現存十二天守巡り、最後の一城、越前丸岡城に行ってきました。
越前丸岡城は1576年に柴田勝家の甥の柴田勝豊が築いた城で、以後、安井氏、青山氏、今村氏、本多氏、有馬氏が歴代城主を務め、明治維新まで続きました。
その後、堀は埋められ、天守以外の建物も解体され、天守だけをのこして公園として整備され、現在に至っています。
野面積みの石垣に二重三階の望楼型の天守は、現存十二天守の中でも最も古い建築で、正確な建造年は不明だそうですが、安土桃山時代に建てられたとも推定され、犬山城天守とどちらが現存最古かという論争もあるのだとか。
古いだけあって、天守内部の階段も最大級の急角度。
ロープまで張ってあります。
天守二階。
外から観た破風のところに破風の間があります。
こんな小部屋、趣味の部屋にほしいです。
天守三階。
天井板がなく、屋根の骨組みが剥き出しです。
外には出られませんが、窓からは360度、福井平野の眺望が楽しめます。
狭間からちらりと見える屋根瓦はこの地で採れる笏谷石の石瓦だそうです。
鬼瓦も笏谷石。こちらは阿形。
反対側は吽形になっています。
天守入口には笏谷石製の鯱も置かれていました。
元々の鯱は木彫銅板張りでしたが、昭和15年~17年の修理の際、戦時下で銅板の調達が難しかったためにやむなく石製にしていたのだそうです。
現在は、再び木彫銅板張りの鯱に戻されています。
丸岡城には悲しい人柱伝説も残されており、天守の側にその慰霊碑が建てられていました。
柴田勝豊が築城した際、天守の石垣が何度積んでも崩れるため、人柱を入れるよう進言され、二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていたお静という女性を、子の一人を侍に取り立てることを条件に(結局、この約束は果たされず...)、天守の中柱の下に埋めたのだそうです。
こういう生々しい人柱の話を知ると、仕事で軽々しく「人柱」なんて言えません。
丸岡城は、戦前、国宝に指定されていたそうですが、現在の文化財保護法の下では重要文化財指定となっています。
昭和23年の福井大地震で天守が倒壊し、昭和27年~30年に修復再建されたそうですので、その影響なのか、あるいは建造年が不明だからなのかわかりませんが、現存最古とも言われるくらいの天守ですから、国宝になっても不思議ではないように思います。
数年前に松江城が国宝になりましたが、この丸岡城でも、この茶屋に看板が掛けられているように、国宝化の機運が高まっているようです。
さて、この茶屋、「一筆啓上茶屋」というちょっと変わった名前ですが、
徳川家康の家臣、本多重次が陣中から妻へ宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」という手紙に由来しています。
本多重次は江戸時代の初代丸岡藩主である本多成重の父であり、この手紙に出てくる”お仙”が成重なのだそうです。
この簡潔にして思いの籠った手紙をモチーフにして平成5年にスタートしたのが「一筆啓上賞」という手紙のコンクールで、丸岡城のすぐそばには、これまでの応募・入選作品などを展示する「日本一短い手紙の館」があります。
丸岡城の入場券は「一筆啓上日本一短い手紙の館」の入場券もセットになっていたので、こちらも少し見学してみました。
(ちなみに、この入場券には、丸岡の特産品である越前織のしおりが付いています。特産品の宣伝にもなっていいアイデアですね。)
さらっと拾い読みしたくらいですが、じんとくるものやくすっと笑えるものがあり、面白いものですね。
2階に上がると、丸岡城も見えます。
丸岡城は桜の名所でもあるそうで、冬の雪景色もまたよさげ。
また違った季節に訪れてみたいですね。
さて、これで現存十二天守はすべて見ましたが、次はどういう城に行きましょうか...