疾走プロダクション第1作。CP(脳性小児麻痺)者の団体“青い芝”との共同製作で、身障者たちの生活と思想をとらえたドキュメンタリー。

 

 

 

 

 

 

                       - さようならCP   - 監督 撮影 原一男

 

こちらは1974年制作の 日本のドキュメンタリー映画 日本 です(82分)

 

  CP(脳性麻痺)者の急進的な団体 「青い芝」 の人々の生活と思想をカメラに収めた、原一男監督の第一作目となるドキュメンタリー作品です。 障害者だからといって自ら片隅でこっそりする生き方は、障害者差別を容認することになると考えた人達が自らその不自由な体を積極的に人前にさらしていく姿が捉えられています。

 

 

 

 

 

 

以前ご紹介した ドキュメンタリー映画 「ゆきゆきて神軍」 の 原一男 監督の第一作目

の作品になります。 タイトルになっている CP とは Cerebral Palsy =  脳性マヒという意味の頭文字の事です。(受精から生後4週までの間に、 何らかの原因で受けた脳の損傷によって引き起こされる運動機能の障害をさす症候群 と定義されています)本作は、脳性麻痺者自身による 問題提起などを目的として組織された障害者団体 「青い芝の会 神奈川県連合会」 の活動と、その中心人物である 横田さん (立って歩く事が出来ず、映像の中では正座した格好で、足を引きずりながらしか移動できません)と、横塚さんたちの日常と活動を追った記録です。 

 

 

 

 

 

 

作品を見始めて少し戸惑ったのは、CPの方々の発する言葉が、慣れない私にとって聞き取りづらい事でした。 字幕は選択して表示出来るようになっていますが、非表示でご覧になるとその言葉を理解するのにしばらくの時間がかかります。 逆に言えば、それだけ理解しようと画面に意識を集中する事になる訳ですが、映像と音声がシンクロしていなかったりもしていて、いかに最近のメディアで文字に自分が頼っていたのかを皮肉にも感じる事になります。 監督自身は、「言葉が聴きずらいが、あえて字幕は入れなかった」 と語っています。DVD化した事で彼等の言葉を100%理解出来るようになりました

日常生活の中で、言語障害を持つ人たちとの交流、接触がない事が問題なのだというう事にも気付かされます。 その独特の発声に慣れれば、ある程度理解出来るものです。字幕を入れないという事もこの作品の 問題提起の一つでもあったのでした。

監督のインタビューでも、浅い部分で 「わかってたまるか!」 という気持ちで撮ったそうで、「ごく少数の人に理解してもらえれば良かった」と、この映画の特製を語っています 

 

 

 

 

 

 

「青い芝の会」 の活動で、駅前で ビラ配り  とカンパ  を呼びかける場面が映されます。カンパをした人達に、「何故カンパをしたのか?」 と監督がインタビューしていきます 多くの人は「かわいそう、気の毒、何か役立てれば」と、という言葉が返ってきます。 私も勿論異論はありません。 しかし当の本人達は、そのような同情の言葉に嫌悪感 を持っているのでは?と思ったのですが、「けっこうじゃん ああいう事は国がやるもんだと、私には何の関わりもない と言う人より、10円でも子供に持たせてカンパして、ああいう人は かわいそうと思ってもらった方が、それはそれでけっこうなんじゃないか」 と語ります。 同じ仲間でも、それに異論がある人も当然居ます。ですが、こうも言います 「マイク持ってさ、怒鳴る時に どうしても自分が、みじめだという気持ちが出ちゃうわね 同時に、どうぞよろしくお願いしますと出ちゃうんだね 自分の頭の中ではそういう言葉を否定しようとしているんだけど、お願いしますと出ちゃうんだよね」 という複雑な心境を語ります。

 

 

 

 

 

 

「 お可哀想でけっこう 」 無関心で無視されるよりは、そこから始まるコミニュケーションがあるという事なのでしょうか?  しかし横田さんの妻 (彼女もCPです)は撮影当初から映画に反対していて、撮影中に抗議する場面も写され、障害者同士でも当然考え方が違う事がうかがえるものになっています。 

ある日は、新宿駅前で詩の朗読を始めるものの、警察によって中止させらてしまいます。理由は曖昧に濁されますが、きっとそういう事なのでしょう。 監督が言うには、60年代後半~70年代前半には、町なかに車椅子の人自体、皆無だったそうで、そのような時代に 町なかで地を這うCPの方などは凄いインパクトだった事でしょう。

そんな彼等を街行く人達がじろじろと眺めます。 その中でCPの一人が逆にカメラを向けてシャッターを押します。 じろじろと見ていた人達は途端に視線を逸らしたり顔を隠したりします。 見る側から見られる側になった瞬間の、人間のいやらしい感覚が垣間見えた一瞬。 そこにこの映画の全てが収められたように感じました。

 

 

 

 

 

 

公開当時は CPの人達を見世物にしていると批判されたそうですが、前記したように当事者が 「見世物でけっこう !」 と、浅いヒューマニズムに抵抗したようです。 

人にカメラを向けるという行為は、暴力的な行為です 本作の撮影をするにあたって、監督は彼等と敵対するように心がけたそうです。 その敵対、健常者と障害者という壁のようなものをどう越えられるか、そして人間は皆平等、というような よくある ヒューマニズムを否定して対等にケンカして作った作品だと語っています。 

市民的無関心 大人である証明のようなこの行動は、障害者を自分の世界から 排除、

無視した中での 市民生活に波紋のように広がる作品です。 

車椅子ではなく、自分の身体を使い、自分の身体と向き合って 格闘している姿を見て、それぞれが感じ、体験する映像作品で、そこには古いも新しいも無い映像です。

初めて観る作品は、その人にとっては新作になります。 このような映像は、意味があるからこそ残って行く作品だと思いますので、機会があればご覧になって頂いて、自分なりの 「何か」 を体験して頂けたらと思います。

 

 

 

 

 

 

少し間を置いて、別のドキュメンタリー作品 「圧殺の森」も取り寄せて観てみました

 

こちらは1967年制作の 小川プロダクションによる作品です (105分)

 

群馬県にある高崎経済大学で、学校側の裏口入学が発覚します。 闘争心に火の点いた学生たちは、学内にある学生ホールを占拠し、学校と対立します カメラが学生側の中に入り込み、彼らと同じ視点から学生闘争を描き出した作品であります。

 

 

 

 

 

 

当時の十九歳、二十歳 の なんと大人だった事か!の一言に尽きます。

両作品共、普通には観る事が出来ない、すぐそこに存在しているのに、観ようとしなければ観れない貴重な映像記録の作品でございますので、機会があれば、是非こちらもご覧になってみてはいかがでしょうかです。 ( 長文お付き合いありがとうございました) 

 

では、また次回ですよ~! パー