私はアルバイト時代を含めると塾の先生を35年近くやっていることになります。
その間高校でも教えたり家庭教師もやったりと思えば随分長く人に勉強を教えてきたことになります。
そこで一つ言えることがあります。
それは、「勉強は教えてはいけない」ということです。
教えるという行為はどんなにキレイごとを言ってもある種の強制であり、強制である以上相手の抵抗を呼び覚ましそれを制圧して従わせるという側面があります。
当然教わる方はつまらなくなり受け身となります。
相手が子どもであればあるほど勉強への心からの好奇心、魂からの知りたい欲求は押さえられてしまします。
だから「勉強を教える」という姿勢は教育にとって好ましいものではないと思います。
では教師の仕事とは何でしょう。教えることではないなら一体生徒とどう向き合えば…?
先生にできることは生徒の学ぶ意欲を刺激すること。いったん生徒の学ぶ意欲、知りたい欲求に火がついたら消さないよう、励まし続けること。
下手に教えこんでせっかくの向上心に水を差さないこと。邪魔しないことです。
それだけ?
それだけです。
私が35年の教師生活で得た信念はたったこれだけなのです。
本当は人間は誰でも向上心と知的好奇心をもって生まれてきます。
その芽を摘むのは教えこんでやるという教育システムだといっても過言ではない。
私はそう思っています。
恐らくほとんどの人は学生時代の勉強はつまらなかったと感じているでしょう。
少し大げさに言えば日本人の大部分が子ども時代に勉強に関するトラウマをもっているのではないでしょうか。イヤイヤ勉強したという。つまらないけど試験のために仕方なくがんばったという記憶を皆もっているのではないでしょうか。
結果として多くの日本人は、勉強とか学歴とかに異常なコンプレックス(この場合過度のこだわりとか心の傷)を抱えてしまっている。
そして日本人の教育トラウマは見えない国民病として日本人の思考行動に深刻な影響を与えている。
私にはそう思えます。この私の認識は間違っているでしょうか。
子どもに限らず人と話すと「勉強」=「つまらない」が当り前の事実としてインプットされていることに気づきます。
またその実質的意味を失ったのにまだまだ学歴神話に多くの人は支配されているのが現状です。
そのことは中学受験の異常な過熱ひとつ取っても容易に見てとれます。
(ただし中学受験加熱に関しては学歴だけではない別の原因もあるが、そのことはいずれ話すことになると思います。)
これらのことは本当に残念なことだと思います。
というのは勉強というものが日本においては不当に貶められていると感じるからです。
今こそ真実に気づく時です。一切の偏見をぬぐい去り、トラウマに曇らされた眼から心の覆いを取り払って、純粋でクリアな気持ちで勉強というものを見つめてみましょう。
幼児のような気持ちを思い出して下さい。
何でも知りたかったあの頃。知ったときの喜び。心の底からわき起こる意欲。
その曇りのない心で見た時私の言葉の意味が分かります。
勉強って面白いもんだぜ!
この勉強って面白いもんだぜという気持ちをもった教師が生徒と向き合うこと。
それがさっき言った生徒の意欲を刺激するという言葉の意味であり、それしか教師にはできることはないのです。