54.罪・堕落とは人間の改造(5)メシヤ殺害は悪魔族最大の罪 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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■罪・堕落とは人間の改造

1 47.罪・堕落とは人間の改造(1)
2 48.罪・堕落とは人間の改造(2)悪魔が自然界の力を悪用
3 49.罪・堕落とは人間の改造(3)人を悪魔化させた動機
4 52.罪・堕落とは人間の改造(4)神の摂理は悪魔族の救済

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キ リスト教神学では、本来なら血統に連綿と受け継がれてきた遺伝罪のほうがずっと重いはずなのに、「原罪」を強調しすぎている ため、「全人類が一律に同じ罪」というイメージを抱かせ、悪魔族の存在とその罪を隠してしまっている。


原罪の強調によって、キリスト教徒の謙虚・柔和な信仰姿勢がより一層強化されたという良い面もあるが、悪に対して厳しく分別する事が疎かにされがちであるという負の側面も認めざるを得ない。


それこそ、神無き人本主義やファンタジックな理想論、お花畑的平和主義という悪魔にとってまことに好都合な環境の温床ともなっていった。


パウロは「すべての人は罪を犯した」と書いているが、悪魔族の存在を否定するつもりはない。

けれども、その存在を明かさないよう婉曲な表現にならざるを得なかった事情もあり、悪魔族への批判が単なる不信仰者に対する戒めだと解釈されざるを得なくなっている。


「28.御言の原理主義は悪魔のワザ【罠】」 で「パウロ神学の存在そのもの」の間違いを指摘した。

------(抜粋、一部編集)-------

『パウロはイエス様とは存命中に出会わなかったから、パウロなりの神学を作り、イエスの十字架による贖罪、死んで下さったイエスを信じる者が救われるという信仰観を作った』とする「パウロ神学」という考え方がある。

ペテロやヨハネが「行いの信仰」を主張し、パウロは「イエスを信じる信仰」を主張し、意見が分かれたとも言っている。


しかし、パウロは「心情が伴わない行い」を否定しただけで、「神様のための行い」を否定してなどいない。「行いの信仰」vs「信じる信仰」など初めから存在しない。ペテロとヨハネ、パウロはそんなにレベルが低くはない。


聖書の字面ばかりを読む事によって、イエスを十字架で殺害した者達の悪行を隠そうとする悪魔の手助けをさせられている。

---------(抜粋終わり)-----

さらに付け加えると、
パウロの言う「イエスを信じる信仰」は、イエスを通して神を信じる信仰である。


イエスそのものを崇拝する事、それは偶像崇拝であり、「教師はキリスト、父は神だけである」と書いてある通りである。「親兄弟よりも私を愛せ」の言葉通りイエス本人を崇拝する人は本質が見えていない。

--------

悪魔は「イエスを殺した罪」と「人間を遺伝子操作した罪」の責任逃れをし、自分たちの罪を隠そうと思っている。

キリスト教神学が「十字架の救い」や原罪を強調する事によって、結果的に悪魔の罪を隠す事を容易にしてしまっている現実がある。


聖書に肝心な事が書けなかったので、仕方がない面もあるし、神の民に悪魔族が紛れ込み、聖書の改ざんがなされた可能性も高い。


しかし、弟子達やパウロはそうではない。

マタイによる福音書第二六章第一節で、イエス様は十字架に掛かる直前に「”すべて”語り終えて・・」とある。

御言を語り終えた時に、”すべて”とあるのは、その一カ所のみである。その後も十字架に掛けられるまで御言を語っているのに、”すべて語り終えた”とはどういう事か。


聖書にも書けない内容。それはイエスを殺すのは悪魔族であるという事実、そういう存在がいるという事実を語ったとしか考えられない。

だから、弟子達の言動がそれまでとは一変して緊張し、イエスを捕らえに来た者に剣で斬りかかっているのである。


常日頃イエス様に接している者たちであり、元漁師や取税人とは思えない勇気を見せたが、それは敵の正体を知ったがための行動だったのである。

剣で斬りかかるほどの勇ましさを見せた弟子達も、イエス捕縛後は一目散に逃げていく。

それは、イエスの言葉によって知らされた本物の敵=悪魔族がいかに強大かをまざまざと見せつけられたためであり、その恐怖をも乗り越える信仰はその時の彼らにはなかった。

ただ単に彼らが愚かな不信仰者だった、という単純な図式ではないのである。


彼らはいずれも逆さ磔で殉教の最期を遂げる信仰者であり、イエス復活後の奇跡に与ったから生まれ変わったのだという側面もあるだろうが、非常に信仰深い内的な資質を備えた聖人達であった事は間違いない。


一 般的に考えられているような、
信仰が幼かったから逃げただけ、という事ではな かったのである。



さて、韓国ドラマにたびたび出てくる呪いのシーンや韓国人が行う反日活動の異様さを知ると、韓国人が漢民族という凶暴な民族の血を引き、人を呪い憎み恨むことしかできない民族であることがよくわかる。
韓国反日デモ16px;">チャンヒビン


漢民族の残虐で狡猾な血統を、さらに怨みの念が強い民族に悪化させたのが韓国人である。


また、チベット人やウイグル人、法輪行信者への虐殺や通州事件に見られるように漢民族の凶暴性は、人間のやる事とは到底思えない残虐極まりないものである。



それでも神様は長い間忍耐され、悪魔族が神様の元へ悔い改めて戻って来る事を願ってこられた。


さらにルーシェル捕縛によって、悪魔族を統括する者はおらず、彼ら一人一人の責任で神に帰ってくることができる時代を迎えた。


単に教会に入って、献金だけやっていれば良いというものではない。

実際に悪事を完全に止める事が出来なくとも、神様に帰りたいという心からの悔い改めの心情が必要なのだ。


ところが、一向に悔い改める事なく、神の国=日本を滅ぼし尽くそうとしている韓国人・中国人はいかに重い罪を積み重ね続けているか。



以上の事柄を文先生は語る事が出来なかった。




文鮮明先生の日本語による御言集2(1965年)」

202ページ
「韓国におきまして、先生は口を閉じろ!自分で命令したんです。」
「口を開けたら韓国は滅ぶ。」


124ページ
「(イエス様は)言いたいことを言われない。」
「言えない。だから、地下工作をしなければならない。」
「一言でもそう言ったならば、やられてしまう。
三年も行かない、三日も行かない。だからイエス様は語れなかった。」



魔族の存在は、時が来るまでは、言いたくても言えない。


言えば韓国にあっては1日で殺され、日本人に対しても通州事件のような凄惨な事件が日本国内で何度も起こっていたかも知れない。イスラエルにあっても神側の民は皆殺しの目に遭っていただろう。


本物の神の民ならば、韓国中心史観や間違った御言が並んでいても、心情で真実を射貫く事ができるはず。

偽メシヤだのと言われようが、本当にわかってくれる人が必ずいるはずだ。文先生にはそういう心づもりがあって、時来たるまであえて隠そうとされたのだろう。


悪魔族は、日本と韓国に関するあらゆる嘘がバレてきたので、自分たちの正体がバラされるまえにメシアを殺害した。そうすれば、偽メシヤとの汚名を着せたまま、証拠隠滅も図れると思ったのだろう。


つ まり、世界基督教統一神霊協会を乗っ取り支配している者達こそ、悪魔族中の悪魔族なのであ る!


文 先生が彼等の救いの道を開くために、本来なら愛したい日本を叩き、韓国を徹底的に愛し尽くし、悪なる行為をも神への善なる条件として、自らが彼らの分まで 条件を立てて神様に取りなしをして忍耐してこられたのに、彼らはずっと裏切り続けて最後には殺してしまった。



文鮮明先生の日本語による御言2 (P.313) 御言資料5 [神と会う所] 

「最 高の十字架上で死ね! それが先生として言わなければならない辛い心である。その道に君たちを立たせなければならない辛い心である。だから今ま で神は愛するものを打って、愛せざるものを救う。これが神の戦法である、作戦法である。

世 間はそうでないでしょ。愛せざるものを後にして、愛するものを先にする。神の愛する者が犠牲になって反対する者が救われた時、後になって、「ああ、すいま せんでした」となる。何十年何百年、歴史的過程を通過して、あがめられる立場に立つ。神の戦法は愛するものを先に出して打たせて、後のものを救う。だからその戦法はまだ終わっていない。世界的に も終わっていない。

それが終わった時には愛するものを前にし、神が愛しても十字架はない。それでいいんだ。栄光から始まって栄光 で終わる。そういう立場になっておる。だからそういう過程を我々は行かなければならない。rその後、日本に先生が来た時、「ああ、ご苦労さん」と言えるような、そういう立場に立っていなければならない。



以上の御言からも、本来、愛したかったのは韓国ではなく日本である事が分かる。


現在、悪魔族の悪行は神様の忍耐の限度を遙かに超えている。本来神の民だった者が彼等の悪行を見て見ぬふりをしているなら、もはや神の民ではない。悪魔族と同罪である。



ローマ人への手紙2章21「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらい ながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。聖書に書いてあるとお り、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。」

2 章3 「あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富 を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるの である。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ち ぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじ めギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安と が与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。

ヨ ハネの黙示録22章12 「「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最 初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者た ちは、さいわいである。犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されてい る。




霊界での裁きがどれほど悲惨なものかご存じか。

地上で悔い改めることができる事がどれほど有り難い事かご存じか。

霊界での贖罪と人格の成長は地上でのそれとは比較できないくらいに困難である。

霊界に行ってから悔い改める事が殆ど不可能に近い事を真摯に受け止めるべきである。




マタイ10章28 「からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」




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