昭和史の逆説 (新潮新書 (271))
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昭和初期、とりわけ昭和一桁から20年までの十数年。
司馬遼太郎さんは「この国のかたち 」の中で、この時代のことを”異胎の時代”と呼んでいます。
こんな風にも語っています。
”あんな時代は日本ではない”と灰皿を叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にはある。
歴史というものは遺伝学的な連続性を持つものですが、この十数年間については非連続の時代であった、つまり長い日本の歴史の中のいかなる時代とも性質を異にしているということです。
(「この国のかたち」というシリーズはこの”異胎の時代”を経験したことがきっかけで生まれたそうです。)
司馬さんをもってしても説明のつかない時代。
国全体が”どうかしていた”時代。
何が、誰が、この国を悲惨な戦争へと導いたのか...(歴史教科書を含む)多くの歴史書は、その全体像をとらえようとします。
そんな時代を、国政の中心にいた政治家たちの思考、行動のみにスポットを当て、半ば歴史小説的に振り返っているのがこの「昭和史の逆説」です。
山東出兵から太平洋戦争まで、様々な制約を受け、苦悩しながらも、国際協調、戦争回避に向けて自らの持つ権限の中でギリギリまで交渉を続けた彼らの実像がここには描かれています。
”それでも破局を迎えたのは、彼らの猜疑心や判断の誤りのせいである”と著者は言います。
ただ、当時と今とでは国内も国外も全く情勢は異なりますが、政策決定プロセスにそう差があるようには思えません。
それでも戦争を避けられなかったのは、軍部の暴走と、その結果としての中国戦線における戦勝、そして戦争がもたらす好景気が、マスコミや国民を昂揚させ、戦争支持へと傾倒させたためである...こういう見方があることを安易に否定することはできません。
戦後世代のわれわれにとっては、”自分には関係ない”歴史と考えがちな戦前の日本。
しかし、この時代は、誰もが戦争などあり得ないと思っている現在、そして将来の日本についても、ちょっと歯車が狂えば再び道を誤る可能性があるということをも示唆しているということだけは、しっかりと認識しておかなければなりませんね。