前回の記事では、やや唐突(?)に、「覚えることの重要性」についてごちゃごちゃ書きましたが、今回は毎度毎度のことながら、歴史をさかのぼってみましょう。
ひたすら大量の知識を暗記することを求められた試験に「科挙」があります。科挙は、小野妹子の遣隋使でおなじみの隋代に始まり、つい最近の清代まで続いた中国伝統の官吏任用試験です。この試験に上位で合格すると将来中国のトップ官僚として栄達する道が開かれていたため、現代日本の受験戦争などおままごとに見えるほどの難易度を誇りました。実はこの「科挙」という制度、ヨーロッパにも影響を与え、それが巡り巡って日本の高等文官試験に至るわけですから、日本の受験戦争のいわばご先祖様といっても過言はありません。
世界中に巨大な影響力を持った「科挙」というシステムですが、現代の評判はあまりよろしくありません。上級官僚、政治家を選ぶ試験であるにもかかわらず、中国古代の書籍をひたすら覚える必要があったり、これまた古代の詩人の作品を覚えた上でその内容を使った詩作をする必要があったりと、合格するための力が「暗記力」に偏っていたためです。中国が近代化の波に乗り遅れてしまった原因の一つに数えられることもあり、残念ながら現代では“無意味なことを問う試験”のたとえにされてしまう場合もあります。
ではなぜ、中国では長い間このような「無駄」にみえる試験を課していたのでしょうか。現代の我々はとかく「昔の人は合理性がなかった」と片付けてしまいがちですが、そんなことはまったくありません。人間の知性は今も昔も変わりはありませんし、合理性も同じように持っています。ですから、過去の人々が一見合理性のないことをやっていた場合、なんらかの我々には見えづらい理由があったと考えた方がよいでしょう。
現代の日本において教育は「あたりまえ」です。国民は皆中学校までは進学し、文字も計算方法も習います。しかし、近代以前の世界では、教育はまったくあたりまえではありませんでした。文字が読めず、計算ができないのが普通なのです。一部の余裕のある人間だけが文字を読み、計算をすることができました。つまり、人々が全員で共有する知識が存在せず、知識を持つ人間と持たない人間に二分されていたわけです。一言で「階級社会」といえますが、この場合はお金の有無よりも知識の有無が問題になります。人間は互いにある程度共通の知識を持っていないと、まともな会話が成り立ちづらくなります。すると、自然と同じ知識を持つ人々が固まりグループ化していきます。そしてこの共通知識を持った層=教養人層が国を動かすことになります。科挙は簡単に言えば、この「教養人層」を養成するシステムであり、受験者が教養人であるかどうかを試すものでした。官僚や政治家になれば、仕事の相手は必ず同じ官僚や政治家になります。仕事相手の「常識」を知らずに仕事をすることは不可能です。つまり、科挙は「土台」なのです。
インターネットもなく、本の流通すら少なかった過去の世界においては、この「土台」を手に入れることは至難の業でした。幸運なことに現代では比較的簡単に手に入れることができます。場合によっては、ネットで検索してしまえば済むかもしれません。しかし、簡単であるならば、手に入れてしまったほうがよいはずです。会話のたびにいちいちスマホを開いて知らない言葉の意味を検索しているわけにはいかないのですから。
結論を言ってしまいましょう。知識は「土台」です。発想や創造性は、土台の上に作るもの。土台があってはじめて生きてくるものなのです。現代の“暗記否定主義”は、この土台作りが行き過ぎてしまったことへの批判から起こっています。しかし、この否定も行き過ぎると、必要な土台の否定にまで進んでしまいます。そして、少なくとも中学や高校で学ぶ知識は土台の域を超えていません。
手で書いて、目で見て、口に出して、完璧に覚えることはとても重要です。“覚えるのが苦手”を通してしまえば、もろい土台しか得られません。そして、大学入試はそこをしっかりと突いてきます。躊躇無く覚えましょう。(保護者の方は覚えさせましょう)。とかく暗記偏重と言われる社会系講師として語ってみました。
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