「次は時間作ってくれるのかな?」
そう言って長身の青年は笑った。
代替わりし新しく社長に就任したという若き青年の瞳はただまっすぐと、開発部の平社員めがけていた。若すぎると社員の間からも聞いていたが確かに。
悪戯な微笑みを向けられ、対処が遅れる。
「時間って…」
「新しい彼氏から怒られるかな?」
「え?」
私の返事よりも周囲がざわつきだす。
それにも増して結衣の驚きは尋常じゃなかった。自分より優位に立たれる事が我慢ならない性格は今の状況を拗れさせるに充分だった。
滲む恨みがましい視線にうんざりする。
この窮地を脱するには腹を括る以外選択肢はない。親しい間柄だという新人社員のカナにさえ目もくれずに話しかける若き社長を前に向き直った。
「申し訳ありません。お応えできかねます…社長命令でないなら強制はできませんよね?
それから、カナさん?この会社の社員ならいくら親しい間柄でも、社長を下の名前で呼ぶのは他の社員の手前もあるしあまり感心しません。あ、もう1つは伊東結衣さん。私のプライベートな事なので言いたくないけど、勘違いされてるから言うわ。私はもう前を向いて歩いています。後ろはふりかえらない主義なの。彼とは貴女が付き合ってるんでしょう?だったらそれで良いんじゃないの?私の事なんて気にかける必要ないわよ。貴女にしては自信なさ過ぎる。私もちゃんと前を向いてますから…」
社長が何故か分からないが大勢の人間の前で親しげな声を掛けるのを警戒するのは至極当然で、その言葉を鵜呑みにするほど世間知らずでもないし、舞い上がるはずもない。
異性には嫌という程辛酸を舐めさせられている。何か意図があって声をかけたならそれに乗るつもりもない。相手が悪かったと諦めて貰うしかない。
結衣もカナも押し黙った。
「おい!この騒ぎは一体何だ?ん?…社長までいらっしゃるとは…何かありましたか?」
私の所属する開発部の部長が人垣の向こうから駆け寄る。資料室から帰らない部下を探しに来てくれたようだった。
「あ、いえ…特にはありません。行きましょう部長。では、失礼致します」
再び若社長に向き直ると一礼した。
「大丈夫か?何かあったか?」
憮然とした表情で廊下を進む私を覗き込む。
「いいえ…大丈夫です。」
「無理するな、頑張りすぎるなよ。倒れられでもしたら俺たち開発部がてんてこまいだ。いつでも休んで良いからな」
いつも、いつでも父親のように見守ってくれる。
「ありがとうございます。何か、、すみません…そうだ。あの、お礼を言わなくちゃ。一馬…いえ杉原さんから聞きました。」
今度は部長が憮然とした表情を浮かべ少しずれた眼鏡を直した。
「あぁ、なんだ。聞いたのか。杉原君に会ったのか?」
「会ったっていうか…その…」
「まぁ、いい。大事な部下を傷つけられて黙って置けなかったんだ…余計な事してすまん」
「いえ、嬉しかったです。杉原さんも父親みたいで羨ましいって言ってたし…あ、そう言えばお子さんはお元気ですか?」
「あぁ、もう大学生だよ。早いもんだ……嬉しいようで寂しいよ」
「??」
「勿論息子の成長を嬉しく思わない親はいない。だがその瞬間、同時に寂しさが襲うんだ…本来ならその喜びを共に喜ぶ筈の妻が隣にいないって事を実感してしまうからな」
長い廊下を歩きながら部長はわたしの手から資料の束を奪うと笑った。
「昔部長話して下さいましたよね。妻は自分の一部になったと思うって…だったら奥様はちゃんと部長の目を通して一緒にお子さんの成長をみていますよ。」
「……そうか。それもそうだな。うん。なんか…ありがとうな。それはそうとお袋さんには連絡してるのか?その…今回の事とか」
「いえ…まだ…」
「いつかは話さなくちゃならないんだからな。2、3日休みとって、実家に帰っても良いんだぞ?休養も兼ねて。あんまり食欲なさそうだって部の奴らが心配してるからな。」
「すみません…何度か連絡しようと思ったんですけど、あんなに結婚を喜んでいたのに悲しませたくなくて…でも、ありがとうございます。みんなにも心配かけて私…情けない」
「うちの部は家族みたいなもんだからな!みんな誰かの心配してるし。気にすんなよ…ほら、、胸張って!シャンとしろ!」
「本当…なんか…お父さんみたい…で、泣け…てきます」
込み上げてくる涙を懸命に押し戻した。
「そっか…確か親父さんは…」
「あ、、はい…小学生の頃に事故で…」
「大丈夫だ、おまえは絶対に幸せになるからな、俺が保証するから!」
沈んだ空気を払拭するようにわざとらしく大口を開けて笑う。部長らしい慰め方に感謝した。
その日の夕暮れ、会社からの帰り道。
母と弟妹達の住む実家に連絡をしようと決心した。
結婚がダメになったなんて、心配するに決まってる…どうしよう。明日にしようか…
考えながら立ち止まり、又一念発起して歩き出す。ふと見つけた公園の中へと吸い込まれた。
暫くはベンチに座っていた。そよぐ風は前髪を揺らす。
見上げると曇天で重苦しい黒雲の直ぐ下を薄く白い雲が速い速度で流れていくのがわかった。
「天気…変わるかな。雨来そう…」
二重の雲を見かけたら天候が変わりやすい。
一馬が教えてくれた知識を思い出し胸が痛んだ。
母親に電話をするただそれだけが簡単ではなかった。長女で長子。強い私が唯一、声を聞いて弱気になるのは母親だけだ。
アドレスから母親をピックアップして後は発信ボタンを押すだけ、、しかし勇気が出ぬまま数分が経過した。
溜息を1つ落とし、気を紛らせようとあたりを見回すと目に留まったドラッグストア。
「あ、買い物しなくちゃ…洗剤切れそうだった…」
そして、ふとある事に気付く。ただ何気なく思い過ぎっただけでその疑問は次々に湧き上がる思いに淘汰された。
母親への婚約解消をどう切り出すかで頭はいっぱいになった。
簡単な日用品を買いレジを通し、店から出ようとした時、店に入ろうとした背の高い少年が扉に手を挟んだ。無理に抜いたのか皮が擦過し血が滲んでいた。
「だ、大丈夫ですか?あ、、と」
少年は傷を見て青ざめていた
「いたた、、」
「大丈夫。擦りむいただけよ。待って…」
幼い弟妹がいたからなのかいつも何処かに絆創膏を持っている。半ば反射的に身体が動くのも弟妹の面倒を見てきた経験によるものだ。
「自動ドアなのに、手を出したら挟まれてしまうから…無理に抜いたのはまずかったわね」
と言いながら手際よく巻く。
「大した傷じゃないから大丈夫だと思うけど…」
「どうも…あの…ありがとう」
少年はペコリと頭を下げた。
いそいそと店内へ入る後ろ姿を見送り、懐かしさを感じた。
やんちゃでそそっかしい弟達を思い出し、やはり今から連絡すべきだと思い直した。
先程迄考えあぐねいていた公園に戻り、意を決して母親へ発信した。
「もしもし?お母さん?」
「めぐ?めぐちゃん?!」
母親の声は娘からの電話で明るい。
「どうしたんね?元気ね?結婚の準備は進んどる?こっちはみんな楽しみにしてるよ」
「いや、あのね…」
「元気ないん?どうしたん?あ、一馬さんは一緒ね?」
「ああ、、えと…お母さん。ごめん、、結婚無くなったの。」
「え?!なんで?どうしたん?…やっぱりあちらさんとは家柄が釣り合い取れんかったから…」
「ううん。違うの一馬は悪くないし。私が我儘言ったんだ。やっぱりまだ結婚なんて早いんじゃないかって仕事も楽しくて…」
「だってあんた一馬さん、仕事は続けて構わないって言ってくれてたでしょう…」
「とにかく、何かしらが色々すれ違い過ぎてこんなんじゃやっていけないって感じで…」
「うちが負担になったんじゃなかろうね?」
「そんな訳ないじゃない!家族が負担になんてなる筈ないし彼もそんな事は言わない。私の…わがままなの…」
「そう…お姉ちゃんが納得して決めたならお母さんは良いよ。でももし負担になってるなら一馬さんにも一馬さんのお父さんにも娘には生活の負担はかけさせないと話をするからね?働きに出てからずっと仕送りしてくれて、お母さん甘え過ぎてて…それが原因ならどうしたらいいか…」
「お母さん。それは違うでしょ。お父さんが亡くなって、女手一つで私達育ててくれて…私も働きに出たんだからそのお手伝いさせて欲しいの。可愛い弟や妹の、お母さんの助けになるなら負担でも何でもない。一馬の事は私の完全なるわがままだから…ごめんね」
そして他愛もない話をして電話を終えた。
どっと疲れが出た。
それからは仕事に根を詰めた。
毎日がめまぐるしい。というより、わざと自分を忙しくさせていた。何も考えずただただひたすら1日を終えたい。そうして日々を重ねれば自然と傷も痛まない。時間薬ってこういう事なのか。
誰にも会わずに一目散に退社する。
今はまだリョウの事も考えなくて済むようにしたかった。
気にならないと言えば嘘になる。会いたいか会いたくないかと言えば会いたい気持ちもある。些細な事でもこんな事があったよって話したくなったし怒りの感情が持続しないからか少しばかり時間の経過で絶望感は落ち着いていた。
いつのまにか季節は秋から冬に変わり足下の枯葉がカラカラと音を立てて転がる。
突然の木枯らしに身を縮めた。
最近やたら新社長を見かける。新社長と呼ぶけど実際はまだまだ代理で勉強の途中との事。
とは言え彼を見かけるのは会社なのだから当然だが重役フロアではなく開発部のあるフロアで見かける事。たまにふらりと覗いている。仕方なく無視する訳にもいかず会釈すると無愛想にそれを返し背を向ける。
部内では一体何を見にきているかでざわついている。開発は活発に活動しているし改善を要求される様な箇所はないはず。
そんな事を考えながら今日もようやく帰路につく。
前方に見えた人影に立ち止まる。
「めぐ……」
「……」
立ち尽くすリョウを横目に無言で通り過ぎようとする。
「ちょっと待って、めぐ…」
掴まれた腕が熱くなる。
「離して!顔…見たくないのよ」
発した言葉は、本当は逆だった。
彼の腕を振り払うと、一瞬リョウは傷付いた瞳を見せた。
「でも…話聞いてほしい…オレ…」
「今…話したくない」
ピリピリとした空気が流れた。
でも、本当は会えて嬉しい。そんな気持ちも生まれていた。会えて嬉しい=会いたかったのだと思い知らされた。
「めぐ…」
何かを言いかけた彼は私の背後を見ると険しい表情をする。
「あれ?こんなところで誰かと思ったら、婚約者に捨てられた方と、私の未来の旦那様?だからしつこく追いかけまわさないでほしいんですけど…」
「カナ…又お前。なんなんだよ」
明らかに怒りと辟易した様子で吐き捨てた。
「何だよってこんな会社の近くで騒いでたら嫌でも気づくわよ恥ずかしいと思わないの?」
「恥ずかしい?全く思わない。おまえこそ何度邪魔するつもりだ?ストーカーかなんか?」
「私午後から秘書課から受付に回ったの。勉強の為だって。だから貴方が立っていたのも見えてたし、その人が歩いて行くのも見てたから」
「いや、それって…秘書課から体良く追い出されたんじゃないのか?仕事真面目にしてくれよ。新社長が困るからな。それより、婚約なんて嘘だってちゃんと説明しろ」
「えー?そんな事言われても私に何のメリットある?」
馬鹿馬鹿しい罵り合い。
「あの、ごめんなさい。仲良いのは分かったわ痴話喧嘩始まるなら私は失礼するわ」
「めぐっ…待って…」
次に掴まれた腕は優しかった。一馬のように攻撃的ではなく…求める心が流れ込んでくる。行かないで欲しいという気持ちが伝わる。
「離して!しばらく会わないでいましょう?」?
絆される訳にはいかなかった。
それでは一馬の時の二の舞でしかない。あんな苦痛は1度でも十分すぎる。
タイミングよく街路樹の脇に停車した車から降り立った男性がこちらに向かいリョウから奪うように引き離した。
「大丈夫ですか?」
「お前!」
一瞬の出来事に驚くリョウは表情を強張らせた。
「え?!ちょっと!なんで?」
目を白黒させ叫ぶカナを尻目に男は私に穏やかな口調で問う。
「え?あの…」
声を上げる間も無く素早く私を誘導し車に押し入れ、明らかに高級車と思しきドアを静かに閉めた。
「ちょ、ちょっと…何ですか?強引に車に乗せて…一体何の権利があって」
「社長の権利ですよ。社員の安全の為にですけど何か問題でも?…君、出してくれ」
運転手に合図を送る。
振り返ると青ざめたリョウが立ち尽くしている。
「はい。かしこまりました」
私の意思とは関係なく進み出した。
「出すって?どこに行くんですか?私はどこにも行きませんよ。私が何かしたんですか?もしかして何か失礼したから?会釈がいけなかった?もしかして土下座かなんかした方が良かったのかしら」
社長はただ前だけを見つめ溜息をつくと冷たく一瞥する。
「これ、拉致ですよね?社員を?何でこんな目に…」
「ちょっと静かにできないか?…あんまりうるさいと…その唇塞ぎたくなるから…」
聞いていた年齢より落ち着き遥かに大人びた雰囲気で不敵に笑った。
「く…塞ぐって、、セクハラです!」
「ん?」
「ちょっとっ。離れてください。なんでそんな近付いてるんです?」
「いや、だから期待に沿うつもりで唇塞ぐタイミングはかってるだけだけど…」
「そんなっっ。なんで…」
一生懸命に拒絶する
「傷付くな…そんなに嫌がらなくても…」
「嫌がるに決まってます。私は家に帰りたかったんですよ?何処にも寄り道する気もないしむしろ引きこもりたい気分なんです。」
「引きこもりたいって…ストレス?社員のストレスは対処しないと」
益々近づく。
「今の今がまさにストレスです」
「この前のカナの騒動の時も思ったけど…なかなかハッキリしてるんだな。初めてのタイプだ」
「タイプなんか知らないので、もうこの辺で降ろしてもらいたいんですけど…」
「いや、この辺りに駅はないし。すぐそこだから…ちょっとした提案をしたいんだ」
「提案?それなら今して下さい。」
「…つれないな…さっきの男から救ってやったのに?」
「いや、あれは別に…何かされていたわけじゃなくて…」
リョウとのやりとりを見られていた恥ずかしさにしどろもどろになる
「知り合い?」
「…知り合いって言うか…」
「なに?」
「…好き……な人です」
「へぇ、好きな人……そこもはっきりしてるんだな。面白い。婚約者が秘書課の女に取られたって聞いたけど?」
「……答えたくありません」
膝に乗せた手にギュッと力が入る
新社長は眉を顰めるとこちらには見向きもせず窓から見える景色へと目を向けた。
「………提案は何ですか?」
「そんなに答えを急がなくたっていい。夜は長いんだし…」
車は静かに高級住宅街へ進入していた。
どこも一般的な住宅よりワンランク上の佇まいが続く。
信号待ちでドアを開けようとするもロックされている。
「諦めた方がいい…僕から逃げる事はできないから…」
「はぁ、もう良いです。分かりました」
観念したように後部座席の背もたれに体を預けた。
目まぐるしく移りゆく景色。
抵抗しても無駄。
ここは何処だろう。
豪邸の前で運転手が慌ただしく操作すると目の前のセキュリティゲートが開く。
そして車は中へと消えていく。
停車し先に降りた社長が回り込むと後部ドアが開いた。
そういう扱いに慣れていない私はドアが開いた瞬間に今来た道に向かって走り出そうとした。が、やはり簡単に捕まってしまった。
「だから。ダメだって…逃がさないから…何で逃げたいの?さっきの男がいやだったんだろ?」
掴んだ手首が鈍く痛む。一馬の痕はもうとうに治っている筈なのに…
リョウの事が嫌だった訳じゃない。会いたい気持ちと裏切られた気持ちがひしめいて整理がつかなかった。
リョウの姿が見えるだけで嬉しい。なのにそのあと不安と、婚約者と言うカナの出現や一馬に捨てられた哀れな女の話を他人にしていたことへの不信感に幸福感はすぐに消える。
「それとも…なにかのプレイ?」
「は!?何ですか?何なんですか?提案てなんです?社長と言えどこれは誘拐ですよ?」
「誘拐?心外だな…目の前でストーカーに遭った我が社の社員を救ってその言われ方…あ、さっきのやつドライブレコーダーに映ってるかな。通報しといた方が良いな」
「ストーカーじゃなくて!ただ、ちょっと…私も素直じゃなくて悪かったけど…でも嫌がってた訳じゃなくて…なんだろ。とにかく彼は普通の人です無害!」
「いやぁ、俺からしたらかなり有害だ。提案の前に社長って嫌な呼び方辞めて欲しいな。」
「は!?知りませんよ社長の名前なんて」
「酷いな…社長の名前も知らないなんて本当に社員か?」
「いやいや、呼びませんって事ですよ!」
「じゃあ、、知ってるんだ?名前」
「……石田…」
「苗字はわかるだろ!わざとか?うそだろ?」
目を見開いて笑った。
まるで少年のようで驚いた。妙な既視感を覚える…
「え?ちょっ、、これ…」
手を掴むと目に近付けた。人差し指に巻いた絆創膏に見覚えがあった。
「バレた?」
「え、、あれ。あの鈍臭い子って社長?」
「どさくさに失礼だな。そうだよアレは俺。日本の自動ドアのタイミング、あれ遅くないか?」
「アメリカの自動ドアの速度なんて知りません」
「あはは!会社帰りにランニングしようと思ってさ…そしたら水がない。とりあえずドラッグストア見つけたから入ろうとしたら…あれだよ。痛かったけど…」
絆創膏をにこやかに見つめていた
「それより、俺の名前!わかった?もしかして本当に知らないとか?」
「いえ、違います……ええっと、、シュウ!シュウ…うーん。」
昼間の事件の時にカナが一瞬名前を呼でいたのを思い出した。
「修二だ」
「あぁ、だからシュウちゃん?」
「そう。」
「あ、すみません…で、提案とは?」
「こんな庭先で話す事じゃないけど…家には…」
「入りません。ここで聞きます」
「……じゃあ、、、」
咳払いを挟んでこちらに向き直ると
真剣な目で告げた
「結婚しないか?」
「は!?」
「いや、、付き合うだけでも良い…けど悪くないだろ?公園でさ、話してるのちょっと聞こえて…泣きながら…破談になった相手を庇ってただろ。そして相手は多分…家族?」
「え?盗み聞きしてたんですか?信じられない」
「声が大きすぎて耳に入ったの!失礼だな本当に。プライベートな内容そうだからすぐにその場は離れたけど…気になって」
「……」
「世話焼きだし、絆創膏いつも持っている。人のせいにしない。なんか今迄見てきた女性のイメージが崩壊したよ。
衝撃だった。それで少し調べたんだ。君の家はあまり裕福じゃない。沢山いる弟妹のために仕送りをしたり…だからメリットばかりだと思うけど?」
「え…とすみません、ちょっとよくわかりませんが…ほぼ初対面で…結婚?それに人の家庭を勝手に調べて何を考えてるんですか?付き合うなんてもっと無理ですごめんなさい」
「……そうくると思った。けど、断られるのって慣れてないんだ。NOは受け付けられないから悪いけど…」
力強く押さえ込まれ、顔が近づく
「え!?や、、やめて下さいっ」
「…目…閉じろよ」
あぁ、もう無理だ。力では敵わない…
そう思った瞬間だった。
「そこまでにしろ!修二…」
声に驚く
「兄さん……」
「え??」
「めぐが嫌がってるだろ?離せ…」
「リ、リョウ?…え?兄さん?」
「めぐ…こいつがごめん…」
リョウは社長から私を奪いとるともう一度震える声で呟いた
「ごめん…」
「良いところで邪魔に入る。いっつもこうだ…こんなとこで話すのもなんだから2人とも中に…兄さん良いだろ?今日は…あの人もいないから」
「……あぁ」
「ちょっと!シュウちゃんもリョウちゃんも私を忘れないでよ。リョウちゃんなんかせっかくここまで乗せて来てやったんでしょ?お礼くらいしてよね。」
カナが叫んでいる。
「お前はもういいから帰れ。」
「はぁ?自転車しかないって騒いでうちの車に乗せてあげたのに?なにその言い草」
「帰り道だろ??家に帰れよ」
「いやだ!シュウちゃん!シュウちゃんは良いよね?私がいても!ね?」
「……別にどっちでも良いけど…」
「ほら!やっぱりシュウちゃんは優しい」
カナは勝手知ったる我が家の様に自然と邸内へ消えて行く。
戸惑う私の手を握るとリョウは無言で邸に入る。
「シゲさん!兄さんだよ!シゲさんっ」
シュウの言葉に奥から飛んできたのは白髪の混じった上品な女性だった。
「まぁまぁ!坊っちゃま!元気でいらしたんですか、、こんなに痩せて…凌一坊っちゃま。。待っていましたよ!もうどこにも行きませんよね?シゲは心配で心配で…」
「シゲさん…ごめん…此処には戻らないけど。元気でやってるから」
その言葉で女性は尚更涙を流した
「旦那様も凌一坊っちゃまも頑固でらっしゃいますから…シゲは我慢するしかないのですね…あ、、あの…その方は?お客様ですか?」
シゲという女性は私に気付くと驚いた
「あぁ、、シゲさん。僕の大事な人。めぐ、シゲさんはうちのお手伝いさんだけど母親みたいなもんかな」
「嫌ですよ。母だなんてそんな!お婆ちゃんですよ私。。あの、シゲと申します。凌一坊っちゃまの大切な方。。こんな日が来るなんて…盆と正月が一緒に来たような…うぅっ、、シゲはもう嬉しくて…」
「あぁあ、シゲさん。。とにかく兄さんと今後について話したいから、奥の部屋にお茶お願い…」
「あ、私のも!」
「はいはい、カナ様はいつものお紅茶でよろしいですか?」
「じゃあ、リビングにお持ちしましょうか?」
「いや、その前に…めぐと2人で話がしたい。。俺の部屋に頼むよ」
そう言うと私の手を握ったまま、屋敷の中を練り歩きとある部屋の前に立つ。
扉を開けると広々とした空間。日暮れの庭の木々の緑が窓の外に揺れていた。
一家の長男に与えられるに相応しいと感じた。ただそれとは逆に部屋の中は殺風景すぎる。
「ここ…リョウの?」
「あぁ、、わかる?」
「うん…リョウの香りがする…なんだろ…」
言い終わらない内に思い切り抱きしめられた。
「どう、、したの?ちょっ、、苦し…」
「めぐ…おれ…ごめん。なんか上手く言えなくて。好きで…ダメなのにめぐを好きで…どうしていいかわからなくて…今だって俺の香りを覚えていたただそれだけで胸が痛いし…」
リョウの胸は温かく、落ち着く。
不器用な彼の気持ちが静かに私を満たし始めた。
「違うから…カナが言ったこと全部嘘だ…婚約なんてのも、昔親同士が冗談で言った事を間に受けただけだ…」
「………うん。でも、、」
「俺は家を出てからあの日にカナが店に来るまで話した事もない。。ずっと会ってくれなくて気が狂いそうだった…俺なんかがめぐにしつこく付きまとうのも良くないかもしれないと躊躇したのもある…怖かったんだ…そんな資格はないのに」
「資格がないって、、どう言う事?」
「幸せになってはいけない俺が幸せを感じてしまって…幸せを望むなと思いながら…めぐを離したくない…でも…俺といたら多分不幸にしてしまう。本当は直ぐにでもめぐを俺のものにしたかった、、でも…できなかった」
「…幸せだといけないって……」
呼吸を一拍おいてから意を決したようにリョウは語り出した。
「母親を…殺した…」
「え?」
「俺は母親を殺したんだ。修二と俺は母親が違うんだ。6歳の時に父親が連れてきたのが修二の母親で…まだ若くて母親というよりは姉のような感覚だった。」
振り向いてリョウの表情を知りたかったがリョウはそれを許さなかった。腕の中にすっぽりと抱きしめたまま緩めなかった。
「新しくやって来た母親は優しく、よく遊んでくれる優しいお姉さんみたいだった。とにかく若かったんだ。すぐに修二が生まれて…弟も可愛くて…家族を知って幸せだった…けど、仕事ばかりで家にいない父親で」
「寂しかった?」
「あぁ、僕ら3人は寂しかった。だけど本当は仕事じゃなくて女遊びだった。結婚したのは体裁や5歳の俺に母親をあてがいたかっただけで決して愛じゃなかった。ある日、父親の携帯に電話した。出たのは女だったよ。修二の母親に、父親に電話したら知らない女が出たとあんたのお父様はもう帰らないって言われたと理解もできないまま言ってしまった。」
「それで…?どうなったの?」
「その日から生気のない母に恐怖を感じていた。アルコールを過剰に摂取してた。その内薬が処方されるようになって…食事は摂らない、アルコールしか受け付けない。
あの時も精神的に不安定だった為に薬物も多量に飲んでいた…そしてアルコールの量も」
「そんな…」
「翌日は遠足だから、明日の約束をしてた。好きなものを作ってくれるって。だから嬉しくて寝る前に部屋に行った。もう一度明日の約束がしたくて、、母親は眠っていた。眠っていると思った…けど朝になってももう…呼びかけにも応えなかった。何も知らない赤ちゃんだった修二が母親に縋っていて、、、俺が…修二から母親を奪った…俺が殺したんだ…眠っていたなんて思わずにシゲさんにおかしいと言えば助かったかも知れない。いや、あんな風にしたのは親父に電話をかけたからだ。あの電話さえなければ。俺が余計な事を言わなければあんな事にはならなかったのに。」
リョウの体は震えていた。
啜り哭く声が激しい後悔を知らせる。
「それは違う。あなたはまだ子供だしお母様は…自分で死を選んだ…いえ、もしかしたらそうじゃないかも知れない。
だって、約束してたんでしょ?お母様は生きたかったんじゃないの?貴方達兄弟と。でもその瞬間には無理だった…忘れたくてただ少し眠るつもりで……起きれなくなってしまった…そうなんじゃないの?」
「気休めはいいんだ…母親はあいつの裏切りを可愛がっていた義理の息子から知らされた。。」
「気休めじゃないわ。経験から言ってるの。信頼していた人の裏切りは…記憶をなくしたくなる。でも、生まれたばかりの赤ちゃんと、貴方を置いてはいくはずないわ…ただ少し。現実から目を背けたかっただけ。」
気休めは分かっていた。真実は本人にしか分からない。でも私は、血の繋がらない子を我が子と変わらず慈しみ可愛がる優しい母親が幼い子らを置いていったなどとは思いたくなかった。
「結局俺が殺したみたいなもんだし…弟からたった一人の母親を奪ってしまった…俺は弟の母親が大好きだった…だが自分が関わった人達を不幸にしてしまう。。だから誰とも付き合わないし…誰かと付き合うのもしないと決めていた」
「リョウ…」
「修二にとって良い兄でいてやりたかった。あいつを何からも強く守れるように父親の言う通りに経営学を学びに海外留学もした…だが父親は言いなりになる後継者が欲しかっただけだ。母親を死に追い遣る程傷付けた。おまえが出来るのは弟の為にも立派な経営者になる事だと自責の念に駆られた俺に暗示をかけた。だが、本当にそれが弟の為なのかと疑問を持つようになった。あの男は自分の思う通りに動かす駒が欲しかった。それなら俺は言いなりにならない。弟のためだというなら尚更修二が会社を継げばいい。そうすれば財産も会社も修二が全て受け継ぐ」
「それで貴方は家を捨てたの?」
「俺は幸せになる資格がないから」
「そんな…」
「シャリフのマスターは家出して行き場がなくなった俺を拾って置いてくれた。。ある日ボロボロの状態のめぐが店に来て、何でだかほっとけなかった。白と黒だけの世界があの瞬間に、めぐが扉を開けた瞬間から鮮やかに色付いて光が見えた…」
リョウは机上に置かれた地球儀をクルクルと回し始めた
「めぐといたら間違いなく幸せを感じてしまう。でもこれは感じてはいけない思いだ…」
「カナ…さんは?」
「あの男は昔から俺に友人の娘であるカナと結婚して会社を引き継げと言ってきていたんだ。だから婚約者というのも間違いではないが、俺は拒否した。会社も財産も修二に全部渡したかった…」
「だって、まだ子供でしょ?そんなの責任感じる事ない。貴方は悪くないじゃない。それに、、だったらお父様の方がよっぽど悪いわ…貴方がそんな風に自責の念をもっていたからそれを利用したのかもしれないけど…でもだからと言って自分以外の人生をどうにかしようなんて…」
「兄さんもその父親と同じだ。。そうやって理由をつけて僕を疎外してきたんだろ?」
扉の前には修二が立っていた。
「修二…」
「僕には兄さんしか頼る人はいなかったのに…母親は正直記憶にない。ただ、兄さんに置いていかれた。捨てられた記憶しかないんだ…」
「社長…」
「……修二って呼べよ、社長なんて…本当は嫌なんだ」
自虐的に笑う
「僕だって兄さんに会社を引き継いで貰いたかった。全財産の放棄を弁護士から聞いて気付いた。兄さんは僕を捨てたいんだって…僕にだってプライドはある。
兄さんが会社を引き継ぐ為にはカナと結婚しなければならない。それなら必ず実行させる。兄さんが夢中になってる女を探して関係を壊すつもりだった。。調べたら直ぐにわかったよそれがうちの会社にいた時は神はいるんだとふるえたよ。きっとうまくいくと確信した。婚約者に捨てられて、田舎出の女だ。金銭的な援助でもあれば乗ってくる筈だったのに……後をつけて粗探しするつもりが、怪我した俺を見捨てなかった。。会社で失敗でもするかと見に行けば楽しそうに仕事をしている。。それなのに兄さんの事…【好きな人】なんて言うから馬鹿馬鹿しかった。だったら俺のものになって、兄さんはカナと会社を継げばいいって…」
「ちょっと待って2人とも。それは余りにも失礼じゃない?カナさんは物じゃないの。1人の女性。その前に人間として誰かに利用されたりするなんておかしい。貴方達男性はみんなどこか傲慢で、不遜だわ」
「いや、、、そういう事じゃ…」
「そうじゃない。どう違うの?」
「あ、、はい…ごめん」
修二は素直に謝意を述べた。
「私にはいいから、カナさんにしっかり説明して婚約も含めてね。勝手に人生左右されるなんてきっと不本意よ。」
「ごめん、、めぐ。」
リョウが呟く。
「あ!私こそ社長になんて事…ごめんなさい。つい、、」
「いや、元々は社長は兄さんだから…」
「……あのー!すいませんけど!私がいないところで私の話しないでくれます?別に…利用されたっていいもん。リョウちゃんの奥さんになるなら別に。なんで勝手な事言うのよ」
リビングで待ちきれないカナがしびれを切らして乱入する。
「私は別に利用されてた方が良かった!何で後から私達の間に割り込んで来た婚約者に捨てられた女にそんな勝手な事言われなきゃならないのよ。」
「カナ!おまえいい加減にしろ。俺の大事な人を傷つけるな」
「何でっ、、私ばかり責められなきゃならないの?!だってパパからリョウちゃんと結婚するんだって言われてずっとそう思っていたのに、、」
「カナさん、、貴方本当にリョウが好きなの?」
「好きっていうか、、うん。多分…小さい頃からずっとリョウと結婚するんだって言われて生きてきたから…好きってどんなだかわからないけど…でも、あんたが出てきて全て変わった。シュウちゃんだって絶対あんな馬の骨の女なんか別れさせるって、カナの願いを叶えてあげるって言ってたのに今だってごめんなんて言っちゃって…まるで恋でもしたみたいに…バカじゃないの?裏切り者」
修二は表情を変える事もなく目を逸らす。
「確かに私は…あなた方から見たら何処の馬の骨とも分からないかも知れないけど…貴女に蔑まれる謂れはないわ。ましてや自分の人生も自分の足で歩けない様な幼稚な人に言われたくないけど…」
「自分で歩いてる!仕事だってちゃんと、、」
「会社であんな騒動起こして?アレは貴女も悪いと思う。社会に出たなら出たらしく目上の方への会話の仕方。仕事に対しての意識。きちんとしてから会社に入るべきよ…片手間に腰掛けでやられちゃ周りが迷惑するわ」
「なによ!私だって仕事できるわ。」
「何の?」
「……」
「なにが向いてるの?貴女は」
「……」
「私はね、自分の足でこの地に立ってるの。税金だって払ってるし、家賃も生活費も全部自分よ。貴女はぬくぬくと親元で生活して、それが許される。働かなくても良いんでしょ?」
「私は働きたいの!」
「だったらしっかりしなさい!甘えないの!自立して、自分の人生は自分の足で歩きなさい!誰かに幸せにしてもらおうなんて図々しいわ。貴女はリョウを幸せにできるの?」
「………」
「…社長。カナさん明日からちゃんとした部署で働かせてください。うちの妹弟達見てるようで我慢できない!あと、、貴女がしっかり働けるなら、私はリョウを諦める。」
「え?!本当に?」
「え………」
絶句するリョウの目を見る事もしなかった。
「……店に来るな、俺は幸せになる資格ない。。そんな後ろ向きな人と私人生歩いていける自信ないし。今はきっと、好きだから辛いけど…挙句に兄弟ごっこに巻き込まれて…振り回されたくないのよもう…疲れたの…」
「だったら…僕にもチャンスはあるって事か…」
「修二…」
「兄さん…どうする?このままだったら多分彼女…俺が落とすよ多分ね」
不遜で尊大な横顔で彼は兄に告げる。
リョウは鼻で遇らうように笑った。
「………今の業績で随分と自信あるんだな…」
「え?」
「俺が何も知らないと思うか?」
「……確かに…ここ最近落ちてる…だが必ず巻き返すつもりだ…」
「どうやって?おまえ、社内の人間がどう動いてるかもちゃんと見てるか?注意深く…」
「どういう意味だ…」
「………まぁいい。まだハッキリした事が分かったわけじゃないから…ただ、お前は舐められてる。社内のタヌキ達に騙されるなよ。気を引き締めるしかないからな…」
「どういう事?リョウちゃん。。会社の事で何か知ってるの?」
「………まぁ、何も知らないわけじゃない」
「もしかして……何かあってるの?」
「……めぐは心配しなくていいから…俺が優柔不断過ぎた…なんかさっきの言葉で目が覚めたよ…ごめん」
「……逃げてた。何もかもから…親父や修二…めぐからも…。どうせいつか幸せな瞬間なんてなくなるんだと思ったら怖くなって逃げ腰で…けどそれももう終わりだ。」
「リョウ…」
「めぐが諦めても俺は…諦めないから…覚悟しとけよ」
さっきまでの曇った表情とは打って変わって、憑き物が落ちたように、スッキリとした笑顔を向けた。
adore you9へ続く