9月4日
朝7時起床。
シャワーを浴びて7時半から朝食。
昨日時間予約させられたのだが、時間通りに出てきた。
30人ほど入れる食堂だが、客は僕を含めて4人。
食事は、パン4つにハム、サラミ、スクランブルエッグにオレンジジュース。

食後、宿の人にチェックアウト後も荷物を預けられるかと聞いて、市内を散策する。
だが、朝のせいか、それとも単に観光都市ではないせいか、街の景観や雰囲気に魅かれるわけでもなく面白みに欠ける。


建築あれこれ


建築あれこれ


午後3時前にコシツェを立つ予定を早めて、午前11時前の電車でブダペストに行くことを決める。

午前10時にチェックアウトして、そのままコシツェ駅へ。

午前10時44分発の電車を探すもないとのことなので、ブダペスト行きの違う電車に乗る。

午後3時半前、ブダペスト東駅(Keleti pu.)に到着。

ブダペストはハンガリーの首都で人口約200万人、通貨はフォリント(Ft)で1Ft=約0.65円。

ホームに降りると今までの2カ国と違って蒸し暑い。
そして、駅構内で日本人を数人見かけた。

地下鉄、バス、トラムが乗り放題の1週間券(Hetijegy)を4000Ftで購入。
ちょっと高い気がする。

便意を催すのを我慢しつつ、午後4時、HomePlus Hostelにチェックイン。

5人部屋で1泊16ユーロ。

しかし、チェックインするときに受付のお姉ちゃんに「ブダペストのこと知ってる?」と言われ、「よくは知らない。」と答えたのがいけなかった。

お姉ちゃんは地図やガイドブックを取り出して、簡単に説明してくれると思いきや、
しゃべるしゃべる。

結局、最後まで我慢できず、途中でトイレに駆け込んでしまったが正解だった。

その後も説明が続き、時計を見れば16時半を回っていた。

荷物を置いて、西駅(Nyugati pu.)横のWestend City Centerに入っているお店で夕食を済ませてから、宿のマスターが夜景のおすすめスポットとして教えてくれたゲッレールトの丘(Gellrt-hegy)に向かう。

ちょうど日の入りの時間帯だったの橋を渡りながら、ブダ側とペスト側を分けている500m近い幅のドナウ川とそれを架けるくさり橋(Szechenyi Lanchid)の色合いが変化していく光景の美しさにシャッターを何回も切る。

ゲッレールトの丘は標高235m、マスターは「全然危なくないから。」と言ったので暗い一本道を登るはじめるが、周りに人の気配はなく、そして照明がほとんどないので恐怖感にかられながら上を急ぎ足で進む。

ようやく頂上付近に到着すると人がたくさんいた。
どうやら車道が頂上まで来られるようで、観光バスが何台も止まっていた。

頂上から市内を眺める夜景はたしかにきれいだった。

むしろ、香港のように夜景が映えるように照明がコントロールされているかのように連続的に灯りがつながっているようにも見えた。

市内を眺めていると、ふと旅先で知り合ったとおぼしき日本人が数十円単位のお金の清算でもめている声が聞こえてきて、気分が悪くなった。

こういう所にきているんだから寛容になってほしいものだ。

個人の見物客はすくないのか、帰りも人がまばらで足元が見えないくらい灯りのない道を降りていった。

宿に戻ると、気だるさを覚える。
山に登った疲れかなと思いながらも、薬を飲んで早めに寝る。

9月5日
朝起きるも体が熱っぽく、お腹の調子も良くないのでもう少し寝ることにした。

幸い部屋には誰もおらず、どうやら昨日は5人部屋に僕だけだったみたいだ。

10時過ぎにまずは王宮(Budavari palota)に向かうべく地下鉄に乗り、最寄りのモスクワ広場駅(Moszkva ter)で降りると地上に出る長いエレベータにびっくりする。

おそらく100mはあるのではないだろうか。

その後、王宮に入り漁夫の砦(Halaszbastya)から今度は昼の市内を一望する。

ふと3年前に訪れで感動を受けたプラハ市内の景観を思い出すが、ブダペストの景観と共通点があることに気づく。
それは広い川、坂、大きなモニュメントの3つが揃うと壮大な景観が創出されるということだ。

王宮を後にしてブダペスト一の繁華街、ヴァーツィ通り(Vaci utca)を歩く。

しかし、通りを歩いたところで体調がやはり思わしくなく、今日は宿に戻って安静することを決める。

午後2時過ぎに戻り、夕食を近くで取った以外は寝て一日を過ごす。

9月3日
朝7時、起床。

昨夜チェックインしていた女の子は明け方にチェックアウトし、2日前から泊まっていたメルボルン出身の子も朝6時頃チェックアウトをしていたので、すでに1人だった。

朝食後、旧市街を散策しながら、午前を過ごす。

12時10分発の電車に乗り、次はスロバキアのKosice(コシツェ)を目指す。
本来クラクフの次は一気にハンガリーのブダペストに行く予定だったのだが、電車で10時間余りかかるので、それならばとせっかくスロバキアを通るのならと途中下車して1泊過ごすことにしたのだ。


建築あれこれ


ワルシャワ→クラクフ間と同じ6人掛けのコンパートメントで、今回はワルシャワから10日間の休暇を利用してルーマニアに向かう途中の30歳くらいのポーランド人としばらく話した。

ワルシャワでSEをしているそうなのだが、ワルシャワは住むには退屈な街とかポーランド語とスロヴァキア語はほとんど同じとか言っていた。

中でも僕がこれからブダペストに行くことを話すと、「ハンガリー人はアジアだよ。」という言葉が印象的だった。

18時ちょうど、コシツェ駅に到着。
彼も今夜はコシツェの友人宅で1泊するというのでホームで別れる。


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その後すぐさま翌日のブダペスト行きのチケットを620SK(約3300円)で購入。
ワルシャワ→クラクフ、クラクフ→コシツェがそれぞれ約5000円だったので、
距離がそれほど変わらないことを考えると安いのでは、と思った。

コシツェはスロバキア第2の都市で人口約20万人、通貨はスロバキア・コルナ(SK)で1SK=約5.2円。

駅を出て、中心部へ向かうも建物の状態からポーランドよりは経済的に豊かでないことにすぐ気づく。


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そして、Guesthouse nad Bankouにチェックイン。
http://www.penzionnadbankou.holiday.sk/

どうやら個人経営の宿のようで、英語の話せる息子らしき若者が応対してくれた。

シングルの1人部屋で1泊1200SK、朝食は別途150SK。
物価から考えるとちょっと高いような気もするが、観光の街ではないためか事前調査では宿自体が少なく、いわゆる安宿もなかったのでここを予約していた。

荷物を置いて外に出るも、日が暮れていて灯りも少ないので暗い。


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広場でやている演劇に数百人が集まっている以外は、にぎやかな場所がなくお店自体もほとんどないのでTESCOで飲み物と食べ物を調達して早々に部屋に戻って寝る。

9月2日
朝6時半、起床。

前日の酒が頭に残りながらも準備をして8時発のアウシュビッツツアーのバスに乗り込む。

乗客は約40人、僕ともう一人以外は欧米人。

クラクフ市内からアウシュビッツまでの1時間半余り、バスの中でアウシュビッツに関するビデオを見る。
そして、今回のガイドの語学力に驚嘆する。
どうみてもその辺にいる若い兄ちゃんなのだが、英語だけでなくスペイン語、ドイツ語を操って質問に答えていた。

9時半、オシフィエンチムに到着。

最初にアウシュビッツ強制収容所に入る。
朝早いのにもかかわらず、見学者でごった返していてポーランド人の中高生と思われる集団もたくさんいる。

“ARBEIT MACHT FREI”(働けば自由になる)とかかれた門をくぐると3階建ての囚人棟が規則正しく並んでいた。
建築あれこれ


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ガイドに連れられて、主だった囚人棟に入って説明を受ける。

内部には強制連行され剃髪された何千人もの頭髪が部屋一杯に飾られている光景には言葉を失った。

これらは頭髪でカーペットを織るのに使用されたそうだ。

他にも何千何万という人々の靴やカバン、食器などが展示されていて、いかに多くの人々が連行されてきたのかを物語っていた。

そしてそういった展示する棟の廊下には連行されてきた人々の写真が壁を覆いつくすように並べられていいた。

もちろん悲惨さをあえて見せているのもあるかもしれないが、この場所で約150万人もの命が奪われたことに変わりはない。

他にも銃殺に使われた壁やチクロンBという劇薬を使ってガス殺人に使われた地下室を見学。


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引き続きアウシュビッツから約2km離れたビルケナウ強制収容所にいく。

ここでは当時の囚人施設が保存されていて劣悪な環境での生活を送っていたことを示していた。


建築あれこれ


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ビルケナウの見学後、バスで再びクラクフに戻ったのは午後1時半。

その後、市バスに乗り『シンドラーのリスト』の舞台にもなったカジミエーシュ地区に向かう。

ここはかつてユダヤ人のゲットーがあった場所で、シナゴーグや共同墓地などユダヤ人コミュニティの面影を感じることができる。

ただ、戦争でユダヤ人が減ったこともあり、地区の中央市は活気がなく、ひっそりとしている。


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その後、旧市街まであてもなく歩き、街の雰囲気を味わう。

夜は洗濯や宿にあるプレイステーションに興じて過ごす。