まだ綺麗なままの白い翼を白鳥は広げた。しかし、それ以上の何をするでもなく再び閉じる。湖面に映るその姿はため息さえでるほど美しいものだったが、少なくとも彼にとってはあまり意味をなさないらしい。
「やぁ、スワン少年。なにやら物憂げじゃないか」
「伯爵か。いや大した悩みじゃないんだ」
白鳥の言葉にフム、と。くさむらの影から顔を出した一匹のアマガエルが頷いた。というよりも、先程から白鳥の奇行をずっと見ていたらしい。
「まぁ、俺で良ければ話してごらんよ。もしかしたら、解決の糸口くらいは見つかるかもしれないぜ?なに、わらにもすがる思いで良いじゃないか。わらよりは“がんじょう"だと思うぜ」
「うん。……ねぇ、伯爵」
どこか期待するように、白鳥は自分よりもずっと小さいアマガエルを見下ろした。体格差があるのに性格からか、白鳥の方がどこか頭が低い。
「僕は白鳥なんだ」
「知ってるよ。というよりも、君が白鳥でなかったら、一体なんだというんだい?鶴だというのなら鶴に失礼というものさ」
彼らは、彼らなりのプライドがあるからね。伯爵の言葉に白鳥は一つ頷いて、
「でも、僕は少し前までアヒルだったんだ。醜いアヒルだったんだよ」
自嘲するような色を声音ににじませて、なおも白鳥は言葉を続ける。
「僕はあんなにも醜い自分でいることに耐えられなかった。もう、死んでしまいたいくらいだったんだ。あの時は、そのことしか頭になかった。死ねば楽になれるって、そんなことばかりだ」
「承認欲求は誰にだってあるさ、少年。ましてや少年のようにまだ幼いなら余計だよ。今が綺麗だから良い……なんてことはないがね。でも、今の自分を認めてやることで過去の自分も相対的に認めるキッカケになるんじゃないのかい?」
アマガエルのその言葉を白鳥はイマイチ理解できなかったが、少なくともそれが白鳥の必要とする言葉でないのはわかった。ついでに、アマガエルが自分のことを慰めようとしていることも、わかった。
「…違うんだよ、伯爵。醜いアヒルから確かに僕は白鳥になって、仲間外れになることも、外見で嫌われることもなくなったよ。でもさ、」
白鳥は言葉を句切る。言葉を選んでる白鳥にアマガエルはなにも言ってこなかった。ただゲコゲコと喉を鳴らしている。
「でも、僕は……それでもアヒルでいたかったのかもしれない。だって、僕は別に白鳥になりたかったわけでも、美しい姿が欲しかったわけでもない」
それを告白することは、まだ年若い白鳥には少しだけ恥ずかしいことだった。家族から、仲間から辛くあたられたことはお世辞にも幸せな経験とは言えない。
「僕はただ、僕であることを認めて欲しかっただけはずなんだ」
「少なくとも、俺は少年のことを認めているぜ?」
「ありがとう。どうしてだろう。死にたいとまで思ったはずなのに。今、こうしてその悩みが無くなったら、別のことでこんなにも悩んでいる。信じられる?伯爵。今、僕はアヒルに戻りたいとさえ思っているんだ。醜くても、受け入れてくれる人を探したいだなんて思ってるんだよ」
ゲコ、と伯爵は一声鳴くだけでそれ以上ないも言わない。白鳥は言葉を続けた。
「ねぇ、伯爵。次は、僕は何色になったらこの悩みから解放されるんだろう?白色になっても幸せには……なったよ。うん、幸せだ。でも、これじゃないはずなんだ。だって、僕は今、こんなにも悩んでいるもの」
こんなに悩みがあるのに、これが本当の幸せじゃない。
白鳥の呟きに、伯爵は落ち着いた声で言葉をかぶせてきた。
「自分以外の何者にもなれないよ、少年。少年が悩んでいるなら、どれだけ幸せだって悩みがなくなるわけじゃない。少年が幸せを感じないなら、どれだけ幸せだってそれは幸せじゃないんだよ。
“自分じゃない者”になってしまったら、自分の幸せなんて一生わからないよ。悩めばいいのさ、少年。悩んだところで解決しないのかもしれないけど、結局、自分じゃない者には自分の悩みさえ理解できないのだから」
「難しいよ。結局、悩むしかないし、幸せじゃないままなの?」
「ゲコゲコゲコ、俺が“少年は幸せだよ”って言った所で納得はしないだろう?その答えは少年にしか出せないさ。なに、色なんて関係ないよ。少年が少年であることが大切なんだからね。“自分”だからこそわかる。世の中にはきっとそういう類のこともあるんだよ」