倉敷の後は伯備線、吉備線経由で岡山へ。
その途中、備中高松で途中下車し、備中高松城跡を見てきました。
備中高松城は、織田軍の中国遠征の先鋒として当地に赴いていた羽柴秀吉が、歴史的に極めて珍しい水攻めで陥落させた戦国時代好きの方ならよくご存じの城です。
いや、知らないという方でも、この水攻めの後の話を付け加えるとわかるのではないでしょうか。
この水攻めの最中、京では信長の命を受けて中国遠征に向かうはずであった明智光秀が本能寺に滞在していた信長を討つ、いわゆる「本能寺の変」が起こります。
それを知った秀吉は毛利との講和交渉を急ぎ、城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦に持ち込むと、「中国大返し」と呼ばれる強行軍で京へと引き返し、山崎の合戦で明智光秀軍を破り、一気に天下を取りへと突き進んだのです。
秀吉にとっては思い出深い土地だろうと思います^^
備中高松城は平地の沼沢地の真ん中にある平城で、現在は城跡一帯が公園として整備されています。
右手の森が本丸のあった場所になります。
周りにはハスが生い茂った池や芝生の広場があり、公園の周囲は田園地帯です。
沼沢地の中に位置する平城。時期は梅雨時。
秀吉軍はこの城の南側に堤を築き、近くを流れる足守川の水を引き込んで城を孤立させたというわけです。
ガチンコ勝負よりも、調略を好んで用いた秀吉らしい戦法ですね。
本丸跡には水攻めの様子を記した絵がありました。(クリックすると拡大します。)
信長の野望でも結構使える武将、清水宗治の首塚や歌碑もありました。
公園内にある小さな資料館には、高松城に関する資料が展示してありましたが、中でも驚いたのは昭和60年にこのあたりで発生した洪水の写真です。
あたり一面が水浸しになっている中、本丸跡だけが島のように浮かんでおり、まさに秀吉軍の水攻めを再現したかのようでした。
歴史の中で言い伝えられてきた話の中には事実とは異なる話も多いものですが、この水攻めに関しては十分に信憑性がありそうです。
いやぁ、しかし、片道10分とはいえ、猛暑の中、日光をさえぎるもののほとんどない田園地帯を歩いて行くのは結構大変でした。
脱水攻めにあっているような感じでしたよ(笑)