日本人は本当に英語を勉強する必要はあるのか? [金曜日担当:管野] | 教育研究所ARCS - 独断的教育論 -

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教育現場のプロ3人衆による本音トーク


私たち日本人は小学~中学、そして高校大学と膨大な時間を使って英語を勉強しています。


そして中学からは主要教科として入試でも大きな比重を占めています。

私たちの英語学習に費やす、時間的精神的エネルギーはとてつもなく大きいと言えます。

これ程のエネルギーを使って英語を勉強していながら一体どれくらいの人が、その英語をマスターしたと言えるでしょう

どれくらい多くの人が実際に英語を使って、自分の生活なり仕事などに活かしているのでしょう。

ほとんどいないと言ってもよいのではないか



ゼロとは言わないまでも、現実問題として外国に関わる企業や外国人と日常的に接する仕事に従事している人以外、普通に暮らしている日本人には英語を使う必要はないのではないか



「国際化の時代だから英語は必要」はハッキリ言って幻想だと思います。

むしろ逆ではないか?


国際化の時代だからこそ必要なのは日本語や日本文化に対する深い理解と発信力であって、不完全な英語力ではありません。


外国の知的エリートと話すと分かることですが、彼らがすぐ聞いてくることは、日本人の文化観や歴史についてが多い

宗教観
について聞かれることも多い。

たとえば「禅仏教が日本人の精神や習慣にどれくらい影響しているか」「キリスト教なき日本がなぜ高度な資本主義体制を築き上げたのか」

実際私もあるイギリス人に「臨済宗と曹洞宗の違い」について聞かれ、立ち往生したことがあります。

これらは単に、歴史的興味で聞いているのではないのです。


欧米起源の物質文明がいきづまった今、世界はある種の救済を求めてアジア、とりわけ日本の精神文明(文化)に大きな関心を寄せているのだと思います。


もしかしたら私たち日本人は、文化的歴史的伝統の中に、世界が必要としている答えの1つを持っているのかも知れません。

私たち日本人には世界に向かって発信するに値するだけの歴史的文化的遺産とも言うべきものがあり、そのことによって国際社会に貢献することができるのではないか。

国際化ということを私はそのようにとらえています。

それなら私たちに必要なのは、日本語や自国の文化歴史に対するきちんとした評価や理解であり、それに基づくプライドなのだと感じます。

決して英語を巧みにあやつるテクニックではありません。



英語は一つの外国語に過ぎません。

いくら世界的に通じる言語だと言っても、一つの言語に過ぎません。

そして悪いことに英語は、発音も文法も語法も日本語とは全く似ても似つかぬ構造をもつ言語です。

日本人がマスターするのは至難のワザです。

たとえばヨーロッパに行けば、一人で英独仏語をしゃべれるとか、スペイン語も加えれば何ヶ国語もできる人はザラにいますが、語源的に同一なのだから当り前です。

当り前といえば ―例えが悪いかも知れませんが― ヨーロッパではタクシーの運転手でも何ヶ国語もあやつれるのは普通のことです。 



何が言いたいかと言えば、外国では外国語を話せるというのはエリートの条件でも何でもないということです。

これまた例えは悪いが、アジア諸国の中には英語が公用語という国もあります。

彼らはだからバイリンガルです。いわゆる現地語の他に学校や仕事場では英語を話し、テレビも基本的に英語。

私たち日本人はそんな彼らをうらやましいと思うでしょうか。

彼らは、英米の殖民地だったからこそ強制的に英語を学ばざるを得ず結果としてバイリンガルになったのです。




「英語を話せるためには早期から」という最近の日本の風潮は、私には「日本が英語民族の殖民地になるように…」と促されているようにしか感じません。


英語を話せることが重要なのではなく、何を伝えるかの方が重要なのではないでしょうか。


結論を言えば、私は全員が英語を学ぶ必要はないと考えています。

文部科学省の指定する中学校の英語学習範囲だけで国民の「教養」としては十分です。

中学校レベルの基礎があれば、後で必要に応じて学び直しても間に合うし、実用的にも足りています。


高校からは選択制にすべき
です。

英語が好きな人はガンガンやれば良いし、好きでない者はやめれば良い。

小学校での英語は廃止し、中学でも週3時間に戻す。残りは国語や日本文化、歴史の授業に振り分ける。

真の国際人を育てたければその方が近道です。


自国語も満足にできない、自国の文化や歴史にも無知で何の国際人でしょうか!?

英語は外国語として便利なツールですが、ツールはツールです。

子どもの教育に必要なのはツールではなく、心を育てる「教科」です。

国語や算数、そして理社。さらに文化や歴史を加えればなおOKです。

それが日本ではツールでしかない「英語」が他の教科の上位に置かれているような印象です。

だから、あれほど膨大なエネルギーを使い、結果として大量の英語ギライ、英語トラウマを生み出し続けている。

それって国民的な損失ではないか。

英語が話せると何となくカッコいい的な国民感情もあって、また英語が入試でも大切な教科になっている背景も、英語コンプレックスを生み出す元になっています。

英語をあまりに上位に押し頂く姿勢をやめましょう。英語はそんなにありがたがるものではありません。

もっと私たちは自国語や自国の文化に自身を持ちましょう!


ここまで言っておいて何ですが……

実は私は個人的には……



英語が大好きです(笑)

だって英語の先生を30年以上やってるんですよ。
キライなわけありません。

中1の時から好きだし、ずっと英語には親しんできました。

だから好きな人がやれば良いのです。

好きな人が英語の専門家になってくれれば良いじゃありませんか。

全員が一律に英語でヒーヒー苦しむ理由なんて一つもありません。


最後に私の英語への思いをひとこと。



私は大学で英文学を専攻し、英詩特にロマン派の詩人、シェリーやキーツが大好きでした。シェイクスピアのソネットを読んで英語の美しさに衝撃を受けました。

英語は詩に向いた言語だ。

指導教授の言った言葉ですが、私もそう思います。
その教授はこのようにも言いました。

「英語はあいまいな言語で、文法規則もメチャクチャだ。だから外国人にとっても入りやすいが、その代わり何年かかってもマスターするのは難しい。」

マア、私はその「あいまいさ」が英語の魅力の一つだと思っていますが。


英語の特質を理解し、英米の歴史的背景や文化に興味をもって学ぶなら、英語の学習も意義あるものとなるでしょう。

今の日本のように将来に備えてという、損得計算丸見えの動機からイヤイヤ勉強してもモノになるのは難しいし、第一英語に対して失礼ではないかと思います。


以上私が英語教育、とりわけ早期教育に反対する理由を3回に渡って述べてきました。

私の考えに反発する人が多いことは知っています。

これを期に英語教育についていま一度考えていただき、議論を深めていただければ幸いです。



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