると、職場には結核で長期に休んだり神経症などで昇進からはずれた人が何人もいる。

みんな世間でいう名門大学卒だが、社内の激しい競争に敗れたと見なされている。

私のように交通事故で一年休職した者もまず復帰は難しい。本当に幸運だったと思う。

先日、こんな悲しい事件を知った。

「クルマの中で夫婦が餓死。夫は元エリ-トサラリーマン、妻はピアノ教師。

夫が事故に遭い、後遺症のため会社を辞め、生活に困りマンションを出てマイカ-の中で生活をしていたが、餓死しているのが発見された。」

これを知ったときショックを受けた。とても他人ごとでないような気がした。

この夫婦がマンションを出るとき、最後に弾いたのが、ベ-ト-ベンの「月光」だったそうだ。

この曲は私にとっても忘れがたい曲だった。

私の人生を大きく音楽のほうに動かした記念の曲だった。

私はこの悲しい事件に自分のもう一つの人生、もう一つの未来を見た思いがした。

まさにこれは、私が何度も迷って「選ばなかった方の人生」だったのだ。

『天は自ら助くる者を助く』

神はみんなを助けるのではなく、努力する者だけを助けるという諺。

その通りだと思う。自分を生かすも殺すも自分なのだ。悩みは自分で作り出しているのだ。

どうしようもない穴の中に自分を閉じ込めているのは自分なのだ。

実際に私は窓ぎわだった。しかし、それでもなお、諦めるのかどうかは自分が決めるのだ。

最後の最後まで、努力を続けることにより、願いが実現する。

「仕方がない」と思えば仕方なくなるのだ。

そして大切なのは、最後の結果ではなく「現在の生き方」なのだ。

絶対、ダメとか絶対ムリというものはない。あきらめてはいけない。

あきらめれば、その通りの結果になる。病気もガンも諦めてはいけない。

希望を持つことだ。

しかし、諦めてはいけないが、戦ってもいけない。戦いは戦争であり双方傷つく。

仮に勝ったとしてもまた反撃されるだろう。

戦うのではなく、努力すること。現実を受け入れ「気づかせてくれてありがとう」と感謝した上で、希望に向けて努力すること。

このことが最善の結果を実現するのだ。

私が常任指揮者を努めていたのは、日本一を目標に作られた職場合唱団だった。

創立以来、毎年コンク-ルに出場。最初の年6位、翌年5位、翌年4位、翌年3位、翌年2位と順調にランクを上げたが、そのあと頭打ちで、どうしてもトップが取れなかった。

なぜ勝てないのか。なぜ、私の言うとおり歌わないのか。どうすればいいのか。

苦しい時期が続いた。そのさなかでの交通事故だった。

退院後、私の音楽観、指揮観が大きく変わった。

命令・説得・説明・強力な指導をやめた。

合唱団は、指揮者の道具ではない。コンク-ルに勝つことが目的ではない。音楽はみんなが楽しむためのものである。

一人一人が力を発揮し、最高の音楽を実現することこそ、指揮者の仕事なのだ。

まず相手を信頼し任せること。人は信頼されると信頼に応えようとする。

「ここはどう思いますか?任せますから最高の音楽を聞かせてください。」

そしてどんな意見にも耳を傾けること。意見を尊重すること。

メンバ-の戸惑いが消えた時、合唱団は大きく変わった。

一人一人が自分の考えを持ち、自分の意見を述べ、自分の音楽を表現するようになった。

みんなの表情や姿勢が変わった。アマチュアからプロに変わったのだ。

合唱団全体が生き生きとし、自分が音楽を作るのだという自信を持つようになった。

音楽は劇的に変わった。表情豊かになった。そして迫力、凄みが出てきた。

練習は見違えるように変わった。笑い声の絶えない和気あいあいとしたものに変わった。

指揮者とメンバ-とピアニストが一つになった。

以前は「コンク-ルに勝つこと」が重大なことだったが「コンク-ルは素敵な演奏会」と思うようになった。

そして翌年、コンク-ルで初めて一位をとった。

みんな大いに感激した。ちょうど合唱団設立10年目だった。

私自身の感激がひとしおだった。涙が止まらなかった。生まれ変わった自分の門出だった。

それ以来、ほぼ毎年優勝するようになった。

幸せならばみんな力を発揮する。

どうしてこんな簡単なことが分からなかったのだろう。

私は以前「勝つためには苦しい練習をするのが当たり前。364日苦しんでも最後の一日で笑えばいいじゃないか」と言っていた。そして笑えなかった。

ところが今は「練習は楽しくなきゃあ、364日楽しんで、最後の一日ぐらいどっちでもいいじゃないか」と言うようになった。

そして実際には楽しい練習のほうが はるかにいい音楽ができ、結果として年中楽しんでいるのだ。

みんなは、それぞれ自分の音楽を持っている。それぞれが最高のものを発揮しようとするのを邪魔していたのは自分だったのだ。

指揮者が、あらかじめ決めた演奏をさせようなんてなんて愚かなこと。

指揮者の理想の音楽は、目標ではなく出発点に過ぎないのだ。それぞれが自由に演奏することで、そしてお互いに聴き合うことで、最高の音楽を演奏することができる。

寝たきりのベッドでこのことに気づいた時、悲しくて悔しくて恥ずかしくて何度か泣いた。

私はワンマンだった。何人かの人の心を傷つけたことがあるからだ。

そして本当の指揮者として目覚めたとき、二度と指揮台に上がれないと医者から宣告を受けたからだ。

幸運にも自分は今、指揮者としてカムバックできた。コンク-ルに勝つための音楽ではなく、喜びの音楽を、幸せの音楽を自由な指揮棒を振ることができるのだ。

指揮者を邪魔しないのが優秀な合唱団なのではなくて、合唱団を邪魔しないのが優秀な指揮者なのだ。

これで社会復帰ができたので、地球環境について研究をスタ-トした。

学会や研究会に参加、シンポジウム、委員会に出席した。国際会議などにも出席、情報やデ-タを収集した。

オゾン層破壊、地球温暖化、森林破壊など環境破壊の極めて深刻な実態が国連や政府などの公表デ-タとしてはっきり示されている。

そしてそのどれ一つをとっても、世界の破局がはっきり示されているのだ。

そしてこの世界の将来は、人口爆発と貧困、食料不足、水不足、資源の枯渇、環境汚染と環境破壊、世界経済の崩壊、地球規模の生態系の崩壊。

未来の記憶どおりだった。デ-タは揃った。

地球環境の各項目について国連や各国の公式デ-タ、誰にでも分かるデ-タ、ショッキングなデ-タが揃った。

1991年、ソビエトは突然崩壊した。

ゴルバチョフ大統領の急ぎすぎた民主化による軍や政治の混乱と経済崩壊によって。

ちょうど事故から10年目だった。

東西の力の対決、力のバランスで保たれていた世界秩序は崩れ始める。

これから東西ドイツ、南北朝鮮、二つの中国の問題、アフリカ、東南アジアなど政治やイデオロギ-で分けられた不自然な国境は崩壊する。

民族の異なる国は分裂する。ソビエト連邦はバラバラに崩壊し、アメリカ合衆国もバラバラに崩壊する。

ショックだった。やはり始まったのだ。間違いではなかったのだ。

急がなくてはならない。

1989年、モントリオ-ル会議で 「2000年、特定フロン全廃」を決議したが、日本だけがサインをしなかった。

これだ 今がチャンスだ、と思った。

社長に地球環境のことを話すことを決意した。

社長とは、仕事以外でも合唱団のことでお話をする機会が何度かあった。

合唱団がコンク-ルで連続一位をとっているのは、会社にとっても大きな話題であった。

このことでは社長もずいぶん喜ばれ、社長金賞を二度受賞した。

「非対立、非対立」と唱えながら社長室に入った。

「きょうは何だね?」「地球環境のことでお話があります。」「合唱団のことではないのか。それなら担当役員に話しなさい。」

「わが社にとって重要な問題です。ぜひお知らせしたいのです。」「じゃあ、聞こうか。」

オゾン層破壊について話した。これが私の最初の講演だった。

社長は非常にショックを受けられた。

「まさか、それは本当か!」

「これは国連や各国政府などの公式デ-タです。」

「なぜ日本はサインしなかったんだ?」

「わかりません。でも100億円で社内のフロンは全廃出来ます。」

「うちがやれば、よそが怒りよる。」

もしここで「よそが怒ろうと、うちはやるべきです!」と言えば私はクビだろう。

非対立で。主義主張や説得はマイナスになる。気づくチャンスを作ること。

「うちがやらなければ、どうなるでしょう?」

「うちがやらんと、よそもやらんだろうな。」

ハ-ドルを一つ越えた。

「しかし100億円はもったいないわ。」

もしここで「100億円くらいなんですか!」と言えば私がクビ。 

非対立で。相手の気持ちを受け止めること。

「お金は使わないとオゾンは無くなります。でも、お金は使っても無くなりません。」

「えっ、金は使えば無くなるやないか。」

もしここで説明すれば気づくチャンスが無くなる。

私は黙っていた。黙っていると考えることが出来る。考えることを邪魔しないことだ。

「なるほど、金は無くならんな。金は天下の回りものだからな。」

ハ-ドルをもう一つ越えた。もう一息。

「私は経営者だから、いい悪いだけでは考えられない。経営の観点で考えんといかん。君も経営の観点で考えてみてくれ。」

もう一息のところで難しい問題。

一瞬、どう答えればいいか分からなかった。

非対立で。同じことを繰り返したり、強引に説得すれば失敗する。チャンスは一度。失敗すれば取り返しがつかない。

非対立は、無理しないということも大切。「しばらく時間をください。」

気がつけば一時間が経っていた。社長の時間を大きな事業の話以外で一時間取るのは異例のことだった。

社長室を出て図書室に行った。

経営とは何か、経営という観点で考えるとどうなるか。人にも聞いた。本も調べた。

しかしピッタリくる答えは見つからなかった。そしてやっと、仏教辞典で次の説明を見つけたのだ。

経営の「経」は「真理」を表し、「営」は「一生」を表す。

「経営」とは「一生をかけて真理を求める」の意。この言葉に感銘を受けた。

そして再び社長室に出かけて行った。

「どうした?」

「経営という観点で考えてまいりました。」

「話してみなさい。」

そのことを説明した。

「経営とはそんな凄い言葉なのか。どうすればいいんだ。」

「わが社として何ができるか、社長と一生かけて考えてまいりたいと思います。」

「そんなことしてたら間に合わんじゃないか。」

「間に合わないと思います。」

「それじゃダメじゃないか。」

「社長の指示通り、経営という観点で考えました。」

「・・・・」社長は無言。

しばらくして、社長は次のように言われた。

「わかった。やろうじゃないか。」

一ヵ月後。

「日本最大手の電子企業、松下電器が特定フロンを全廃」

「5年前倒し1995年までに」という新聞記事が全紙に載った。

1989年7月20日のことだった。

他社からクレ-ムがあった。モントリオ-ル議定書に日本がサインしていない段階で、業界最大手のわが社が単独でフロン全廃を発表するのは極めて異例、極めて迷惑なことだった。

ところが、しばらくして他社も続々 同様の方針を打ち出してきたのだった。 

翌1990年、日本はモントリオ-ル議定書にサインした。

このことは米国の地球環境の書にも記述されている。

「日本はフロンの段階的廃止よりも、リサイクルを主張。その理由は、フロンを大量に使用する半導体企業が廃止に反対していたからである。

日本最大手の電子企業松下電気が、フロンを全廃すると述べて初めて日本は、段階的廃止に合意した」

ここから講演活動が始まった。

最初は、規模は10人・20人くらいから、無料で交通費などの経費も自分で負担していた。

当時、講演資料として作ったのが現在のブックレット『美しい地球を子供たちに』で、毎回、コピ-を20部くらい持参してカンパしてもらった。

少しずつ講演が広がり、賛同する仲間が増えた。

当初は「会費なし、会則なし」であった。

講演回数も増え、講演規模も大きくなっていった。

仕事、音楽=指揮との両立を続けていたが、次第に難しくなってきた。

悩んだ末に自分の天職だと思っていた「音楽=指揮」をやめることにした。

最後のコンサ-トのアンコ-ルの時、あいさつをした。

「このコンサ-トを最後に私、音楽活動を終わります。」

みんなの反応は、冗談でしょうといった感じだった。

「これからは地球環境の保全活動に全力で取り組みます。いつかどこかでお会いできるかもしれません。

もし地球が大丈夫になれば、カムバックし、ベ-ト-ベンの『歓喜の歌』 を、もし地球がダメになれば、最後にチャイコフスキ-の『悲愴』ベ-ト-ベンの『運命』を演奏させていただきたいと思います。」

みんな真剣になり、アンコ-ルのシベリウス作曲「フィンランディア」は、演奏者もお客様も私も涙の演奏だった。

やがて、環境を取るか、会社を取るかの選択を迫られた。

音楽をやめるときほど迷わなかった。

「私は、子供たちに地球を残そうと思います。長い間お世話になりました。」

それでも空になった机や書棚を眺めたとき、「遂に会社を辞めるんだな」という感慨があった。

以前「自分が会社を辞めるとしたら 音楽活動に専念するためだろう」と考えたことはあったが、まさか、こんな形で会社を辞めるとは夢にも思わなかった。

「明日から自分のしたい事だけをやればいいんだ。」という解放感と同時に不安もあった。

「ほんとにこれでいいんだろうか」

「音楽を止め、会社を辞め、次は一体何をやめるんだろうか」

生きることをやめる、いつかそれも避けられないだろう。

あの記憶。

自分の寿命を考えると、もうあまり時間が残っていない。

いずれにせよ、もう後には戻れない。

間に合うかどうかわからないが、最善を尽くしたい。

『美しい地球を子供たちに』

<転載終わり>

高木さんが戻ってきたことには意味があったのです。

膨大な宇宙の意識が教えてくれた事、それを伝えて下さった事に感謝いたします。

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