詩人・寺山修司が自己の同名の歌集をもとに書下ろしたオリジナル脚本を、自らが監督し、寺山自身の少年時代を取り扱った自伝的色彩の強い作品

 

 

 

 

 

 

                    -  田園に死す - 監督・脚本・原作 寺山修司

 

 出演 菅貫太郎、高野浩幸、八千草薫、春川ますみ、新高恵子、原田芳雄 他

 

こちらは1974年制作の 日本映画 日本 です。(102分)

 

 

 

 

  父親のいない主人公の中学生の私は、恐山の麓の村で母と二人で暮らしています唯一の楽しみといえば、イタコに父親の霊を呼び出させて会話をすることぐらい。私の家の隣には他所から嫁入りした若い人妻が住んでいて、好意を寄せていました。ある日、村にやって来たサーカスへ遊びに行った私は、団員から外の世界の事を聞かされ、憧れを抱くようになります。 今の生活に嫌気がさしていた私は家出をすることを決心し、同じように嫁ぎ先の生活が嫌になった隣の人妻と共に村を離れる約束をします。こっそりと家を抜け出し、駅で待ち合わせをして線路を歩く二人、、。

 

 

 

 

これは映画監督となった現在の私が制作した自伝映画の一部でした。 試写に訪れていた知人の評論家と一緒にスナックへ入った私にその知人は、「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなると思うか?」 と尋ねられます。 質問の意味を深く考えていた私は、自分が作っている少年時代の自分自身に出会います。少年の私は、映画で描かれた少年時代は脚色されており、真実ではないと言い放ち、本当の少年時代がどの様なものであったかが語られます。

 

 

 

 

村に住む人々はみな狂気じみていて、サーカス団も実は変質者の集まりでした。人妻からは家出の計画を本気にしていなかったことを告げられ、目の前で愛人の男と心中されてしまいます。 そんな中で、少年は現在の私と出くわします。 現在の私は、過去の私が母親を殺せば自分がどうなるのかを知るためにやって来たのです。 二人で話をするうちに、少年は母親を捨てて上京することを決意します。 しかし、出発の準備を整えている最中、東京からの出戻り女に再会し、童貞を奪われてしまいます。 一緒に暮らそうと言う女から逃げた少年は、一人で電車に乗り、故郷を離れていきました。結局母殺しは起きず。 私は少年を待ち続けますが、何も変わりはしなかった、、。

 

 

 

 

この寺山修司という人物をテレビ等で見たギリギリの世代ですが、その作品等をちゃんと読んだ事はありませんでした。あまりにアダルトでアングラなイメージでしたから。タモリさんがモノマネしてた姿の方が記憶にある位です。本作はそんな寺山修司の歌集と演劇をクロスオーバーさせて、映画というフィルムに変換させて写し取った芸術作品です。

 

 

 

 

映画の中で詠まれる詩も、そこで語られる物語も、表現主義的に映される映像も、全て寺山修司という人物の非常にパーソナルなものによって構成されていて、正に「寺山修司による寺山修司の寺山修司のための映画」 とでもいうような、彼のアイデンティティを探す、時空を超えた内面世界の旅を共有する作品です。

 

 

 

 

「家出」「母殺し」「恐山」といった彼の中でずっと強烈に息づいているモチーフを、美しく恐ろしい原色のイマジネーションと原風景の中に存在する過去の自分と、色あせてしまっている現在の自分を劇中劇の中で交差させ、今現在存在している自分の居場所と、その自分自身を、映画という幻想の中で探しているようでもあります。家の中心に存在する柱時計と腕時計を欲しがる少年。 核家族化を象徴するような母子の会話が印象深く残りました。

 

 

 

 

ついつい「芸術」という言葉が映画を観る時に思考の邪魔をしがちですが、この作品はただただ映像と、そこで起きている出来事を見ているだけでも充分に楽しむ事が出来る映画です。 そもそも内容自体、寺山修司という人物の個人的な心象風景なのですから凡人の私なんかに到底理解出来ないのですし、彼もそれを理解した上での映画という映像表現なのですから。 という事にして映画そのものを楽しむ私。

 

 

 

 

幼少期から青年期に体験した日本の田舎の原風景、その美しさと恐ろしさを原色を使った色味で、独特の美意識の中に描かれます。フェリーニやホドロフスキーにも共通する虚構的映像の美しさに、ダリの絵のようなシュール感と日本的な様式美、そこから生まれる怪奇感がクセになる作品ですので機会があればご覧になってみて下さいませ、です。

 

では、また次回ですよ~! パー