前方後円墳の壺の取っ手のように見える造出(つくりだし)について、別の角度から考察してみます。

 

以前の投稿では、造出は紐の「蝶結び」を表現していると考えましたが、今回は造出を日暈(ひがさ)の「上端接弧」として表現している可能性について検討します。前方後円墳の造出の位置が、ほとんど日暈の上端接弧と同じ場所に配置されていることが、その根拠です。

 

 

日暈を古代の歴史的事象と結びつけて考える人はほとんどいません。しかし私は、この形を古代の人々が重要視していたと考えています。古代の人々は天空をよく観察していました。冬至や夏至の認識も、日々の観察なくしては難しいでしょう。また夜空の月や星の動きを観察し、星座に名前を付けるなど、空を見上げる習慣がありました。現代人は空を眺めることが少なく、日暈を見たことがない人もいるかもしれません。日暈は雨の降る数日前に現れる現象であり、古代の人々はこれを太陽と水の融合として崇拝した可能性があります。

 

 

 

後円墳は三重の同心円構造を持ち、これは日暈の「太陽・内かさ・外かさ」を象徴していると解釈できます。また、太陽アークは方形墳に対応すると考えられます。造出を上端接弧とみなすと、大仙古墳の前方後円墳はほとんど日暈の形と一致します。

 

さらに、太陽アークは古代エジプトでは「神の手」と理解されていた可能性があります。光そのものを神の恩恵と考え、太陽の光が織り成す形に非常に敏感だったのでしょう。太陽十字や八方向に延びる日暈のアークの形から多様な象徴を想像し、それを繁栄の基盤としたと考えられます。

 

造出を上端接弧とみなす研究はこれまで存在しませんが、その可能性は十分にあると私は考えています。