冷凝は大きな目で夫秦流風を睨みつけた。
『あ、ああ…実は…盟主から頼まれて…』
冷凝は生まれたばかりの清流を抱いている。
『白盟主が何の用だ。』
『心配なんであろう…春花殿が』
『心配…とは…それは…白盟主はまだ春花殿を…』
『それはそうであろう?初めて心を動かされた女子なのだ…世の男にとってそれは永遠に忘れられぬ幻だ。』
『ふん…そなたはどうだ?誰が忘れられぬのか?しかし、本当に秋月は大丈夫か?』
『なっ、我妻は何と言う分かりきった質問を夫にするのだ?私の永遠の女子は妻凝しかおらぬ…で、大丈夫とは?どういう意味だ?』
『永遠?わざとらしい事を言うな!。大丈夫かと言うのはあやつの力は、本当になくなったのかと…本当の事を言えば魔教とはあまり関わりを持って欲しくない。あやつが改心したとはとても思えないからな。いくら春花殿が隣にいてもどう言う人間だかよく分かっている』
流風は妻の不信に溜息を漏らした。
『冷凝、分かっているつもりになっている場合もあるぞ…少なくとも我らは正道である事を免罪符にして正道らしからぬ事もしてきたのではないか?魔教だ正道だとはもう分断出来ぬほど人々はそのどちらもを併せ持っている。』
『なんだ?やけに魔教に肩入れするな…だがあの秋月という男を私はどうしても理解ならんのだ…』
『確かにそうだが…そうだ、実際に見てみるか?たまには一緒に行こう。風彩彩も誘えば良い…ただ、盟主は来ぬだろうがな』
『当たり前だ…春花殿が残した傷はまだ癒えておらぬのだろう?実際今日は何の用事なのだ?』
『…それがな…千月洞にある薬の材料が必要で李漁が盟主に相談したそうだ。忙しいのもあるが春花殿にはまだ会う事ができぬようだ…だから私が頼まれた…』
『ああ、確かに薬の材料は死ぬ程ありそうだな』
そういって事情に納得した冷凝は涼しい顔で笑った。
伝奇谷ちかくの深い森を抜ける。彩彩も冷凝も武人である。これくらいなら乳飲児をつれても難しくはない。李漁は医聖との薬草摘みで山歩きは慣れている。珍しい草などを手に取りながら歩いた。
『彩彩、私は上官秋月を信用してはおらぬ。だが、春花殿は…悪い人間ではない。
武人ではないし我々とは相容れぬ部分はあるが、女子の身としては理解できる。だが春花殿にはどうしても聞きたい事がある』
『私も…一度ゆっくり話したかったの…』
『秋月はあまり人前には出て来ぬ。今日も姿は見えないかもしれないが…春花殿なら出て来てくれるだろう』
森を抜けると傅楼游絲の花畑が広がる。目も覚めるほど鮮やかな花々が咲き乱れ風がゆっくりと流れ甘い香りを漂わせ不思議な空間を作り出していた。
『なんだこの美しい花畑は…ここは桃源郷か?』
『ああ、ある意味そうであろう…誰にも邪魔されずに寄り添う2人にとっては』
『……こんな場所があったとはな』
暫く進むと霞深く、道もよく見えなくなり獣道を進む。
『妖でも出そうだな…』
心細さに李漁が呟くと直ぐ傍の木々は強い風に枝を揺らす
『妖とは私の事か?』
『!!』
大木の後ろから現れたのは正に今日の目的の人物であった。
『上官秋月!!何だ突然』
『ふん、何だとはこっちの台詞だ。何人も束になって殺気立てて迫ってくれば警戒して見回るだろう?何だ今日は』
『誤解があっては困る。決して殺気立ててはおらぬ。今日は李漁が薬湯に使う薬草が欲しいらしいのだ』
『なんだ、護衛を3人も付けて来たのか?』
『すみません…私は武人ではありませんので…流石に単独ではここまでは…』
『薬草なら鳳鳴山荘で育てれば良いではないか…苗は幾らでも葉顔に言えば分けてくれるだろう秦流風の従兄だと聞いたが?』
『そうだな。ちょっと葉顔に言ってみよう…いや、待て。千月洞にはまだ無闇に近寄れぬ…先日もまた小さな小競り合いがあったそうだな』
『洞主が変わってすぐは仕方あるまいよ』
秋月は当然の事だと顔色も変えずに言った。
元は江湖統一の直前に功力を引き換えに春花の命を救ったその選択にこそ千月洞の混乱の原因であったがさも当然とばかりに話す口ぶりに流風は聞き入った。
『…秋月め髪の色が変わった位でなんの変化があるのだ?あやつの殺気こそ変わっておらぬではないか』
『シッ冷さん…声が大きい』
彩彩に咎められても悪びれもない冷凝。
『…して、今日は妻と子を連れてどうした?それにあれは風千衛の聡明で父親より気骨のある娘彩彩ではないか?』
『あの…春花さん。赤ちゃん生まれたんですって…それでちょっと…見に来ました』
風彩彩は秋月の一瞥に瞬時に緊張をその身に纏う。
『ああ、そうだ…雪蘭が少し乳の飲みが悪いと春花が心配している。確か李漁の診療を手伝っているそうだな。いつもは葉顔が見るのだがあやつも洞主の務めがある故そうそう手を取らせるわけにもいかぬ。悪いが春花の様子を見てくれぬか?』
『!!!!』
『!!!!』
『!!!!』
『!!!』
『…なんだ?4人ともその顔は』
『あ、いや…まさかお主から頼まれごとがされるとは…』
『医者なら…私が…』
『男には触らせたくないし見せたくない。風千衛の娘で事足りるであろう?急いでくれ…春花を1人にしたくないのでな』
4人は目を見合わせた。
秋月について行くと霞の切れた向こう側に小川があり小さな橋がかかっている。その更に奥に邸があった。
『こんな所に…』
『こっちだ……入ってくれ』
入り口を入ると赤子の泣き声がする
『雪蘭が泣いているようだ…』
秋月は急いで妻の元へ向かう。後を追う3人
『秋月兄様…又雪蘭が…』
秋月が駆け寄ると春花の手の中から雪蘭を抱き上げた。
『雪蘭は私が見るから春花はもう休め…お前に客だぞ』
『まあ!冷凝さんに風彩彩さん。それに可愛らしい男の子?この子が清流なの?』
冷凝に似た凛々しい顔立ちである
『流風…お前は薬草であろう?ここにもいくらか置いてある。持っていけ』
秋月は雪蘭を抱いたまま流風と奥に消えた
『春花さん、あなた少し熱があるわね…ちょっといい?』
彩彩は春花の着物の胸元を緩めた
『ああ、やっぱり…此処が熱を持っている…痛むのではないですか?』
『はい…病気ですか?』
『いえ、産後間もない頃はよくある症状ですよ。ただ、冷やさねばならないから…』
『いたた…雪蘭が乳を飲んでくれなくて固くなってしまったの…怖くてあの人にも言えなくて。。冷やせば良いのね?』
『ああ、あとは炎症に効く薬湯があれば…』
『春花…大丈夫か?結局何だったのか?』
雪蘭を流風に渡し秋月は春花の肩を引き寄せる。
『炎症ですって…冷やして…薬湯を』
言い終わらぬ内に秋月は手に気を集中させ、冷気を春花の胸に当てた。
『秋月!お前やはり功力がなくなったというのは嘘だな』
冷凝は眉を顰めた
秋月は眉一つ動かさずに呟く
『冷気を出すくらいしかできぬ』
『…あの…冷凝さん本当に功力はなくなったの…だけどこうして少しずつ回復していくのかもしれないし、しないかもしれないって葉顔さんが』
『そんな力は回復せぬが良い』
『冷さん!』
『ふん。お前達の気持ちはわかっている。』
『兄上、もう大丈夫よ…ありがとう』
『又痛む時は言うのだぞ』
『ちゃんと言うから心配しないで』
3人の前で見つめ合う2人。
流風は思わず咳払いをする。
『ああ、それにしても、雪蘭は…秋月、そなたにそっくりだな…しかし春花殿にもどこか似ているな…』
『清流はお前に全く似てないな。やはり母親似ではないか』
『何を申すか!清流は我が秦家の顔立ちだ。気品と風流さが漂っている』
『……』
『な、何故笑っておる…』
『まぁ良い、苗を分ければこんな所に足を運ばなくとも良いであろう?』
『あ、ああそうだが…鳳鳴山荘ではなかなか育たぬのだ』
『奥の部屋にある薬草の書を持っていけ…育て方も適した気候も書いてある』
そう言いながら流風と奥へ消えた。
春花達は茶の準備を始めた。
清流と雪蘭は並んで寝かせられている。
清流は雪蘭を見つめ手を伸ばす。
『それにしても…あれが本当に魔教の頂を極めた千月洞洞主だった男か?まるで想像と違うが…』
『……え?どこが?』
『ええ、実は私も冷さんと同じ事を思ってました。』
葉を入れた茶器に湯を注ぎながら2人の言葉に春花は目を丸くした。
『あやつは…もしかして最初から長生果など目もくれてなかったのか?春花殿だけを…欲しがっていたって事?』
『……どうかしら』
『春花さん、何故白盟主じゃなく秋月なの?あれほど春花さんは白盟主を好きで私とも火花を散らしたじゃない?』
『………そうね…なんていうか…あの人凄く孤独なの…配下が何人いても信用できる葉顔さんでさえも信じてなくて…ううん。誰も信用できない人だったのよ』
『ああ、上官恵に厳しく育てられたと…』
『ほぼ幽閉に近い形で…実の母から受けた傷は計り知れない。私だって白が好きだった。結婚するつもりだった。でも、誰に心を開けなくても利用していたのか知れないけど、私にひたすら優しくするあの人を見ていたら…ある時ふと、私が白と結婚したら兄様はどうなるんだろうって…思ってしまって』
『それって…』
春花は頷いた
『結婚式で連れ去られて、白が助けに来る事を願ってた。でも夢であの人が白に鳳鳴刀で刺されるのを見た時…恐ろしくて…目覚めてすぐに何故か涙が溢れたの。あの人に死んでしまってほしくなかったのよ…』
『………では…何度も連れ去られたが何もなかったのか…その…何かよからぬ…婚約者を裏切るような…』
『冷さん…そんな不躾な…』
『良いのよ。疑問に思うのも無理はないわね。
身体は…何もされてはいないわ…でも、正直に言えば私…もう心は裏切ってしまっていたかも知れない』
『心?』
『ええ、口にするのは難しいけど…白を運命の人と思いながら…でも少しずつどこか違ってて。この人の愛は本物なのか分からなくなって…私と正義をどちらを取るかと問われたら多分きっと白は正義を取る』
『それが蕭家に生まれた定めですから…』
風彩彩は擁護する
『ううん。悪いって事じゃないの。多分そうでなきゃ私も白らしくないと思ってしまう。でも、あの人はいつも…兄上は私だけだった。信じられない時も、明らかに私を騙しているのに信じたい。そんな変な感情わかる?騙されてたのが小さな事みたいに思えたりして…麻痺したのかも』
『白盟主を好きでしたか?』
『……好きだった…でも。何かが違う』
『少しだけ…何となく分かります』
『彩彩?』
『秋月は本当はいつも春花さんを見守っていたんでしょ?いつか私…春花さんの部屋で会っているのを見ました。この敵陣に入り込むなど恐れ知らずな事だと気分も悪くなりましたが、何かの時には必ず助けていたと秦流風殿も言っていた。何だかんだいって私達もそれで助かった時もあったんじゃない?あの蒲公英の解毒も秋月に助けて貰ったんでしょ?解毒薬は千月洞にしかなかったんだから…』
『……ええ。私が解毒薬を盗みに行った事も、変な薬を飲ませようとした事も全て承知の上で許してくれた。私が騙そうとした時…とても悲しい顔をして…胸が痛んだ…』
『許し…難しいものだな不信を許すという事は…だが確かに流風がした事なら仕方ないと。場合によるが許したくはなるかも知れぬ』
『冷さん、春花さんが解毒薬を持って来てから街に薬が拡散されたと言っていたわね…あれもきっと…多分秋月が春花さんが私達に疑われないようにしたんじゃないかしら…』
『だが不器用すぎる』
『不器用も何もあの人…愛というものを知らなかったんだから…仕方ないわ。何故いつも私を助けるの?って…百花刧の毒で苦しみの中であの人に聞きたかった。いつも思っていた。「愛してるからだ」って言ってもらいたかったから…言ってもらいたいのは何故?』
『それは…春花殿が…愛していたからか?』
『………傅楼の奥方游絲さんに教えて貰ったの。何をおいても相手を特別に思えるか。何をおいても相手にとって自分が特別なのか。私にとって…秋月は許嫁の敵よ。私を騙してもいたし許せない事もあった…だけど死なないで生きていて欲しい。何処かでずっと身を案じてた…今思えばそれが答えだったのかも…信じられないのに信じたい。そして私の事も信じて欲しい…。どうでもいい人には思わない』
『そうですね。私もいつのまにか李漁がそばにいてずっと…絶えず笑いかけてくれて…尊敬するとかそういう事を無くしても一緒に生きたいと思いました』
『共に生きたい…か。私もだ…流風が隣に居てくれてこその私の人生かも…』
女達は答えを見出し、心が晴れていくのを感じた。
愛とは2へつづく