前回の記事の「草食系」でも話しましたが「最近の若者」が恋愛など人間関係で淡白になっているのは確かだと感じます。
考えてみれば恋愛ほどナマナマしい人間関係はないわけで、そこには愛憎うずまくドロドロとした情念のからみ合いが見られます。
当然理性や合理的計算の通用しない、感情の世界だからこその悲喜劇も生じることになります。
さて、若者ウォッチャーの私からは今の若者たちはこのような非合理なドロ沼恋愛劇(笑)から、注意深く距離を置いてるように見えます。
草食系はやはり元気がないのか//
草食系は情熱が乏しいのか//
そんな疑問もわいて来ます。
確かに恋愛につきものの、独占欲、嫉妬、激しい欲望は昔の若者ほどあらわではなく、もっとクールにふるまって見えます。
それは以下のように特に恋愛の終わり方に顕著です。
私: (若者男子に)彼女いるの?
若者:前はいたんですけど今はいません。
私: 別れたんだ。
若者:ええ。忙しくて中々会えないうちに何となく会わなくなって…
このように「何となく会わなくなって別れる」というパターンが男女ともに多い。
私たちの若い頃にはあまり考えられない現象ですね。私たちの頃は失恋というのは大変な悲劇(笑)でした。
まあ、泣いたりわめいたりの愁嘆場になるのが普通というかお決まりのパターンだった。
当時は失恋を苦にしての自殺(特に女性)も多かった記憶があります。
それくらい若い人たちの間で「恋愛」の占める比重は高かったといえます。
この新旧若者間の「恋愛の比重の軽重」はどこから生じるのか、私個人の体験も交えて今回と次回にわたってちょっと考えてみたいと思います。
なお、ここから先は「教育者としてどうよ…?」とか「道徳的にちょっと…」という表現も含みます。
なので「教育者とは立派な人格者であるべき」という観念をお持ちの方、及び道徳的潔癖症の方はスルーお願いします。
昔々といっても1960~1970年代に青春時代を過ごした私たち。今と違って細分化された趣味の乏しい時代でした。何しろスマホもメールもゲームもない。
そんな私たちにとって「恋愛」は、大人になるための最も待ち遠しい、誰もがあこがれる夢の体験であったのです。
まあ、一種の通過儀礼のようなものですね。
この時代、若者にとって恋愛に至る前段階としてロマンチックな映画や小説
から入っていくのが一般でした。
高校~大学にかけて流行った映画といえば、ダスティンホフマン主演の「卒業」とか「ある愛の詩」後に布施明と結婚したオリビアハッセー主演の「ロミオとジュリエット」など。
小説なら私の場合「野菊の墓」から始まり、トルストイの「復活」やスタンダールの「赤と黒」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」と進み、漱石の「それから」「こころ」など主に恋愛をテーマにしたものを読みふけりました。
あっ忘れてた! レイモンラディゲの「肉体の門」もドキドキしながら読みました。
女の子は同じトルストイの「アンナカレーニナ」やちょっとオシャレな子はフランソワーズ・サガンの本などを読んでいた記憶があります。
男女共に大学に入る頃までには、こうした恋愛映画や小説に刺激された「恋へのあこがれと期待」で頭と胸はハチ切れんばかり(笑)になっていたわけです。
何しろ娯楽少なかったからねー。
こうして「恋愛」への期待満載の男女が実際に遭遇するとどうなるか。
もうお分かりですね(笑)。
恋に恋する時期が長かっただけに妄想エネルギー炸裂
(!)の悲喜劇が起こるわけです…。
それが大体大学時代。多くは大学デビューですからね。
私の場合でいうと、それまでのロマンチックな女性へのあこがれと「早く現実の彼女が欲しい」という切羽詰った(笑)欲望に分裂してしまいました(恥)。
そして「欲望」が徐々に勝ってくる。
要するに前回紹介した、草食系の定義に出てくる「ガツガツと異性を求める…」「ギラついた欲望」全開の旧世代男子の典型ですね。
しかしそうは言ってもなかなか女性に接近することは難しい。
どう声をかけ、どう誘うのかキッカケが必要なわけで、実際の行動は意外とためらわれる。
そんな時、悪魔のささやきとも言うべき声が聞こえてくるのですね。
この続きはまた次回に…。