私は高校、大学とキリスト教系の学校に通っていました。
そのため、礼拝があったり、キリスト教学なる授業があったりと、キリスト教を否が応でも学ばされました。
私自身はキリスト教徒であったわけでもなく、興味があったわけでもなかったため、真剣に勉強したわけではないのですが、それでも妙に印象に残っている話があります。
キリスト教の学習教材といえば「聖書」なわけですが、その聖書(新約聖書)の中に書かれている「タラントのたとえ」と言われている話です。
以下に全文を引用します。
マタイによる福音書第25章14節~30節
また天国は、ある人が旅に出る時、その僕(しもべ)どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを与えて、旅に出た。
5タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに5タラントをもうけた。
2タラントの者も同様にして、ほかに2タラントをもうけた。
しかし、1タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をはじめた。
すると5タラントを渡された者が進み出て、ほかの5タラントをさし出して言った、「ご主人様、あなたはわたしに5タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに5タラントをもうけました」。
主人は彼に言った、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。
2タラントの者も進み出て言った、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。
1タラントを渡された者も進み出て言った、「ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさないところから集める酷な人であることを承知していました。
そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます」。
すると、主人は彼に答えて言った、「悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
それなら、私の金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、私は帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、10タラントを持っているものにやりなさい。
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
この役に立たない僕を外の暗いところに追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
この話は”主人と僕”を”神と人間”、”タラント”を”才能”と置き換えて解釈されています。
つまり、人間誰しも神よりかけがえのない才能を賜っているもので、それが多かろうが少なかろうが、積極的に生かそうとする人間を神は祝福するというような解釈となります。
しかし、これをあえて”主人”を”雇い主(または顧客)”、”僕”を”自分”、”タラント”をそのまま”お金(資産)”とすると、投資、もっと大きく広げると資本主義の本質とも解釈できます。
つまり、与えられた(稼いだ・貯めた)お金が多かろうが少なかろうが、それを積極的に生かすことが喜び(リターン)を生むと...
私が今、積極的に株式などに投資をしているのは、実はこの話が原点であったりするのではと思う今日この頃。
キリスト教を勧めるわけではないですが、聖書の話は結構人生の役に立つものです^^
ちなみに、芸能人のことを”タレント”と呼びますが、この”タレント”の語源はこの”タラント”であり、それが”才能”を表す”タレント(talent)”という英語になり、やがて芸能人を意味するようになったのだとか...