子どもたちを見ていると感じること。それは昔に比べて随分優しくなった。おとなしくなったなあということです。
私が高校教師をやっていた頃、塾で教え始めた30数年前は、若者は反抗的で時代や社会それから親や教師に対してイラだち、そのイライラを直接的に私にぶつけてきたものです。
塾をつくった頃、ある反抗的な少年が真新しい教室のドアを理由もなく(本人なりにはあったのかも知れないが)蹴って穴をあけ、激怒した私と殴り合いになったこともありました。
その後その少年とは急速に距離が近づいた感じがしました。わざとらしい親しみ方ではなく、一定の距離は保ちながら互いの存在を認め合う。そんな関係です。
思えば当時は、親しくなりたいがためにまずケンカするというのが男同士の流儀だったような気がします。
私自身、親友とはケンカをきっかけに親しくなった経験を持っています。
生徒もこちらに関心を向けて欲しい時、あえて反抗的な態度で接してくることがあります。
だから私もそんなときは真剣に生徒と渡り合ったのでしょう。演技ではダメ。思春期の子どもや若者とは本気でぶつかり合わなくては信頼も生まれない。長い間私はそう思ってきました。
しかしこの10数年でそんな「反抗的若者」は急速に消えていきました。
素直で礼儀正しく優しい若者がそれに代わって登場したのです。もちろんこれだけなら表面的な観察に過ぎないといえます。
いや確かにそうなのです。今の若者は周囲にやたら反抗するというような、無用の摩擦こそ起こさないが、心の内側では意外と強く自分というものを持っています。
自分の考え、趣味、関心、大切にしていること。それらに対する一定のこだわりはしっかりもっていると感じます。
外側は柔軟で常識や礼儀はわきまえている。社交性もあるし物腰は穏やかで洗練されている。
しかし内側には自分なりの価値観、立ち位置というものをしっかり保持している。
いわば、外柔内剛が今の若者の特徴かも知れません。
親や教師にイラだちをぶつけ反抗するという分かりやすい構図ではなく、表だって事を荒立てないがカンタンに折れたり信念を曲げたりもしないということです。
今の子どもたちも若い人たちも、社会の矛盾や大人たちの偽善に対して同じようにイラだったり疑問を持ったりします。
でもその感情や思いを真正面からぶつけることを嫌います。昔のようにストレートに社会改革(革命)などのアクティブな行動につながることはありません。
今の若者のこうした特徴をネガティブにとらえると、内向的受動的で引きこもった印象を与えますがポジティブに考えると、自分を大切にし周囲に流されない個としての力強さとも表現できます。
では今どきの若者たちが作り出す未来とはどんな時代なのか。
どんな特徴をもった時代がやって来るのか。
少し歴史的な時間軸の観点から考えます。
〔1〕 生存欲求から自己実現へ
シリーズ2回目で心理学者マズローの「欲求の5段階説」を紹介しました。人間は衣食住や安全などの「生存欲求」がまず満たされて、社会的な承認や所属などの高次な欲求へ向かうという考えです。
ここで唐突ですが日本の近代についてチョッとふり返ります。明治維新に始まる近代は、欧米にならって軍事力を背景にした富の獲得競争の時代です。
この競争(闘争)に負けることは殖民地化(死)を意味するわけで人々は「生存欲求」につき動かされていたと言えます。逆に言うと「食べるため」「生き残るため」には戦い(競争)に勝ち残らなければならないという考え方です。
さてここでの有効な価値観とは何でしょうか。
それは、競争原理に基づく「勤勉さ」であり、単一的目標(近代化の成功と手段である戦争勝利)優先のための「集団性」であり、「画一性」などです。
これらの価値観は1970年代の高度成長期まで「当り前」のこととしてずっと続いてきたのです。
一言でいえば「物質的価値観」ですね。
しかし今やその価値観やシステムは崩壊しつつあります。
食うため(生存欲求)の闘争より心の満足は優先される時代が来つつあるのです。
物質的満足から精神的満足を求める変化は大きな価値の転換です。
今の若者たちはそういう時代の到来を深い部分でハッキリと分かっているのだと思います。彼らを「元気のない若者」と見るのは古い物質的価値観のフィルターを通しているからです。
むしろマズローの言う「自己実現欲求」という高次の欲求が若者たちの無意識にあると私は思います。
〔2〕 価値一元化から多様化へ
私たちを長く支配してきた近代的価値観。
それは一つの目標(近代化=物質的成功=生き残り)を皆で共有して来たことを意味します。
それが間違っていたとか悪いことだと言っているわけではありません。歴史的事実として「時代の必然」だったとも言えます。
共通の価値観があること自体は集団の結束を強め、共同体がうまく機能する要素です。「所属」や「承認」の欲求も満たされやすい。
しかし個人の自由は制限され、個性は発揮しにくい社会と言えます。
今はその共通目標は失われ、当然皆が同じ方向を向くべきという同調圧力も薄れ、むしろ個々人が自分の資質に応じた形で自由にその才能を発揮した方が、人々にも社会にも貢献しやすい時代になっている。そう思います。
男女の役割もそうです。
高度成長の時代までは、男は外でバリバリ働き家族を養う。女は家庭を守り子どもをしっかり育てる。これが定番でした。
近代化の過程では、弱肉強食的な闘争の時代であり当然ながら男性性優位の社会構造でした。
それが今は、固定的な役割という概念自体が崩壊しつつあるのです。
今は男女の役割も含め、世の中全体が多様なあり方を求めていると言えます。
以上6回に渡って「近頃の若者論」を語ってきました。語りながら思ったことは、やはり若者の変化は時代の先取りという最初の考えに戻ってしまったなというものです。
そこには下にまとめたような価値観の大きな転換を抜きに語れないものだということでもあります。
私は来たるべき未来が暗いとは思いません。
したり顔の識者が言うように「このままでは日本はダメになる」などと悲観ぶるつもりもありません。
長く日常的に若者と接し、最近の若者の「資質の高さ」を目の当たりにしてきた老人(笑)としては次の時代が今よりも「良い時代」になる予感があるからです。
きっと次の時代は、ようやく個人の自己実現が共通の価値観になる。
自己の幸福を追求することが社会の幸福の最大化につながる。多様だからこそ豊かになる。きっとそんな時代が来る気がします。
そしてそれはそんなに遠くではない。もう、すぐそばに来ていると私は思います。
このシリーズ。今までお読みいただいた方に感謝します。
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