さて、今日は「現代文」のお話です。大学入試の(高校入試もですが)現代文は大きく「評論文」と「小説文」に分かれています。お父様お母様も受験生の頃に問題を解かれた経験があるでしょう。そんな定番の「現代文」ですが、実は昔とは様変わりしています。というのも、様々な大学で「小説文」がどんどん出題されなくなってきている
のです。さらに言えば、中堅以下の大学では「古文」「漢文」の出題も大きく減ってきました。つまり、国語といえば「現代文」のさらに「評論文」一択という学校が多くなってきているということです。

「古文」「漢文」が出題されなくなるのは理由がよく分かります。生徒確保に苦しむ私立大学の文系では、受験生がいやがる科目を極力廃しすることで受験しやすくして、まず試験を受けてもらおうと考えているわけです。志望校はその大学の中身で決めるもので、受験科目は関係ない。そう思われるかもしれませんが、実際のところ、この「受けやすさ」に受験生はかなり大きく影響を受けます。でも、この傾向は受験生が悪いとは言い切れない。なぜなら、そもそも「大学の中身」なるものが高校生には本当に伝わりづらいものだからです。(ひょっとすると、たいした違いがないからかもしれません)。そんな中で大学を選ぼうとすれば、受験科目の受けやすさはわかりやすい指標になります。
しかし、「小説文」はどうでしょうか? 高校生が「本を読む」場合、それはたいてい小説です。受験で出題される評論文や学者の書いた論文を読みあさっている生徒は本当にまれでしょう。だから、「古文」「漢文」のように小説がいやがられているわけではないのです。にもかかわらず出題は減っています。この理由としていちばんに挙げられるのは「小説文読解問題のむなしさ」にあるのかもしれません。
小説文読解問題ではおもに「登場人物の心情」が問われます。確かに小説を読む最大のおもしろさの一つは「登場人物の心情」ですから、それ自体には問題がありません。問題なのは、「主観的な読み」を一切許さないところ。本文を緻密に読み込み、本文の非常に微妙な表現を根拠に心情を推測することが求められます。ある心情には必ず原因があり、その結果となる行動が付き従っています。それを読み取ることが小説を読むことである。そう主張しているとしか思えないくらい、このパターンの問題ばかりが出ます。しかし、小説はこのような「客観的」で「因果関係重視」のみを強いる芸術ではありません。作者と読者がともに作り上げる芸術作品

わたし自身小説文を授業で扱うときにはいつもどこかしらむなしさがつきまといます。とてもおもしろい複雑で重厚な作品



